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[書評]「いつか幸せに」よりも「今を幸せに」から始める田中克成『自分をよろこばせる習慣』が幸福の本質を突く。

私たちは幸せを乞い、願う。「いつか幸せになれれば」と期待を未来に投影する。幸せはいつも「将来に」「この先に」設定されがちだ。しかし、立ち止まって考えてみてほしい。なぜ幸せはいつも「いま・ここ」ではなく「遠く」にあると前提されているのだろうか。幸せは、いつか「なる」「得る」ものに決まっているのだろうか。幸せは、いまが幸せ「である」という「状態確認」によって再来するものであってもいいのではないか。

ドイツの大文豪ゲーテは言う。

真っ直ぐ正道を行くべきだ。いつかは終局に達するというような歩き方では駄目だ。その一歩一歩が終局であり、一歩が一歩としての価値を持たなくてはならない。

エッケルマン著『ゲェテとの対話』上巻、亀尾英四郎訳

ゲーテのこの言葉を「幸せ」に引きつけて意味をくみ取ってみよう。ゲーテは言う。「いつか終局=幸せに達するという歩み方ではダメだ。その一歩一歩が幸せであり、幸せの価値を持たなくてはならない」と。つまり、幸せを目指して歩いているようでいて、その一歩一歩が実は幸せなのだと、それに気づくことこそが幸福の本質だとゲーテは言うのだ。むしろ、そういう歩み方でなければ「いつかの幸せ」も訪れないかもしれない。

田中克成さんの『自分をよろこばせる習慣』は、そのような一歩一歩を「幸せ色」に染めあげてくれる一書である。もちろんこの本は「要するに、幸せって『気の持ちよう』だから、心のありかた次第で今を幸せに生きることもできるんだよ」といった「お手軽ハウツー」だけを教える本ではない。メンタルや心理、心構えに関する話題も掲出されてはいるが、他にも、呼吸法から自然との関わり方、日常を豊かにするための「非日常の持ち込み方」までをも丁寧に示してくれる。

つまり、「気分」としての幸せだけでなく、身体的・精神的な充足感に基づく幸せや、快楽や満足感といった範疇にまで風呂敷を広げて、それらから得られる幸福をも射程に含み、そこに至る道筋を教えてくれるのだ。

哲学者アランがこう記したのを思い出す。

悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。

『幸福論』中村雄二郎ほか訳

気分だけで人は楽観主義にはなれない。そこには意志が要る。意志というと重たいかもしれないが、少なくともそこには幸せになろうとする習慣づけが要る。田中さんは、そんな習慣の中身を「悦(えつ)る」と表現した。悦とは何か。まず最初に彼は言う。

ひと言でいうと(「悦」とは)「自己満足」で湧いてくるよろこびの感情です。

田中克成著『自分をよろこばせる習慣』、(  )は引用者

自己満足という単語を見て、「え?」と思った方もいると思う。「自己満」というとネガティブなイメージでとらえられがちだからだ。だが、田中さんが伝えたい趣旨は通途の(一般の)理解とは少し異なる。

たとえば「ケアの倫理」等のテーマでよく言及される「自分を大切にできない人は他人を大切にすることもできない」という文脈に引きつけて解釈をするなら、これは、「自分を満足させられない人は他人を満足させることもできない」というテーゼを示しているといえる。いわば、自己犠牲的に他者に尽くすよりも(それも否定はしないが)自分も他者も幸せになれる道を選ぼう、という話だ。その一歩として大いに自己満足せよと田中さんは言う。

その上で、「悦る」の定義として彼はおおむねこういった内容を提示している。

自分をよろこばせることがらを見つけて内側からよろこびをわかせること。

同書、趣意

彼は、よろこびには二種類があるという。一つは「喜び」=外的な要因でもたらされる感情。もう一つは「悦び」=内的な要因によって生まれる(わいてくる)感情。どちらも「よろこび」という点では同じだが、「喜び」が自分の外側に素因――たとえば、欲しいものが手に入ったとか、好きな人に振り向いてもらえたといったこと――があるのに対し、「悦び」は自身の内側に素因を見いだしていく。ここに、違いがある。外的要因によって人は一喜一憂するがゆえに、「喜び」は不安定だ。だが、内的要因に支えられた「悦び」は、内外に逆巻く出来事すべてをよろこびの種に変えることで得られる感情なので、非常に安定している。ブレがない。この「悦び」を手に入れる「悦(えつ)る」習慣があれば、あなたは幸せを「いま・ここ」から看取できるのだと田中さんは言う。

具体例を一つ示そう。

本書には「夢より夢中になれる『今』を持とう」という節がある。本稿冒頭で言及した幸福観(=いつか「なる」「得る」幸せ)に引きつけていえば、夢もまた、いつか、将来、この先に「なる」「得る」ものである。しかし、田中さんはこう語る。

夢を持つことより夢中になれることのほうが断然大事ですから、人に語る夢なんて、あってもなくてもどっちだって構いません。

同書

いま夢中になっていることがあるのなら、そこから悦を存分にくみ上げた方がいい。もしもそれが楽しいのなら、将来の夢もその延長であって問題ないのではないか――彼はそう結論する。たとえば、あなたは未来の夢のために今を犠牲にしたり、夢を描くだけで満足して終わっていないだろうか。そうしている間に、もしかしたらあなたは、実は現在進行形で夢中になっていることがらを見過ごしているかもしれない。その「ことがら」こそが「悦」にとって大事なのだと著者は教える。先を見据え過ぎて、足元の幸せを見逃していないか? 本書はそう問いかけるのだ。

ただし――ここがこの本のおもしろいところでもあるのだが、田中さんは別に「いつかの幸せ」や「いつかの夢」を無意味なものとして退けたりはしない。むしろ「『いつか、いつか』は、いつか必ずやってくる」という節で、「いつか」を追求し続け、言葉にし、そのために行動することをも勧める。なぜなら、そういった未来の理想もまた、人を歩ませる内的要因になるからだ。

このようにして展開される田中さんの新著は、「悦る」ための77の取り組みを紹介している。ぜひ手に取って、今日から「幸せに気づくこと」「幸せを丁寧に拾い上げること」を習慣に結びつけてみてほしい。人生が、変わるかもしれない。



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