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図書館の本に落書きしちゃったら

朝、水やりをしていたら見知らぬ初老の男性が近づいて来て、「悪いね」とわたしに声をかけ、500mlのペットボトルを差し出した。底に数センチほど、透明な液体が残っていた。

「悪いね。捨てさせてもらえる?」

なのかなと思った。ペットボトルを見ると、遊園地のロケットみたいな三ツ矢サイダーの形をしている。

飲み残しの気の抜けたサイダーだったら困るなと思ったけれど、男性がボトルを傾ける様子はなく、ボトルは上を向いたまま。ホースの水を待っている。

「悪いね。水もらえる?」

だったのかと合点した。そこまでに流れた時間は、ほんの数秒ほど。

ホースからの水の勢いが強いので、「弱めますね」と言って、蛇口を少し締めた。ペットボトルを水で満たして、男性は立ち去った。

「わるいね」

「よわめますね」

互いに一言ずつ。男性からは4文字、わたしからは6文字と400mlほどの水が行き交った。見知らぬ人とやりとりする新しいパターンをコトバンクにしまった。

そして、「ね」で終わる短い言葉がけが、娘が小さかった頃の記憶を引き出した。その後、講演のネタになった「図書館の本に落書きしちゃった」事件のこと。

悲劇のハッピーエンドを考える

事件は鋏の音から始まった。

リビングの片隅で、ジョリ、と遠慮がちに紙に鋏を入れる音がしたかと思うと、当時6歳だった娘がわたしの腰に抱きつき、無言で顔を押しつけてきた。



こういうときは、何かいけないことをして、しかられるんじゃないかという不安と泣きたい気持ちがまじっている。

「どうしたの?何かしちゃった?しからないから言って」

さんざんためらってから絞り出すように娘は言った。

「としょかんのだってこと、わすれてたの」



どうやら図書館で借りた本に傷をつけてしまったらしい。

どれどれと見てみると、被害に遭ったのは、歌詞カードだった。子どもの歌を集めたCDについている歌詞カード。その中に落書きがあった。

セブン&アイグループのキャラクター「ボノロン」の絵かき歌。歌詞の横に「ボノロンをかいてみましょう」とスペースが取ってあった。呼びかけに素直に応じて描いてしまってから、借り物だったと気づいたらしい。

消しゴムで消せない黒の色鉛筆。とっさに「なかったこと」にしようとして鋏を入れたものの、ますますいけないと思い直して鋏を止めたようで、端から数センチが切れていた。



こんなとき、親はどうするべきか。



起きてしまった物語は変えられな~い。けれど、物語の続きは、あなたの手の中にあ~る。(by 朝ドラ「つばさ」ヒロインの母・玉木加乃子)



まずは、やってしまったことは間違いだったという認識を親子で共有しよう。その上で、どうしようかと親子で考えてみよう。



色鉛筆を修正液で消したら凸凹になるし、鋏で切ってしまったところをテープで留めるにしても、うちにあるテープより図書館のテープのほうがいいかもしれない。



一緒に図書館に行こう。落書きと鋏を入れたことを正直に話して、一緒に謝って、どうするのがいいか相談しよう。と娘に提案した。



借りたものを大切に使わないと、どんなことが起きてしまうのか一緒に体験して、これからは気をつけようという教訓を一緒に得る

。というのが、親にできることなのかなと思った。



やってしまったと本人が気づいた時点で「痛み」は味わっているわけで、叱って追い討ちをかけるより、その失敗の痛みを分かち合うことで、繰り返しにブレーキをかけられる。きっと。

脚本を書くときに物語の幸せな出口を想定して人物たちを行動させるように、事件のハッピーエンドを期待して図書館へ向かった。落書き入り歌詞カードをケースに戻したCDを携えて。

登場人物をキャスティングする


「ここでまってる」と戸口まで下がって尻込む娘の手を引いてカウンターに近づく。カウンターの中には職員さんが二人いた。

年配の人と、まだ二十代に見える若い人。
どちらも女性だった。

ハッピーエンドに向けて、どっちの人物に登場していただくのが良いか、キャスティングが大事だ。声をかける前に二人を観察した。

年配の職員さんには、この道何十年のベテランの風格があった。落書き対応にも慣れてそうだ。この人にしよう。返却資料を整理している手が空いたら声をかけようと構えていたら、若いほうの新米っぽい職員さんがわたしに気づいた。

