見出し画像

thanatos #5

   10.

 西日が窓から赤い光を射る頃、由玖斗は食堂に置かれたテレビを食い入るように見ていた。一ヶ月ほど前の11月12日青森県砂戸羽市に起こった事件を「大崎暴動」「桂木町事件」と題して報道していた。人革連政府の非人道的な対処に、報道側は強くこれを批判した。
 由玖斗は箸を放り投げて食堂を飛び出していった。
 「おいっ、どうした?」
 不思議そうな顔で久保が尋ねたがそれは由玖斗には届かなかった。ニュースのアナウンスがBGMのように流れ続ける。

 次のニュースです
 東北侵攻を始めて一ヶ月を過ぎる人革連軍です
奥羽地方も残すところ宮城一つにまで占領を終えたのですが、海と山に囲まれた福島県笠麻市のみ抵抗を続けているようです
調査の結果、政府陸軍第2師団の第2特科連隊第2中隊が駐留している模様です
第2中隊は大森和泰少尉の下、包囲する人革連の攻撃に対し5週間を越える徹底抗戦を続けており――


 士官個室へ駆け込んだ由玖斗は机の上に放り出されたままの携帯を引っ掴んだ。待ち受け画面を見ないようにアドレス帳へ切り替え、萌鏡の番号を発信する。
 しばらくの沈黙。
呼び出し音。


 オカケニナッタ電話番号ハ、電波ノ届カナイトコロニアルカ電源ガ入ッテイマセン


 由玖斗は電話を切った。
 どういうことだ・・・?
 もしかして萌鏡に何か・・・
 由玖斗は早まる鼓動を抑えながらアドレス帳から暁珠の文字を探す。発信ボタンを押す指が既(すんで)の所で止まる。何を迷っているのか。自分でも分からない。それでも今、暁珠の声を聞く勇気が出ない。
 由玖斗はメールに切り替えた。


そっちで事件が起きたらしいな。大丈夫か。誰も怪我してないか。


 そこまで文字を打ち終えた時、放送がブリーフィングルームへの集合を命じた。由玖斗は仕方なくそれだけを確定して送信した。二つに開いたまま携帯をまた机へ残し、駆け足で自室を後にした。
 携帯の画面は待ち受けに切り替わり、しばらくして真っ暗になった。


 ブリーフィングルームで新任の相楽少佐から作戦内容が説明された。政府の要人輸送機の護衛が今回の任務であった。日本海の150キロほどの沖合から護衛任務を引き継ぎ、沖縄本島まで空中給油を介して同行するものだった。最近の激しい戦闘任務に比べれば容易いことと、久保は大あくびをした。直ちに由玖斗たち302飛行隊の4機は知夫里基地を飛び立った。
 離陸する4機を毎度無事に帰還することを願うナターシャが、冷たい風の吹きすさぶ滑走路の隅から見送った。
 そして同じく4機の星牙を見送る男が士官室にいた。相楽少佐はブラインドから消え行く四つの光を眺めて電話を取った。
 「・・・私です・・・はい・・・はい、言われたとおり先ほど302飛行隊は離陸しました・・・えぇ、彼らには申し訳ないことですが――」

 程なくして2機の護衛機を伴った大きな輸送機が姿を現した。
 「輸送機確認」
 4機は輸送機と平行に飛行し始める。
 「こちら302飛行隊。護衛任務の引継ぎを行います」
 由玖斗が発信しても、しばらく答えは返ってこなかった。
 「了解。後は頼む」
 無線はそっけなく途切れて2機は飛び去っていった。
 「こちら302飛行隊。これより我々が護衛任務に就きます」
 「了解」
 輸送機側も短くそれだけ答えた。
 由玖斗は大きく息を吸って後ろにもたれかかった。萌鏡たちのことが心配で任務に身が入っていないのが自分でも分かる。
 暁珠から返事はもう返ってきただろうか。
 何だか暁珠の声を聞ける機会を逃したようで、今更ながら惜しい。
 でもこれでよかったんだろう。
 まだ暁珠のことを考えてはいけないはずだから・・・。


 数時間後どんよりとした分厚い雲の中、山口県沖で後方から六つの機影が近づいてきた。
 「何だ?味方機のようだが」
 赤城が困惑の声で呟いた。
 「こっちにも映ってるぞ。どこの部隊だ?」
 久保もそれに応じる。
 真っ赤な機体が目立つ。細長い機首が印象的なN14「砕豹(さいほう)」だ。所属不明の編隊はやがてぴたりと由玖斗たちの背後に張り付いた。
 「こちら302飛行隊。そちらの所属部隊は」
 しばらくしてノイズを発しながら答えが返ってきた。
 「こちら1411飛行隊。護衛任務の引継ぎで来た」
 由玖斗は顔をしかめた。
 「もう一度部隊名を教えて欲しい」
 「1411飛行隊だ」
 由玖斗は思案顔で無線を編隊内のみに切り替えた。
 「聞いたことあるか?」
 「いや。1411なんて知らない」
 「俺も知らねえな」
 「自分も聞いたことありません」
 一体何者だ・・・?
 「護衛任務の引継ぎだ」
 いささか機嫌の悪そうな声が再度返ってくる。
 「我々は沖縄本島まで護衛することになっている。引継ぎは聞いていない」
 「我々の任務も輸送機護衛だ」
 「これより確認を取る」
 輸送機の方へ無線をつなぐ。
 「こちら302飛行隊。任務引継ぎの味方機が来ているが、引継ぎは本当か」
 しばらく待っても輸送機からの応答は無かった。
 「こちら1411飛行隊。任務は我々が引き継ぐ。帰投を願う」
 「確認が終わるまで待ってもらいたい」
 何かがおかしい。
 何が起こっている。

 由玖斗ははっとした。後ろの飛行隊は完全に自分たち4機の直線状をぴったりと飛行している。まるで銃口を背中に突きつけているかのように。由玖斗は息を呑んで編隊内のみに無線を切り替える。
 「返事はいいから聞いてくれ。いいか、俺が合図したら散れ。その後ターゲットを後ろの6機に合わせるんだ」
 無線の向こうで三人の逸る息遣いが伝わってくる。
そして――
 「302飛行隊。撃墜命令が下った」
 レッドアラート、ロックオンされた!
 「今だ!」
 叫びながら自らも操縦桿を切る。
 レーダーを確認する。
 それぞれが言われたとおり散っている。ミサイルは発射されなかったようだ。
 何処からか機銃掃射を受ける。
 大丈夫だ、当たってない。
 すぐに態勢を変える。
 雲で視界が悪い。
 また近くで機銃の音がする、今度はかすった。
 エレベータ、雲を突っ切る。
 後ろを振り返って驚いた。
 2機がぴったりくっついてる!
 ラダーを踏みながらすぐにバンク!
 またかすった。
 めちゃくちゃに操縦桿を切る。
 それでも2機は何とかついてくる。
 また機銃掃射。
 機体が振動する。
 翼を射られた。
 油圧も低い。
 「くそっ、カルム被弾!」
 赤城の焦った声が叫ぶ。下平の悲鳴も混じっている。
 「3機で基地へ戻れ!敵を引き付ける!」
 由玖斗は叫んで再び雲の中へ突っ込んだ。
 月のない真中夜みたいに真っ暗だ、雷鳴が轟いてる。
 赤城を追いかけていた1機がこちらに気付いた、向かってくる。
 急降下、機銃を避ける。
 フラップ、急上昇、海面ギリギリだ!
 バレルロール、頭を銃弾がかすめる。
 また急上昇。
 雲の中へ逃げる。
 雷でレーダーが乱れた。
 機体が振動する。
 当たったか!
 風圧でコントロールし難い。
 急に天地が逆さまになる。
 何だ!
 きりもみ状態になってる。
 何とか態勢を立て直さなければ!

 気が遠くなりそうだ・・・

 数時間後由玖斗の機体は穴だらけで、片翼を失った状態のまま知夫里基地の滑走路へ着陸した。額を切った傷の血が目に入ったらしい。左目が見えない。
 由玖斗は必死で体を起こし、コックピットから身を乗り出した。傍らに2機のぼろぼろになった星牙がある。向こうからトラックが走ってきた。何人かが降りてきて由玖斗を乱暴に機体から引き摺り下ろした。
 「何だ!何をする!」
 喚く由玖斗の前に相楽少佐が立っていた。
 「少佐・・・?」
 「南政府本部から伝令がきた。君たち302飛行隊の身柄を早急に遣すようにとの事だ」
 少佐はそれだけ言うと顎で向こうの輸送機を示した。
 「どういうことですっ、少佐!」
 少佐は由玖斗に何も返さずそのまま背を向けてトラックに乗り込んだ。
 由玖斗は大きく口を開いた輸送機の中へ押し込まれた。そこには既に赤城と下平の疲弊しきった姿があった。
 「・・・久保は・・・久保はどこだ?」
 機体の数が足りなかったのを見た時から嫌な予感がしていた。
 「・・・久保は墜ちた」
 赤城が答える。
 「な・・・?」
 後の言葉が続かない。
 「いつのまにか・・・いつのまにか墜とされてたんだ」
 赤城の声も今までにないほど動揺の色が感じられた。
 下平は両足を抱えて動かない。
 由玖斗は膝から崩れ落ちた。
 一同が呆然とする中、輸送機が鈍い音を立てながら振動した。ゆっくりと滑走路を駆けていき、ふわりと体が浮いた。
 久保は誰にも看取られることなく墜ちた。
 誰にも気付かれることなく。
 何の最後の言葉も残すことなく。
 先に一人で逝ってしまった・・・

