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保育士が読んだ 『インターネット的』

最近ようやく、「インターネット」が好きだなぁと、素直に言えるようになりました。

“HTMLってそもそも何?” だった僕が、Webを一から学び始めたのは2015年の半ばのこと。出版社を去年退職して、いま広報やマーケティングに仕事の軸を置こうとしてる僕にとって、この3年間はあまりに今更ながら「インターネット」の持つ可能性に、どんどんと引き込まれてきた時間でもありました。
(31歳で気づくって遅い…けど、気づけてほんと良かったとも思ってる。)

その前は10年ずっと、紙の出版物や写真(アナログプリント)の世界で生きてきました。TwitterもFacebookも、アカウントはあるものの放置したまま。

前職時代から教材づくりでかかわっていた保育の業界は、“IT化がもっとも遅れている” と言われる世界で、そんな変化から遠いところに身を置いていることすらむしろ、自分でどこか誇らしく思っていたかもしれません。


「インターネット」は好んで使ってたけど、あくまでアウトプットは “デジタルと一定の距離を取ること” を良しとする環境の中で、何が「インターネット」のポジティブな可能性で、どこにネガティブな懸念材料があるのか、結局ぜんぜん考えていなかったなぁと今になって思います。

ただ30歳を過ぎてキャリアを考え直したとき、そして子育てのいろんな課題(働き方とか時間の使い方とか知識とか)を解決しようとしたとき、「インターネット」に一度ぐっと踏み込もうと決意できたのは、やっぱり何となくでも「インターネット」が単なるツールを超えたものになっている、と感じていたからかもしれません。

「インターネット的」な社会の、可能性に気づく

いざ「インターネット」の蓋を開け直してみると、それまで僕が「バーチャル」「架空」のような言葉で認識していたものの中に、惹きつけられるものがたくさんあることに気づきました。

現実とリンクして、体温を感じられるコンテンツもたくさんできてて。
人と人とがよりフラットに出会い、共感しあえる世界が広がり。
うっかり涙が出そうになる言葉や文章がたくさんあって驚き。
オンラインから、リアルな出会いにも繋がりました。

「インターネット」を考えるにあたって、バイブル的に評価をされている本があります。それが糸井重里さんの『インターネット的』
昨年ようやく手にしたのだけど、なんと初版が2001年。そのことが信じられないくらい、「インターネット」時代の社会を本質的に捉えていて、今読んでも色褪せない、すごい1冊です。

この『インターネット的』を読んでから、僕は「インターネット」が好きであることを堂々と言えるようになりました。「インターネット」というテクノロジーが、もちろん扱う人次第ではあるけれど、きっと社会を良くしていく、ということが確信できたのだと思います。

この本に書かれてある「インターネット的」であるという概念は、この数年いろんなWebメディアやサービスに触れながら自分が感じてきたことを、すごく分かりやすく捉えていると感じました。

そしてそれは、“デジタル化がもっとも遅れている” 保育や福祉の世界でも、閉塞した状況の突破口になるんじゃないかと思っています。

「リンク」「シェア」「フラット」

ポイントだけおさえておくと、本書は「インターネット」が登場したことによって生まれる「インターネット的」な新しい社会を、その軸となる「リンク」「シェア」「フラット」の3つのキーワードで説明しています。

① リンク:情報同士が、それぞれに付随するものを含めて繋がり合うこと
② シェア:もっているものを互いに分かち合うこと
③ フラット:価値観やポジションの優劣がなくなること

このキーワードがグローバルに具現化されていく中で、社会は誰もが楽しめるようになるし、多様性をもったまま色んなことができるようになるし、正直であることが評価されるようになる、というような可能性を糸井さんは指摘していて、これは2018年のいま、まだまだ道半ばとは言え、少しずつ輪郭が見えてきてるんじゃないかなぁとも思います。

子どもの育ちを考える上で、本質的だと思うこと

「保育士が読んだ」とnoteのタイトルを打ちながら正直、保育士としての専門的な根拠があるわけではないのですが、僕は「インターネット的」である社会のあり方は、保育の視点に近い部分がいくつかあると感じています。

たとえば子どもの成長は、日々の “あそび” の中にあります。自分が興味のあることにのめり込み、その過程でさまざまな工夫をしながら、正解のない中を自ら学んでいく。また周囲の大人にそのことを受け入れてもらうことで、自己肯定感やレジリエンスを育んでいく