「何か?」と目で促され、切り出した。

「あのう、お詫びしなくてはならないことが……」

またも脱走を試みる娘。


「ここにいなさい」


「やだ、しかられるから」


「黙って返すのは、もっと良くないことだよ」


「でも、しかられる」


「正直にお話ししたら大丈夫。ママも一緒に謝るから」


手をつないで娘を引き止め、話を続ける。



「図書館でお借りしていることを忘れて落書きしてしまいまして……」

事情を話して、ボノロンの落書きを見せた。

新米っぽい職員さんは、カウンターから少し体を乗り出すと、わたしの背中に隠れるようにして縮こまっている娘に目線を合わせて、

「えらかったね」

一言だけ声をかけた。



わたしの手をぎゅっと握っていた娘の力が一瞬ゆるんだように感じた。
それとも、娘の手を握っていたわたしの力がゆるんだのか。

ため息をつかれるか、呆れられるか、叱られるか。責める反応を予想していたので、拍子抜けした。まさかねぎらいの言葉をかけられるとは思っていなかった。緊張で強張っていた体が、ふわっとほどけたようだった。



えらかったね。

柔らかくて肌ざわりの良い、ちょうどいい軽やかさと大きさの一言だった。娘に向けた言葉ではありながら、わたしにも優しさをかけてくれた。



この一言を一緒に聞けて良かった。それだけでも、一緒に来た価値があった。

その後は、ことは事務的に運ばれた。「上の者に相談します」と若い人からベテラン風の人に事情が伝えられ、引き継がれると、「図書館では、落書きなど傷をつけられた資料は貸し出せなくなり、破棄することになります。つきましては、破損資料の弁償をお願いします」とマニュアルも見ずにすらすらと伝えられた。


さすが、慣れていらっしゃる。期待していたのとは別な方向で。

ベテラン風あらためベテラン職員さんは、落書きされたCDをネットで調べ、「アマゾンで買えます」と告げると、「新品でお願いします」と念を押した。つまり、中古では買わないでくださいねということだ。

絶版の場合は、やむなく中古で弁償するのだろうか。



「新しい歌詞カードをお持ちいただき、破損した歌詞カードと差し替えます」と言われた。歌詞カードだけを新品と入れ替えるらしい。そのときに持参してくださいと弁償の旨が書かれた小さな紙を受け取った。

ベテラン職員さんの対応は、あくまで淡々としていた。仕事として、こなすべきことをこなされていたけれど、処理に慣れていることと、応対に余裕があることは別物だと学んだ。

落書きを名乗り出た親子の、逃げ出そうとする子どもを引き止める親の手が汗をかいていることなど知らないし、気づかないし、そもそも関係がないのかもしれない。

最初にベテラン職員さんに声をかけていたら、「えらかったね」は聞けなかった。



「えらかったね」と声をかけてくれた若い新米っぽい職員さんは、カウンターの中からわたしと娘のやりとりを聞いて、ここに来るまでの経緯に思いを馳せ、娘の屈託を感じ取ってくれていたのかもしれない。

わたしの「人を見る目」もまだまだだなと思った。

未来から借りたセリフを返す

amazonで買ったCDが届くと、再び親子で図書館へ向かった。

「買って弁償する」というお金での解決を6歳児に見せるべきかどうか、ためらいはあった。だが、借りたものを汚したら謝るのは当たり前だし、「何らかの代償が必要になる」のも当たり前。その当たり前のことを当たり前だと知ってもらうために、立ち会わせることにした。

「新品で」と念を押されていたので、その場でCDの封を切ってもらい、落書きした歌詞カードと新しいものを交換した。

その過程を親子で見届けて、落書き事件に区切りをつけた。



「で、このCD代は、どうする?」と娘に聞いたところ、「ちょきんしてるから」と、ちゃっかりした答えが返ってきた。

お金で簡単に埋め合わせするのもねぇとなり、お風呂掃除を1か月手伝ってもらうことにした。「お金を出せば許されるんでしょ」ではなく、「小さな落書きがこんな大ごとになるんだ」と体にも刻んでくれたらと。落書きの代償に掃除。お後がよろしいようで。

落書きして、それを隠そうとハサミを入れた(中央の綴じのそばにジョリの跡が)歌詞カードのボノロン。

悲しいほど似ていない。

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落書き事件を通して、「図書館の本は、みんなで読むもの、次の人に渡すもの」という意識をあらためて持つことができた。

「地球は子孫からの借りもの」というネイティブインディアンの教えを聞いたことがある。次の人に渡すということは、ベクトルを逆にすると、将来使う人のものを先に借りているということ。

