なにからなにまで、ぜんぶ

おはようございます。
今週のお休みはピクニックをしたり、近所で花火大会があったり、パイプオルガンのコンサートへ出かけたり。
夏を楽しんでいます。
安曇野のちひろ美術館の広々とした庭でピクニックをするのが好きです。
すこーんと広がる空の下、木陰でパンを食べ、小川に足を浸せばきゅううと冷たくて、裸足で芝の上を駆け回ると、うれしくって、体と心が大喜び。
ちびちゃんを見ると、ずっと笑ってます。
美術館と庭は出入り自由なので、外で遊んだり、中で本を読んだり、絵本の原画を見たり。
大満足した後は通りの向こうにある桃畑でおいしい桃を分けていただいて帰ります。
もうすぐ、近くのりんご畑では夏りんごがはじまるそうです。

さて、今日は祖父のことをすこし。

祖父は美術館へ行くのが好きだったようです。
ときどき上野へ行っては図録を買ってきました。
祖父の家に遊びに行き、机の上にそれをみつけるとぼくは1枚1枚じっくりと見ます。
ぼくのやることならどんなことにも感心する祖母が、まったくおまえはたいしたもんだ!と大きな声でいいます。
祖母の声はいつでも大きく、内緒話も筒抜けなのです。

数日後、今度はぼくを連れて、再び祖父は上野へ行きます。
本物を見なきゃだめだ、というのが口癖でした。
心臓を患っていたので、ぼくと2人だけで出かけるのを祖母は心配しました。
なので、駅の階段を上り下りするときには、1段1段ゆっくりと、荷物はすべてぼくが持ちました。

彼には伝えたいことがたくさんあったようです、ぼくに。

重そうな荷物を抱えたご婦人を見かけたら、お持ちしなさいとぼくに言います。
そばに行って、おばあさんの手から荷物を預かり、運びます。
電車に乗っていて、お年寄りやおなかの大きな女性が乗ってきたらすぐに立ち上がり、席を譲ります。
困っている人、助けが必要と思われるひとを見かけたら、すぐに行動することが善きこと、というわけです。

でも、祖父の考える善きことをすべての人が体現しているわけではありません。
目の前にお年寄りが立っていても、席を譲らない人もいます。
そんなとき、祖父はじっとそのひとを見ます。
あ、見てる、あのひと怒られる。
祖父の気を変えようと話しかけますが、彼は返事をしません。
そして、さっとその人の前へ行くと、はじまります。
あなたはこちらの方のことが見えていないのか。
そんなに疲れているのか。
恥ずかしくないのか。
といったことを言うと、席を立ち、そそくさと姿を消す人もいれば、あなたに言われる筋合いはないと反論する人もいました。
ぼくとしては、祖父のことが心配で、はらはらした気持ちで見ていました。
心臓の発作が起こったときには飲ませるようにと、強い薬を持ち歩いているのですから。

ところが、いつでも、不思議なことに、さっきまでむすっとしていたひとが気がつくと笑顔で祖父と話しているのです。
なにかきっかけがあったはずなのですが、ずっと見ていたのによくわかりません。
あたりの人たちがにこやかな表情で祖父を見ています。
突然、孫です、と紹介されたりします。
お辞儀をして、ぼくは美術館へ絵を見に来たのだということを説明します。
見知らぬご婦人が膝の上のバッグから、飴を出して、ぼくにくれたこともありました。

そんなとき、電車を降りた祖父はご機嫌でした。
なにかうまいものでも食べよう、といって、そのときどき、すてきなお店で日頃ぼくが禁じられているような食べ物を食べさせてくれます。
プリン・ア・ラ・モード、クリームあんみつ、山と積まれたアイスクリーム。

美術館に絵を見るために出かけたのに、立ち止まってゆっくり見ていると、ほら、と急かされます。
それよりも、はやく浅草へ連れていきたいのです。
人形焼を食べながら歩き、和紙や額のお店を覗き、祖父が良いと信じるものを時間の許すかぎり、ぼくに伝えようとしていたのでしょう。
子どものぼくは、そのひとつひとつに感動しました。

一般的には良しとされないようなことも、迷うことなくぼくに伝えました。
小学生だったぼくに、大人になったらやれなきゃ困ると麻雀のやり方や、上手に嘘をつくとはどういうことかを教えたり。
祖父にとっては、嘘をつくことも席を譲ることも、どちらも同じくらい大切なことなのです。

さびしいとき、電話をするといつでもすぐに駆けつけてくれたひと。

ときどき、思うことがあります。
いまのぼくの仕事を知ったら、どんな言葉をくれるだろうかと。
きっと、なんの前触れもなく、いきなりお店に現れ、ぼくの話をうれしそうに聞き、椅子を注文して帰るでしょう。

いつか聞いたことがあります。
祖父の父親であるそのひとは、家具を作る職人さんだったって。

ぼくから、祖父に伝えたいことはひとつだけ。
あなたがしてくれたこと、なにからなにまで全部覚えているよ。
彼は大喜びするでしょうね。

これが、彼がぼくに教えてくれた嘘のつき方です。

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