【短い話】知らない女・知らない男

突然助手席のドアを開け女が乗り込んできた。道路は信号待ちの車で混んでいた。助手席に座ると、女は前を見たまま喋りだした。
「わたしねぇ、今度緑ヶ丘病院に勤めるの、就職するの怖かったんだけど、思い切って申し込んだら受かったのよ」と。
俺はこの情況に対応できずにいた。
女は続けた。「ところであんた、緑ヶ丘病院に行く?」
俺は答えた。「行かないよ」と。
「そう」と言って女は黙った。
 どうやら車のドアに描かれている小さい擂り鉢と太い擂り粉木の絵を見て、薬屋と目星をつけて車に乗り込んできたのだろう。
 また女は喋りだした。「ところで昨日母の日だったじゃないの、カーネーションあげた?」と訊いてきた。
「いや、何もしてないよ、実家遠いし」と答えると女は、「わたしねぇ、母の日大嫌いなのよ」と言ってからまた黙り込んだ。
 信号が変わったとみえて、車が流れ出した。俺も車を進めた。
すると女は前を向いたまま、吐き出すように語りだした。
「母親にね、子供のときだけどね、外に出されたのよ。面白くないことがあると機嫌が悪くなって、わたしを外に出すのよ、夜中でも、雨でも、冬でも」
「外に出されるのを嫌がるとぶつのよ、平手で思いっ切り顔を。痛かったわ、容赦ないのよ」
「今から思えば、家の中で暴れてわたしを傷つけないようにと思ってのことだったかもしれないけどね。……わたしを外に出すと、獣みたいな声でわめいていたわ……」
「わたし、母が嫌いよ!離れて暮らしていても、世の中が母の日です、なんて言い出すと、そのときのことを思い出すのよ、母の日ほど嫌いな日はないわ」
 車が信号でまた停まった。女は何も言わずに助手席のドアを開けて出ていった。

 にこにこと微笑みながら男が近づいて来た。奴は言った。「やあ、この間はどうも、お元気ですか」と。
誰だこいつは、誰かと勘違いをしているのか? 俺は「……まあまあです…」と答えておいた。
「いやー、一昨日はとっても楽しかった、また一緒に飲みたいですね。今日はどうですか?」と奴は言った。
お前誰よ、知らんし……一緒に飲んだことないし、一昨日は俺家に居たし、近頃飲みに行ってないし……と思いながら、そうも言えず、困ってしまった。取り合えず逃げようと思い「いや、今日ちょっと急いでいるんで、また今度に。どうも、どうも、じゃあ」と俺は奴に言い、急いでその場を離れた。振り返ると奴はまだそこに立っていて、こっちを見ていた。俺は奴に軽く手を上げ急ぎ足で離れた。
 暫く急ぎ足で歩いていると、左側に何かが光った。ブティックの硝子窓に日の光が射したのだった。硝子窓を見ると人が映っていた。ん!誰だ? 俺なのか? これが俺か? いつの間にこんなに老けたんだ。まるで老人だ。しかも窶れているじゃないか。



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