 夜もすっかり更けてしまった頃、由玖斗たちを乗せた輸送機は沖縄本島中頭郡(なかがみぐん)にある窪地に造られた嘉手納(かでな)飛行場へ着陸した。嘉手納基地は4,000メートル級の滑走路を二本有している日本最大の空軍基地でもあった。アメリカの援助が乏しくなってから沖縄における在日米軍基地は宜野湾(ぎのわん)市の普天間(ふてんま)基地のみとなり、嘉手納基地は南政府軍の本拠地として委任運営されていた。
 三人は武装兵士により拘留されたまま、基地内の監禁施設へ放り込まれた。査問会が翌朝開かれるので、それまでそこで大人しくしていろというわけだ。
 三畳ほどの狭い部屋の中で膝を抱えた由玖斗は、高い所にある天窓から漏れる月明かりを静かに眺めた。
真っ白な冷たい光が鉄格子に映えて一層鋭く見える。
 俺たちの知りえない所で何かが起こってる。
 一体何が?
 あの1411隊・・・。
 何処の部隊かは分からないが相当強かった。
 少佐は知っていたのだろうか。
 もしかして少佐は始めから・・・

 コッコッ――
 誰かの足音が聞こえた。近づいてくる。
 コッコッコッ・・・
 格子戸の方へ目をやる。磨き上げられた革靴と皺一つない裾下が見えた。
 「ユキ」
 由玖斗は月光に照らされた男の顔を見上げた。
 「っ、和泰!」
 由玖斗は驚いて腰を上げた。和泰はいささか落ち着いた笑みを見せた。パリッとした軍服の胸に勲章が光っている。
 「どうしてここに?」
 「誰だ?」
 隣の牢から赤城の声が尋ねた。
 「郷土からの親友だ。それで、お前は・・・すごく出世したらしいな」
 和泰は照れ臭さからではない笑みを静かに浮かべた。
 「知らないか、福島でのこと?」
 「和泰・・・大森和泰か?」
 赤城の問いかけに和泰は黙って頷いた。
 「笠麻市で人革連の包囲攻撃を一ヶ月以上も退けてたいらしいな。しかもたった200足らずで」
 「結局守りぬくことは出来なかった・・・。ここから移動命令が届いてな、町の人たちがもう十分だと言って俺たちを送り出してくれたんだ。南政府は誇張された俺の武勇伝とやらに肖って、兵たちの士気を上げようと図ったらしい。おかげで今じゃ大尉だ」
 和泰の声にそれを誇る色など全くなかった。それどころか何かを恥じるような感じさえ窺える。
 「お前・・・少し変わったな」
 由玖斗はそんな和泰を見つめて言った。
 「そうか?」
 「あぁ。なんて言うか、落ち着いてる」
 「何だよ、それ」
 いつもなら大笑いして肩を叩いてきそうなものを、今はただ苦笑いするだけだ。
 「まぁ、色々あったからな。お互いに」
 「そうだな・・・」
 しばらく二人は互いの記憶の重みに感じ入っていた。
 「ユキ。用心しろ。誰かがお前のことを煙たがっているらしい」
 「どういう事だ?」
 「詳しくは俺にもまだ分からないが、今回の一件どうやら政府内での策謀のようだ」
 「政府が・・・?」
 「恐らくお前の下に兵が集結し、新たな反政府勢力が立ち上がると思っているらしい」
 「俺の下に?一体どうして?」
 そうとう間抜けな顔で聞き返したのか、和泰が始めて心からの笑顔を見せた。
 「お前は自分のことも知らないのか?お前こそ今じゃ天才少年飛行兵、天賦の撃墜王とも言われてるんだぞ。空軍だけに留まらず地上の俺たちにもその噂は以前から囁かれていた」
 由玖斗は少し困惑した顔を見せた。
 「そんな動きがあるのか?」
 「いや、全てただの憶測だ。だが大いに考え得ることだ」
 和泰は厳しい顔に戻した。
 「答えは明日の査問会で分かるだろうがな・・・」


 明朝、三人の下へ兵士数人がやって来た。連行される時はまるで囚人のように手錠をかけられた。赤城は反抗的な目で辺りをねめまわし、下平は終始俯いたままだった。
 逃げたりするものか。
 久保が何故死ななければならなかったのかを突き止めるまでは。
 査問委員会の前に立たされた三人は繰り返し同じことを訊かれた。護衛目的機を離れ何故基地へ帰投したのか。交戦勢力は何者だったのか。
 「自分の隊を襲ったのは1411飛行隊と名乗りました」
 「我が空軍にそのような部隊は所属していない」
 査問委員会から返ってくる答えは全てそれだった。
 「護衛目的機はどうなんですかっ。彼らなら――」
 「輸送機側は未確認機の存在を否定している」
由玖斗は脚の横で拳を握り締めた。

 赤城は苛立って思わず声を荒げた。
 「ですからっ、何度も言っているように我々を襲ったのは1411――」
 「1411、1411。君たちの言うことはそれだけなのかね」

 「単独行動の上の抗争ではないのかね?例えばスパイ活動での縺れであったり」
 「そんなっ、我々はただ護衛任務に当たっただけです!久保さんまで墜とされたっていうのに・・・それはあんまりです」


 査問会は夕刻頃まで続けられたが、結局事件の真相は掴めず一時保留としたままその日は幕を閉じられた。しかし三人は引き続き拘留され続け、事実上のスパイ容疑での監禁を強いられることになった。
 「くそっ、一体どうなってるんだ!」
 赤城の壁を蹴りつける振動が伝わる。
 「落ち着け。今焦っても何も始まらない」
 由玖斗の静かな言に赤城の苛立ちの矛先が向けられる。
 「今焦らなくていつ焦る!このままじゃ、俺たちはスパイ容疑で銃殺だ!」
 「・・・分かってる」
 「あの大森って男、あいつも一枚絡んでるんじゃないのか」
 「和泰を疑うのか?」
 「じゃあどうして今日の査問会にあいつは来なかったんだ。真相を知りたいなら必ず来るはずだろう!」
 由玖斗は顔を曇らせた。
 「きっと、何か事情があったんだろう」
 その時、忍ばせた足音が微かに聞こえた。気付いてその方へ目をやったときには既に和泰の姿があった。
 「言い争ってる場合じゃないぞ」
 「和泰っ」
 「静かに」
 和泰は極力声を落として続ける。
 「査問委員会でお前たちのスパイ容疑が確定した」
 「何だって・・・」
 「近いうちに銃殺されるかもしれない。やっぱり俺の睨んだとおりだった」
 「あんたも一枚噛んでるんじゃないのか」
 赤城が疑いの目を和泰へ向ける。
 「やめましょうよ、赤城さん」
 下平がなだめる様に言う。
 「俺は上から今日の査問会に入るのを禁じられていた。どうやら上層部は本気でお前を殺したいと思っているらしい」
 由玖斗は思わず視線を地へ落とした。
 「安心しろ。俺が今から出してやる」
 「やめろっ。そんな事してばれたら、お前まで銃殺されるぞ」
 「そんなへまはしないさ。だが、ここを出てからは自分たちで何とかしろよ。恐らく殆どの機には監視の目がついている。東格納庫の一つに練習機が置いてある。そこなら何とかいけるかもしれない」
 和泰は説明しながらそれぞれの扉をマスターキーで開けていく。すぐに下平が辺りの様子を探りにいく。
 「感謝する」
 赤城はポツリと呟いて和泰の肩を叩き、自分も小走りになって行った。
 「和泰、この借りはいつか――」
 「いらん」
 由玖斗を遮って和泰はにっと笑った。
 「さっさと行け。ここで見つかっても俺は知らんぷりしか出来ないぞ」
 由玖斗は和泰の目を見つめ、強く頷いた。
 「また、どこかで会おう」
 由玖斗は微笑んでそう言い残し、和泰の下を後にした。
 薄暗い光の中、由玖斗の消えていった方を眺めて和泰は呟いた。
 「もう、二度と会わない方がいいんだろうがな・・・」


 警備の目を盗んで三人は何とか滑走路の隅までやってきた。由玖斗は分かれて格納庫を調べたが全ての格納庫に警備がついており、とても飛行機を盗み出すことはできそうになかった。
 集合場所に定めていた建物の影で由玖斗はあとの二人の帰りを待っていた。程なくして赤城が戻ってきた。
 「あいつの言ったとおりだ。練習機なら何とか盗み出せそうだ」
 赤城は厳しそうな顔で続ける。
 「だがあれでは追いつかれるのは時間の問題だぞ。もちろん武装もしていないわけだし」
 「大丈夫だ。この辺りにはたくさん無人島がある。低空飛行で島の合間を縫いながら飛べば、レーダーを撹乱させることができる。後は運に任せるしかない」
 そこへ息を切らせて下平が戻ってきた。膝に手をついて肩で息をする。
 「どうした?顔色が悪いぞ」
 顔を上げた下平の顔がやけに青ざめているのに気付いて由玖斗が尋ねた。
 「い、いえ・・・何でもありません。それよりこっちは全部駄目でした」
 「心配ない。が、やはり練習機で飛ばなくちゃならないらしい」
 「そうですか・・・」
 そう応える下平は全く上の空だった。


 闇の中を3機の小型練習機が滑走路に入った。さすがにそれには気付いた警備兵が直ちに練習機に向かって発砲する。だが3機の足を止めるには及ばない。練習機はどんどん加速し、漆黒の夜空へと舞い上がった。

 翌日、沖縄の北端に位置する伊平屋島沖100キロ地点の海上で近隣を捜索していた哨戒ヘリ、シーホークから伝令が入る。

 強奪サレタ練習機3機ヲ洋上デ発見
 燃料ガ尽キテ墜落シタト見ラレル
 生存者ナシ
 以上、帰投スル



   11.

