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あの頃の親の気持ちという伏線─パパの宝もの

真夜中のナイショ話

子どもは9時に寝なさいと言われて忠実に守っていた頃、布団に入ったけど寝つけないでいる耳に、両親の会話が聞こえてきた。

「サラ金貸して」

当時から妄想力だけは人一倍たくましかった幼いわたしの頭の中で、ニュースで聞きかじった情報がもつれ合い、持てるだけの荷物を持って夜逃げする一家が思い描かれた。

サラ金はサラリーマン金融の略だが、関西では真新しいことを「まっさら」、縮めて「さら」と言う(おをつけて「おさら」とも言う)。「さらの服」は買ったばかりの新しい服。「さらの皿」というダジャレもある。「さらのお札」は真新しいお札、つまりピン札。それを両親は「サラ金」と呼んでいたことを間もなく知った。悶々と思い煩う羽目にはならなかったが、お札に紛らわしいあだ名つけんといて欲しい。頼むで。

子どもの世界が小さい分、親の影響力は大きい。だから、真夜中の会話にも耳を澄ましてしまう。

2009年と2010年のUSJクリスマス特設サイトに寄せた連作短編小説『クリスマスの贈りもの』。『サンタさんにお願い』『男子部の秘密』『てのひらの雪だるま』に続いて紹介する4篇目『パパの宝もの』は、パパとママのナイショ話を聞いてしまった双子の女の子の物語。

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今井雅子作 クリスマスの贈りもの「パパの宝もの」

仕事、辞めることになってん。

和之が妻の佳奈子にそう打ち明けたのは、最後の出社日の朝だった。二人の娘が起き出す前、朝食の支度をする佳奈子の背中に、思いきって告げた。

会社から言い渡されたのは、そのひと月前だった。

四十五歳以上を対象にした早期退職者優遇制度に、和之はぎりぎりで引っかかった。会社に残る道もあったが、その場合、給料は今の三割カットになると脅された。事実上のクビ切りだ。

会社の経営状況が厳しいことは十分実感していたが、会社は自分を買っていると過信していた。和之の見通しほど現実は甘くはなかったということだ。

いつまで会社が持つかわからないと危機感を募らせていた者は、ここぞとばかりに手を挙げたが、その一方で、不況の折、下手に動かないほうがいいと判断して残留条件を呑む者も少なくなかった。

だが、和之は、自分ならよその会社でも通用するはずだという自負と、それを試してみたい意欲があった。

移るなら若いほうがいい。退職金を上積みしてくれる今のうちに飛び出そうと決めた。身を捧げてきた自分を切ろうとする会社への反発もあり、なかば喧嘩腰で退職を届け出たのだった。

ところが、残務整理の合間を縫っての就職活動は思いのほか苦戦し、面接を受ければ受けるほど、連敗記録が塗り替えられた。苦しいのは和之の会社だけではなかった。

もしかしたら、使いものにならない自分の面倒を見てくれるのは、今の会社だけだったのではないか。給料をカットされてでも居残るべきだったのではないか。

不採用の通知を受け取るたび、自信をなくし、弱気に押しつぶされそうになった。

転職あっせん会社の担当者は、もっとハードルを下げてはどうかと提案してきた。だが、給料の三割カットよりも退職を選んだ手前、収入だけは妥協したくないという意地があった。

結局、次の就職先が見つからないまま最後の出社日を迎えることになった。明日からは、無職の中年就職浪人だ。佳奈子にこれ以上隠すわけにはいかなかった。

話を聞き終えた佳奈子の最初の一言を待つ時間が、長く感じられた。

どうして言ってくれなかったのと怒られるだろうか。その前に、どうして相談せずに一人で決めたのとなじられるだろうか。だが、

「そうやったんや。良かった」

佳奈子は心底ほっとした顔で言った。

「良かった?」

前向きな言葉が聞けるとは思わなかったので、和之は思わず聞き返す。

「ここんとこ思い詰めてるみたいやったから、どっか悪いとこでも見つかったんかなって思って」

佳奈子の見当違いな心配に救われる形で、和之は気持ちが軽くなり、重かった口も多少軽くなった。

「ごめんな。黙っとって」

「ちょうど良かったやん。土日も働き通しやったし、ちょっとは休まんと、ほんまに体壊すとこやったで」

佳奈子はまたしても「良かった」と言った。

子どもをなかなか授かれずに苦しんでいた時期、佳奈子は一度も泣き言を漏らさなかった。

不妊治療の痛み以上に周囲からの悪気がないゆえに刺のある「子どもまだ?」の言葉に心を痛めていたはずだが、「うちはわかりにくいとこにあるから、きっと迷子になってるんやわ」と笑顔で切り返していた。

