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八王子フィールドワーク(八王子中央部方面・養蚕関連地)

(※踏査日:2024/2/12)

・JR中央線八王子駅→

JR八王子駅北口
JR八王子駅北口

・機守神社(大善寺)→

機神である白滝姫(白滝観音)を祀った神社。
白滝姫は恒武天皇の時代(奈良期末〜平安初期)宮仕えしており、
上野国山田郡の男と恋に落ちその故郷である桐生に移り、絹織物の技術を現地の人々に伝えたという。

機守神社はもともと八王子中心街の大横町(八王子市夢美術館の北側と浅川の間)にあったが1851年に郊外の大谷町に移転。
まだ機械ではない手繰りによる機織りが主流だったころ、技術向上を願う織子たちの信仰をとくに集めた。

大善寺
機守神社
機守神社

・萩原橋→

あきる野から続く秋川街道と浅川の交点に架けられた橋。
初めは1900年(明治33)、萩原製糸の創業者である萩原彦七の寄付により木造で架けられた。

彦七は1850年(嘉永3)に相模国愛甲郡依知村(現・神奈川県厚木市)に生まれる。
12歳で古着呉服質屋の丁稚奉公に入るが、数年後にそこを飛び出して高座群当麻村(現・相模原市)の生糸商のもとに転がり込む。

その後八王子の生糸商である初代・萩原彦七 に雇われ番頭となり、1872年(明治5)にその名を襲名する。

そして1877年(明治10)八王子ではじめての機械製糸工場の萩原製糸工場を八王子市中野上町に創業し事業規模を拡大する。

しかし萩原橋架橋の同年に恐慌が起こり生糸の値段が暴落し、
そのわずか翌年1901年(明治34)、後に富岡製糸場も合併する片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業)に工場を買収される。

工場を失った彦七は故郷の依知村にもどり再起を図るがうまくいかず、結局1929年(昭和8)に80歳で亡くなる。

下の写真は事業のピークだった明治20年代後半の萩原彦七製糸工場の生糸商標。
三多摩郡が自由民権運動でキナ臭くなり東京府に移菅する以前のもののため「神奈川縣」の文字が見える。

生糸商標 萩原彦七製糸工場
明治20年代後半(1877) 横浜開港資料館蔵
萩原橋
萩原橋
萩原橋前石碑
萩原彦七

・八王子市役所→

八王子市役所

・多賀神社→

機守神社と同じく八王子市内の機神を祀った神社のひとつ。

多賀神社
多賀神社
多賀神社

・荒井呉服店→

1912年(大正元年)開業。ミュージシャン松任谷(荒井)由実の実家。

荒井呉服店

・JR中央線八王子駅

JR中央線八王子駅南口

【参考・引用】
︎◾︎ 辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』(1975  角川書店)

▪︎ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015  晶文社)

▪︎ 『八王子の産業ことはじめ』(編集:八王子市郷土資料館  2014)

◾︎「八王子こどもレファレンスシート 萩原彦七」(編集・発行:八王子市中央図書館  2010 ※2022改訂)

https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/016.pdf

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