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一冊の「紙の墓」

2020年8月。原爆投下から75年。わたしが小学生のとき、ヒロシマ、ナガサキは今よりもっと近く、生々しかった。年々遠ざかる原爆の日を、薄まる戒めを、少しでも胸に刻みつけておこうと手に取る本がある。

『絶後の記録広島原子爆弾の手記』

わたしの手元にあるのは1982年7月10日初版、1996年5月30日5版の中央公論社文庫。著者による「拝呈」の判子が押されている(「呈拝」となっているが、右から左に読むらしい)。

拝呈 私の小さな原水禁運動であります   お讀み下さるのを感謝いたします   昭和廿三年十一月卅日 中央社初刊

単行本刊行の日付は原爆投下から3年後の1948年11月30日。GHQの検閲を受けて最初に刊行された原爆体験記だ。

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原爆手記であり美しい恋文

『絶後の記録』との出会いは2002年。「これ読んでみて」と夫の父に手渡された。著者の小倉豊文氏は『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』などの著書もある人文学者で、宮沢賢治研究に関わっていた義父と親交があった。

目次の隣には当時97歳だった小倉氏の「恵存」の添え書きのコピーが貼られ、義父の手によるものなのか、(絶筆)と書き足されている。

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その年の8月6日、『原爆の絵~市民が残すヒロシマの記録』というNHKのドキュメンタリーを観た。28年前とその年の2度にわたって募集され、一般から寄せられた「原爆の絵」。3000枚を超えるその一枚一枚をデータベース化することにより、同じ場面を描いた絵を特定しやすくなったという内容だった。「子を守る母」を描いた90代の男性を、母の遺児である74才の男性が訪ね、「母を描いてくれてありがとうございます」「この絵に最も縁のある人にお会いできて良かった」と涙しあう場面が印象に残った。

火照りのような余韻を抱いたまま、読みかけていた『絶後の記録』のページをめくった。原爆投下後、安否のわからぬ妻を探して広島市内を歩く著者の目線がカメラになり、音や匂いまで伝わってくるように活写されている。その筆は冷静で、学者らしい知性と品が感じられる。

その日の日記に感想を綴った。

57年前に書かれたと思えないほど、文章がみずみずしい。原爆を記録した本や文書にはいくつか出会ったが、これほど事実が痛々しく迫ってくる本を知らないし、これほど美しく切ない恋文も知らない。著者が妻を思う気持ちが胸を衝くたび、二人を引き裂いた戦争と原爆を憎まずにはいられなくなる。(中略)平和に慣れると、ありがたみを忘れがちだが、平和なときこそ、それを壊すものを恐れなくてはと思う。ほんの半世紀と少し前には、この国も地獄を味わったことを、思い返す機会を持ちたい。

次に『絶後の記録』が日記に登場するのは、2年後の2004年8月6日。何気なく開いた「月刊シナリオ」に掲載されていた黒木和雄監督作品『父と暮せば』(原作:井上ひさし 脚本:黒木和雄/池田眞也)の脚本を読み、原爆の日に想いを寄せた。

子どもの頃は毎年、親に連れられて原爆写真展を見に行った。千羽鶴の像のモデルになった佐々木禎子さんの物語など、原爆関係の本もよく読んだ。平和のありがたみを考える機会はずいぶん与えられたほうだと思う。そんなわたしでも、原爆記念日を経るごとに、記憶や危機感は薄れてしまってきている。原爆のことよりも考えなくてはいけないことが年々増えているせいもある。平和ボケのせいもあるかもしれない。だからこそ、8月6日と9日ぐらいは立ち止まって思いをめぐらせる時間を持つべきなのだ。偶然ページを開いた『父と暮せば』はそんなメッセージだったのかもしれない。

いつからか「原爆記念日」という言い回しを避けるようになったが、当時は使っていた。

原爆記念日になると、思い出す本がある。数年前、義父にすすめられた『絶後の記録』。原爆で失った妻への手紙という形で綴られた被爆体験の手記で、妻への思いにあふれた言葉があまりに優しく美しく恋文のようでもあり、原爆で引き裂かれた夫婦の悲恋が痛い。遺された夫である著者の小倉豊文氏は、被爆当時は広島市内の大学教師。原爆の正体を知らされないままに、悲しみに暮れる間もなく復興のために奔走し、その合間を縫って天国の妻にあてて地上の様子を書き綴っていた。

「選べない運命」に自分を重ねたKingaさん

『絶後の記録』を初めて読んだとき、こんなに美しく悲しい話は知らないと思った。強く打たれた。なのに、これを映画やドラマにしようとは思いつかなかった。「何かいい原作はありませんか」とプロデューサーや監督に聞かれても、思い出さなかった。

もし、「この原作を脚本に」と持ちかけられても、尻込みしたと思う。書かれている以上のものを映像で見せる腕もないし、お金も集まらないだろうと。この作品を何とかして世の中の人に知らしめなくてはという使命感は持ち合わせていなかった。

せめて8月にはページをめくり、想いを馳せる時間を持とうと思っていたが、それから何年もの間、『絶後の記録』は閉じられたままだった。再び手に取る機会が訪れたのは、2007年。この作品を映画化したいという人と会うことになった。

