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今日死ぬことがわかっていても学ぶことはできる

学びに年齢や境遇は関係なく、学びたいと思うことに価値がある。

「地球最後の日にりんごの種を植える。」

何かの本で目にした言葉だ。
たとえ今日死ぬ運命だとしても、今日学ぶことは出来る。

今日死ぬと分かっていて学ぶことに意味はあるのか?
人はある意味、学ぶために生まれ、学ぶために死んでいくと言えます。

学びは、自分の血肉となり心の糧となり得る。

学びとは、本からだけ得るものだけではなく、本来は経験こそが大いなる学びのはず。
人との出会いは良くも悪くも大きな学びとなり自分の経験値を上げる。

そして、その学びを自分の人生にどう生かすか?
それが学びが持つ本質だ。

「ハンマーしか持たない人には、すべてが釘に見える。」
これもある本の中に書かれていた。

自分の主義主張や考え方に固執すれば、それ意外の考えを受け入れる余裕がなくなってしまう。

思想家エドワード・デボノは、問題だけに固執せず新しい考えを生み出す過程を「水平思考」という言葉で表現した。
問題を、それとはかけ離れたことに紐づけることにより、自分でも気づかなかった考えが心に浮かぶ。

脳は自分が強く求める情報を感知し、持てる力を総動員して情報をかき集め始める。
視界の中から自分が求めるものを抽出し、無意識にそれに気づかせ、求めるものに出会う機会を与えてくれる。

わたし達の経験することは、その良し悪しには関係なくすべて脳に記憶され、忘れた頃にまったく予想もしない形で現れてくることになる。

この世界には、まったく新しいものなどなく、過去に学んだ知識や経験が、まったく別の顔で自分の前に現れただけにすぎない。
多くのことを学べば、それだけ人生に選択肢が増え豊かになる。

学びは、年齢や境遇には関係しない。
学ぼうとすることこそ人間の本質である。



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