『きみとダンスを』寄稿小説

 七実が来たのは、働き出して数年、お金も貯まったしとえいやっと一人暮らしを初めて一年目の冬だった。
「ひさしぶりー」
と玄関先で迎えた七実は、とても美しく装っていた。うすいピンクの唇がつやつやで、おいしい食べ物のようで、見上げながらかな子は、ああちゃんと手入れをしているんやなあと思って、七実が手に下げている小さな花束にも一瞬、気がつかなかった。
「ひさびさやね」
「ねー! 入って入って」
 七実が手に花束を持ったままアンクルブーツを脱ごうとしているので、持とうか、と言って受け取った。小さな花束だったが、紫と白と、薄い緑の花で上品にまとめられている。かな子はこういうものには疎くて、花の名前はほとんどわからないので、緑色の花なんかあるんやね、きれいやねと言った。
「どしたん、これ」
「それな」
 靴を脱いで立ち上がった七実は、背が一段低くなっていた。ストッキングのせいで足の先までなめらかで、人形のようだった。七実の足の向こうに、アンクルブーツが華奢なヒールで自立していた。
「プロポーズされてん、そこで」
「えっ」
「ちゅか隣駅なんやけど」
「あ、そうなん」
「でも逃げて来てん」
「えっ」
 なんで、と言うとなんでやろ、と七実は返し、そのまま泣き崩れた。

 七実とかな子は同じマンションの五階と八階に住んでいた。七実の家は両親共働きで、しばしば遅くなったので、小さい頃はよくかな子の家にご飯を食べに来ていた。小学校にあがってからも家が近いので集団登校や下校などではよく一緒になった。かな子は四人きょうだいの長姉で、しっかりしているからという理由で、いつも班長やらリーダーやらを任された。七実は、何か、心が鉱物になって、ごとっとどこかに落としてしまったような危なっかしいところがあって、かな子が気にかけていたのは下級生よりも七実のほうだった。
 七実は恋多き少女だったが、恋をするのはきまって国語の先生だった。初恋は通っていた学習塾の先生で、いつもは算数を見てもらっていたのが、一度だけ余った時間で作文を見てもらったのだという。ほんまはねえ算数よりも国語のほうが得意なん。あなたの選んだ本、わたしも小さいころめっちゃ好きやったよ、と、七実の言うところによれば、彼女はそう言った。七実の初恋は女性の先生だった。その後、中学にあがってからも、七実は国語の先生に恋をし続けた。たぶん、ほんとうは、その人ではなくその人の読む「少年の日の想い出」や「やまなし」や、いまとむかしの、詩歌のたぐいに恋をしていたのだろうと思う。
 高校生になって、別の遠い学校へ行った七実は、国語の教科書と本を読むのをやめた。彼氏できたみたいやで、あの子えらいべっぴんなったなあと母が言った。真偽のほどはわからないが、国語を捨てた七実はスカートを折ってハイソックスを履いて、薄く化粧をして、そうしてごく普通のかわいい女子になった。そうなってからも家はずっと同じマンションの八階と五階で、もうご飯を食べに来ることはなかったけれど、エレベーターとかで会えば最近どう、ぐらいは話をするし、メールアドレスを変えたらお互い変えたよ、ということは連絡するくらい、仲は良かった。良かった、と、言い切っていいのかはわからないけれど、そういう関係だった。
 七実そういえばなんでうちの家わかったんやろ、と湯を沸かしながらぼんやり考えて、そういえば年賀状出したわここの住所で、とポットに湯を注ぎながら思いいたる。その間に七実は泣き止んでいて、ポットとマグカップを持って行くころにはもう化粧もあらかた直っていた。そうしているとやっぱりきれいで、リビングに出しっぱなしのよれよれのコタツに入れているのが少し申し訳なくなってくる。
「待ってて、お茶請けなんかないか探してくる」
「あ、チョコあるでチョコ」
 七実がカバンから出して来たのは、繊細な水彩画のあしらわれた小さな箱で、開けると工芸品めいたチョコレートが、ちんまりと整列している。タイルみたいな、鮮やかな絵のプリントのあるのと、なんか面白い形に抜かれているの。
