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[質問箱]友だちって? 友情って? その友情はお口に合いますか?

友だちと聞いて皆さんはどんな人を思い浮かべるだろうか。一緒に遊ぶ人、同じ志を持つ人、悩みを聞いてくれる人、等々……かつて、芸人・松本人志さんが「そいつの悪いところを10言っても一緒にいてくれるなら、そいつが友だちや」と言っていたのを思い出す。

友だちは宝だ。仏教の祖・ブッダは、「善き友に恵まれることは仏道修行の半ばになるほど大切なことでしょうか」と弟子から聞かれた時、「それは違う。善き友に恵まれることは仏道修行のすべてである」と言った。古代哲学者キケロも「人生から友情を取り去ることは、世界から太陽を取り去ることに等しい」と記した。

もしこの世に誰一人、友だちと呼べる人がいないのだとしたら、その人は必ずと言っていいほど生きる意味を問い返していると思う。「生きるだけ、ただつらい」とさえ口にすると思う。

友情は裏切る。友情は信頼できない。

昨日、哲学者ベンヤミンが書いた「夜を歩み通すときに助けになるのは、橋でも翼でもなく、友の足音だった」という句を思い出した。死の影が世を覆った大戦やファシズムの時代を生きた彼は、ただただ同じく歩む友が存在して「くれている」という恵みに支えられ、言葉を紡いだ。その恵みを「友情」でなく「足音」と喩えた彼の感受性にグッときたのを覚えている。

ベンヤミンのこの言葉にピンとこない人も多いかもしれない。この句には前提がある。それは、大文字の「友情」は信頼できない、ということだ。

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当時、ベンヤミンの周囲は、独裁権力に「あいつは悪者ですよ」と告げ口することでポイントを稼ぐやからがたくさんいた。「友だちだ」と思っていた誰それが、親友と思われる人を悪人に仕立てあげ、告発したりした。裏切りだらけの社会だったのである。ベンヤミンはその様子を見て、普段「友だち」としてつき合っている仲間が、いざという時――特に自身に危機が及んだ時――に、簡単に友を裏切ることを目撃した。「友情」「友情」と必要以上に語っていたにもかかわらず(いや、だからこそ、なのか)。

この時ベンヤミンは、友情という頼りない幻想に打ちひしがれたのだと思う。私にも、そういう経験がある。

お前、俺らの友だちに値する人間だと自分のことを思ってたわけ?

だが一方で、いかなる状況になっても裏切らない友だちも、ベンヤミンの周囲にいた。わずかながらではあったけれど……。そういった友は、日常的に「あなたと私の間に、友情、あるよね? ね? 友情! 絆!」と確認することはしなかった。特別、頻繁に連絡をとる仲でもない。でも彼らは「無償の愛」とでも表現できるほどにベンヤミンを抱きしめたのだった(物理的にではないが)。

端的に、裏切った人々は、友情の中に利害やメリットを混ぜていた。だからだろう。つき合うメリットが感じられなくなった時、彼らは容易に友だちをやめた。危害が自分におよばないように、友だちを積極的に権力者に通報し、「売った」。それに対し「おかしいじゃないか!」と言えば、「お前、俺らのことを友だちだと思ってたの? 自分をよく見てみろ。お前が俺らの友だちに値するほどの人間だと思うか?」などとなじってきた。

友情は、交友してきた期間の長さや会う頻度、意思疎通のしやすさ、志の近さとは相関しない。もちろん、それだけの要素を備えていれば、十分「友だち」と言えるだろう。私も彼・彼女らを友だちだと真剣に思っている。いざという時にも友でいてくれる、そんな人「だけ」を「真の友だちだ」とカテゴライズしようとは思わない。

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正確にいうと、友と思う人に対して、ホンモノかニセモノかなんて思いをいちいち抱かない。判断しない。

スマホやSNSで繋がる「なかま」や「友」も素晴らしい。Twitterで苦しみを呟くと、すぐフリック入力された語が返ってくるのも嬉しいかもしれない。それがダメとは、私も思わない。

「死にたい」と思う時に支えとなる存在

その上で、何の気なしに、ただ居てくれるだけで喜びになる、存在の強度をもつ「友」もいる。それは僕にとって、わが娘・わが息子のような、ただ在るだけで「多」と受け止められる存在だ。「便利さ」も「メリット」も「関係が生まれるまでのいきさつ」も必要としない、そんな友。

ふと、「死にたい」「死にたい」と思うことがある。そんな時に、存在してくれるだけで助けになる「恵み」をたたえた繋がりが、ふと前景化してくることがある。その人が脳裏に浮かぶ時、僕はその存在に支えられて、死ぬことを先延ばしにする。そんな存在に対し、「ああ、ありがたい」と呟く。