もう治療はやめようと二人で話し合った矢先に授かったのは、双子だった。

一人授かれば御の字だと思っていたから、夫婦で結果を聞きに行ったとき、二人と告げられて、和之は喜びよりも戸惑いが勝った。出産時には夫婦ともに四十になっている。娘たちが成人する頃には六十だ。

年齢的にも経済的にも不安は大きかった。だが、佳奈子は、

「一気に元取ったわ!」

と産婦人科医の前でガッツポーズを見せ、

「なんとかなるて。出たとこ勝負や」

と和之に笑いかけた。

出たとこ勝負。

佳奈子には人生のハプニングを前向きに受け止め、楽しむ余裕がある。それを和之は才能だと思っている。

佳奈子の何気ない言葉には、仕事や人づきあいの重荷を軽くさせる気づきがある。

「しばらくフリーランスになるんやったら、今しかでけへんことやったら?」

夫の失業を聞いたばかりの妻の言葉とは思えない。佳奈子はいたずらを計画する子どものように目を輝かせ、声を弾ませる。

「無職とフリーランスって意味違うやろ」と突っ込みつつ、笑っている自分に気づいて、俺も失業話を打ち明けた夫の顔ちゃうやんと和之はおかしくなった。

佳奈子といると、自分の抱えている悩みがちっぽけなものに思えてくる。

「今しかでけへんことって何なん?」と聞くと、

「家族そろってUSJに行くとか」

その答えの平和さと平凡さが、また和之を脱力させる。

せめて旅行とか言うやろ、と突っ込みかけて、そんな贅沢もしてられへんかと思いとどまった。

電車を乗り継いで一時間ほどの距離にあるUSJへは、佳奈子のおなかのふくらみが目立ち始めた頃に一度行ったきりだ。

「実は、こんなんが当たってん」

状差しから佳奈子が取り出した封書の差出人はユニバーサル・スタジオ・ジャパンとなっており、「ご当選おめでとうございます」と記されていた。

「合成写真撮れるフォトスタジオあるやん。ジョーズとかジュラシックパークとかの。あそこで無料で撮ってもらえるんやって。和ちゃんはツイてへんかったけど、こっちはツイてたわ」

