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[思考整理]パンデミックと同じくインフォデミックにも適切な対応を

新型コロナウイルスの感染拡大が続いている。各国の入出国規制・禁止、日本での小中高全国一律休校、各種イベント・サービスの縮小・中止。それらがメディアで喧伝される中、私の近隣の薬局には、開店のずっと前からトイレットペーパーやマスクを求める人が列をつくっている。何となく一部で広がる自粛ムード。とはいえ、公園には子どものはしゃぎ声も。そばで見守る親たちはマスクをつけながらコロナ対応に疲れた体を縮め、最近は「どの情報を信じたらいいかわからない」とささやき合っていた。

白湯でウイルスが死ぬ? トイレットペーパーがなくなる?

少し前の話。私の元に1通のメールが来た。「新型コロナは26~27℃で死滅する」「白湯を飲むとイチコロだ」という要旨だった。帰宅すると、すでに近所の家々でもこのニュースが話題になっているとのこと。もちろん、今ではこの話は科学的根拠のない噂として扱われている。だが、拡散され始めた当初は相当数の人がこれを信じた。

また、小中高の一斉休校が発表された日には、トイレットペーパーやティッシュが近所のスーパーの棚から消えた(地域によって差がある)。私が休校の第一報を受けたのはその日の終業後だったので、夕方のスーパーの混雑に驚いた。帰宅後インターネットを見ると「マスク生産に紙が回されてトイレットペーパーが不足する」「中国から原材料が輸入できなくなる」等の風説がすでに広まっていた。なので、「あの混雑のネタ元はこれかな?」と思いつつ、ともあれ一斉休校のタイミングに「ペーパー類・品薄」が重なった経緯は、東日本大震災やオイルショックを私に想起させた。トイレットペーパーへの殺到。しかし――なぜいつもトイレットペーパーなのか? この問いは、今は横に置いておく。

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WHOが呼びかけたインフォデミックの危険性

WHO(世界保健機関)が今般の事態を受け「パンデミック」を宣言したことは周知のとおり。それとともに同機関は「インフォデミック」に陥らないようにとの呼びかけを行った。インフォデミックとは、デマや誤情報が急速に拡散する状況を指す。誤情報が「治療」「予防」「国際的な協力」等の妨げになると危機感を強めての声明だった。

災害などの非日常的な事態に遭遇し、強いストレスを受けた時、人はどうなるのか。古くからこの件について研究がなされてきた。多くの知見が示すのは、人が思考を単純化させ、扇動されやすいモードに入るという点だ。

念のためにことわっておくが、「大災害 → パニック」といった認識は今では基本、誤りとされている。災害時にあっても人はそれほど非合理にならない。現在ではむしろ「災害 → パニック」と連想されるようになったのはなぜか? という問題が見直されている。

しかし、普段なら「情報源の信頼性」や「エビデンス・証拠の有無」「先入観」等を考量し、情報の吟味を欠かさない人が、非常時になった途端それまでとは違う思考(というより「反応」)をしだすという例も少なくないのが事実だ。そして、人々はそれっぽい情報に飛びつくやいなや、自主的に、積極的に拡散し始める。

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「噂を聞く/伝える」の両方が不安解消に役立つ

何がそうさせるのか?

人を駆動させているのは「不安」である。情報の確かさを確認する作業を「煩わしい」と感じさせ、ものごとを信じやすくさせる作用が「不安」にある。さらに、噂やデマをキャッチした人が次の人にそれを伝えようとする動機になるのもまた「不安」とされる(そこに「善意」が加わることも)。デマや流言の話題で引き合いに出される社会心理学者・川上善郎氏(あるいはロスノウ&ファイン)は、「不安」と「状況の曖昧さ」が相乗的に働き、それがデマ拡散の力になると説いた。不安解消に役立つのは「大丈夫ですよ」「これはつまりこういうことです」といったアンサー的なそれっぽい情報と、その情報を他人にアウトプット、つまり「伝えることそれ自体」である。人は噂を聞いて安心し、噂を広めて安心するのだ。