その人は、海の向こうから現れた。

UCLAで映画製作を学び、ロサンゼルスで映画製作に携わっていたKinga Dobosさん。祖国ルーマニアからパスポートを持たずに逃れた両親を追って一年後にハンガリーに移り住んだのが14才のとき。「苦労が人間を強くする」「自分の運命を選ぶことはできないが、持って生まれた才能や個性や努力が非常な困難をも乗り越えさせてくれる」と悟るなかで、「いつか芸術で自分を表現していこう」と思うようになった。高校を卒業後、ロンドンで住み込み家事をしながら夜間学校で英語を学び、映画製作の夢を実現するために渡米してからは7年もの間、家族と会わずに勉学に励んだ。

大学の恩師から『絶後の記録』の英語版(Letters from the End of the World)をすすめられて読んだKinga さんは、原爆投下に翻弄されて家族と引き裂かれた小倉さんに自身の体験を重ね、映画化権の許諾を依頼する手紙を小倉さんの娘さんあてに書いた。

その手紙が小倉さんの娘さんとも親交のある義父からわたしに渡り、読ませてもらった。許諾の前にまず自分が何者かを知って欲しいという誠意と熱意が伝わってきた。

平和を祈るのに日本もアメリカもない

その年の8月、広島での追悼式典に参加してから東京を訪れたKingaさんに会った。岡田さんという男性が広島から同行されていた。Kingaさんと同じ先生から英語を習ったという縁でつながったKingaさんの熱意に巻き込まれ、通訳を買って出た人だ。Kingaさんに会う前に数十冊の原爆関係の本を読んだと言い、「黙祷しながら聞いた8時15分の鐘の音は忘れられないものになりそうです」「平和公園を歩いたのは二度目ですが、小倉先生の言われた『広島ではどこを歩いても遺骨の上を歩いている』の言葉を思うと、そこは一度目とは違った場所のようでした」と話されていた。

岡田さんとわたしが補いあいながら通訳を務めたが、岡田さんの語彙の豊かさ、訳の的確さに感心した。留学から20年余り経ったわたしの英語はずいぶんさびついていて、日本語にしたら数語のことがまわりくどい表現になっていた。「大空襲」「疎開」といった使い慣れない言葉にたじたじとなっていると、察しのいいKingaさんが「Fire attack?」「Evacuate?」と汲み取ってくれた。「被爆者って何て言うんでしょう?」と岡田さんに聞くと、「Hibakusya?」とKingaさん。「ヒバクシャ」はそのままで通じてしまうんだと複雑な気持ちになった。

2年後の2009年5月にKingaさんが再来日したときにも会うことができた。映画化を企画しても実現するのはひと握り。『絶後の記録』を実写で撮るには、莫大な製作費が必要になる。資金調達は進んでいなかったが、Kingaさんの熱意は衰えず、大きな瞳をキラキラさせて作品への想いを語るのだった。信念に突き動かされ、誠意と行動力を惜しみなく注ぐエネルギーに圧倒された。財力もコネもない個人が映画を作るとき、不可能を可能にするのはこの情熱なのだ。

折しもその頃、全日本ろうあ連盟創立60周年記念映画『ゆずり葉』が完成し、「月刊シナリオ」に脚本と、ろう者である早瀬憲太郎監督のインタビューが載っていた。「映画を作るのにろう者も健聴者も関係ない」と語る早瀬監督に、「原爆を憎んで平和を祈るのに日本もアメリカもない」と熱く語るKingaさんが重なった。

異国での孤独に耐えて映画製作者になる夢をかなえたKingaさんなら、どんなに道は険しくても、惚れ込んだ原作を映画化してしまうのではないかと思えた。

本をお墓と思つてくれ

「自分にしか撮れない原爆映画がある」と言っていたKingaさんの企画は結局、成立しなかった。

企画は消えたが、残ったものもあった。

重みを増した『絶後の記録』と、その英語版と、その本に衝き動かされたKingaさんという友人。

序文(日付は1949年2月)で高村光太郎氏は「この記録を読んだら、どんな政治家でも、軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであろう」と記している。さらには、国境や人種や民族も超えて。戦争を憎む気持ちの根っこは人を愛する気持ちなのだと訴えかけるこの本は、埋もれさせてはいけない記録なのだとKingaさんに教えられた。

義父に託された『絶後の記録』に挟まれた「ゲーテ生誕二百年記念 塔 九月號」のコピーに、「紙の墓 ─亡き妻に─」と題した小倉豊文氏の詩がある。

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妻にあてた手紙を本にしようと思い立った気持ちが綴られている。ノーモアヒロシマズの祈りが出版に駆り立てたのだが、印税を受け取ることに葛藤した。悩んだ末、印税をみんなに使ってもらおうと決心がついた……と語りかける長い詩は、

 お前のお墓を建てるのも
 しばらくみんなおあづけだ
 本をお墓と思つてくれ
 地上の
 つめたい一つの一つの墓石より
 も無方にちらばる
 無数の紙の墓の方が
 お前もやつぱりいいだらう
 第一、
 軽くていいだらう