夫の失業と懸賞の当選を同じレベルで語る妻がどこにおるねん、と和之は心の中で突っ込みを入れる。

「それでみんなで行けたらええなって思っとってんけど、和ちゃんはなかなか休めそうにないし、四人そろって写真撮るんは無理かなあって諦めかけててん。だから、良かった」

佳奈子は今朝三度目の「良かった」を口にした。

「俺の仕事の重みは写真一枚分なんか」

和之はすねてみせたが、顔は笑っていた。

ベッドルームで美佳と美奈が起き出す気配がする。和之と佳奈子は同時に気づいて、

「この話、美佳と美奈には……。余計な心配かけたないから」和之がそう言い、

「わかった。内緒な」と佳奈子が応じたところに、

「ナイショって、なんのおはなし?」

おそろいのパジャマを着て、おそろいの寝癖を頭にくっつけた美佳と美奈が、ベッドルームから出てきた。

「今度な、みんなでUSJに行こうってパパと話しててん」

佳奈子は娘たちにもまだ話していなかったらしい。美佳と美奈は鏡に映し合うように顔を見合わせ、

「ミカちゃん、ユーエスジェーやって」

「ミナちゃん、ユーエスジェーやって」

よく似た声を同時に響かせた。

「ユキちゃんがこないだ行ってきたんやんな」

佳奈子が幼稚園のお友だちの名前を出すと、「うん!」と二人そろって元気よく返事をして、

「ミカちゃんもいきたい!」

「ミナちゃんもいきたい!」

「そうか。それやったら、ちょうど良かったな」

佳奈子の口癖がうつったかのように、和之の口からも「良かった」が飛び出した。

そして、次の次の土曜日、一家でクリスマスのUSJへやって来た。

その間、これまで通り和之はスーツにネクタイで朝家を出て行き、就職活動を続け、夕方になると家に帰った。

これまでも外回りの営業仕事だったから、会社に腰を落ち着けている時間はあまりなかったが、帰るべきデスクを持たない不自由さと心もとなさを思い知らされる毎日だった。

それでも佳奈子に話を聞いてもらえるようになり、隠していた頃よりはずいぶん気が楽になった。

「失業保険も出てるし、もう少し税金の元取っても罰当たらへんよね」

そんな風に言われると、焦ってもしょうがないかといくらかは開き直ることができた。

美佳と美奈には不自然さを悟られないよう気をつけていたが、「パパ、このごろ、はやいやん」「おそとでばんごはんたべてけえへんね」などと鋭い指摘をされ、ドキッとさせられた。

「今まで忙し過ぎたから、早めに家に帰りなさいって社長さんに言われたんや」と和之が言い訳し、「良かったやん。パパがたくさん遊んでくれて」と佳奈子が助け舟を出す、そんな場面が繰り返された。

娘たちと過ごす時間がふえたのは、確かにいいことだった。一家で食事を取り、美佳と美奈を風呂に入れ、二人を寝かしつける。「パパ、なんかおはなしして」とせがまれ、和之は即興で二人が主役の話をこしらえ、聞かせた。

東の国のミカミカ姫と西の国のミナミナ姫は顔がそっくり。別々のお城で育った二人が舞踏会で出会って仲良くなる。実は二人は双子だった……という西洋のおとぎ話にありがちな物語に美佳と美奈は夢中で聞き入った。

自分を面接する企業の採用担当者がこれくらい熱心に耳を傾けてくれたらと和之は苦笑し、いつしか眠りに落ちた二人の寝顔を見ながら、「この子らのために明日も頑張らんとな」と誓い直すのだった。

ミカミカ姫とミナミナ姫の話は夜毎にふくらみ、馬に乗って遠くの谷へ宝さがしに行ったり、二人で剣をふるって盗賊や怪獣をやっつけたり、アドベンチャー映画のような展開になっていった。

子どもは冒険が大好きだ。USJなんか行ったら、むっちゃ興奮するやろなと娘たちがはしゃぐ姿を思い浮かべ、和之も楽しみになってきた。

ところが、前日になって、美佳と美奈の様子がおかしくなった。

二人でお友だちのユキちゃんちへ遊びに行き、帰ってくるなり、元気がなかった。

いつもと同じように振る舞おうとはしているものの、いつもよりちょっと食欲をなくしても、口数が減っても、二人同時だとごまかしがきかなくなる。

「どしたん? ユキちゃんちで、なにかあったん?」と佳奈子が心配すると、

「ううん、なんでもない」と二人同時に明るく言い、無理して食べ、無理してしゃべる。それもまた二人分合わさると、ぎこちなさが目立ってしまうのだった。

夜は双子の姫の冒険話を聞く前に眠ってしまったが、それが寝たふりのようにも思われた。

夜分遅くにすみませんと佳奈子がお礼がてらユキちゃんの家に電話をかけると、とくに喧嘩やもめごとはなかったようで、双子のお姫様の話をユキちゃんに聞かせていたという。「お話、上手ですねえ」とユキちゃんの母親に感心され、美佳と美奈が急にふさぎこんだ理由はわからなかった。