しかし、なぜ人は非常時に思考単純化モードに入るのだろうか。

まず前提として確認したいのが、人間が持つキャパシティの問題である。どんなに頭脳明晰な人であっても、情報処理能力には限界がある。例えば、大規模災害などによる強烈な不安や恐怖に襲われた時、人は、それらの感情が“暴走”しないようにと感情のコントロールに注意を向ける。自身のリソースをそこに集中させる。一方、恐怖・不安の解消以外に割くリソースは減る。もちろん単純な足し算引き算にはならないが、しかしそれらが関連して人の思考力を減衰させ、理性的な判断を鈍らせ、認知を歪ませるのだ(しかし、そのありようはかつて考えられたほど単純でもないことが各種研究で示されている)。

非常時に働く「バイアス」――認知の歪み

「歪み」といえば、有名なのが「バイアス」と呼ばれる認知傾向だ。例えば「確証バイアス」。これは、自身があらかじめ持っている知識や予期に役立つ情報を裏づける(補強してくれる)話ばかりに注意を向け、そのかわり自論を否定し反証したり、不必要とされる情報には(無意識的に)注意を向けなくなる傾向を指す。

同バイアスは感覚的にも理解しやすい話だと思う。人は「えっ。私が信じてたこと間違ってたかな」と動揺する話より、「やっぱりそうだよね!」「私、正しかったんだ」と確認できる話に魅力を感じるし、安心する。その上で私たちは「日常」という膨大無数の情報群に対し、フィルタリングして都合の良い情報のみを抽出するようにもしている(そのように人間はできている)。

先日、私は公衆電話を久々に使った。この時、日常の生活圏で公衆電話を探すことの容易でなさを感じた。さんざん探し回った末に見つけた公衆電話は「しょっちゅう歩いている道路の脇」にあった。何百回も歩いてきた道のその場所に公衆電話が存在したことを、私はその時初めて知った。それまで、この事実を無意識的に「不必要な情報」として除外していたのだ。

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こういった認知の偏りが起こるように、人間はできている。

しかもインターネットは、ユーザーの利用履歴やページ遷移の仕方などの膨大なデータから「その人が見たがるであろうサイト」「趣味趣向に合うであろうサイト」を検出し、優先的に表示してくれる。そのためユーザーは、見たくない情報から少しずつ疎遠になる。触れる情報が偏っていく。もっと言えば、SNSなどでつながる“友人”も、あなたに親和的か、もしくは思想傾向や属性、キャラクターの近い人が多くなるという傾向がある。似た者同士のクラスタ(=群れ)が誕生しやすいのだ。インターネット活動家イーライ・パリサーは、これを「フィルターバブル」と呼んだ。

情報過多だからこそ誰かに説得されたくなる

残念ながら、フィルターバブルは先の確証バイアスを増進する。もともと都合の良い情報を集めやすい性質が人間に備わっているのに加え、その人間が、これまた都合の良い情報の集まりやすいインターネットを使うのだから、当然だろう。フィルターバブルによってあなたの中の噂の「ほんとっぽさ」が強化され、あなたにとって噂は「より広めるべき大切な情報」となる。あとはワンクリック・リツイートすれば良い。あなたの信じた情報はすぐに多くの人に渡る。人によってはその時に「善いことをした」とも思うだろう。

