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返事町の住人

少し前のnote「ぜんぜん血糊なくてごめん」に誤変換のことを書いたとき、過去の自分のツイートで「誤変換」を検索したら、「返事町」という言葉が目に留まった。

青い鳥がいなくなるずっと前のTwitterで、ある脚本家さんがつぶやいたのだった。《返事町だとお風呂にも入れない》と。

返事町

「返事待ち」の誤変換で偶然生まれた言葉。初めて目にしたみたいにキュンとした。「へんじまち」の響きがかわいい。「返事町」の字ヅラがかわいい。絵本に出てきそうな名前。「待ち」が「町」になると時間に空間の概念が加わる。しばしばその町の住人になるわたしは、同郷の友を見つけたような親しみを覚えた。

いつ返事が来るかわからなくて、お風呂にも入れない。あるある。当時はまだ流行ってなかった「わかりみが深い」というやつだ。

返事待ちでお風呂にも入れない自分のことを《小心者過ぎでしょうか》と問う脚本家さんに、わたしはこんな返信を書いていた。

返事町=返事待ちの誤変換!?返事町の住人になることが多いので、うまい造語と感心。返事町では携帯電話空鳴り怪現象が起きます。待ち時間が長い=持ち時間が短いとなり、進むも散るも辛い展開に。》

返事町の住人は落ち着かない。原稿を仕上げた後の、やることのない朝。手持ち無沙汰な午後。眠れない夜。ぽっかりと空いた時間に「返事はまだ?」が忍び寄る。

いま取り損ねた電話はプロデューサーからではなかったかと着信履歴を確かめると、誰からも電話はかかっていなかったりする。返事町では幻聴の電話が鳴ってしまう。そうなると、思考も迷走を始める。

時間がないって言ったから急いで仕上げたのに、なぜこんなに待たされるのか。

もしかして、もめているのだろうか。期待に応えられなかったのだろうか。 

これだけ待っても何も言ってこないということは、ダメだったのか。

返事が遅れるなら遅れると知らせてくれたらいいのに。

「送った原稿が報われて欲しい」に、「返事を待つ時間が報われて欲しい」が加わる。待てば待つほど、これだけ待ったんだからいい返事を聞かせて欲しいと期待が膨らむ。貢いだ時間の元を取りたいという気持ちが雪だるま式に大きくなる。

待ち時間が長くなるということは、持ち時間が短くなるということでもある。納品のおしりは決まっている。つまり、待たされた分、原稿にかけられる時間は減ってしまう。だから、余計にヤキモキする。

いない間に連絡があったらどうしようと心配して何もできない状況は、いつ帰って来るかわからない家族を待つ状況にも通じる。

食事どうするの? 食べて来るの? 
いらないなら早めに言って。
せめて返信して。

返事町。帰宅町。順番町。自分を待たせている相手のペースで時間が進む町は、自分のことが後回しになる。長居しすぎると期待より不安が大きくなってしまい、気持ちまで削られる。

待つだけの時間は、何も生まない。恨みがましいわたしが残るだけだ。

……というのは2010年のツイート時点のこと。気がつけば、返事町を留守にしがちになっている。

いつ来るかわからない、来るかどうかもわからない返事のことは放っておく。待つだけの時間を作らない。返事が来たら来たで良し。来なければ来ないで良し。

余裕ができたというより、他にやることがふえたのだ。来るべき返事も気晴らしも全部スマホに入って持ち運べるようになった。メールやDMが届いていないかとスマホを確かめると、新着の通知が目に入り、ネットニュースやネット広告やアプリを開くことになる。語学アプリは「連続学習記録が途切れますよ」とせっつき、duolingoのフクロウ(名前をDuoという)は「淋しいよ。相手して」と訴える。

追いかけるものがありすぎて、返事のことだけ考えているひまがなくなった。連絡が来るのを気にせずお風呂に入るし、幻聴の電話も鳴らない。

スティーブ・ジョブスが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行った有名すぎるスピーチの中で「(あなたの)時間には限りがあるのだから他の人の人生を生きることに使うのはもったいない(Your time is limited, so don't waste it living another person's life.)」と言っている。

自分のために使う時間を「返事をくれない相手のため」に使うなということだ。

返事町は出たり入ったりするのがいい。受付で番号札を取って時間が来るまで離れていていい病院や飲食店みたいに。住人同士で「まだですかね」をきっかけにおしゃべりするのもいい。一人で待たされっぱなしじゃなくて誰かと待ち時間を共有できたら、返事町は居心地が良くなる。

受賞の知らせなんかを待つときは、特設会場のテーブルでお酒を飲みながら、他の住人たちとワイワイ待つのがいい。待つドキドキがアトラクションになるとき、返事町は楽しいところになる。

と書きつつ、原稿の返事を待ってソワソワして、お風呂に入るタイミングにも気を遣っていた頃の「待ちの重さ」は、過ぎてしまえば懐かしくもある。

そう言えば、社会に出るまでは、返事待ちと言えば、手紙の返事を待つことだった。子どもの頃は文通相手からの手紙がいつ届くか、そわそわしていた。毎日、学校から帰ると、家のポストを開けて確かめ、玄関のドアを開けて「まだ?」と家族に聞いた。

わたしは大阪、文通相手は長野に住んでいて、3日でわたしからの手紙が届いて、その日にすぐ出した返事が3日で届くとしたら、最短で出した日の5日後に返事が届くはずで、1日遅れるごとに「まだ出してないのだろうか」「まだ書いてないのだろうか」「まだわたしの手紙が届いていないのだろうか」と心配になった。

あんなに一通の手紙を待ち遠しく思ったことはなかったし、あの待ち遠しさを味わえることはもうないのかもしれない。

相手がいなければ、待たせることも待たされることもない。返事町の住人になれるのは、幸せなことなのだ。


【タイトル画像のお礼】
「みんなのギャラリー」にて「ポスト」で探し、ごぼうさんにお借りしました。ありがとうございます。


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。