だが、一夜明けると、娘たちは何事もなかったかのように明るい顔になり、和之と佳奈子も昨夜のあれは何やったんやろと拍子抜けしつつも、安心して出かけることになった。

美佳と美奈は幼稚園のハロウィーン・パーティ用に佳奈子が手づくりしたお姫様のドレスを着て、ミカミカ姫とミナミナ姫になりきっていた。

おそろいのドレス姿の双子は人目を引き、「うわあ、かわいい」と声をかけられたり、カメラを向けられたりして、終始ご機嫌だった。

そんな二人を見てうなずき交わしながら、和之と佳奈子も自然と笑顔になった。

「美佳と美奈が一緒に生まれてくれて、良かったわあ」と佳奈子は口癖のように言うが、和之はこの日、何度もそれを感じた。

互いがいちばん身近で大好きな親友である二人は、一日中「ミカちゃん」「ミナちゃん」と呼び合い、追いかけ合い、じゃれ合い、飽きることがない。

もしかしたら、昨夜も二人のうちどちらかが落ち込むようなことがあり、もう一人はそれに同調していたのかもしれない。

一人なら抱え込んでしまうところを二人やからあっさり立ち直れたんかもなあと和之と佳奈子は話した。

だが、フォトスタジオを出たところで事件は起きた。

記念撮影の間も美佳と美奈は上機嫌ではしゃいでいた。お姫様の格好にちなんで、合成写真の背景はシンデレラが登場する夜のパレードを選んだ。家族の今年最高の笑顔を切り取れたはずだった。

その写真を「もういちまいほしい!」と娘たちが言い出した。

「一枚あれば、いいやろ」と和之が言うと、

「ミカちゃんとミナちゃんでいちまいずつ!」と言い張る。

なんでもおそろい、ひとつずつ。だから記念写真もというわけか。

子どもやなあと和之は笑い、

「これは家族みんなのものなんやから、一枚でいいんや」と言い聞かせたが、娘たちは納得せず、

「ミカちゃんがもってる!」

「ダメ、ミナちゃんがもってる!」

写真の取り合いを始めた。その大声に、通り過ぎる家族連れが振り返る。

「どしたん、二人とも。うちのテレビの上に飾っとけば、美佳も美奈もいつだって見られるやん」

佳奈子がなだめると、

「せやかて、ミカちゃんとミナちゃん、はなればなれになるんやもん」

美佳がそう言って泣き出し、つられて美奈も泣き出したので、和之も佳奈子も驚いた。

「離れ離れになるって、なんで? 誰がそんなこと言うたん?」

和之が問いただすと、

「パパとママにすてられるんやもん」

「ミカミカひめとミナミナひめみたいに」

しゃくり上げながら、美佳と美奈が言った。

近くのカフェに避難して、あたたかいココアを飲ませ、娘たちの涙を落ち着かせた。

美佳と美奈は押し黙り、両親と目を合わせないよう手元のカップに視線を落としていた。二人にかける言葉を探しながら、迂闊やったなと和之は悔やんでいた。

隠しているつもりだったが、娘たちは和之が失業したことに気づいてしまったのだ。

五歳の子どもでも、仕事がなくなればお金が入ってこないことぐらいわかるだろう。

なのに、和之が語り聞かせたミカミカ姫とミナミナ姫の話は、貧しさから親に捨てられた双子が別々の城で育てられるという設定だった。

おとぎ話の典型的パターンをあてはめただけだったが、それを聞いた娘たちの中で物語と現実が結びついたとき、自分たちもミカミカ姫とミナミナ姫のように引き裂かれるのだという悲劇の筋書きができてしまったのだろう。

もしかしたら、お友だちのユキちゃんの家で話を聞かせたときのユキちゃんの反応に、ヒントがあったのかもしれない。

「ごめんな、心配かけて。けど、どんなに貧乏になったかて、美佳と美奈を手放すわけないやろ。二人はパパの宝ものなんやから」

潤んだ目をこちらに向けた美佳と美奈に、

「仕事はなくなってしもたけど、心配いらへん。新しい仕事を絶対見つける」

和之が力強く約束すると、

「パパ、おしごと、なくなってしもたん?」

「パパ、おしごと、さがしてるん?」

美佳と美奈がびっくりした顔で、かわるがわる聞いてきた。

「あれ、パパが仕事なくなったから離れ離れになると思ったんちゃうんか?」

「ううん。パパとママ、ナイショばなししてたから」

そう言ったのは美奈で、

「ミカちゃんとミナちゃんがちかづいたら、シーってなるから」と美佳が続けた。

そうやったんかと和之と佳奈子は顔を見合わせた。

娘たちが外したタイミングを見て、佳奈子に就職活動の進捗状況を報告したり愚痴をこぼしたりしていたが、美佳や美奈が姿を見せ、「なんのはなし?」と聞かれたことが二度三度あった。

