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『羅小黒戦記』に見られる現代中国における政治的リアリズム

先月、一部で噂になっていた『羅小黒戦記(ロシャオヘイ・センキ)』を観てきました。どうやら当初の予定では日本での公開期間がかなり短く、それでもこの映画のファンが拡大公開を望んだことで全国的に観ることができるようになったとのことです。実際に観ると、噂通り躍動感あるアニメーションの中に、ジブリへのオマージュを思わせる美しさが入り込み、エンタテインメント作品としてここまでのものを、今の中国は作っているのだと驚きました。日本と欧米とではキャラクターの表情の作り方が違うことはよく知っているのですが、日本と中国との間にも興味深い違いがあり、随所に新しさを感じさせる楽しい作品でした。

というところでレビューを終えてもよいのですが、実は僕は、鑑賞中終始おだやかに過ごしていたわけではありません。むしろ、これぞ、少なくともこの映画を好んで観ている現代中国人が有している、最新の政治的リアリズムなのだということに、ある種の衝撃を受けたのです。

本作の公式解説、あるいはファンのレビューでは、文明(人間)と自然(妖精)との共生がテーマだと説明されることがほとんどで、表面的にはそれは正しいと思います。けれどもその対立構図の意味するところは、現代中国におけるマジョリティ、あるいは中国的秩序の側と、マイノリティ、あるいは中国的秩序に懐疑なリベラルとの対立であり、それを前者の側から包摂することでよい社会を築いていこう、というメッセージが本作には込められています。

言い換えれば、妖精とは少数民族の象徴であり、もしかすると共産党思想に懐疑を持つリベラルの象徴でもあるかもしれません。国家の側から見た時のかような多様性=不安定さを抱える社会をどのように統合するかを権力(=国家や共産党だけではなく、あの社会で比較的割を食わない一般市民のことも含む)の側から描いたリアリズムこそが、あの作品の本質なのだと思います。

作品では、統合に懐疑を覚える人々に対して「お前の気持ちもよくわかるけど、俺たちは一緒に社会を作らないといけない」と秩序を正当化します。そして(やはり恐ろしさを禁じ得ないのは)、それを代弁するのが、人間だけではなくそれに共鳴した妖精で、秩序を信じる妖精が信じない妖精を説得しあるいは逮捕するという描写です。作中では、人間にも妖精にも、良い奴もいれば悪い奴もいる。お互い好き合っているわけでもなく、そうである必要もない。でも一緒の社会を作り暮らしていかないといけないんだ、と、秩序の側に立つ妖精キャラが述懐しています。ここに、この映画がプロパガンダ的であると同時に、社会をまとめるうえで一考に値するリアリズムを見ることができるとも思うのです。

もちろん、とは言え、結局のところ社会を支配するのは人間で、妖精はその中で人間の姿をしてある種隠れて生きているわけで、そこが欺瞞だといえばまったくその通りだと思います。それこそ今の中国社会を表しているでしょう。同化政策そのものです。他方で、あの映画を支持する中国の人びとは、実際に社会を不安定さを感じて、それでも平和を維持するための次善のリアリズムとして、説得力を感じたのではないかとも思うのです。

統合と融和の象徴として「妖精もみんなスマホ使ってる」「文明は素晴らしい」というあたりさすが中国だと思いますが、実際に生活の豊かさと引き換えに人権の一部を放棄するのは、中国ではある種日常的なことでもあります。それを僕たちが変だといい、何を言われようと内モンゴルやウイグルに対してやっていることは許せないというのは、素朴に間違っていようがない。弾圧や人権侵害は一刻も早く辞めさせるべきです。けれども他方で、社会統合は、何かを「悪」と設定して済むようなそんなに単純な話ではないことも、また確かです。大きすぎて、いろんな背景の人がいすぎる中国という共同体をうまくおさめる方法を、実は誰も分かっていなくて、その悩みや苦しみすら聞こえてきます。そして少なくとも今を生きる中国人は、情報統制の中どれほど内モンゴルやウイグルのことを知っているかは定かではないとしても、実際に不安定さを感じる自分たちの社会を生き抜いていかないといけないリアリティを抱えている。その彼らにとっての「生き方の思想」として機能しているのが『羅小黒戦記』だとしたら、僕たちはその事実を一旦は受け止める必要があるのではないでしょうか。当然、弾圧や同化政策が許されないことだとしても、この作品自体の持つ想像力を解釈しようとする姿勢には一定意味があると思うのです。

映画を観ながら、そのような政治的リアリズムを突き付けられ、僕は怖くなり言葉を失いました。

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