新しい時代には、答えの見えないことが、もっと価値をもつようになるのではないでしょうか。
これからはもっと、使ったり楽しんだりするほうの工夫やアイデア、感覚、が大切になってきます。つまり消費のクリエイティビティが、育てられるといいなぁと思うのです。

絶対的な正解のない、価値観に優劣のない「インターネット的」な世界のあり方は、“楽しいこと、答えのないこと” で溢れるようになると糸井さんも指摘します。それらの多くは、以前の大人の社会では評価されなかったようなことかもしれない。けれど、保育の視点では、これまでも当たり前に、大切だとされてきたことなのです。

同様にこれからの社会の特徴となる “多様であること” も、保育の現場では基本、とても大事にされています。“その子らしさ” を保育者が受け止め、その上で個々の育ちを支えること。保育の基本的な考え方は、もともと多様性の中にあります。

どの業界でも、ここ何年もずっと消費者心理や消費行動の「多様化」について悩んでいます。生かし、悩んでいると言うのは、送り手側の論理です。
ほんとうは、何より重要な事は、買い手の側では多様化は困ってなんかいない、ということだと思うんです。それは、実は、消費の豊かさの反映なのですから。

日本の教育は、その歴史的な経緯から “多様であること” と相容れない部分があり、それは大人の社会(特に経済)が多様化に戸惑う現状とよく似ています。義務教育ではない保育は幸い、その枷を負っていない部分があり、これからの教育の、そして社会のひとつの可能性を示せると僕は思っています。

“保育業界” としての課題

一方で、現場から離れて構造的にみると、気になる点もいくつかあるように感じます。これも僕が課題として偉そうに言うことではないのだけど、せっかくの機会なので簡単に意見を書いておきます。

「インターネット的」な社会は、分権的な社会です。これまでのような “情報の非対称性” を軸にした、集権的な社会を乗り越えた先にある、そう本を読んでいて改めて思いましたが、いわゆる “保育業界” は現状、国を中心に、とても中央集権的な構造をしています。
小さい組織が多い分、分権的とも考えることができますが、それぞれの組織もまた集権的な構造で成り立っています。

それは子どもの命を預かり、安全を確保するという意味で避けられない部分が絶対的にあるのも事実です。少なくとも現場レベルでフラットな組織というのは、かなり仕組みに工夫がないと事故のリスクをあげることにしかなりません。
(ただし、そうしたチームも出てきてるような気はします…)

ただこの中央集権的な構造が、全体の風通しを悪くさせていることは否定できないのではないでしょうか。情報は限られた範囲でしかシェアされず、労働環境であったり、チームマネジメントであったりは慣習の力が大きく、一個人で解決することも難しい。
保育士不足は深刻さを増すばかりですが、原因はこれらが幾重にも重なっているように感じます。

糸井さんの指摘する「インターネット的」な社会の大きな特徴の一つは、「正直が最大の戦略である」ことです。

「依らしむべし、知らしむべからず」などという過去の為政者の方法の、全く真逆にあるような「知らせる、問いかける」という方法は、実にリンク・フラット・シェアを軸にしている「インターネット的」なやり方だと思うのです。

今はニーズばかりが増える “保育業界” ですが、いずれピークアウトします。そのとき、いかに「インターネット的」に正直であれるか。人と人とがかかわる福祉の仕事であるからこそ、大いに問われる時代がそう遠からず、やってくるのではと思っています。
(ちなみに僕が広報・マーケティングにキャリアを一度振ろうとしているのも、そうした理由からです。)

好きだから、かたちにできる

「インターネット」が普及して約20年。
僕はこの時代を中高生(Windows95・98)〜大学生(iPod・SNS)〜社会人(iPhone)と生きてきましたが、「インターネット」以前の状態がもうあまり想像できないくらい、そのネットワークは生活になくてはならないものになりました。

本を読みながら振り返ってみると、僕自身も間違いなく「インターネット」の成長を感じながら、この変化をリアルに体験し過ごしてきたんだということを感じます。
そこから生まれたいろんな仕組みや技術・考え方が、これからさらに、社会そのものを大きく変え続けるだろうことも。

僕は、「インターネット」が好きです。それが今の閉塞した社会を変えてくれると信じて、これからも仕事をしていきます。好きだと言えるからこそ、かたちにできると信じて。

「インターネット的」な社会の可能性を言語化した糸井さんの1冊。まだ読まれていない方は、ぜひ一度手に取ってみてください。


『インターネット的』(糸井重里)


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