適当に言い訳して取り繕ったが、「パパとママ、なにかかくしごとしてる」と美佳と美奈は不安を募らせ、自分たちを引き裂く相談をしているのではないかと思い詰めたようだった。

家族四人で一緒に過ごせるのは、今日が最後やと思っとったんか。

最後やからこそパパとママにとびきりの笑顔見せてくれてたんか。

こんなかわいらしいお姫様のカッコして。

「アホやなあ」と笑いながら二人を抱き寄せ、

「パパもアホやった」とつけ足す和之の声に涙が混じった。

泣いたらあかんとこらえるが、

「ほんまにもう、この子らは」と佳奈子が涙ぐむのを目の端でとらえて、涙ダムが決壊寸前になる。

美佳と美奈の前では何があっても強い父親でいようと決めていたのに、その娘たちに泣かされるとは誤算だった。だが、

「パパ、サンタさんにおねがいしたら? おしごとくださいって」

美佳の無邪気な提案に、思わず涙が引っ込んだ。

おいおい、親の就職の面倒見るのは、サンタクロースの守備範囲外やろ。クリスマスと七夕がごっちゃになってへんか。

「サンタさんなあ。お仕事くれはるかなあ」

和之が首を傾げると、

「大人がお願いしたら、厚かましいかもなあ」

佳奈子が泣き笑いの顔になって言う。

「せやったら、ミカちゃんがおねがいしたる!」

「ううん、ミナちゃんがおねがいしたる!」

ミカちゃんが、ミナちゃんが、と二人はしばらく言い合っていたが、最後は「ふたりでおねがいしたる」に落ち着いた。

ついこないだまでおむつでハイハイしていた娘たちが、親の仕事の心配をしている。子どもなんて、あっという間に大きくなる。

美佳と美奈が子どもでいられる時間は、思いのほか短いのかもしれない。

「金持ちにはなれんでも、俺は宝持ちや。あんなかわいい姫二人に恵まれて」

手を取り合い、ドレスの裾をひるがえしてサンタクロースを探しに出かけた美佳と美奈を目で追いながら、和之が言うと、

「なあ、一人忘れてへん?」

隣に立つもう一人の宝ものが、涙雨の上がった晴れやかな笑顔を向けた。

人生の伏線を回収する

書いたときから10年分大人になり、あらためて思うのは、「あの頃の親の気持ちは、大人になってわかる」ということ。親がどんな眼差しで幼い自分を眺めていたか、無邪気にお子様ランチを頬張っていた頃は知らなかった。子どもの何気ない一言や落書きが宝ものになることも知らなかった。

真夜中に夫婦で子どもの話をしながら、今この会話を子どもが聞いているかもと思うとき、子ども時代と現在を合わせ鏡で映し合うような、当時の母と現在の自分が入れ替わったような感覚に見舞われる。かつての親が味わったこと、感じたことを今追いかけながら、あれはこういうことだったのかと腑に落ちたりする。

自分の子でも、よその子でも、陽射しの下で走り回る子どもの姿が、不意に涙でにじむ瞬間がある。生命力がほとばしる様がただただ眩しく、そこに未来や希望を感じる。その度合いは、歳を重ねて遠ざかるほど大きくなり、なだらかな下り坂に差しかかると涙腺の蛇口は一気に緩くなる。

ある場面まで生きて、初めて見える光景というものがある。経験や出会いを積むなかで過去の出来事に光が当たって、当時と違う感情を抱いたり、意味を見出したりすることもある。物語の伏線を回収するみたいに。

saitaに連載中の『漂うわたし』を書いていると、登場人物の年代や回想に合わせて、過去のあれこれが記憶の水底から浮かび上がり、水面に顔を出す。映画や小説で伏線が回収されるとスッキリしたり物語の深みが増したりするのは、「ここまで観てきて(読んできて)良かった」のご褒美。人生の伏線回収は、「ここまで生きてきて良かった」と過去をひっくるめて今の自分を肯定するよすがになる。それが人生を「漂うわたし」たちの足場になるかもしれない。

Clubhouse朗読をreplayで

2021.12.23 やまねたけしさん&こまりさん

2023.12.21 櫻隼人さん

2023.12.21 鈴蘭さん


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。