 暁珠が両親を亡くし、萌鏡と二人で市役所での生活を始めてから一ヶ月が過ぎようとしていた頃。
暁珠は強くなっていた。困難は次々と舞い込んでくる。一難去ってまた一難。しかしそれは周りの人間も同じことだった。暁珠は目前の生活だけを必死に生きた。今の自分を必死に生きていた。そうすると何故か、今までのような悲壮感は拭い去られ役所での雑務をこなす日々から安らぎを覚えるようにもなった。勤めている人々も皆優しく、どこまでも二人に親切だった。
その中でも一人、暁珠より二つ年上の高木哲也という男は両親の捜索にも率先して協力してくれた恩人であった。その後、行く宛てのない二人を役所に留まらせるよう所長に懇願したのも彼だった。
そして今では現役医大生でもあったことから、時々暁珠に医学の知識も教えてくれるようになっていた。内乱が始まり、一時砂戸羽市へ帰郷してから人革連の占領に会い、通行許可証を持たない高木は市から出ることができなくなったのだ。もともとこの状況で都心部の大学へ帰る気も無かったと、高木は笑ってそう言った。

 日も傾いた頃だった。その日も暁珠は部屋でいつものように高木に勉強を教えてもらっていた。きりの良いところでペンを持つ手を止め、暁珠は大きく伸びをした。
 「ご苦労様。すごいね、もう二年生ぐらいの範囲に入ってるよ」
 「高木さんの教え方が上手だから頭に入りやすいんですよ」
 暁珠は微笑んで答えた。
 「あ、お茶入れますね」
 「あぁっ、別にいいよ」
 「気にしないで、気にしないで」
 暁珠は部屋から出て隣の給湯室へ向かった。
 しばらくしてお茶が出来た頃、高木が現れて盆を取り出した。
 「僕が運ぶよ」
 「・・・有難う御座います」
 二人は部屋に戻ってお茶をすすり、若者らしからぬため息を吐いた。
 「そう言えば萌鏡ちゃんは?」
 「最近帰りが遅くって。でも表情が良くなってきたんで、たぶんいいお友達でも出来たんだと思います」
 「そう・・・」
 また二人の間を気まずい空気が流れる。
 「暁珠ちゃんは誰か好きな人とかいるの?」
 突然の問いかけに暁珠は湯飲みを取り落としそうになった。
 「えっ・・・と・・・。待ってる人はいます・・・」
 「・・・そうなんだ。今はどうしてるの、その人?」
 「軍で戦ってます・・・。今はお互いのことを忘れようと言われました・・・」
 高木は俯きかげんに話す暁珠をじっと見つめた。視線に気付いて暁珠がちらりちらりと高木へ目を向ける。
 「で、忘れられた?」
 暁珠は思案顔で首を傾けた。それを見て高木は微笑んで軽く頷いた。
 「そっか」
 高木はおもむろに立ち上がった。
 「お茶ありがとう。そろそろ夜も寒くなるから気をつけてね」
 きょとんとしたままの暁珠を残して高木はさっさと部屋を後にして行ってしまった。暁珠は一体高木が何を言いたかったのか分からず、戸惑いながら湯飲みを洗いに部屋を出た。

 その日もいつもと同じように始まった。すっかり冷えるようになった朝に萌鏡を笑顔で送り出し、身なりを整えて事務室へ行った。誰もいない時間から先に仕事を始める。といってもあまりやることもなく、専ら人革連から押し付けられる天皇崇拝のビラを作ったりと不本意なものばかりだ。しばらくしていつものように一番早くに高木がやってきた。それから続々と役所に勤める人たちが通勤してくる。
 代わり映えのしない戦況をたらたらと述べるテレビを眺めながら、隣の小島さんと他愛のないお喋りをする。小島景子は二人の子供を持つ30代の女性で、夫を例の流行病で亡くした後この役所で昼間の勤めに励んでいた。それでも明るく気さくな彼女の人柄に、暁珠は何度となく救われていた。
 そんな数少ない平和な時を過ごしていた時だった。
 「大変だ!」
 大声で叫びながら血相を変えて坂井さんが飛び込んできた。
 「どうしたんです?」
 高木が尋ねる。
 「大崎で暴動が起こった!桂木町でもデモ隊が銃撃を受けてる!」
 「何ですって!」
 「とにかく怪我人が続出してるらしい、ここにも大勢が押し寄せるだろう!」
 一瞬にして平穏な空気が乱された。役所内がざわつく。暁珠も不安になって微かに体が震えた。
 「皆、落ち着いて!とにかく診療の準備をしましょう。外にもテントを張って、シートを引きましょう!」
 高木の声に事務室内は落ち着きを取り戻し、即座に行動を始めた。暁珠も急いで看護服を身に着けて準備を手伝う。
 数十分後、腹を撃たれた男を担いで最初の怪我人が運ばれてきた。口火を切ったようにそれから続々と何十人もの重症患者が運び込まれてくる。辺りはすぐに騒然とし、血生臭い臭いが辺りを漂った。シートの上で痛みに喚く中年の男や、血まみれの子供を抱いて何か朝鮮語で話す女の人。一体何が起こったのか役所の者達には知る由も無かったが、ただ目の前の患者を診察し治療することだけに専念した。
 暁珠は頭をガラスの破片で切った人の処置を行なっていた。痛みでその人が短く悲鳴を上げる。
 「ごめんなさいっ、少し我慢して・・・」
 頭を縫い終わった暁珠が手を下ろすと、近くで激しい怒号が上がった。咄嗟にその方へ目をやった。若い男が高木の胸倉を掴んで鋭い形相で睨んでいる。
 「てめぇ!ふざけんじゃねえよ!」
 「ふざけてなどいない!」
 高木が初めてみせる感情的な顔で怒鳴った。その後ろに暁珠は見覚えのある服装の少女を見つけた。体中真っ赤に染まった少年の傍らで今にも泣き出しそうな顔をしている。
 「萌鏡ちゃん!」
 暁珠は思わず持ち場を離れて駆け寄った。その声に気付いて萌鏡が顔を向ける。
 「暁珠おねえちゃんっ」
 「良かった、無事で」
 暁珠は萌鏡の手を取った。少年の血で真っ赤に濡れている。
 「暁珠おねえちゃん、お願い!この子を、智樹君を助けて!」
 暁珠は少年へ目を向けた。微かに息をしているようだが出血が酷い。一目で手遅れと分かった。それでも暁珠は首下からの出血と腹の傷を診る。やはり・・・。
 「鎖骨が折れてる・・・。内臓も貫通していて、これじゃ・・・」
 萌鏡の顔に絶望が拡がっていく。
 「ねぇっ。そんなこと言わないで!お医者さんに治療してくれるように言って!」
 萌鏡が暁珠の腕にすがりついて死に物狂いで頼む。顔を上げると、落ち着いた感じの長身の男が彼女の背後で無言のまま首を横に振った。
 「暁珠さんっ、手を貸して!」
 背後で小島の呼ぶ声がした。暁珠は仕方なく萌鏡の掴む腕を無理やり解いた。
 「ごめんねっ、萌鏡ちゃん」
 暁珠は何度も萌鏡に謝ってその場を後にした。一度だけちらりと振り返ると、高木に掴みかかっていた男が少年の下へ膝から崩れ落ちていた。


 11月12日、笠麻暴動と桂木町事件で60人近い人々が命を落とした。その内半数以上が日暮れまでに市役所の臨時死体安置所に並べられた。残りは事件の現場に放置され、役所の人間が手分けして回収に向かった。一日にして惨劇の現場となった大崎と桂木町には、血の海が広がり所々で雪を被った死体が散乱していた。
 あの日から暁珠と萌鏡の間には、光だけ通すガラスの壁が出来てしまった。萌鏡の帰りはますます遅くなり、とうとう心配になって問い質してもあやふやな返答でごまかされてしまう。市役所でも絶対安静の患者が多くて気を落ち着かせる暇もなく、役所の人間たちも日に日に疲弊の色が増していった。職場には前のような穏やかな空気が流れることもなくなっていた。

