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自分史⑨空気のような苦悩の中で

コロナの影響を受けて今年度予定していた仕事はふわふわしたものになってしまった。

ただ、ありがたいことに10年前の自分が蒔いた誠実という種が芽吹きはじめ、予想だにしない香りを放ち始めた。

計画通りの未来には価値は感じない。
来年さえもいまだ見えていないが常に創造の斜め上を走り続けるような人生でありたいなー。

山浦青年は日本に帰国する。

精神的にまいって帰国したのもあるが、実は帰国にはもう一つ大きな要因があった。

どこかに書いたと思うが 父親の2回目の事業、空調設備の会社が一時はリーマンショックや親父の遊ぶ癖が影響して倒産寸前だったのだ。

なんかもういろんなことがありすぎてどの記憶がいつだったのかあまり覚えてはいないが帰国後少し休んでから、会社の新事業としてやろうと親父が言い出した焼き肉屋の開店準備をすることになったと思う。

京都祇園の焼き肉屋を親父の知り合いのおっさんに紹介してもらい、足がなかったので単車まで用意され 修行のため毎日通うことになった。

別に大した思い出でもないので焼肉話は割愛するが親父の会社は私が思っている何倍も経営状態はひどく、すでにつぶれる寸前だった。

当時の親父の愛車はベンツのSクラス。

資金繰りに走る親父はベンツもここまできたら手放す覚悟だったが、査定してもわずか200万足らずにしかならず、どうにか高く売れないかと悩んでいた。

そのころ合いを見てか、ある日ベンツの姿が忽然と消えた。
盗難されたのだ。

被害届を出し、早く売っておけば!と考えるべきところだがそれは山浦家の素敵事件簿。

ベンツは盗難保険によって600万円という現金を残し、山浦家を守ろうとしたのだった。

メルセデス先生には足を向けて寝れない、とかなんとか言いながら数億の負債を抱え、あえなく父の会社はその後すぐ倒産した。

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家族愛が止まらない

特に理由もないが 個人的には特に悲壮感もなく残った銀行負債とは別で個別に借りていた借金数千万円を返すのに頑張らなきゃなーって感じだった。

今考えると怪しさ満点だったが知り合いのヤクザが絡むようなFXファンド会社で数億扱うようなシ仕事の話が耳にかすったのでやらせてほしいとお願いし、FXも勉強し始めたりしたが兄のストップでやめた。

リスクという概念は人生にあまりないのでさほど気にならなかったし、自分が全て返すという意気込みだったので「いい経験になるか」と思うくらいだったの。

ただ、本来一家離散してもおかしくない状況で3人兄弟、全員嫁に逃げられてもおかしくない状況だったが各嫁、またその家族が皆心ある方々ばかりでこの状況の中、協力的かつ共に戦ってくれようとした。

今でも山浦家は兄弟、嫁同志も仲が良く、年に一回全員で旅行などもいくくらいだ。

とにかくこんな家族のもとに嫁入りしてくれて、ともに歩んでくれるみんなに感謝が絶えない。

何もない、けど結果は出せる

そうはいっても飯を食わなければ、ということで私の嫁候補も当時まだカンボジアだし、ひとまず彼女が返ってくるまで生活費を稼ぎながら今後の仕事を考える必要があった。

取り急ぎ、派遣でauショップかな、そこの客に声掛け光回線を売りまくるという仕事で食いつなぐことにした。

好きな仕事ではなかったが営業は得意。
最初は仕事に慣れずに食欲もなくなるほどだったが、それでもなぜか初月で関西トップの成績を上げて、2秒で社員に誘われた。

つまらないので0.2秒で断ったが待たされるのが嫌でイラついてるヤンキーがすごむのをロジックで抑え込み、さらにイラつかせるなどして社員の人に怒られたりした。

その間親父は設備関係の資格を持っていたことで埼玉の方で仕事を見つけ、東日本大震災復興の設備関係で仕事を得ていた。

ちょうど帰国後1年、嫁も働いていた団体の国内事務所で仕事できることになり、それに合わせて父親がいた埼玉川越の駅ビルに同居させてもらい、改めて東京近辺で仕事を探すことにした。

都内で働き、満員電車に乗るのは嫌だったが半面「東京の街で働く」みたいなあこがれもあった。
学歴も経験もない自分を受け入れてくれる会社は少なく、いわゆるオフィス街みたいなところで2社ほど雇ってもらえたがどちらもくそみたいな会社だったので3秒でやめた。

みんなスーツ着て華やかに仕事してるように見えたが多分半分くらいはくそみたいな仕事してるんだなーって東京を見る目が少し変わったのはよかった。

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暴走する私とはらむ嫁

嫁も帰ってきていて、もう少し色々考えたかった。
なのでとにかく経験のある介護で派遣を見つけ、二子玉に通った。

そのころは教育関連の仕事がしたいと思っていた。

みんながあまりにもったいない人生を生きてるように見えたからじゃないかと 今になって思う。

協力者もいて、起業しようとした。
初期投資もさほど必要とせず、営業力で勝負できるビジネス、これなら今の自分でもできるし、勝てるとしか思わなかった。

ただ、嫁に2秒で止められた。
「お前に日本のビジネスの何がわかるんだ」って感じだったかな。
個人的には分かんねーけど、「俺ならできる」としか考えてなかった。

振り返ると嫁は よくこんな男と結婚しようと思ったな と今なら感じる。

その頃、親父は働いていた会社から本人曰く「乗っ取られると思ったんちゃうか」ということで結果やめることになり、転んでもただでは起きない彼は東北の復興をビジネスチャンスと捉え、仙台でまた設備業を始める為、兄が就職していた運送会社から出資してもらう交渉をしていた。

そんな父親に誘われ、兄も行くということで仙台で小さな設備会社を運送会社名義でやることになった。

個人的には昔やっていた仕事なので学びになるとは思わなかったが嫁が納得してくれる感じだったのでひとまずそれに落ち着き、じゃあ結婚するかー ということでご両親に挨拶に行った。

どう考えても山浦家の状況はまともではなかったが、嫁側の両親は心配しながらも了承頂いた。

くしくもその次の日くらいだった気がするが、嫁の妊娠が発覚した。

そんなはらむ嫁と式の準備を残し、相変わらず社員に誘われていた介護の仕事も辞め、仙台に行くことになった。

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続く。次はいつになることやら、、、

ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。