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日記/ ブレーキはそっと

かなり強い風雪が収まった夕方、過剰な雪掻きで、利き手の親指、人差し指、中指の爪の中を深く切った。『愚痴』の成り行きとはいえ、実に、きわめて、わたし的な愚行だ。曰く云いがたい狂気であり、攻撃性である。献身とは、自爆の同義語だ。もちろん、辞書には載っていない。過去の記事にも何度か登場した、太宰治の「饗応夫人」の主人公は、もっともわたしに忘れがたい人のひとりである。人でなしのタカリに抗うことなく、安寧、財産、健康、やがては命まで犠牲にしてゆく。愚かだ。また、こうさえ思う。生まれもったさがは、どのようなものであれ、一種の動物性であり、ゆえに――人間的な観点から――愚かしいものである。トレード・オフを拒むほどの献身など、そんなものは、かえって傲慢の極みではないか。自分を、自分の所有物だと盲信する人の、どこが美しいものか。崇高なものか。献身は、どこまで掘りすすんでも、愛へは行きつかない。なにが「雨ニモマケズ」だ、勝てると思うな。あのマザー・テレサが『聖女』であったと信じている人は、いまだ、かなり多いはずだ。Wikipedia に「マザー・テレサに対する批判」という一項が立つほどである。ならば、聖女の皮をかぶった悪人か。どちらでもなかろう。単身でインドへ向かい、施設やホスピスを設立した。少なからぬ貧者に、施しをした。やがて、自らの信仰を深く疑うようになり、権力の広告塔をになわされ、死んだ。どうも彼女は、命の細道のどこかで、"It all does not pay off at all", やってらんないわ、と心から叫んだらしい、とわたしには分かる。心からこう叫んだことのある人には、分かるはずだ。そこからのみ真の生活は始まる、と。使命のために命を捧げるのは、容易たやすい。それは狂信だから。いま、こんなまどろこしい駄文ではなく、安吾の「イノチガケ」を読めばよいのだ。献身の人々、あるいは殉教者を、決して侮辱しているのではない。わたしはなにをも・・・・神格化しない、と明言しただけだ。先ほどから、皆目わけが分からない。だれの、何の話をしているのか。これは日記なので、わたしの話なのだろう。わたしの下らない話が、普遍とどこかでかち合うことをねがっているのだろう。の身体を一文いちもんたりとも安売りする権利、ぼろきれのように投げ捨てる権利は、わたしあなたには無い。レンタカーのように、このレンタル・ボディは、丁重に、清潔に扱わねばならない。いつかお返しするときには、ガソリンを満タンにすることも、覚えておかねばならない。「身体髪膚……敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」。このように、常にわたしに渦巻く狂気に、スピンアウトしないよう、そっとブレーキを踏む。

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