 事件から一ヶ月ほどたった。長く入院していた患者たちもそれぞれの家へ帰され、暁珠は久々の休暇を自室で寛いでいた。
 そろそろ昼になる。思った途端にキュルルとお腹が鳴った。暁珠が怠惰そうに立ち上がろうとすると、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。
 スリッパを引っかけて扉を開くと、そこには高木の姿があった。
 「やぁ」
 「高木さん、今日お休みでしょ?どうしたんですか?」
 すると高木は恥ずかしそうに少し目を逸らして口を開いた。
 「その、お昼一緒にどうかなって思って。もしまだなら、だけど」
 「え?あぁ・・・丁度今から何か作ろうかと」
 高木の顔がぱっと晴れた。
 「良かった。じゃあ、近くのレストランなんだけど。どう?」
 「えぇ、いいですよ。支度してきますね」
 暁珠は何の躊躇いもなくそう答え、部屋の中へ戻っていった。しばらくして身なりを整え、茶色のコートを肩にかけて暁珠が出てきた。
 二人は高木の車で真っ白の道に溝を掘りながら市川町に向かった。市川町には自治会の本部がありその付近には、戦争成金の豪勢な家々が立ち並び彼らを満足させ得る店が軒を連ねている。
 小洒落た綺麗なレストランの前で車は止まり、暁珠は一時呆然とそれを眺めた。
 「ここ・・・ですか?」
 暁珠が目を丸くして尋ねる。
 「うん。さぁ、寒いから早く入ろう」
 暁珠は高木に促されて店の中へ入っていった。綺麗なウェイトレスが出てきて二人を真っ白なテーブルクロスの引かれたテーブルへと導く。オレンジ色の光が辺りを落ち着かせた雰囲気にさせていた。それでも暁珠は緊張せずにはいられなかった。
 「何にする?何でも好きなもの頼みなよ。ここは僕がおごるから」
 「えっ、そんな、悪いです」
 「いいよ、遠慮しなくて。クリスマスプレゼントだよ」
 高木はさらりとそう返して自分もメニューに目を落とした。
そうだ、今日は12月25日。クリスマスだ。暁珠は細い線で流れるように書かれた文字の列を眺めた。どれも想像がつかないような料理名ばかりだ。結局暁珠は高木が頼んだものと同じものを頼むことにした。
 しばらくして料理が運ばれてきた。銀色の皿の上には彩りの綺麗な料理が乗せられ、ムース状のソースが具えられている。後から運ばれてくる料理も全てそのように手の込んだ高級なものばかりであった。テーブルマナーも何も分からない暁珠は逐一高木の素振りを必死で真似して料理を口に運んだ。高木はそんな暁珠の姿を盗み見ては口元に笑みを浮かべた。
 「すごく美味しかったです。生まれて初めてです、こんなの」
 やっと全てを平らげた暁珠が言った。
 「肩がこるような店でごめんね。実は話しておきたいことがあって」
 高木が急に真剣な面持ちで暁珠を見つめた。
 「もし良かったらなんだけど、暁珠ちゃんたち僕のところへ来ないかな?」
 暁珠は突然の話に目を丸くして高木を見返した。
 「いつまでもあそこにいるのは辛いだろうし、家なら余ってる部屋もあるし」
 「あ、あの・・・高木さんの家ってもしかしてこの辺りの・・・?」
 「そう」
 高木は複雑そうな顔で答えた。
 「親が唐沢カンパニーの重役でね。今は両親と暮らしてる。生活に不便な思いはさせないよ」
 高木の真っ直ぐな視線が暁珠を捕らえ続ける。暁珠はそれをなぜか直視することが出来なかった。
 「でも・・・その・・・」
 「別にすぐ返事を聞こうと思ってるわけじゃないよ。萌鏡ちゃんにも話して、その上でまた今度返事をしてくれればそれでいい」


 高木に役所まで送ってもらった頃には、日も厚い雲に閉ざされていたこともあり既に薄暗くなっていた。暁珠は高木の話を考えながら部屋へと戻っていった。
 もちろんその話は願ってもないことであり、高木の厚意は有難いものだと思った。しかしこれを受けてしまうことに暁珠は何故か後ろめたさを感じていた。
 ふと携帯に目をやるとランプが点滅してメールの受信を知らせていた。高木と外出する前にマナーモードにしていたのをすっかり忘れていた。ぼんやりとした目で暁珠はメールボックスを開いた。
 送信者は由玖斗であった。暁珠の頭が一気に冴え渡る。空回りする指先でメールを開く。

そっちで事件が起きたらしいな。大丈夫か。誰も怪我してないか。

 短い文章が黒い文字で発光している。無駄と知りながら下矢印のボタンを二三度押してみる。新たな文章は表れなかった。それでも暁珠は心に満ちる幸福を感じていた。同時に言い表しようのない哀愁が沁みてくる。
 暁珠は自分の思いを押し殺してボタンを押した。

大丈夫だよ。私も萌鏡ちゃんも無事。ユキ君はどう?

 そっけなく羅列した文字を暁珠は送信した。
無事を一心不乱に願う心の欠片を少しでも乗せようと図りながら。

 しかしそれから二週間が経とうとも由玖斗の返信が送られてくることはなかった。メールのことを萌鏡に話すと、彼女も由玖斗から着信が入っていたが今は全く繋がらないという。忙しく空を飛び回っているのなら仕方のないことなのだろうと、待ち遠しく思いながらも返信の遅さにはさほど気にすることはなかった。それよりも萌鏡との関係が更に悪化していることのほうがよっぽど問題であった。実は高木と食事をした市川町には萌鏡の通う総合学校があり、どうやらその帰りに偶然レストランから出てきた二人を見つけてしまったようなのだ。萌鏡はそのことを強く問いただすようなことはしなかった。しかしそれ以上暁珠に関心を寄せることもなくなった。必要以上のことは口にせず、ただ朝起きる時と夜寝付くまでに顔を合わせる程度になってしまった。そんなこともあって暁珠は高木からの話も萌鏡に打ち明けることも出来ず、ずるずると返事を遅らせていた。
 そんな荒廃した生活を送っていたある日。暁珠はちゃぶ台に突っ伏してぼんやりとした面持ちのまま、電気も点けずにテレビの画面を眺めていた。仕事から帰ってきてどのくらいの時間が経ったのかも分からない。辺りはすっかり暗くなり、テレビのチカチカする光だけが部屋の中を変動する色で照らしている。

次は旧政府軍に関する情報です

 暁珠は重い頭を落とし冷たいテーブルへ額を付けた。永世中立放送局NAKEDの美人キャスターが原稿をすらすらと読み上げている。

南政府の拠点である沖縄県嘉手納基地へ要人輸送のため向かっていた輸送機が護衛機の302飛行隊の攻撃を受けました
302飛行隊は同日拘束され、スパイ容疑で査問会にかけられましたが脱走しました
これを追って五部隊が追討、捜索を続けましたが翌日になって302飛行隊の強奪した機体が海上で発見されました
生存者は発見されず、行方不明となっている302飛行隊は永見由玖斗空士長――

 暁珠が反射的に顔を上げた。由玖斗のいささか幼い顔写真が他の三つに混ざっていた。

久保大一等空士、赤城宗一一等空士、下平俊介二等空士の四名です
なお、この四名については旧政府から階級が剥奪され――

 それ以降の音が全く頭に入らない。
 由玖斗の緊張した顔に食い入る。
 画面が変わった。
 鼓動が強く胸を打つ。
 これは何かの間違いよ・・・こんなはずないっ、ユキ君が死――
 それ以上の言葉が恐ろしかった。
 自分が信じて疑わない世界はこうも薄っぺらいものであったのか。
 果たして何故自分はそれほどまでに確信を得ていたのか。
 ユキ君が死ぬはずない?
 混乱と焦慮の交錯する心は、時の流れに懐疑と失望の波に飲み込まれた。
体が震えてきて体勢が保てない。曲がりそうな腕で体を支える。
 そこへ萌鏡が帰ってきた。
 「うわっ、真っ暗――」
 萌鏡は暗闇の中で肩を震わす暁珠の姿を見て言葉を切った。
 「どうしたのっ?暁珠お姉ちゃん」
 久しぶりに聞く自分を呼ぶ声に、暁珠は答えることもできなかった。ただはらはらと涙を流し、思わず萌鏡に抱きついた。
 「どうしたの?泣いてちゃ分からないよ」
 尋常ではない暁珠の取り乱しように、萌鏡は一抹の恐怖を感じながらも根気強く食い下がった。
 「ユキ君がっ・・・ユキ君が・・・」
 震えながらやっと絞り出した声はかろうじてそう聞き取れた。
 「・・・お兄ちゃんが?」
 嫌な予感を抑えきれず萌鏡は訊き返す。
 「・・・死んっ・・・じゃった・・・」
 暁珠は消え入るようにそう言うと、そのまま泣き崩れてしまった。
 「そ、そんなっ・・・そんなの、何かの間違いだよっ、だって・・・」
 その次が続かない。確信なんて無い。萌鏡もまた同じだった。
 「そんなはずないよ・・・私たちを残してお兄ちゃんが・・・」
 萌鏡は首を横に何度も振りながら涙を落とした。

