紀尾井坂にぞ散る紅葉
今年もまた、急な坂を転がるように、寒が来た。
当地の寒さは、2枚から3枚、少し厚手にして、そろそろ4枚というふうにはゆかない。
ある朝突然2枚から4枚、明くる日にはコート、来週はステテコ、カイロという具合だ。
リモートワークの合間、コートを羽織って散歩をすると、あっちこっちに真っ赤な葉っぱが散っている。
急な坂を転がるように、ひといきに赤くなる。
急な坂を転がるように、ひといきに散り落ちる。
モミジの赤。
わたしには、モミジの赤はおどろおどろしい。
なぜ親きょうだいは、これをそんなに愛でるのか、飽かず眺めては呆けた歓声を出すのか、どうもうまく理解できなかった。
モミジ狩りとは、色そのものの興ではなく、今年もまた、変わらぬその色を見られた感慨である――これを年中行事と呼ぶ。
そんなことが多少はわかる今でもやはり、いちめんに散ったモミジを見れば、ぎょっとしてしまうわたしであった。
ゴミステーション(と当地では呼びならわすゴミ捨て場)の脇に吹き溜まりができ、モミジの赤が屯ろしていた。
だがおかしい。
胸騒ぎが不均等だ。不安と安堵が代わりばんこに訪れているようだ。
複視で、焦点を結ぶのに時間がかかるわたしの両目である。
とりあえず、ぼんやり生きているモードから、対象凝視モードに、視神経を意識的に励起する。
モミジに騒ぐわたしの視官を変則的に和ませていたのは、カントリーマアム(ココア)の小袋であった。
艶を誇る紅葉のなかにカントリーマアム(ココア)の袋を散りばめた小粋な犯人は、法的には小袋ポイ捨て罪 (刑854-3)の要件を構成し、甘味断ち2ヶ月以下あるいは罰金2750円(税込)以下を課される。
だが、仮にこれが、何だ、あのバンクシー? 的なあれならば、これはほら、一概にあれだろ、とわたしは強く思う。
講談社学術文庫の『大久保利通』は実は伝記ではなく、彼の人となりや逸話を識る名士連中からの旧い聞き取り集である。
その中の誰かが、大久保が何かすごいことをしたか言ったかしたという話をした後、こんな具合のことを語っていた。
もちろん完全にうろ覚えよ。
この前 BOOK OFF にあげたんだもの。
いきなり感じちゃった。それも非常に。
何某もすごければ、大久保もすごい。
唐突のレディコミだ。
白髯、フロックコート、勲章、レディコミ。
*
時は維新直後、所は虎ノ門の大久保御殿の奥座敷。
威圧。寡黙。
元勲、大久保を前に、まだ若輩の名士何某は緊張の極にあった。何某の全身はこれ以上ないほど強ばっていた。
言わねばならぬ。だが、言えるものではあるまい。
半刻。
埒が明かぬ。
意を決し、何某は口を開いた。
寡黙。謹厳。沈鬱。
畳の目を見ながら一息に話し終えた何某は、そ、と大久保の眼を盗み見た。
大久保は頷き、低く腹に響く声でこう言った。
――よかろう。そうしなさい。
(あッ……)
何某は感じた。
この時ばかりは、非常に感じた。
(完)
*
わたしも感じた。
この時ばかりは非常に感じた。
バンクシーが街にやってきた。
わたし(と近所の後期高齢者のお歴々)だけのために、コロナとインフルの隙間を縫って、バンクシーが鄙びた当地に来たのである。
(以下 わたしは非常に感じながら)
一羽のカラスがゴミステーションをつついている。
黄色の指定ゴミ袋から大袋を引きずり出している。
徳用カントリーマアムの大袋をつつき出している。
そりゃバンクシーだぜ。
*
だが、どうして『大久保利通』まで売っぱらってしまったのか。
おそらく間違いだ。
短い章立てで、寝る前に読むのにすばらしく適していた。特に巻末の方にある大久保姉妹 feat. 大久保息子 のかごんま弁対談は、心がささくれるたびについ読んでしまう傑作である。
わたしはもう諦めた。奇遇の邂逅を気長に待ちます。
皆さまはおかれましてはぜひ、ご一読を請う次第であります。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?