時は流れて、「悪いね」から「えらかったね」の記憶が蘇り、あらためて思ったのは、図書館のあの新米っぽい職員さんから咄嗟に出た「えらかったね」の6文字以上に、あのときドキドキしていた親子を和らがせてくれる言葉はなかったなということ。

資料に傷をつけた利用者に、責めるのではなく、いたわりの言葉をかける。

話を切り出したのは母親だけど、子どもに言葉をかける。

それを瞬時に選び取った。考えるよりも先に、これまでの経験から出たと思われる反射的な対応だった。もしかしたら、過去に同じような場面で同じような言葉をかけられたことがあったのかもしれない。その言葉を、図書館のカウンターで目が合ったわたしと娘が運良く受け取ったのかもしれない。

いつか自分が誰かの同じような場面に立ち会ったとき、あのときの「えらかったね」を返したい。

ベテランさんに声をかけていたら(追記)

以前「名前のない感情に名前をつける」というnoteに、こんなことを書いた。

指の隙間からこぼれ落ちる砂のような、ささいなこと。胸を波立たせた小さな波紋。名前のない感情をつかまえておきたくて、名前をつけるつもりで書く。

書いたものを受け止めた人が、自分の心に起こった動きを書いて、感情に名前がつけられていく。ささいな、ささやかな、もしかしたらわたししかこんなこと思わないかもしれないという感情が、書くことで誰かと分かち合われ、名前といのちを与えられる。

今よりも若く、母親歴も短く、心臓の毛も面の皮も薄かったわたしにとって、あの「えらかったね」は思いがけないプレゼントだった。咄嗟のたった6文字に救われた。その言葉を思い出して、あらためて心を揺さぶられた。ということを誰かと分かち合いたくて、このnoteを書いた。

noteの公式オススメに取り上げられたこともあり、思いがけない反響をいただいた。その中に、こんなコメントがあった。

事務的に接したベテラン職員さんも、たまたまその日その時悪役にキャスティングされただけで、別の場面ではいたわりの言葉をかけられる素敵な人かもしれませんね。

「悪役」の言葉に、ハッとなった。

「新米っぽい人は優しかったのに、ベテラン職員さんは厳しかった」と非難する意図はなかったが、新米さんを際立たせようとして、ベテラン職員さんを悪役に描いてしまっていたのではないか。

やわらかな言葉で気づかせてくれたそのコメントには、このように返信した。

事務的に対応されたベテランさんは正しいことをされたと思います。相対的に冷たい人のような印象になってしまいましたが、日が違ったら、相手が違ったら、いたわりの言葉をかけられるかもしれないという想像は素敵ですね。ドラマで描くなら、その場面をビクビクしていたあの日の親子に見せたいです。

「日が違ったら」「相手が違ったら」と書いたが、もし、あの日、「話をする順番が違ったら」どうだっただろうか。

最初にベテラン職員さんに声をかけていたら、「えらかったね」は聞けなかった。

と決めつける書き方をしてしまったが、果たしてそうだろうか。

新米っぽい職員さんの「えらかったね」があったから、ベテラン職員さんは事務的に手続きを進めたのであって、最初に応対したのがベテラン職員さんだったら、手続きに入る前に別な言葉があったかもしれない。それが「えらかったね」だった可能性だってある。

わたしの想像力もまだまだだ。

読み返してみると、「処理に慣れていることと、応対に余裕があることは別物」のくだりは、ベテラン職員さんに配慮が足りなかったと咎めているように読めてしまうし、「落書きを名乗り出た親子の、逃げ出そうとする子どもを引き止める親の手が汗をかいていることなど知らないし、気づかないし、そもそも関係がないのかもしれない」は勝手な憶測だ。

書き直そうかと思ったが、「起きてしまった物語」はそのままにして、追記という形で物語の続きを書くことにした。

6文字で伝わることもあれば、5000文字を費やしてもうまく伝えられないことがある。言葉を扱うのは難しい。だからこそ、通じ合うとうれしいのかもしれない。

2021年1月19日追記。みんなのギャラリーからお借りしていた図書館の写真が表示されなくなっているのに気づき、manazashiharmonyさんの写真をお借りしました。『図書館戦争』のロケに使われた図書館だそうです。

clubhouse朗読をreplayで

2022.10.25 中原敦子さん

2023.3.10 鈴蘭さん

2023.5.10 こたろんさん


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