 翌日から暁珠は意気消沈しきり、仕事にも全く手を付けることができなかった。それからしばらく暁珠は仕事を休むようになった。朝目が覚める度に今度のことが夢であったならと日付を確認する。まともに食事を取ろうともせず、ただぼんやりと鉛色の重たい空を眺める日が続いた。見かねた萌鏡も学校をしばらく休み、暁珠の世話にかかった。萌鏡はテレビの報道を信じようとはせず、必ず兄は生きていると自分に言い聞かせていた。
 一週間以上も仕事場に姿を現せない暁珠を心配して高木が見舞いにやってきた。丁度萌鏡は外出しており、高木が何度呼びかけても中から返事はなかった。
 高木が思い切って扉に手をかけると、それは恐ろしいほど軽く開いた。正面の畳張りの部屋に暁珠がぼんやりとした顔を窓の外に向けているのが見えた。高木はその沈うつぶりに言葉を失った。後ろ手で扉を閉める。
 「暁珠ちゃん」
 高木の声に暁珠がゆっくりと虚ろな視線を向けた。しかし何も答えようとしない。
 「何があったんだい、暁珠ちゃん?」
 優しい声で高木が暁珠に詰め寄る。暁珠はゆっくりと口を開いた。
 「ユキ君が・・・ユキ君がね・・・」
 暁珠の泣き腫らした瞼にまた涙が浮かぶ。
 「ユキ君が・・・死ん・・・死ん・・・」
 最後まで言わずして暁珠はまた窓の外へ目を戻した。溢れた涙が一筋暁珠の頬を伝った。
 「そう・・・。待ってたっていう彼?」
 暁珠は答えなかった。変わりに更に涙の筋を増やす。
 「そう・・・」
 見る見る暁珠の顔が歪んでいき、堪え切れずに俯いた。高木は思わず彼女の小さな体を包むように抱いた。腕の中で静かに暁珠の押し殺した鳴き声が漏れてくる。
 「暁珠ちゃん、僕と一緒にならないか?」
 少し掠れた声が耳元で囁かれた。
 頭が真っ白になる。
 まるで言葉を忘れてしまったようだ。
 「僕が君を幸せにするよ」
 高木の震える声が続けた。
 「君が好きだ」
 言葉を吐き出した高木の心は焦っていた。これは正解なのか?
 今まで何も答えなかった暁珠がゆっくりと高木の肩を押し戻す。高木は黙したままの暁珠を見つめた。暁珠の表情は垂れた前髪に隠されている。
 どれほどの時間が経ったのか。実際は数十秒程度であったろうその空白が、二人には数時間のように感じられた。暁珠の答えは・・・
 黙って首を振る。
 その時高木は体の奥底が煮えるように感じた。
 「・・・どうして?」
 暁珠は黙ったままだ。
 「僕のことは嫌い?」
 過剰に暁珠が首を振る。
 「永見って子だろ、君が待ってたの?知ってるよ、調べたよ、君の事を知りたかったから」
 高木の口から言葉が溢れる。
 「彼は死んだんだ・・・待ってても無駄なんだよっ・・・」
 そんな言葉だって無駄なんだ。
分かってるのに。
「僕がずっと君のそばにいてあげる・・・君を愛してるんだよ、暁珠っ」
高木が震える手を暁珠へ伸ばす。
その手が彼女に触れようとした時、暁珠の体が後ろへ退いた。

 僕は何をしてるんだ?
 どうして彼女の手を押さえつけてる?
 僕は・・・?
 「止めて!」
 暁珠の叫び声が頭の中を通り過ぎていった。胸を押されて後ろへ倒れこんだ。暁珠の姿が視界から消えていく。扉の激しく開き放たれる音がする。不規則な駆け足が続く。そして消えた。何もかも消えた。

 身を切るような冷たい風が吹きつける。でも寒さを感じない。感じる余裕がない。いや、燃えるように熱かったのだろうか?
 踏み固められた雪の道を無心に辿った。
吸い込んだ空気が肺を凍らせる。
米神が砕かれるように痛い。
それでも暁珠は足を止めなかった。
 指先の感覚がなくなった頃、暁珠はやっと立ち止まった。あの入り江に来ていた。分厚い雲が辺りを灰色の世界に覆いこみ、水平線へ近づくにつれて明度を失っていく。白波を立てながら踊り狂う海が妖麗な微笑を湛えて迎えていた。
 暁珠の脳裏に由玖斗の言葉が蘇る。

ここはこんなに平和で何にもないのに、この海の水が続く何処かでは今も確実に誰かが死んでる・・・

暁珠はふらふらと海岸へ向かった。波が乱暴に浜辺へ打ち上げられる。しゃがみこんで水に触れる。痛かった。思わず手を引っ込める。

こんなに冷たい海の中にユキ君はいるの?
寒いよね?
冷たいよね?
痛いよね?
・・・この水を辿ればあなたに逢える?

 暁珠は片方の足先を波の中へ沈ませた。足首に鋭い痛みが走る。

この痛みが消える頃、あなたに逢える?
逢えている?
逢えるの?
ねぇ・・・答えてよ・・・

 波が引いて濡れた足首が真っ赤になっている。再び押し寄せる痛みに暁珠は必死に抵抗しようとする自分を殺した。もう片方の足も踏み出す。途端にまた痛みが走る。立っているのも困難だった。
 唐突に感情の土砂が流れ出す。

 こんな海、いつだって平和じゃなかった!
 こんな空、いつだって平和じゃなかった!
 こんな世界、いつだって平和じゃなかった!

 止めどなく溢れる涙が凍れる水面へ落ちていく。音もなく、衝動もなく、涙は海へ静かに吸い込まれた。
 彼女のカゲは自然の法則を無視して拡がるばかり。それは暁珠自身が気付かぬ限り繁殖し続ける、ある種のヒトのようだった。

 瞼の向こうが明るくなった。薄く目を開く。
分厚い雲に穴が開き、金色に輝く光の筒が幾つも降りていた。
灰色の水面は眠ったように静まり返っている。
耳元を駆け抜ける風はそれでも厳しかった。


 そうだ・・・ユキ君がずっと望んでいたのは何だった・・・?



   12.

 11月12日の事件で銃撃を受けて以来、イ・ソンゴは清たち不良メンバーと萌鏡の献身的な看病によって思ったよりも早くに退院を果たした。入院中は終始意気消沈だったソンゴも彼らの励ましに応えて、その後港近くに新しい店を借りて仕事を再開した。店先の看板には「そよ風」という何とも彼に似つかわしくない名前が書かれていた。と言うのもその名を考えたのは萌鏡であり、清たちが勝手に看板を作って置いたのである。ソンゴも苦笑いでそれを黙認するのだった。もちろん「そよ風」の地下にも密輸用の地下通路が伸びていて、そっちの仕事にも程なくして復帰した。
 「そよ風」を始める前日、いつものメンバーでささやかながら開店祝いを催した。前の店よりかなり狭くなった店内で、ソンゴが六人を快く迎えた。
 最初のうちこそ清や慎吾の際どいジョークで明るい雰囲気を作り出していたが、いつものムードメーカーが欠けた状態ではそれも長くは続かなかった。
 会話が途切れて何となく重たい空気が辺りに充満した。テーブルの上のグラスがカラリと音を立てた。そのグラスを引っ掴んで清が中の酒を飲み干した。
 「駄目だな・・・。あの馬鹿がいねえと」
 清の言葉に返す者はいなかった。それぞれがそれぞれの焦点を一箇所に固めたままだ。
 「智樹君とはどこで知り合ったの?」
 萌鏡が話題を振る。清がちらりと視線を送った。
 「・・・あいつも俺も、本はここの人間じゃなかった」
 周りの者の注意が清へ向けられる。ただ、幸だけは視線を外したままだった。
 「俺たちは武装勢力によって強制徴集を受けた少年兵だった。群馬のある町を襲撃した時に徴集されて俺の部隊に加わったのがサルだった。あの頃のあいつは笑顔なんて一切見せずにずっと怯えていた。人に殺されることも人を殺すことも怯えていた。ずっと震えていた」
 清は記憶を辿るようにそこで一旦言葉を切った。
 「ある日俺たちは脱走を試みた。数十人はいた仲間の中で追っ手から逃げ切れたのは俺とサルだけだった。あとの奴らがどうなったかは分からない。俺たちも相当深手を負っていたからな。逃げるだけで精一杯だった。そんな俺たちを手当てしてくれたのが幸だった」
 萌鏡はちらりと幸へ目を向けた。幸は話が聞こえていないように窓の外へ視線を投げたままだった。
 「俺とサルと幸で必死に逃げた・・・。で、とうとう本土のてっぺんまで来ちまったわけよ」
 清は苦笑して萌鏡へ顔を向けた。清が語り終えるとまたしばらく沈黙が続いていた。
 「俺たちが知ってる智樹じゃ、考えられないな」
 カウンターで静かにソンゴが言った。
 「俺たちの知ってるあいつは、いつも馬鹿騒ぎして馬鹿笑いして・・・」
 「あいつの頭の悪さだけは前からそんなだったがな」
 呟いたハルに清が軽く笑って応えた。
 「あいつはここへ来てずっと笑ってた。馬鹿だから単純にお前らとの毎日が楽しかったんだろうな」
 萌鏡は目頭がまた熱くなってきた。必死で涙を押し戻す。
 清は長い息を噴出しながら背もたれへ倒れこみ天井を仰いだ。
 「これからは俺たちがサルの分まで笑ってやらねえとな・・・」

