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日本一おしゃべりな幼なじみのヨシカのこと

8月31日。夏休み最後の日にヨシカは生まれた。

「日本中の小学生がいっちゃん忙しい日やけど、あたしにとってはめでたい日や!」とドヤ顔で言っていた。

そう言うヨシカは、わたしが知る「日本でいっちゃんおしゃべりな子」だった。


塀越しにインネンつけてきた出会い

幼稚園の年長組に上がる少し前。人生で初めての引っ越しをした。隣家と隔てるブロック塀の向こうから「あんた誰や?」と声をかけてきたのがヨシカだった。

ブロック塀は分譲時からあったはずだが、ヨシカは「あたしの塀や」という顔をしていた。「あたしらのほうが先に住んどった」という理由でいばっていた。子どもの胸より少し高い塀に両手をかけると、ひょいと上がって、くっきりした瞳でわたしを見下ろした。

なんやこの子は? 年は近いやろけど、わたしと全然違うと思った。ぜんそくが良くなるようにと空気のきれいなニュータウンに引っ越して来たわたしは、絵本好きの妄想少女だった。

靴幅より少し広いぐらいの塀の上をヒョイヒョイ歩きながら、ヨシカは自分のことをしゃべったり、わたしのことを聞いたり、威嚇したりした。ヨシカはすばしっこくて、顔立ちもしゃべり方も言うこともハッキリしていた。わたしはとんでもなく運動音痴だったけど、とんでもなく負けず嫌いだったので、ヨシカの言うことに、いちいち言い返した。

数日後には、わたしもヨシカと一緒に塀の上を歩いていた。やがて走り出し、日に日に速度を上げた。ブロック塀の端と端から同時にスタートして、鉢合わせたらジャンケンして負けたほうが下りるという遊びを延々とやった。このときの記憶が体に残っていたのかどうか、後にわたしは器械体操を習い、平均台の上で飛び跳ねることになる。

ヨシカに認められるきっかけが何だったのかは覚えていない。

美人だから似ていない

元々わたしはとても口数の少ない子だった。ぜんそく持ちで体も気も弱くて、人形相手にしか上手に話せない引っ込み思案な子だった。

人前で講演するような未来なんて考えられなかった。

口が立つようになったのは、ヨシカに鍛えられたからだ。

ヨシカのペースに巻き込まれまいと必死に言い返すうちに、ヨシカと張り合えるようになっていった。やがて、まわりの大人たちを「聞き取り不可能」と驚かせる「二人同時にマシンガントーク」を繰り広げることになった。

ようやく仲良くなれた頃にヨシカの一家は理科系の研究者であるお父さんの転勤でベルリンへ移り、かわりに、やはり研究者のインド人一家が越してきた。

ブロック塀の向こうには目と声と態度の大きな女の子が住む法則でもあったのか、隣のインド人一家にはポピーちゃんという勝気な娘がいた。ポピーちゃんは、あっという間に大阪弁を覚え、「ウソつきはドロボーの始まりや!」と啖呵を切るようになった。

ポピーちゃんと格闘しながらベルリンのヨシカと文通する子ども時代を過ごしたわたしは、外国への興味と憧れを募らせ、小学一年生にして「将来は海外留学」を決意することになる。

ドイツから帰ってきたヨシカとわたしは、地元の小学校に連れ立って出かけた。学年が同じで家が隣り同士で、放課後もよく一緒に遊んだ。ヨシカは足が速く、長距離でも短距離でもトップを走っていた。わたしはスポーツより勉強のほうが得意だった。

二人セットでいることが多いので、自分では「ヨシカとわたしは姉妹みたい」と思っていたのだが、小学校5年生のある日、「あんたら似てへんで。だってヨシカは美人やもん」と別な幼なじみに言われた。あまりに近くにいるのでよくわかっていなかったけれど、同級生たちはみんな「昔からきれいな子やった」と言う。

デリーに戻った隣のインド人一家は、生まれたポピーちゃんの妹に「ヤシカ」と名付けた。「うちを貸してくれたあの家の娘、写真で見たヨシカのように美しくなってほしい」と願いを込めて。

思い出のマサコ、どこ行った?(笑)

人間遠心分離器

ヨシカはズバ抜けて運動神経が良かった。どれくらいかというと、食べかけのアイスクリームがパカッとコーンから外れると、そのアイスが地面を打つ前にコーンで受け止められるくらいに。抜群の反射神経と、咄嗟に動ける筋肉と、「アイスキャッチ」と笑う余裕を待ち合わせていた。

