エッセイ/写「真」
真実とはなにか、真理とはなにか、と問うとき、この言語で問われたその問いは、すでに幾分、間が抜けてみえるのだ。(もっとも、どの言語であれ、その問いそのものが間抜けていないか、私には何とも言えない。)
ことばという魔物は、いつでもじわじわと純粋思念を侵食するが、「写真」ということばも、そのひとつだろう。
それが白黒の粗い画像の時代から、誰の仕業か、こいつは「真を写す」などと、荷の重すぎる名を背負わされてきた。
写真が「写真」である以前、それは単に camera obscula 暗室であり、また、単に photo-graph 「光の画」であった(し、西洋ではいまだにそうである)。そこには、傲慢で『ピント外れな』ニュアンスは皆無だ。
もし、photograph が「写真」であるならば、すべての真理は「写真」の集積にこそ在り、哲学の意義は、ことごとく、「写真」することに収斂するはずだ。んなばかな。
時は降り、平成時代、写真の大半は「写メ」にとって代わられた。ものの弾みに「真」が外れ、ぐだぐだながら、魔は落ちた。寿ぐべし。
ところで ladies and gents、いまの子たち、「写メ」って呼ばないって知ってました?「画像」、「自撮り」、この辺が多いようです。いいですね、いい具合に魔を封じています。もうこの機会に picture あたりを借用してしまえばよいのだ。
これだけ自在にフィルタを多用され、あれだけ自撮りを自己都合でいじられれば、さすがに「真」も赤面して逃げ出すだろう。
さて、このような我田引水の小論は、言うまでもなく、絵画、文学をはじめ、伝統藝術の復権を切に目論む、吾輩一派の手になるものである。
どちらが「真」か、ことばの下駄無しで、あらためて競っていきましょうや。
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