 萌鏡はしばらく登校していなかった総合学校へまた通いだした。その通学路を変更し辺りに気を配りながら。
学校は高い壁に囲まれて守られている。真っ白で無機質で無関心な壁には幾つかの監視カメラが取り付けられている。萌鏡はその視界に入らない所からカメラを盗み見ながら、その前の道路を歩いた。そんな行動を数週間続けた。
ある日学校も済んで、帰りのバス停へ向かっているところだった。露店も建ち並ぶ賑やかな通りの中で暁珠の姿を発見した。暁珠は綺麗な車から出てきた見覚えのある男と共に一軒のレストランへと入っていった。萌鏡は体の奥に冷たい手を突っ込まれたような感覚を覚えた。顔を背けて急いでその場を離れた。まるで自分が何か悪いことをしてしまったかのような気分だった。
 少し遠回りをして帰ると既に暁珠が夕飯の支度をして待っていた。
 「おかえり、萌鏡ちゃん」
 「・・・ただいま」
 萌鏡は曖昧に応えて部屋に入っていった。テレビを着けてぼうっとしていると、暁珠が近くに腰を下ろした。何か言いたげに口を開けたり閉めたりしてもじもじしている。
 「あのね・・・萌鏡ちゃん――」
 「さっきの人って高木さん?」
 少し棘のある声に暁珠がどきりとする。
 「えっ・・・あぁ、うん。お昼に誘われたから・・・」
 「そう・・・」
 萌鏡は自分の中に黒くてもやもやした悪意を感じた。これを暁珠にぶつけてやりたい意地の悪い衝動がおこる。
 「ご飯いいです。外で食べてきたから」
 「えっ」
 萌鏡はおもむろに立ち上がって奥の寝室へ向かった。仕切りを閉める前に、申し訳なさそうな目を部屋の隅にやりながら振り返る。
 「すみません」

 学校帰り萌鏡は閉店の札を引っかけてカーテンを下ろした「そよ風」にやってきた。中では慎吾がテーブルに広げた小さなパソコンのキーボードを叩いており、その隣には清とハル、工藤の三人が北陸の地図を睨んでいた。その下には学校付近の地図も用意されている。
 萌鏡は慎吾の隣へ腰をかけ画面を覗き込む。数字とアルファベットの羅列が延々と続いており、流れるように動くカーソルの後へ慎吾がキーを打っていく。
 「入った」
 慎吾の一言に三人が画面に集まってきた。萌鏡も文字列の画面を食い入るように眺めたが一体何が何なのか分からない。
 「何が入ったの?」
 「唐沢カンパニーのセキュリティシステムにハックした。もうすぐ監視カメラの画像が手に入る」
 慎吾が中指で眼鏡を押し上げる。しばらくして新しい画面に切り替わり数箇所のモノクロ画像が現れた。ひっきりなしに車が通る大きな道路や、偶に学生やスーツを着た人たちが行き交う姿が映し出される。
 その中の二つを慎吾が拡大する。右下に12月13日と白い文字が浮かんでいる。画面を艶やかな髪の少女が横切る。萌鏡はすぐに自分の姿だと分かった。程なくして次の画面をまた萌鏡が通っていく。
 「15秒・・・凡そ20メートルか」
 慎吾が深刻そうな面持ちで呟く。一定の速さで歩く萌鏡の姿が消えていた時間から、カメラの死角の距離と角度を割り出す。
 「萌鏡、お前にもう一つ重要なことを頼みたい」
 清が身を乗り出して深刻な面持ちで言う。萌鏡は黙って続きを待った。
 「襲撃ポイントへ輸送車を誘導するために、お前に交通整理員のふりをしてもらいたい」
 萌鏡は何の躊躇いもなく首を大きく立てに振った。
 「具体的にどうすればいいの?」
 「ここがさっきのカメラのポイントだ」
 清はテーブルに広げられた地図を指差す。十数年前の地図なので、上から総合学校の場所が線で引かれている。清の指はそれに沿った北側の道路を示していた。横へその道を辿っていき、下へ下りるところで指を止める。
 「この角が丁度カメラの死角となる。一週間後の朝5時、変装してここで輸送車が来るのを待て。車が来たら、この角を曲がらせずに直行させろ。後は俺たちが襲撃する。それから、必要な物はこっちで用意するから心配するな」
 清は緊張した面持ちのまま早口で一気にまくし立てた。萌鏡はその場のピンと張った空気を感じながら深く頷く。すると清は笑みを浮かべて後ろへもたれかかった。
 「悪いな」
 「ううん。何だかわくわくしてきた」
 「まったく、お前は楽天家だな」
 そこへ扉が開いて暗い店内へ白い光が一筋差し込まれた。一瞬殺気立った全員の視線がそちらへ向けられる。しかしそれがハルであったことが分かるとすぐに尖った空気が和らいだ。
 ハルは首に巻きつけたマフラーを放り出してソファへどかりと腰を下ろした。
 「どうだった」
 清が尋ねる。
 「話はついた。帰りのバンは向こうが手配してくれるらしい」
 話の見えない萌鏡は清とハルの顔を交互に見返す。
 「襲撃後に大垣市へ移動して、そこで輸送車とドライバーを捨てる。その後バンで帰ってくる」
 ハルが説明した。
 「誰がバンを用意してくれるって?」
 「唐沢カンパニー内部で人革連と徹底抗戦を主張してた奴らの生き残りさ。今さっきそいつらと協定を結んできたところだ」
 「でも、どうやって市から出るの?」
 「小父貴に今パスを偽造してもらってる。国道7号線を通って青森ICで検問が張ってるだろうが、それで何とかなるだろう」
 清がにやりとして答えた。
 青年たちの青い青春は黒い危険をはらんだ群青色に輝いていた。彼らにはその現在が堪らなく愛おしいものに感じられていたのだろう。

 12月25日、早朝。厳しい寒さの中、数メートル先も分からないほど激しく吹雪く朝だった。萌鏡は青い制服と分厚いコートを身にまといマフラーを首に巻いて、総合学校北側の指定ポイントでブルーシートを広げていた。刻々と迫る時間の中、風に煽られて何度もシートが吹き飛ばされそうになった。一人では設置するのにだいぶ手こずり、ギリギリ間に合わせたところで既に首下にはじっとりと汗をかいていた。冷や汗も混じったそれを拭い、萌鏡は緊張の面持ちで待機した。
 数分後、灰色のベールの向こうから二つの明るい光が見えてきた。近づくにつれて車の影が現れてくる。車はどんどん近づいてきてスピードを落とそうとしない。そこでようやく萌鏡は自分が指示棒の光を点け忘れていたことに気付いた。慌ててスイッチを押して棒を振り回す。
 現金輸送車がゆっくりと萌鏡の前で止まった。萌鏡はつばを飲み込んで車へ近寄る。
 「申し訳ありませんが、ここからは通過できません!」
 吹雪に負けないように萌鏡の声が変声器越しに叫ばれる。野太い男の声になっている。
 「どういうことだ?そんな話聞いてないが?」
 たっぷりと髭を蓄えた中年のドライバーは怪訝そうな顔で尋ね返した。
 「昨晩テロが起きまして、今は雪に覆われていますがこの先は穴だらけです。このまま真っ直ぐ行って迂回してください」
 「分かった、分かった。まったく、物騒な町だ」
 ドライバーは面倒くさそうに手を振って窓を閉めた。輸送車は計画通り道を直進していった。監視カメラには萌鏡の姿は映っていないはずである。
 輸送車がまた白い煙のような吹雪の中へ消えていくと、萌鏡は一気に肩の力が抜けてそこへ尻を突いてしまった。しかしすぐに自分の役目を最後まで全うしなければという意識に駆られて、雪を被って重くなったブルーシートを取り払った。
シートを胸の前で丸めていると、先ほどの現金輸送車がこちらへ向かってきた。しかし、萌鏡の横で止められた輸送車の中には見慣れた顔が窺えた。
萌鏡は車の中へブルーシートを押し込み、自分も乗り込もうとした。しかしそれを清が制止した。
「ご苦労だった。でもここまでだ」
予期せぬ言葉に萌鏡は激しく動揺した。変声器を取り払う。
「どうして!私も一緒に――」
「時間がない。お前は先に小父貴んとこに戻って着替えて来い」
清はそれだけ言い残すとドアを強く締めた。言い返す暇もなくハルの操縦する輸送車は発車していった。
真っ白な世界へ車は飲み込まれていった。萌鏡はただ一人その場に取り残されてしばらく立ち尽くしていた。


 その後、萌鏡は「そよ風」へとぼとぼと向かい、ソンゴへ襲撃の成功を報告した。ソンゴはあからさまに歓喜の様子を表した。
 「そうか!これから忙しくなりそうだな」
 浮かれるソンゴを尻目に萌鏡は重たい体をソファへ横たえた。
 「どうした?」
 萌鏡の様子に気付いてソンゴがグラスを磨きながら尋ねる。
 「置いてけぼり食らって落ち込んでるのか?」
 萌鏡はソンゴへ目も向けずに低く唸った。
 「そりゃあ、お前、やっぱりあいつらとしてもこれ以上お前さんを巻き込みたくなかったんじゃねえか?」
 萌鏡が不満そうな顔でむくりと上半身を起こす。
 「今まで一緒にやってきて?急に除け者にするなんて酷い」
 ソンゴは困ったような顔をしてグラスを置いた。
 「仕方がないだろう。お前さんと俺たちは、やっぱり違うんだよ」
 「いったい何が違うって言うの?」
 「ん~、何て言い表せばいいのか。生きてきた道が違うっていうのか、これからの道も明らかに違う。清は萌鏡に自分たちのような生き方をして欲しくないんだろう」
 「そんなの勝手だよ!余計なお世話よ」
 萌鏡はそう言ってふてくされる。
 「皆と一緒にいたいって思うのがそんなにいけないことなの?」
 「清は清なりの思いやりでしてることだろう。あいつだって馬鹿じゃない。むしろ俺たちよりよほど頭の切れる奴だ。自分の置かれてる身もこれから先のことも見越してる。常に先を見据えているんだよ」