短距離も長距離も学年の女子で一番早かった。一緒にジョギングしていると、いつも先に行ってしまって背中が見えなくなった。

足の速さだけでなく、思い込みの激しさでも、まわりを振り切った。

手塚治虫の漫画『火の鳥』に「キギス 16才」と女の子が自己紹介する場面がある。ヨシカは「キギス=年齢」と思いこみ、出会う人ごとに「あんた、キギスいくつや?」と聞いていた。

「ヨシカ、ちゃうで。キギスは女の子の名前や」とわたしがいくら言っても、「キギスでええやん」と押し切るのがヨシカだった。

人間遠心分離器やな、この子。

ヨシカとわたしは別々の高校に進んだ。わたしの家が引っ越し、隣同士でもなくなった。メールもまだなかった時代、駅でバッタリ会うとき以外は、お互いほっときあっていた。

わたしは文系の道を、ヨシカは理系の道を突き進んだ。わたしは東京でコピーライターになり、ヨシカは思い出の土地ベルリンにある研究所で、日本人でただひとり奮闘していた。「下痢になってんけど、ドイツ語でも英語でも何て説明していいかわからんからジェスチャーで伝えたら通じたわ」といったメールを寄越してくるヨシカは、世界のどこに行ってもヨシカだった。

2004年春、ヨシカの訃報が届いた。

振り切られるのには慣れていたけど、これにはびっくりした。

主役のいないヨシカの会

東京からベルリンの距離はすでに何千キロも離れているので、それが天国までのびてしまっても「遠くへ行ってしまった」実感がわかなかった。

その年の6月20日、ヨシカを偲ぶ会が故郷の堺で行われ、わたしは司会をつとめた。

「いつもと同じように、ヨシカと呼ばせてもらいます」

「ヨシカさん」と呼ぶと、余計に遠くなるから。知らん人みたいになってしまうから。

しんみりした会にはしたくなった。そんなん、ヨシカらしくないから。でも、そんな心配は無用だった。追悼の言葉はどれもヨシカらしさがあふれていた。

「指導方法のことで注意された」と苦笑する中学の陸上部の顧問の先生。

「プライドを持たなアカン、プライドが人を強くするんや」とヨシカに言われたことが忘れられない高校の同級生。

大学時代のアルペン部顧問の先生は、「山で気分が悪くなったときにビールを飲ませたら回復した」と豪快なエピソードを披露した。

文部科学省からドイツの日本大使館に出向されている方から寄せられた追悼文は、時の大臣がヨシカのいた研究所を訪ねたときのエピソードを紹介。「はじめまして、大臣と名のつく人に会うのは光栄です」といきなり名乗り出て、大臣とSPを驚かせたというその光景が目に浮かぶようで、会場を埋めた列席者から微笑がこぼれた。

結婚式のお祝いのスピーチを聞いているみたいだった。

偲ぶ会に出れば、ヨシカがいなくなった実感が湧くかと思ったけれど、逆だった。わたしの知らないヨシカが生き生きと蘇って、むしろ会いたい気持ちが募ってしまった。

ヨシカ、何してんの?

人の会でもいっちゃん目立つ、いっちゃんしゃべるあんたが、なんでおらんの? あんたが主役の会やのに。

泣く機会を逃したまま偲ぶ会は終わった。

ハンカチで目頭を押さえている人が何人かいた。わたしの涙は引っ込んだままだった。鋭い刀でスパッと斬られると、血が出ないみたいなもんやろか。泣き虫のくせにライバルのヨシカの前では涙を見せたない、いう意地やろか。

太陽電池を積んだ月

偲ぶ会の日の日記にヨシカのことを書いた。

家が隣同士だった頃、わたしとヨシカは窓辺から口笛でお互いを呼び出した。ヨシカは「きよしこの夜」、わたしは、いずみたくの「希望」。「希望」を吹いてもヨシカはもう現れない。2002年の12月22日の日記に「おさななじみで日本一おしゃべりなヨシカはべルリンで研究生活を送っているので、日本はここ数年少し静かだ」と書いたが、それが永遠のことになってしまった。だけど、ヨシカのことを考えれば考えるほど、ヨシカは「遠くへ行ってしまった」のではなく、「近くにいる」と感じてしまう。今のわたしが出来上がるまでに、とんでもない影響を与えた彼女は、わたしの一部になってしまっている。わたしの書くものにも、きっとヨシカは入っている。そう思うと、やっぱり涙ではなく笑みがこぼれるし、「さよなら」のかわりに「ありがとう」と言いたくなる。

