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【第11号】直観的な正解を大事にする

3月某日|25番さーんのはなし

「北村さん25番でーす」

ここは沖縄県南部の病院。この日、はじめて人間ドックを受けに来た。朝7時集合。病院に到着し、事前に書いた問診票を受付で渡したときに受け取った整理番号は25。今日一日わたしは25番として過ごした。

人間ドックは身長、体重、血圧や視力聴力の学生の健康診断で慣れ親しんだ検査からはじまった。「25番さーん、つぎは〇〇です」とスタッフに言われるがまま診察室を右往左往した。

次はエコー検査。ゼリーのようなものをお腹全体に塗られて、電動ひげそりのような形状のもの(プローブというものらしい)をぐりぐりとお腹に押し当てていく。めっちゃ痛い。とくに肋骨まわり。わたしだけなのだろうかこの痛さは。それとも先生の力加減の問題か。

一通り検査が終わり、のこすは胃カメラ。人生ではじめての胃カメラ。

人間ドックを申し込むときに担当者から「細いチューブを鼻から入れるのと口から入れるのどっちがいいですか?」と聞かれ、「痛くないほう」と答えていた。

「25番さーん」と呼ばれたわたしは部屋に入る。看護師Aさんは物腰柔らかく、胃カメラが初めてなわたしの不安をぬぐうように「25番さん大丈夫ですよ」とひとつひとつていねいに説明してくれた。事前の処置をする部屋に通された。

ここにいたのは看護師Bさん。「25番さーん、これ飲んでくださいね」。まず渡されたのはコップになみなみ入った薄水色の液。言われるがまま飲み干す。次に両方の鼻の穴に鼻炎の方がやるような点鼻薬のようなものを2回ずつシュッシュされる。

「25番さーん次は部分麻酔です」。看護師Aさんのやさしさで拭えたはずの不安が、看護師Bさんの淡々としたやり取りで一気に再来。通りの良い片方の鼻に打つらしく、注射器のようなものを入れられ注入。なんてことはない痛みも何もなかった。で終わるはずもなく少しずつデフォルトでできていた唾をのみ込むことができなくなっていった。

それから5分あまり。完全にのどの機能を失い、つばを飲み込むことができない状態のわたしは「25番さーん、移動です」と移動を迫られ胃カメラ室に呼ばれる。ここにいたのは看護師Aさん。わたしにとってはサザエさんに出てくるウキエさんのようなやさしさの塊の人と再会できてまた安心した。もうこの時のわたしは25番でもなく、北村でもなく、道でばったりウキエさんに会ってウキウキしているカツオくんのよう。

看護師Aさんの指示のもとベッドに横たわり、先生の手によって胃カメラが入れられた。「25番さーん、カメラ入れますね」それと同時に視界が真っ暗になった。これも部分麻酔の作用なのかと思っていたが、なんてことないバスタオルを頭から上半身にかけられ、部屋の電気が消されただけだった。

鼻から完全に胃カメラを入れられたわたしはなされるがまま。一方で看護師Aさんはわたしの背中をさすりながら「25番さーんそのままでいいですよ」「25番さーんはじめてにしては上手ですよ」と言われ、身動きのできないわたしは「なにが上手なんだろう」と思いながら一通りの処置が終わる。麻酔はまだ効いている。デフォルトの見込めるモードに戻るまであと45分。長い。

唾液が溜まりやすい体質のわたしにとってしんどかったのはここからの45分。胃カメラが行われた2階から5階まで移動する。わたしはつばを飲み込むことができない状態。どんどんマスクをした口のなかに溜まったつばを吐きだしにトイレ脇の洗面スペースに行く。感染症対策もあってか、人間ドックを受診する人は待機スペースにいないといけない。洗面スペースにいようと思っても、待機スペースに戻ってと促される。

なので、待機スペースで待つ→溜まる→洗面スペースに移動する、をこの45分で10数回はしていた。

部分麻酔って不思議なもので、看護師Bさんが言っていた通り時間が経つにつれて効力が薄れていくのが分かる。少しずつ飲み込めるようになってくる。のどの機能がデフォルトに戻ってくる。操られてる感覚だけどやっぱり不思議。

このあと「25番さーん」と呼ばれ昼食を取ったり、「25番さーん」と呼ばれ先生から問診を受けたり、「25番さーん」と呼ばれ管理栄養士とカウンセリングをしたりした。人間ドックのすべてのプログラムがこれにて終了。