ところが、そのような繋がりを「友情」「絆」と呼んだ瞬間、なぜか僕は「彼らとの関係はそんな陳腐なものじゃない。もっと大事に表わしたいものなんだ」と反射的に唱えてしまう。ジャック・デリダがはからずも「言葉は常に言い足りないか、言いすぎるかのどちらかである」と言ったように、友情という語は、僕にとって言い足りない不十分さを持ち、「雑さ」を感じさせる。そんな不十分さ、友情という語が不必要に抱かせる「他人への期待」と、「ホンモノのつながりとの差異」を(普通は看過しがちだが)丁寧に見つめたベンヤミンに、僕は敬意を持つ。

言葉が空虚になり、友情が空っぽになる時

ベンヤミンは「人を特定の行為へ動かす」言葉に警鐘を鳴らした。言葉を、人を操る手段にする。命令の極地。何かが始まって、それを初めて言葉にするような豊かさとは正反対の、「何かを始めさせる」空虚な言葉。

1940年代前後、またそれ以前の独裁者は、みな「何も考えずに、私を信じろ!」と命令し、大衆を心酔させた。大衆は、信頼が先にあって独裁者を信じるのではなく、命令によって独裁者を信じた。現実は、都合よく解釈され、あとから言葉にあてがわれた。隣りの人の熱狂や、すべてを独裁者に託せるという安心感から、ヒトラー的なものを信じることができた。しかも積極的に、である(本人はそれに気づいていない)。そんな、「先に命令ありき」の語が常套句となり、増殖し、行き渡った時、行動の次元で人々は「もう」束ねられている。ファッショの始まりだ。

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そんな人々は、常套句に反応するだけの記号の連鎖に組み込まれた存在になり、友情や絆の陳腐さに気づけない程に感覚を麻痺させていく。ベンヤミンが最大に問題視したのが、人々のこの「言葉の自動機械化」だった。

彼らは、「私が語る」のでなく「自ずから語ってしまっている」という作法を求めなければならなかった。「私は/俺は/自分は」という主語が何かを語る時、それを「借りものの言葉」ではないものにさせようとする努力をしなければ、会話は空虚になる。自分の言葉で語る姿勢が大切だ。ベンヤミンはそう教えてくれた。自然とわきあがる感情に言葉をあてるような――言葉を先にだして現実を言葉に無理やりあてはめていくのとは逆の――社会こそが豊かだと思う。けれど、ともすると社会は、ただ言語が脊髄反射し合っているだけの様相を呈する。端的に、それは不味い。

例えば、そんな社会の中で「自らの命令のままに動いてくれる」人間を「友だち」と呼ぶのはどうか? ベンヤミンは、友情と呼ばれるもの以前の「なまのもの」を「足音」と表現した。それは存在して「くれている」というだけの恵みの表現である。確認できることは、一緒に歩んでくれているだろうという推論が成り立つだけの音響である。同じ方向に向かっていることだけは、足音から推察できるような――。でも、足音を響かせる友は、何があっても、「いざ」が起きても、安心させ続けてくれる。その恵みの関係からすれば、「友情」という言葉はやはり不十分に聞こえる。

はじめに行為ありき

さて、そんなベンヤミンだからだろう。世の言論空間を彼は「男同士の論争」と揶揄し、女性が破壊されていると言った(あまりにも先駆的に!)。秩序を形作る言葉の「男さ」が彼には気になって仕方がなかった。かのゲーテ筆『ファウスト』の主人公が、聖書の「はじめに言葉ありき」に違和を抱き、「思いありき」「力ありき」「行為ありき」と訳し直したのは、言葉が先にあることの不純さを看取していたからかもしれない。

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僕は「はじめに行為ありき」を願う人だ。つまり、他の人がいう言葉をコピーするような「はじめに言葉ありき」ではなく、やむにやまれぬ感情から紡がれる言葉を大事にするようにしている。そういった言語の扱いに敏感でもある。だから、「友情」や「絆」以前の、ただ存在してくれることへの恵みを、やはり別様に表現したくなってしまう。少なくとも「絆」とは呼びたくない。なるべくなら「友情」とも言いたくない。言い足りなさが半端ではないから。そう言った瞬間、友だちの「大切さ」が軽くなってしまうように感じるから。

と、風呂の中で連想したので、ここに記録しておく。僕は、足音に勇気をもらいつつ、自らも足音を立て、「人は変われど、われは変わらじ」で行こうと思う。

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