「これ高いやつ」
「せっかくやし食べよ」
と言うが早いが七実は一つ、いちばんきれいなのをつまんで口に入れた。「おいひい」とにこにこ言う。なっちゃんも、と言われて、かな子も一つつまんだ。カカオとなにがしかのナッツっぽい香りが口のなかに広がって、懐かしいな、と思う。なっちゃん、って久しぶりに呼ばれた。かな子の「な」をとって、七実はかな子を「なっちゃん」と呼んだ。そっちだってなっちゃんのくせに、とかな子は思わないでもなかったが、なんとなくそう呼ばれるのがうれしくて、ずっとそのままにしていた。あの頃の時間はまだ途切れず続いていて、七実はとてもきれいになってしまったけれど、二人ともまだ、その延長線上にいるのだ。
「なっちゃん、最近どうなん」
「ええ? いまちっちゃい会社の事務やねんけどな」
 七実に、どうしてここへ来たのか、気にはなったが訊くのははばかられて、かな子は自分の会社の社長がワンマンでこまること、いつも思いつきでいんちきくさい事業に手を出していること、この間は中古布団の販売という謎の事業に手をつけかけて、面倒で放置したため、会社の倉庫には布団がやまと積まれていることを面白おかしくまくしたてた。
「しかも社長たまに寝てんねんそこで。みんな知ってるねんけどほんまありえへん」
 かな子はコタツの天板をばしばし叩いた。七実が机に突っ伏して笑う。
「ごめん、ほんまごめんやねんけど、めっちゃおもろいわ」
「ええねん笑ったって。もう誰かに笑ってもらわな浮かばれへんわうちも無駄になった布団もかわいそうや」
「たいへんやなあ」
「たいへんやねん」
 ふふ、と笑いあって、紅茶を一口、のどを潤した。七実は紅茶の入ったマグカップを両手で持って、その爪も、ゴールドがかったピンクに塗られている。カップを包むようにして、わずかに上を向いているその爪の先を見て、ななみちゃん今日はどこもかしこもきれいやなあと見とれる。
「爪、きれいやねえ」
「ああ、これ?」
 気に入ってるけど、もうはがしてもらうねん、と七実はぽつっとつぶやいた。もしかして、今日のためやったんかな。うっかりしたことを言ってしまって、でもここで何か言ってもへんやし、とためらっているうちに、沈黙がおりて、だんだんと重苦しくのしかかる。
「なっちゃんは、何になりたい?」
「え? うち?」
 何って、とかな子は必死に頭をめぐらせる。小さい頃ならともかく、就職もしてそこそこ趣味に使えるお金もあって、いまはなりたいものなんて。あ、そうや。
「ば、ばけもんかな……」
 七実がぽかんとしてかな子を見つめた。
「いや、ちゃうねん、ちゃうねんで! あの、うちな、いまちょっと化粧せんと会社行ってんねんやんか」
 もちろんサボっているのではなくて(たしかに半分は楽だからだったが)、半年前の繁忙期、かな子は一度アイシャドウでまぶたがかぶれてしまったことがあったのだ。ずっと使っているメーカーのもので、古くもなかった。忙しくて皮膚科に行くひまもなく、無理して化粧をしていると炎症が広がってしまって、とりあえずしばらく化粧はやめておこうと、化粧水と下地だけで、マスクをしてごまかしていたのだが、炎症がおさまったあとも、なんとなくそのまま化粧はしないで行っていた。
「そしたらな!」
 思い出すうちにだんだん腹が立って来て、かな子はやや乗り出し気味に言った。
「すっぴんとか、ぐろいって言われたんやけど!」
「ひっど!」
「やろー?」
 それを言ったのは二つ上の社員だった。かな子を敵視してではなく、むしろ笑わせようとして言ったらしいのが不思議だった。言われた瞬間はしばくぞと思ったが、そいつはわりと、そういうきつい冗談を言うのが好きで、誰彼かまわず失礼ギリギリアウト、みたいなことを言っていたのでああまたか、という感じにおさまった。それよりも、何もなしでそれなんて、肌がきれいなんやねと別の人に言われた方がどちらかと言えば気持ちが悪かった。かな子だってほんとうに完全にすっぴんなのではなく、オーガニック系の化粧下地を塗っている。またかぶれるのが怖くて、それまで持っていた化粧品を全部処分して、あたらしく買い直したのだ。値は張ったが、いまのところ炎症は出ていなかった。皮膚科には結局行けずじまいだったが、たぶん忙しくて不摂生をしていたのが出たのだろうと思う。