 その日、萌鏡は清たちのことが気になって学校へも行かずに店でごろごろとしていた。カフェラテを無意味にかき回したり、テーブルの角に顎を乗せてソンゴのグラスを磨く姿をぼうっと眺める。時間がのろのろと経過していく。
 日も落ちた頃、そう言えば携帯電話の電源を切っていたことを思い出した。取り出して電源を入れると着信ありと表示されていた。
由玖斗からであった。萌鏡は飛び上がって驚いた。
「どうした~?」
文字通り飛び上がって驚いた萌鏡にソンゴが尋ねる。
「お兄ちゃんから着信があった・・・」
「お~、あの少年撃墜王のか」
萌鏡はリダイヤルでかけなおしてみた。しかし案の定いくら待っても繋がることはなかった。萌鏡は気を落としてゆっくりと携帯をポケットへ戻す。数ヶ月ぶりに由玖斗と連絡がついたかもしれなかったのに、電源を落としていて取ることができなかった。
「繋がらないか?」
萌鏡は黙って頷く。
「まぁ、軍人さんは忙しいからな。またかかってくるだろう。暴動事件の事知って心配になったんだろうな」
ソンゴは陽気な顔で萌鏡を励ました。彼の頭の中にはもう新しい仕事のことでいっぱいのようだ。
 それから数時間後、外も真っ暗になった頃やっと「そよ風」の扉が勢いよく開いた。ぞろぞろと清たちが入ってくる。
 「小父貴、とりあえず銃を二百揃えてほしい。ド派手なやつだ」
 開口一番、清はカウンターへ札束を放り投げてそう言った。意地らしい笑みを口元に浮かべる。
 「任せておけ~。おまけでもう20付けてやる」
 さっそくソンゴは店の奥へと姿を消していった。
 ハルや慎吾がどかどかとソファへ腰を下ろしていく。萌鏡の隣に幸もしんどそうに座り込む。
 「どうだった?」
 「全て上手くいった。萌鏡のおかげよ」
 幸はにこりと笑って答える。
 「しかし、あいつらどれだけ儲かってるんだろうな。ここにある金でも五億はある」
 慎吾が一つのトランクケースを叩いて言った。
 「さて、これからだ」
 清はにやりとして仲間たちに笑顔を向けた。
 「あぁ、これからだ」
 ハルも珍しく満面の笑みで応える。
 周りが奮い立つ熱気を帯びる中、萌鏡は一人自分だけが未だに取り残されているような気がして正直その空気が嫌になった。もちろん皆が彼女を除け者にしようとなど一人でも思っている様子はないのだが。清を筆頭に次々にこれからの計画を自分勝手に話し出す。賑やかに湧き上がる笑い声の中、いつの間にか自分が作り笑いしていることに気付いて萌鏡は席を立った。


 それからしばらく萌鏡は清たちと顔を合わせることが少なくなっていった。店を訪ねても忙しく出回っている清たちの姿があることは少なく、しかも「そよ風」自体が店を開けている日が減っていった。
 次第に現金輸送車襲撃の前から感じていた高揚感も薄らいでゆき、現実的な彩度の低い毎日が連なるようになっていった。しかし逆に、偶に出くわす不良メンバーたちの顔はいつも輝いて見えた。誰もが将来に大志と希望を抱いていた。萌鏡にはなぜかそれが寂しく思えるのだった。
 そんなある日学校から帰ってくる頃には既に日が落ちるようなって、萌鏡は白い息を廊下に吐き出しながら役所の住んでいる扉を開けた。
 「うわっ、真っ暗――」
 漆黒の空間の中でチカチカするテレビの光を受けて暁珠の体が震えているのが分かった。
 「どうしたのっ?暁珠お姉ちゃん」
 尋常じゃない取り乱しように萌鏡は心配になって、かける声を自然に落とす。すると暁珠は泣きじゃくりながら萌鏡の体に抱きついた。
 「どうしたの?泣いてちゃ分からないよ」
 どうしよう、こんな暁珠お姉ちゃん初めてだ。
 「ユキ君がっ・・・ユキ君が・・・」
 ダメ、聞きたくない。
 どうしてだろう?
 聞きたくない。でも――
 「・・・お兄ちゃんが?」
 「・・・死んっ・・・じゃった・・・」
 暁珠はそのまま泣き崩れる。
 「そ、そんなっ・・・そんなの、何かの間違いだよっ、だって・・・」
 だって・・・?
 どうして・・・?
 どうしても!
 「そんなはずないよ・・・私たちを残してお兄ちゃんが・・・」
 死・・・?
 そんなことない・・・
 あるはずない。
 ありえない。
 どうして・・・?
 確信があるなら、どうして涙なんて出るの・・・?
 萌鏡はそっと携帯を取り出して開いた。着信履歴のてっぺんで光る「お兄ちゃん」の文字。
 一体何を伝えたかったのか。
 自分勝手な都合でそれを聞くことが出来なかった。
 もしかしたら永遠に・・・

 その後、暁珠はまるで別人のようにすっかり精気を失ってしまった。萌鏡はそんな彼女を献身的に世話した。萌鏡自身、全く気に留めていないわけではなかった。というよりも、由玖斗の死にあまりにも現実味が感じられないのだった。ソンゴの取っている新聞にも彼のスパイ容疑や墜落死の記事が載っていたが、どれもこれもが自分とは別次元の物語のようにしか思えない。暁珠とは対照的に、あの夜以外に萌鏡は一切涙を流しはしなかった。
 「大変だったな」
 襲撃事件の計画を打ち明けたあの丘で、清はまた町を見下ろしながら萌鏡に声をかけた。
 「スパイなんてでたらめだろう。英雄扱いされる奴はいつでも時の権力者に疎まれるものだ」
 清が真面目な顔から困ったような優しげな笑顔で萌鏡を振り返る。
 「それで?涙ももう枯れたか?」
 「・・・分からない。お兄ちゃんがこの世にいないかもしれないことが、実感として沸かないから」
 清はそんな萌鏡に珍しく何も言葉をかけなかった。代わり辛そうな顔を隠すように俯く。
 「お前の兄貴は、最後にお前に何を願った?」
 萌鏡は少し思案顔で記憶を辿った。
 「・・・自分一人で立てる強さ・・・」
 萌鏡は自分の心に反響させるようにゆっくりと静かに呟いた。
 「なら、お前はそれをこれから掴め」
 「皆と一緒じゃ駄目なの?」
 悲しそうな顔で萌鏡が尋ねる。
 「・・・俺にも果たさなけりゃならねえことがある。お前にも自分の使命がある。それが相容れることはない」
 予想はしていた返答に萌鏡はそれでも落胆しながらも、自分の心の中で何かを掴むことができたような気がした。
 「清の使命って何?」
 清は視線をまた町の下へと落とした。
 「アウフヘーベン・・・。勢力名は『アウフヘーベン』にする。対立や矛盾を論理的思考によってのりこえ、一段上の結論を生み出そうとするという意味だ」
 清の横顔には希望と思案が入り混じっていた。
 「今の日本はカオスそのものだ。私利私欲の乱流がいたる所で悲劇を生んでいる。その波を止めたい。これ以上犠牲を出したくない。犠牲の歯止めのため、俺たちが犠牲になるんだ」
 清の言っていることは半分も理解できなかったが、その確固たる決意は確かに伝わった。
 「しかし、これも私欲の一つとなるだろうな。命題がアポリアである限り、この問題は永続する。それでも俺たちは行動しなけりゃならない。次の使命のために」

 翌日、午前11時頃。
 「そよ風」には幸を除く不良メンバーが揃っていた。今後の蜂起に向けて準備を着々と進めてきた清たちは、その顔に笑みを浮かべながら野心に燃えていた。彼らの青い炎をソンゴはまるで鈴虫の音を聞くように心地よそうな顔で眺めていた。
 「――ところでハル、慎吾。人員の確保は進んでるか?」
 清が顔を上げて二人に尋ねた。
 「俺の方は二百は集まりそうだ」
 ハルが答える。
 「俺たちは今のところ百ちょいってところだ。でもこれからもっと集まるだろう」
 慎吾がにやりとする。
 「そうか。予想以上だな」
 清は満足そうに背もたれへ寄りかかった。
 その時。いつものように黙り込んでいた工藤が急に顔色を変えて立ち上がった。長身の長い影が清たちを覆う。
 「どうした、工藤?」
 慎吾が怪訝そうな顔で訊く。
 「様子がおかしい」
 窓の外へ視線を向けたまま工藤は短く答えた。
 「静か過ぎる」
 その瞬間だった。
 甲高く冷たい音があちらこちらから一斉に鳴り響いた。同時に粉々になったガラス片と共に何かが店内へ放り込まれた。
 「ガス弾だ!」
 ハルが叫んだと同時に幾つものガス弾から白い煙が噴出された。一気に視界が一面真白に覆われる。
 清は喉に激しい痛みを感じて思わず咳き込んだ。袖を口元に当てて辺りを見回す。
 「くそっ!」
 「放せ!」
 「清!」
 ガウン!
 タンッ、「っう・・・」タタタンッ
 誰かが清の首を掴んで後ろへ押し倒した。
 「くそっ、てめ!」
 目の前にガスマスクをした男が一人覆いかぶさっていた。清は首を締め付ける男の腕を掴んだ。しかし頭に酸素が回らないので力がまるで入らない。どんどん気が遠くなっていく。
 「ぐふっ」
 マスクの奥でくぐもった悲鳴を短く上げて男が倒れた。
 「立て、清!」
 工藤が清を引き起こす。清はぼやける頭を振り起こした。さっきより視界が効くようになっている。数人の兵士がハルと慎吾らしき二人を連れ出しているのが見えた。
 「清、早く逃げろっ」
 工藤が店の奥へ清を追いやる。
 「早く――」
 叫ぶ工藤の顔から力が抜ける。
 工藤の前に誰か立っている。
 工藤が倒れた。
 そいつの持っているナイフから血が滴っている。
 「工藤!」
 清は駆け寄ろうとしたが別の一人が掴みかかり、地面に叩き伏せられてしまった。唇の端に痛みが走る。鉄っぽい味が口に広がる。
 「くそぉ!」
 喚く清の前に工藤の虚ろな顔があった。腹の辺りから血溜まりが広がっていく。
 「・・・工藤・・・おい、工藤!」
 清の腕を固く縛った兵士は清を今度は無理やり引き立たせた。
 「放せぇ!工藤!」
 連行される清の目には、微かに動く工藤へ銃口を向ける兵士の姿が見えていた。
 「止めろぉぉおおお!」
清の目は最後まで工藤を捉えていた。店から引きずり出され視界から工藤の姿が消えた。
パンッ
トラックに積み込まれて発車したとき、乾いた音が一発耳に届いてきた。


