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「檸檬」をわかりやすくする

梶井基次郎さんの名著「檸檬(れもん)」を取り上げます。檸檬は自身の随筆的な小説で、言い回しが詩的なのが特徴です。

いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。ーー結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。終始私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。
(梶井基次郎「檸檬」より引用)

指示語は離さない

この部分を読むと、気になるところが2点ありました。1つは指示語です。指示語とは「あれ」や「それ」「ここ」「あそこ」のように、繰り返しの表現を避けるために何かを指す言葉です。小学校では「こそあど言葉」と習った方も多いと思います。指示語は、同じ言葉を繰り返さなくていいメリットがある一方、なるべく近くの名詞を指さないと文意が通りづらくなることがあります。

では、最後の1文にある「それ」とは、何を指すのかわかりますか?

文章の構造は難しくないので、読めば「それ」が何を指すのかわかると思います。

ただ、「それ」が「檸檬」を指すとしたら、少し遠すぎる気がします。文法としておかしくなくても、5行前の名詞を指すとなると、一瞬でも「何のことを指してるんだっけ?」と思うと、読み返してしまいます。

指示語は原則として、文章の中あるいは直前の文の名詞を指すと、読みやすい文章になります。

「名詞の近くに配置する」というのは、修飾語も同じです。「ちょっとだけ、母が作った野菜コロッケをほおばった」という文章より、「母が作った野菜コロッケを、ちょっとだけほおばった」の方が読みやすいということです。ここで出てくる「ちょっとだけ」は「ほおばった」という動詞を修飾しているからです。

何度も同じ言葉を繰り返さない

この引用文には、もう1つ気になる点があります。それは、繰り返し登場してくる言葉があることです。

これだけ短い6つの文の中に、「私」が6回登場します。同じ言葉が連続で登場すると、読者が飽きてしまいます。すこし削った方が読みやすくなると思います。

「檸檬」をわかりやすくする

私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。ーー結局檸檬を一つだけ買うことにした。それから私はどこへどう歩いたのだろう。長い間街を歩いていた。終始私の心を圧えつけていた不吉な塊が、檸檬を握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、街の上で非常に幸福であった。
(梶井基次郎「檸檬」より引用・改変)

指示語を少し補い、「私」をいくつか削りました。ほんのすこしですが、読みやすくなったのではないでしょうか。

「檸檬」の内容と補足

「檸檬」は、大正後期に出版となった短編小説です。簡単に内容を言えば、買ったレモンを丸善(書店)の画集の上に置き、こっそりと立ち去るというものです。

主人公は、レモンを爆弾に見立てています。

丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
(梶井基次郎「檸檬」より引用)

この小説には、大きなオチや教訓は見られませんが、色彩の描写がうつくしいのが特徴です。10〜20分ほどで読めてしまう短いものですが、示唆しているものが抽象的なので読書感想文の候補にはなりにくいかもしれません。

【補足事項】ここでは、現代に生きる人たちがよりわかりやすく情報を伝えるためのトレーニングとして、一般的に名著と呼ばれる書籍の文章を引用しています。修正や補完は、あくまで「現代に暮らす人たち」が理解しやすくするためのものです。登場する名著の文学的価値は依然として高いと考えています。その芸術性を否定したり不完全さを指摘したりする意図はないことを、強く宣言します。また引用した文の作者の思想や主張に、同意するものではないことも添えたいと思います。

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