番号で呼ぶのは医療ミスを防いだり、似た名前の人と間違えないようにするためらしい。理にかなっている。考え抜かれたやり方だなと思う。こんなことを思いながら着てきた私服に着替え、あとは会計。

「25番北村さーん」

この瞬間、わたしは25番から北村に戻りました。


3月某日|非日常的な居場所のはなし

日常性のある場所はたくさんある。寝食をともにする自分の家。友人と集まる近所のカフェ。自分のスキルを活かして切磋琢磨していく仕事場など。

日々、当たり前に過ごす空間でも非日常的なことはたくさん起こる。そしてわたしはこの日常性のある場所で起こる非日常的なできごとはいい作用を与えてくれると思っている。

当たり前に過ごす空間には、当たり前にいる人がいる。この人たちと当たり前にコミュニケーションを取っていくのだが、ここには「信頼」という目に見えない力が潜んでいると思う。

「信頼」って言葉を辞書で見るとこう書いてある。信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。(引用:デジタル大辞泉)

こう書いてあるんだけど、「信頼」という言葉を使うときは自分も含めてだれかが使っているときに一方的な印象を受けるときが多い。

「わたしはあなたを信じてる」
「わたしはあなたを頼りたい」

きっと誰もがここまでは言いやすいんだと思う。相手のためを思って出る言葉だから。もしかしたらいい慣れてしまっている慰め定型文なのかもしれない。だけどこれら意思表示には見えない意図も見えているような気がする。

「わたしはあなたを信じてる(だからあなたもわたしを信じてほしい)」
「わたしはあなたを頼りたい(だからあなたもわたしを頼ってほしい)」

「信頼」ってだれかに心酔したり傾倒したりするのとはやっぱり別物だと思う。それも明確な別物。心酔や傾倒は一方向。信頼は双方向。何気なく使っている言葉を見つめ直すとこう見えてきた。生きていくってリクエストやフィードバックがお互いにできて、時には信じて時には頼れる関係性を言うんだろう。

「信頼する」って一方向な気がするから「信頼し合う」ができているかが誰かと交流をしていくためには大切な心持ちなんだと改めて思う。


3月某日|ファシリテート力のはなし

この日のわたしの仕事は進行役。パートナー先の復職プログラムで受講する方々が多種多様な価値観や考え方に触れ、働き方をアップデートしていく「キャリア塾」という場。

わたしの主な役目はゲストを招き、ワーク&ライフスタイルについてお話する場で、ゲストの話を聞きながら受講者が自身の働き方や生き方を見つめ直せるようファシリテートしていく。

これはただの司会ではない。与えられた時間を問題なく進められるよう事前にゲストと打ち合わせ、ゲストがなにを話すか大枠を聞いておく。そして当日のタイムスケジュールを練り、当日を迎え、時間通りにプログラムを進めていく、だけではない。

ファシリテート力が必要な進行役の大切な役割は、当日のゲストと受講者を観察して働きかけること。その場にいる人全員。ゲストが話すこと。それを聞いた受講者の反応。受講者が質問で使う言葉、抑揚、強弱などに注目する。

上手に説明はできないのだが、とある言葉を繰り返し使っていたり、とある言葉を使うときは語気が強く弱くなっていたり、とある言葉を使うときは姿勢や身振りが変わったりなど、その場に出てくるものすべてに注目している。

なぜ繰り返し使っているのか、腑に落ちたのか、理解できなかったから補足が必要なのか、口に出して言ってはいないけどもっと伝えたいことがあるのではないかと、ひとつずつていねいにわたしが間に入って問いかけていく。これをくり返すことではじめはバラバラだった場の空気感が形になりさまざまな作用を育んでいく。

こういう対話の場の進行役は、ただタイムスケジュール通りに進めればいいだけではないと思っている。場に出てきた言葉や一人ひとりの表情や変化から問いを投げかけ、深掘りしながら、新たに問いを投げかけて参加者全員のお話をつなげていく。

進行役は縦横無尽な姿勢が必要なのかもしれない。だけどこの縦横無尽な姿勢は個人としてではなく、場にある一部としてが望ましいんだと思う。進行役はあくまで進行役。時間に沿ってゴールに向かうのではなく、中身に沿ってゴールに向かっていく。

上手く表現できないけどファシリテート力ってこういうことだと思う。

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