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「もし」を乗り越えた先にある幸福ーー村上春樹「猫を棄てる 父親について語る時」

 完璧なノンフィクションなどといったものは存在しない。完璧な記憶が存在しないように。
 「戦争の爪痕が残っていた時代に猫を捨てにいった」回想の後、作者は父に纏わる歴史と自身の記憶を展開し始める。記憶をめぐる作品は往往にして真実を描き出さない。ましてや、1人称「僕」の口から語られる「父」の記憶であればなおさらだ。なぜなら記憶とは主観によって歪められ、人間の脳という、極めて不完全なメディアに刷り込まれるるものに他ならないからだ。従って、記憶をめぐる物語は、メディアに刷り込まれた、過去の残滓をめぐる物語とも言える。
 記憶とは歪められたものであると同時に、そのままフィクションそれ自体にもなりえる。読者には、作者の「父」に関する記憶が真実か、判断するを下すことはできない。従って我々読者は、その記憶を真実と「仮定して」、物語を読み進めることとなる。その記憶は紛れもなく、誰か(あるいは何か)によって切りとられたものだ。「父」をめぐるエピソードの中で戦争を持ち出して来たことも繋がってくる。プロパガンダによって、「不都合な真実」を押し隠すことを、戦争は余儀なくする。戦争は物理的にも、精神的にも個人に甚大な影響を及ぼす。
 すなわちこの作品は、戦争=大きな物語によって歪められた、小さな物語=記憶、をめぐりながら、フィクション=小説におけるリアリティの構造そのものに疑問府を投げかける作品だ。実在する「父」に関する証言や記録から成り立つのであれば、ノンフィクションとして定義できるかもしれない。だが、厳密には、絶対的なノンフィクションはこの世に存在しない。何故なら、世に出る作品は、エピソードの取捨選択、言葉の表現方法など、大小含めた「エディット」によって、事実に手が入ったものであるからだ。
 小説は、物事をリアルたらしめようとすればするほど、リアルから離れていくという皮肉な代物だ。言葉でしか表現できないため、人の動きひとつとっても、正確に再現しようとするほど、細部の描写が細かくなり、全体像が薄れていく。逆も然りだ。記憶もまた同様に、過去を眺望しても完璧に思い起こすことはできない。だからこそ「こうあったに違いない」「こうあったと思う」と、どこかで線引きして形にするのだ。
 「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」と作者は述べる。たまたま偶然によって形作られた記憶を、正しいものとして、我々は誤認して生きている。
 物語後半、「もし・・・」と「父」が兵役解除されず・・・と、作者は思う。「もし」が実現していたら、作者の作品も、作者自身も、この世界には存在していなかったのではないか、と。人生は選択の連続だ。「もしあの時」と思い返しても、実行することはできない。だが、たとえ完璧な真実の形ではないにしても、記憶し、語ることはできる。
 「一滴の雨水なりの思い出がある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と」
 「戦争の爪痕が残る」時代へと、猫をおいてくる。それすら、戦争と決別し、大きな物語に抗う一つの儀式と捉えることは深読みしすぎだろうか。
 この時期に、この作品を読んだことは、私にとって大変な僥倖であった。私たちは、この瞬間すらも「あの頃は」と記憶の中で改変してしまうかもしれない。それもいつしか忘却の彼方に置いてきてしまうかもしれない。だから、我々は物語という形式で語り継いでいかなくてはならない。様々な悲劇がフィクションの中で描かれたように。今が記憶となり、またいつか物語として掘り起こすことができる日常を、小説という幸福な装置の未来を願い、ここに筆を置く。


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