と結ばれている。この「紙の墓」を一人でも多くの方に手に取ってもらいたいと願っている。絶後が絶後であり続け、戦後が戦後であり続けるために。

『絶後の記録―広島原子爆弾の手記』は最初の刊行から半世紀余りを経た2001年8月に中公文庫BIBLIO20世紀から改版が、その後、Kindle版が出ている。英文版のペーパーバックは送料込みで2396円から(8/17現在)。

追記 ある読書感想文

小倉豊文さんへ
 この本は、原爆で亡くなった妻の文代さんにあてて、あなたが終戦の翌年から一年をかけてつづった十三通の手紙をまとめたものです。あなたの手紙を文代さんが読むことはありませんでした。かわりに、終戦から七十四年後に生きている中学生の私が読みました。その感想を手紙の形でつづります。
 正直、あなたの手紙は読めない漢字だらけで、私には難しかったです。しかも、書かれている原爆の被害の様子があまりに悲惨で、するするとは読めませんでした。本当にこんなことが起きたのかと信じがたい気持ちでした。でも、あの日、広島にいたあなたは、もっと大きな混乱と動揺を味わっていました。そのことが手紙から伝わってきました。
 八月六日に広島に原子爆弾が落とされたことを、私は社会の授業で学んで知っています。しかし、当時の広島の人たちは、一体何が起こったのか知りませんでした。体験したことのない規模の爆撃で、誰もが自分の真上に爆弾が落ちたと思ったのですね。あなたは最初、殺人光線だと思いました。それから、火薬庫の爆発ではないか、いや新兵器ではないか、それとも光焔放射かと推理をめぐらせました。
 やがて、広島市街を見渡せる小高い丘の上で、大学で理科を学んだという若い将校から「原子爆弾ではないか」と聞きます。原爆について聞きかじっていたあなたは、「マッチ箱ひとつばかりの分量で、富士山くらいは吹っ飛ばす」という話を思い出し、眼下に広がる市街一帯の火事と、その焼け跡のどす黒い廃墟を眺め、やっぱり原子爆弾だと確信したのでした。
 このとき、あなたは以前読んだ座談会の記事も思い出しました。原爆の猛威についての科学者の話を聞いた文学者が、原爆ができたら戦争はもうおしまいですねと語ったことを。
 あなたは、「これで戦争が終わる」と希望を抱いてから、「戦争は完全な負けだ」と思い、ペッと唾を吐きました。その唾は、あなた自身に向けて吐いたものでした。
 手紙を読んで感心したのは、目の前で起きていることを実況しているような、あなたの記憶力、観察力、描写力です。人文学者であるあなたは、文学の知識に富んでいて、描写もユニークです。例えば、原爆のきのこ雲を「雲と光のページェント」と表現しています。私は辞書で「pageant」を引いてみました。「野外劇/壮麗な行列」とありました。あの非常事態に、こんな詩的な喩えを思いつく人は、なかなかいないと思います。
 また、「木の枝から振り落とされた蟻のように両側の家から飛び出す人影」という描写は、あわてふためいた人々が一斉に外に出てきた情景が目に浮かぶようでした。とくに強烈だったのは、道をふさぐように倒れていた女性の死体をどけようとした場面です。両足をつかむと、手がすべり、見ると、女性の焼けただれた皮膚がずるっとむけて足首に集まり、筋肉が陽に照らされていたという描写が生々しかったです。「エグい」「むごい」「こわい」。感想が三文字止まりで、言葉になりません。
 手紙の中で、あなたは妻の文代さんの行方を探し、無事再会できましたが、文代さんは原爆症で数日後に亡くなってしまいました。とても辛い別れだったのではと思いますが、そのことをつづるあなたの文章は淡々とした印象があります。残酷な出来事の連続で感情の容量を超えてしまったのだろうかと想像しました。
 さんざんひどい目にあったのに、原爆を落としたアメリカへの怒りや恨みが書かれていないのも不思議でした。この本はGHQの検閲を受けて最初に出版された原爆体験記なので、検閲で削られたのではと思いましたが、アメリカを非難することは元々書いていなかったのですね。その理由をあとがきに見つけました。「ヒットラーを生み出したのは、ほかならぬ我々自身である。独裁者ヒットラーと、不明確で曖昧模糊たる人間たちの群とは、調度、写真の陽画と陰画のように合致している」とマックス・ピカートという人の言葉が引用されていました。原爆を落としたアメリカだけが悪いのではない、自分にも責任があるという戒めの気持ちがあったのでしょう。
 誰にも読まれる予定のなかった文代さんあての手紙を、あなたは「紙の墓」として出版することにしました。あなたが亡くなった今、この本は、あなたのお墓でもあります。そして、あなたに読まれることのない私の感想の手紙は、お墓に手向ける花といえるかもしれません。あなたの手紙に書かれた原爆の悲劇が、二度と繰り返されない「絶後の記録」であり続けるために、あちこちの国の言葉に訳されているこの本を世界中の人たちが手に取り、花を手向けてくれることを願っています。



2023.8.11  Yuko Sanoさん


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