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文字の連なりでひとと人生を重ねるということ(私の人間関係)

リモート勤務も1か月が経過した。仕事回りは、もはや長年の付き合いである編集長とのやりとりは快適、それ以外の方には「何か不満を言い出せずに抱え込ませてないかな」と心配になる。

通話機能を使いながらなんとか乗り越えていきたいと思う。仕事は何とかなる気がする。

プライベートでは、文字だけでは関係性を構築も維持もできないと感じる。友人関係も、休止している気がする。たぶん子供を産んでから、人間関係は少し浅く広く、そして一部とは深くなった。

夫と、事実婚を継続している。でも私としては、もう夫婦でいたくないなと思っていて、そのことは数年前から彼に伝えていた。

なんの変化もないけれど、しいて言えば、家事をよくするようになったかな。以前はなぜやらなかったのだろう、と不思議に思うこともあるけれど、仕事のせいかな、と考えている。

息子の生活は支えていきたいと考えているので、結果として、同居している状態を選んでいる。それが、最も多くの時間を息子のために使えて、ベストなのだという結論に至っているからだ。

実際、近所に別居用の賃貸を契約した時も、あまりそちらへは足を運べなかった(そして私の少しの貯金は底をつきた)。

時々、好きな人ができる。あるいは、私のことを好きになってくれる人が。相手はだいたい既婚者で、私の心の葛藤をときほぐしてくれたり、心理的な疲れを癒してくれる。

夫となった人と良好な関係を築こうとしているのにそうできなかったことや、それによって今不便があることや、でも彼のおかげで今の生活や仕事が手に入ったように感じていることなんかを、信頼できる(というのは私のことを否定しないだろうと期待できる)相手に打ち明けると、そんな私は堂々と生きててよいのだ、と感じられることが多い。

夫が私にはくれない肯定感をくれたり、言葉の応酬がある。(夫とは、もう会話ができないと感じる。情報を伝達することはできるけれども。それは悲しいことではなくて、ただただ、そうだ、というだけ。)

そういう相手に対して私は、法律婚など望まないので、可能な範囲で、私のための時間を確保してくれればいい、と考えているつもりだ。

でも実際には、供出されるその量や質に不満を抱いてしまう。なので、ここまでにしてくださいと伝えたり、伝えもせずにある日ぷっつり連絡をとらなくなってしまうのだった。

この間お別れした人とも、コミュニケーションはいつも文字だった。とても気が合うと思っていたし、共有している過去の風景なんかもあって、話をしていると心やすらぐし、なによりも関心を払われていると感じるとテンションがあがった。

わかりやすく、私は恋に落ちていた。

それでも少しは冷静で、こうした「非常事態」に人生の一切に関与できない関係は続けて意味があるのだろうかという観点は、持ち続けてしまっていた。

その関係は、私にはとても意味がないことのように思えた。

私は変化させたかった、あるいは、今後変化するのだという希望を持ちたかった(いつかは分からなくとも)。果たして彼は、同様には感じていないようだった。

ネガティブな感情を、わきおこったそのままに文字にして送りつけることの利益のなさを、私は過去に十分に学んでいる。

言葉を通じて相手の行動をどう変化させたいのかという、自分の欲望を明確に自覚できるまでは、送信ボタンを押さないというルールがある。

そして、とがったことばで、相手の心を揺さぶるような行動をとってしまったあとには、後味の悪さしか残らない。

いろいろ考えてみると、私にはもはや相手に文字として送りたい言葉はなかった。

それどころか、メッセージを送信したあと、相手の言葉が返ってくるまでの時間が苦痛ですらあった。

そこに、私の見たくない情報が含まれているのかもしれない。もしかしたら私の解釈が、相手の意図するところと違うのかもしれないという願望。それを文字で確認する数ターン、私の心は体から不在になる。

不在のリスクを何度おかせば、私は私の望むものに近づけるのだろう?そして不倫相手である私には、文字を送る以外の通信手段は、許されていないのだった。

文章の力を信じているからこそ、執筆や記事編集を職業としているのに、文字だけでは関係がなりたたない、と感じてしまうことを、なんだかおかしく思う。でも確かにそれは私の実感だ。

文字ではないコミュニケーションの場に、もしも引きずり出されていたのなら、何かが変わっていたのかしら。

なんていう未練は、いつか頭の中から消えるだろうか。現状肯定の能力は高いつもりだけど、残念ながら未来を見抜く能力はないのだな(だから生きているのが楽しいのかもしれない)。

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