その年のヨシカの誕生日の翌日、9月1日に「年を取らない誕生日」と題して日記を書いた。訃報を聞いて3か月、お別れ会から2か月が過ぎていた。

これからは誕生日が来ても、彼女はもう年を取らないのだ、とあらためて思う。人が亡くなることを「遠くへ行く」と言ったりするが、年齢という物差しで見ると、「少しずつ遠ざかっていく」とも言える。8月31日がめぐってくるたび、わたしはヨシカの年齢から離れていく自分を意識し、広がることを止められない空白にため息をつくのだろう。

子どもの頃、「生まれ変わったら何になる?」と聞かれて、わたしが「女は損やから男になりたいけど、スカートは、はきたい」と答えると、ヨシカは「損せえへん女になったらええ」と言い放った。生まれ変わりがあるとしたら、ヨシカは、オリジナルヨシカに負けず劣らず自己主張の強いしっかり者の女の子になって、もう一度地球を騒がせにやってくると思う。

「(生まれ変わるなら)損せえへん女になったらええ」と子どもの頃に言い切っていたヨシカ。やっぱり先頭走ってたなあと思う。

翌年、2005年8月31日の日記にもヨシカが登場する。

思い込みが激しく、思いのままに突っ走るヨシカには何かと驚かされたが、去年の春の突然の訃報には何より驚いた。いくらなんでもそれは反則ちゃう?というほどの衝撃に言葉を失った。あれから2度目のヨシカの誕生日。いまだに実感が湧かないし、泣きそびれているけれど、ヨシカのことは毎日のように思い出す。

偲ぶ会がきっかけになって持ち上がった小中学校の学年同窓会の日が、その2か月後に迫っていた。「ヨシカの置き土産」と同級生は呼んでいた。「名簿見てたらね、ヨシカちゃん、クラスの同窓会委員になってたわ」と大阪にいる同級生から連絡が入った。

同級生が集うサイトでは、「ヨシカ、誕生日おめでとう」の書き込みが相次いだ。

ヨシカだけ若いままは許さへんで。あんたも一緒に年取るんやで。あんた美人やってんから、あんただけ時間止まったら、ますます差が開いてしまうやんか。

家が隣同士の、まったく対照的な幼なじみ。去年再会した同級生の男の子は、ヨシカとわたしを「太陽と月みたいやった」とたとえた。でも、太陽とはぐれた月は、自分の力で輝くしかない。ヨシカと過ごした眩しすぎる日々を燃料にして。今のわたしは、太陽電池を積んだ月なのかなと思う。

ヨシカとわたしは「太陽と月」だったと喩えた同級生に座布団一枚。ヨシカのいなくなったわたしを「太陽電池を積んだ月」に喩えた当時のわたしにも。

2007年1月5日、ヨシカのお墓参りをした。墓石にはひまわりがあしらわれていた。豪快にお酒を飲んだ彼女が天国でも喉を潤せるように、お酒が供えられていた。花を活ける器もビアマグだった。一緒にお酒を飲む機会はほとんどなくて、わたしにはヨシカ=酒豪のイメージはなかった。

知らんかったわ、あんた、そんなお酒強かってんなあ。

お墓を前にしても、泣けなかった。涙のかわりに、ひまわりの石に桶いっぱいの水をかけた。

『マイマイ新子と千年の魔法』に重ねて

2009年12月9日、映画『マイマイ新子と千年の魔法』を観た。わたしの子ども時代のあだ名が「マイマイ」だったという親近感から、高樹のぶ子さんの原作『マイマイ新子』を読んでいた。物語の主人公の「マイマイ」はあだ名ではなく彼女の特長的なつむじのこと。何かをひらめいたり一生懸命考えたりするときにアンテナのようにつむじのところの前髪がピンと立つ。

主人公の新子と都会からの転校生がわたしと幼なじみのヨシカの関係に重なって、自分たちの小学生の頃を見ているような気持ちになった。活発で正義感の強い新子はヨシカそのもの。大人になってからの同窓会で「ヨシカちゃんとマイマイは太陽と月みたいやった」と言われたけれど、わたしはヨシカの眩しさと明るさに引っ張ってもらっていた。でも、映画では新子はスポーツよりもお話を想像することが得意(モデルが作者の高樹さんの子ども時代なので納得)で、そんなところはわたしに似ている。