 何もなしでなんて、いられるはずがない。人は意外に他人を見ている。それはかな子もそうだった。あの人めっちゃ太ってんなあとかおしゃれやなあとかすごい髪やなあとか、街行く人を見てぼんやり考える。けれども時々、そういう、見たり見られたり、というのが時々すごく疲れる。自意識過剰と言ってしまえばそうなのかもしれない。だがやっぱり、見てくれは大事だし、ちゃんとしなくちゃいけないし、でも「ちゃんと」の境界線ってどこなんだ、と思うと面倒くさくて、見た目とかがいっそ全く関係のないところへ行ってしまいたいと思うのだ。
「だから、ばけもん?」
「うん」
 七実は目をまるくして、それから肩を震わせはじめた。
「笑わんといてよ」
「だって、なんか、思い切りすぎ」
 ほんまにいつかばけもんになってまいそう、と七実は額を拳に押しつけて笑った。七実が笑っているのでかな子も何か妙に笑けてきて、二人でくすくす笑った。笑い疲れてまたひとくち、飲んだ紅茶はすっかり冷めている。
「わたしな」
 一拍の沈黙をはさんで七実が言った。言ってから、うーん、と考えて言い直す。
「わたしの彼氏さんな、めっちゃ普通のええ人やねん」
 うん、とかな子が相づちを打つと、七実はなぜか破顔した。
「なっちゃん、相づちの感じ全然変わってへんなあ!」
「えっ、そう?」
「うん間合いがほんまめっちゃ小さいころと一緒。ほんでな」
 うちの彼氏さん、めっちゃ普通の人やねん。あかんとこもあほなとこもあるし、ケンカもするねんけどな、悪い人ちゃうねん。あほいうたら思い出したけど全然本読まんねんやんかうちの彼氏さん。ほしたらこないだ分かってんけど伊集院静と伊集院光と伊藤整の区別ついてへんかってんやんか。あほやろ。
 でもええ人やねん、人がめっちゃ好きな人やねん。だから、それ以外のことは興味ないんやと思うねん。たぶん結婚してもええんちゃうかな、って、ええんちゃうかなってえらそうな言い方やねんけどたぶんこれ以上、すてきな人はおらんと思う。そんくらいのひと。
「でも、結婚せえへんかって言われたとき、わたしはまだわたしのまんまでおりたいって、思ってしまった」
 七実は目を伏せて、また紅茶を飲んだ。もう冷たいはずのマグカップを両手でしっかりと握りしめている。
「結婚したら、おんなにならなあかんでしょう。きっとあの人はそのまんまでええよ、って言ってくれるけど、結婚って、そういうもんじゃないでしょう。ふたりだけの生活、やないねん。わたしはその人の妻ってことを、周りの人に言わなあかんでしょ。だから……」
 七実は言葉を切った。話してるうちに、何言いたいんか、わからへんようなってしもた、と七実は言った。
「……ただのわがままなんかなあ」
「ちゃうよ」
 自分でも思ってみないほど、強い言葉が出た。「ちゃうよ。わがままちゃうよ。だって、ななみちゃん、わたしでおりたいって、わかると思う。わからへんけど、わかるよ」
 七実の驚いたような目を見ながら、何言ってんねんやろ、うち、意味わからへんわ、とかな子は思いつつ、それでも言葉を止めなかった。結婚したくない、わたしのまんまでおりたい、っていうのは確かにわがままかもしれへんけど、でも、なんでそれが悪いの。
「なんで、なっちゃん泣いてんの」
「わからん」
 七実はどこか幼い表情で、かな子の涙に素直に驚いていた。昔の、少女だったころみたいに。七実は、あの頃とは変わっていなくて、ほんとうはずっとそのままなのかもしれなかった。普通のかわいい女の子の、装いの、お化粧のうしろに、あの頃の言葉に恋をしていたころの七実を隠して、守って来たのだ。
 変化するのは悪くないと世の人はいうけれど、それは嘘だ。自分が変わってしまうのは、こんなにも怖い。表皮と、衣服を、世の中にさらしてぼろぼろにしながら、自分の芯のところを守って生きている。