昔は「口コミ」が拡散の主体的な役割を持ったが、今はインターネットで、それこそ、たった一言の発信をあっという間に全世界に駆け巡らせることだってできる。

特に社会的に認知され信用のある人の発信は良くも悪くも拡散されやすい。

現代が情報過多と言われる理由は、Google検索をすればすぐにわかる。簡単に触れられる情報は膨大だ。だからこそ一時はネットによって「大衆が賢くなる」とか「熟議民主主義を行うための公共圏ができる」などと言われた。しかし実際には、多すぎる情報の前に茫然とし、扇動的な情報に踊らされやすい人たちが顕在化した。検証すべき情報があまりにも多いので、人は「どうやって情報を集めるか」よりも「どの情報を選ぶか」に労力を割くようになった。しまいには「誰かが説得してくれるだろう」「誰かが検証してくれるだろう」と受け身の構えで情報の読み解きを「お任せ」するようにさえなる。哲学者ユルゲン・ハーバーマスが言う「順応気構え」がそれだ。

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そしてその「エライ誰か」の情報を信じたあなたは、やはりそれを拡散する。東日本大震災時にも、著名人の発信が紋切り型で流言飛語にされ、拡散された例が見られた。

信頼する誰かに「導いてほしい願望」が止まらない

話を整理しよう。災害などの非常時に人は「不安」になる。不安になるがゆえに人は、噂や流言への信頼を抱きやすくなる。その信じた流言は、バイアスやフィルターバブルによって「確からしさ」を強化する。そうなると人は、不安ゆえに他人にそれを言いたくなる。特に似た者同士がつながりやすいインターネットでは「やっぱりそうだよね!」「私もそう聞いた!」といった形で情報がクラスタ単位で広がり、拡散が指数関数的に加速する。その流言に、さらに「あの有名な○○○さんが言ってたらしい」という枕詞がつけば――。

デマや流言は人類を悩ませてもきた。そして今もインフォデミックが人々を振り回している。

具体的に情報とどうつき合えば良いのか

大事なことは、本稿で確認したような性質を「あなたも」持っていると自覚することだ。その上で、できる限り以下を実践してほしい。

・情報の内容に疑いの目を向ける
・情報源があるかどうかを確認する
・情報源あるなら、それが信頼に足るもの(例えば公的な機関等)か確認する
・発信者が信頼できる人物かを確認する
・複数の情報を比較考量する
・メディアも人も流言の元になり得る。メディアは時に案外合理的でないし、個人は非常時にあっても案外合理的だ。だが、その「私は大丈夫」と思考力を過信してはならない

SNS、特にTwitterの現況は、ニュースなどのネタの元記事を読まずにタイトルだけを見てリツイートする人が圧倒的多数になっていると聞く。なので、上記を実際に行えばかなりの負荷を感じる人がいるだろう。

しかも今回、例えば「ウイルス感染拡大」と「トイレットペーパー」という、よく考えれば関連がなさそうなもの同士が結びつき、流言化した。心理学でいう「般化」の影響である。般化とは、過去に学習された恐怖や不安が「対象そのもの」だけでなく「それと共通点があるもの」「類似しているもの」「心理的に連合するもの」等に広がる現象を指す。

オイルショックも東日本大震災も今回も、トイレットペーパー・パニックが起きた点で共通する。これが般化にあたるケースかの判断は私の手に余るが、災害時の般化はかなりの程度見られる現象だ。東日本大震災時には、放射性物質の飛散が、本来安全とされる食品・商品・土地の危険視にまで結びつき、風評被害が発生。経済的な連鎖被害まで生んでしまった。

これに抗うのは、とても難しい。しかしこういう時だからこそ、慌てず、丁寧に、情報に触れたい。そしてあなたの身に流れてくる情報への接し方を模索してみてほしい。

[参考]
・川上善郎『うわさが走る』サイエンス社
・R・L・ロスノウ&G・A・ファイン『うわさの心理学』南博訳、岩波現代選書
・イーライ・パリサー『フィルターバブル』井口耕二訳、ハヤカワ文庫NF、
・J・ハーバーマス『晩期資本主義における正統化の諸問題』細谷貞雄訳、岩波文庫
・仁平義明編『防災の心理学』所収、関谷直也「風評被害の心理」東信堂
・タモツ・シブタニ『流言と社会』東京創元社
・荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』光文社新書
・佐藤卓己『流言のメディア史』岩波新書

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