ヨシカはドイツへ飛び、そこから四年前に天国へ飛んだ。その事実はいまだにわたしの中では消化できずにいて、日本にいないことは確かだけど、あの元気がありあまってた子がお墓でおとなしくしているとは思えず、留学先のドイツにまだいるような気もする。だから、ヨシカがいなくなったことに対して、いまだに涙を流せないでいるのだが、マイマイ新子のラストを見ながらじんわりとあふれた涙を押し出したものは、もう会えないヨシカと、彼女と過ごした日々へのどうしようもない懐かしさだった。大人から見ればちっぽけな世界で、自分と、自分の大事なもののために精一杯生きていたあの頃が無性に恋しく思える、いとおしい映画。

感想を綴った日記を片渕須直監督が目に留め、Twitterでコメントをくださった。

なんというか、自分がつい落としてしまった小石の波紋におののいている次第です。

ヨシカさんの肖像、深い陰影と色彩に目が眩みそうです。

ヨシカだったら、監督をつかまえて「新子のモデルはあたしかと思いました! どこであたしのこと知ったんですか!」といきなり話しかけ、面食らわせただろう。

『マイマイ新子と千年の魔法』を観て思い出したのは、ほんまヨシカとよう遊んだなあということだった。

ゴム跳び。ローラースケート。卓球(ヨシカの家の庭に卓球台があった)。ヨシカがベルリンで覚えてきた「ヘンゼルとグレーテル」(「ヘンゼル」「グレーテル」「おばあさん」といった指示に合わせて食べ方を変える)、道にチョークで描いた十字の中に鬼がいて、鬼にタッチされないように反時計回りにぐるぐる回る「ドル」という遊び……。

新しい遊びも作った。

砂場でのままごとで、濡らした葉っぱに砂をつけた「葉っぱの天ぷら」をひたすら作った。今でも大葉の天ぷらをやると、ふっと砂場がよぎる。

落ちているタイヤを拾ってきてチューブを剥がし、軸も外し、鉄の輪っかだけにして、輪っかの溝の部分に棒を這わせて転がす「トム・ソーヤ」ごっこ。アニメの確かオープニングの歌に出てきて、「あれやりたい」「ほな作ろ」となった。

道端に落ちているスズメ(電線で感電するスズメが多かったのか?)を拾ってきて、緑のカゴにティッシュのベッドを敷いた「部屋」に寝かせた。生き返るのを待ち、生き返らないとお墓を作って埋めた。親たちは「『禁じられた遊び』ごっこ」と呼んでいた。

一番ぶっ飛んでいたのが、雨の日に生まれた「ニャゴチュウ」という遊び。傘を差した数人で電柱を取り囲み、「ニャーゴーニャゴチュウ。ニャーゴーニャゴチュウ。ニャーゴーニャゴチュウ。ニャゴ、ンニャゴニャゴニャゴ、ニャゴチュウ」と歌う。わたしとヨシカがなんとなく歌い始めて、楽しくなって、クセになって、雨の日の定番行事になった。遊びというより怪しい儀式。変な薬でも飲んだんちゃうかと思われてもおかしくない光景。

傘を差して歩くランドセル集団を見ると、ニャゴチュウの独特の節回し(今でも歌える)と、歌っているうちにどんどん楽しくなった(ドーパミンが出ていたのだろうか)雨の日を思い出す。

2004年の偲ぶ会の会場を出るところで、幼なじみでわたしの妹の同級生のユリコが話しかけてきた。

「ニャゴチュウ、やったなぁ」
「やったなぁ」

ユリコの目にも涙はなかった。

「きっと、このまま行くんやろな」
「行くんやろな」

あれから16年経った2020年。ユリコの言葉の通り、あのまま来ている。新型コロナウイルス関連のニュースで「マックス・プランク研究所」の名前を聞くと、ヨシカがおったとこやなと思う。そこにいたヨシカも、そこからいなくなったヨシカも、同じくらい遠い。

ユニバーサル・オーディション「ルーツ」に脚本家として関わり、自分のルーツを振り返る機会がふえた。過去を掘り起こすシャベルの先にヨシカのかけらが当たる。ヨシカのいない実感はますます曖昧になっているが、ヨシカの存在は記憶の地層の中で熟成されている。

「ルーツ」はオーディション合格者の人生から短編演劇を作って上演するという企画だが、もしわたしが自分の物語を作るとしたら、太陽と月の幼なじみの二人の話にしようかと夢想している。そんな8月。

例年より短い夏休みで、8月31日には新学期が始まっている学校が多い。

ヨシカ、あんたの誕生日、今年はちょっと存在感ないで。

ヨシカが黙ってしまった地球で、わたしはしゃべる。まだまだしゃべる。ヨシカの名残の太陽電池を充電しながら。

それがわたしの宿題。

それからのヨシカ

saita連載小説「漂うわたし」にヨシカをモデルにしたイチカを登場させた。


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。