「なんか、もう、嫌やわ今日めっちゃ涙もろい」
 七実がついに泣き出して、塩辛い雫が紅茶に落ちた。指の甲でまぶたをぬぐうと、濃いめにのせたアイシャドウのラメで指先がきらきらした。向かいでかな子が洟をかんで、ななみちゃん、とティッシュボックスを押し出した。白い箱にはかわいらしいウサギがプリントされていて、あ、鼻セレブ、と七実は思った。もったいないな。

 泣き止んだ七実はついに観念して化粧を落とした。こんなきらきらした服着てんのに、すっぴんやったら変やんなあと七実は言うけれども、化粧を落としてもやっぱり七実はきれいだと思う。
「それ嘘やろ」
「たしかになんかあっさりした顔になったなとは思ってる」
 七実はかな子をにらみつけて、バッグから携帯電話を出した。口がへの字に曲がる。
「彼氏さん?」
「うん。やばい。めっちゃ着信入ってる。ていうか、知ってたけどー。どうしよ」
「かけたげる? メールする?」
「うーん」
 七実はちらちらとかな子の方を見る。席をはずそうとしたら、七実は首を振ってそこにおって、と言った。少し迷ってから、ディスプレイを操作して、電話をかけ直す。相手は八コール目みたいな中途半端なタイミングで出て、七実を少し動揺させた。一瞬言葉につまってから、七実はごめん、と吐くように言った。ちがう、わかんない、時間をちょうだい、ほんまに、わからへんのよ、嫌になったんやないの、ちゃうの。途切れ途切れに、一つ一つの言葉が、さっき食べたチョコレートくらいの塊になっていて、一個ずつ吐き出すみたいに七実は言葉を継いでいく。最後にもう一度ごめんと言って電話を切った。
「大丈夫?」
「たぶん。でも、今日は無理」
 すっぴんやしな、と七実は無理に笑った。怒ってへんかったけど、向こうもなんか、混乱してるみたい。悪いことしたなあと七実は言う。
「なっちゃんも、ごめんな。いきなり来て」
「ええよーうちも久しぶりに会えて嬉しかったし。また会お」
「うん」
 七実が立ち上がって、コートを着た。ああ行ってしまうんやな、とかな子は思って少しだけ寂しくなる。小さな花束を、持て余しているようだったので、貯め込んでいたショッパーの中でちょうどいいのを選んで入れた。幅が広めで、持ち手のリボンも長いから、花束はぴったり入ったし、まっしろい、プリントもなにもない内側に映えてそこだけ小さな花畑になったみたいだった。紫と白と緑。緑は葉っぱじゃなくて、菊みたいな花だ。緑の花なんかあるんやねえうち花とかぜんぜんわからんわ、と言うと、七実が笑った。
「それ、さっきも言うてた」
「えっ、せやったっけ」
「言うてたよー」
「そんな気もするけど、でも珍しない? 緑の花とか初めて見てんもん。写メっていい?」
「いいよー」
 七実がショッパーの口を広げて、花束がよく見えるようにしてくれた。かな子は携帯電話のカメラを、傾けたり離したりして、緑色の菊のみどりが一番うまく写るように調節する。四苦八苦していると、七実が花束を出して、持ってくれた。一枚、緑の菊と、もう一枚、花束を持つ七実を写した。
「いやや、すっぴんやのに」
「かわいいよー」
「あっさりした顔なんやろ」
「そうやけどー」
 花束を持つ七実は、まぶたが腫れていたしチークがないから顔色も悪かったけれど、すっきりとした表情だった。うちはこれ、好きやで、と呟く。たしかにちょっと人相悪いけど。
 七実が細いアンクルブーツに足を入れた。急に背が高くなった七実を見上げて、また遊びに来てな、と言う。七実はうん、と頷いた。行くよ。ぜったい、遊びに行くからね。あのね。
「わたしねえ、たぶん、ばけもんになってもなっちゃんが好き」
「なんやそれ」


華やかに世界の朝が遠くなる 仮装を解きて笑みかはすとき 黒瀬珂瀾


※ 1/22文学フリマ京都く-28頒布の『さまよえるベガ・君は』に再録しています。(完売)




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