 数時間後、幸が萌鏡のいる役所へ駆け込んできた。かなり気が動転している彼女を萌鏡は何とか落ち着かせ、その事件を知らされた。
 幸が「そよ風」へ帰ってきたとき、既に店先には人だかりが出来て人革連軍の兵たちが店の中を調査していた。人垣の中から彼女が見たものは、無残にも破壊された店内とそこに転がったソンゴと工藤の遺骸であった。ソンゴは撃たれた胸を押さえて、カウンターに寄りかかりながらまるで眠っているように死んでいた。工藤は体中から酷く出血していて、風に乗った空気が血生臭いほどだった。
 萌鏡は、最近落ち着きを取り戻していた暁珠に幸を役所へ置かせてくれるように頼んだ。暁珠は快く承諾し、それ以上細かいことを問いただすような真似はしなかった。
 翌日になってようやく事件の詳細が分かってきた。襲撃の原因は唐沢カンパニー側の内部摘発によるものだった。カンパニーの反乱勢力は即日拘束、銃殺されたらしい。そしてそれに加担した清たちも居場所をつきとめられて拘束されたようだった。
 反政府組織を立ち上げようとした清たち三人はすぐに殺されはしなかった。見せしめとして極寒の中海岸に磔にされてまま数日間民衆に晒された。数メートルほど離して柵を敷いたものの、これ以上の政治混乱を招くような新たな武装組織の蜂起に激怒した民衆が、彼らに向かって石を投げつけた。人々は三人の若者を口々に誹謗中傷し、戦争による憎悪の捌け口としたにすぎなかった。
 磔にして晒したのには拷問の意図もあり、軍は更なる協力者を搾り出そうとしたのだが三人が口を開くことは断じてなかった。


 そして三人が磔にされて三日目。相変わらずどんよりとした雲が立ち込める朝だった。食料はもちろん水さえも与えられなかった彼らは、既に死の直前まで衰弱しきっていた。その日は民衆へ公開された処刑が行われることになっていた。
 大勢の人々が海岸に詰め寄せ、興味、嘲り、哀れみ、怒り、憎しみ、色々な感情の目を彼らに向けていた。しかし多くは怒りであった。人々はこれ以上の混乱を望んでいない。それをこの世間知らずの青二才たちが、また新たに武装勢力を立ち上げようとしたのだ。
 萌鏡はその日、群集の最前列にいた。柵の向こう側に、すぐ手の届くような所に清たちはいた。三人とも頭を垂れて目を瞑っている。眠っているのかもしれないと萌鏡は思った。否、願った。
 散々に石をぶつけられたのか、三人とも額や頬に固まった血がこびりついている。慎吾に至っては不運にも目を潰されていて大きく腫れ上がっていた。萌鏡は最初、あまりにも酷いその姿に一度目を背けてしまった。
 清は虚ろな目をゆっくりと開いた。
 「・・・よぉ・・・まだ生きてるか・・・?」
 擦れた声が清の喉を小さく振動させた。
 「あぁ・・・」
 ハルが吐き出す白い息と共に答える。
 「おぅ・・・」
 慎吾も潰れていない右目だけを開いて答えた。
 「よくやったぜ・・・俺たち・・・」
 清は霞んだ空へ視線を向けて言った。
 「あぁ・・・精一杯やった・・・」
 ハルの声が涙ぐむ。
 「もうすぐ智樹にも会えるな・・・」
 慎吾が微かに微笑んで言った。
 清もそれに口元を緩ませる。
 「ソンゴのおやっさんや工藤にもな・・・」
 ハルも笑顔を浮かべてそう応えた。
 三人の前にそれぞれ銃を携えた兵士が並んだ。群集の方が微かにざわつく。
 清は空から視線を下ろした。
 萌鏡の姿が目に入る。
 今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめている。
 ばかやろう、何しに来たんだ。
 こんな無様な最期を見られるなんて。
 お前には常にクールな俺でありたかったのに。
 常にクールな存在であり続けたかったのに。
 「・・・俺はぁ!」
 突然、清が震える声で叫んだ。民衆の目は一斉に彼に注がれ、兵士も一時作業の手を止める。清は最後の力を振り絞っておそらく処刑を見届けているであろう民衆たちへ叫んだ。
 「俺はっ・・・何も望んでいなかった!俺は・・・失ったものを取り返したかった・・・!失いたくないものを・・・守りたかっ・・・」
 幾らでも伝えたいことはあった。しかしそれ以上声が続かなかった。清は初めて悔し涙をさめざめと流した。
 「構え!」
 無常にも三人へ銃口が向けられる。
 ハルは泣いた。
 慎吾は泣いた。
 己にではない何かのために。
 「清、あの世でもずっと仲間だ!」
 ハルが叫ぶ。
 「おぉぉ!」
 慎吾の雄叫びが木霊する。

 タタタンッ

 体が振動した。
 痛みは既に感じない。
 周りの音が徐々に遠くなる。
 それなのに波の音だけははっきりと聞こえる。
 最後に吐いた息が露となる。
 薄れ行く意識の中で清は鋭い形相で目の前の兵士を睨み付けた。

 そして、そのまま清は果てた。

 「清は不幸な男だった・・・」
 幸が呟いた。部屋の中央に置かれた石油ストーブが重たい音を響かせている。萌鏡は純粋な瞳を幸へ向けた。幸が抜け殻のような感情のない笑みを浮かべる。
 「清が言ってた。萌鏡にはすまないことをしたって」
 「え?」
 「いつか、清が萌鏡を押し倒したことがあったそうね」
 萌鏡はつい一ヶ月ほど前のことを思い出して小さく頷いた。
 「あの日、清は遅くにあたしを訪ねてきた。酷く落ち込んでた。後悔してた・・・」
 幸は床に固定していた視線を萌鏡へ向けて続ける。
 「清の両親はね、盗賊たちに襲われて殺されたの。妹は奴らに散々いいようにいたぶられた。早稲田に通っていた清は帰郷してた。だけど丁度清はその時家を空けていたの。帰った時には家は地獄になっていた」
 幸をそこで一呼吸置く。まるで鉛のような言葉に疲弊したかのように。
 「妹さんはしばらくして自殺したんだって。それからは清がこの前話したように強制徴兵されたのよ」
 幸はいつのまにか涙を溢れさせる萌鏡に焦点を合わせる。
 「清は萌鏡に妹さんと同じ思いをさせたんじゃないかって、泣いてた。初めて見た清の涙だった」
 語り終えた幸は大きく深呼吸をした。吐き出した生暖かい空気は萌鏡にも届いた。萌鏡が幸を見上げると、彼女の顔に悲愴な色は一切なかった。ただ空っぽな純白が反射している。
 「清たちは最後まであたしたちのことを庇ってくれた。だからあたしたちは今こうして生きていられる。あたしたちに出来ることは感謝と生き抜くことだよ。この国の成れの果てを見届けてやって、あいつらに伝えてやるんだ」
 幸はそう言ってすくっと立ち上がった。不安そうな顔の萌鏡をしっかりした瞳で見据える。
 「あたしは生きる。誰よりも強く生きる。草の根かじって生き抜いてやる」
 幸は萌鏡に背を向けて出口へ向かった。戸に手をかけたまま、しばらく俯く。
 「・・・そうすれば、あの世で清はあたしを抱いてくれるかな・・・?」
 幸は部屋を出ていった。一度も振り返ることなく幸は行ってしまった。それはもしかして一度も振り返ることが出来ずに、なのかもしれないと萌鏡は彼女の背中の残像を見つめながら思った。
 清の人生は不幸だったかもしれない。
でも、清自身は一切不幸などではなかったのだろう。
 ハルや慎吾、工藤、ソンゴ、そして智樹のような仲間に愛されたのだから。
 幸のように真っ白な女性に死んでも愛され続けるのだから。

 萌鏡はすくっと立ち上がった。


つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?