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インクルーシブ教育についての誤解(1)

インクルーシブな学校をつくる:北欧の研究と実践に学びながら 石田祥代 (編集), 是永かな子 (編集), 眞城知己 (編集) ミネルヴァ書房 2021 を読んで考えたことを書いておきます。

「インクルーシブ教育」というと、障害のある子どももそうでない子どももみんな一緒の場で学ぶことというステレオタイプなイメージを持たれることも少なくないようです。この本は改めて再考する機会を与えてくれました。

実際、進路についての相談は、保護者からの相談としては少なくありません。教育相談の専門家だけでなく、臨床心理の専門家も当然知っておくべきでしょう。私は行動上の問題を抱えるASDのある人を専門にしていますが、この文章ではASDと行動上の問題を念頭に考えてみたいと思います。

みんな一緒に学べる教室は実現可能なのか

まず最初の問題として学ぶ場の問題を考えてみたいと思います。

特別支援学校は反インクルージョンだからけしからん、という人もいます。また福祉で脱施設を唱える人も入所施設はけしからんという人もいます。インクルージョンは社会全体の話で教育だけではないのです。

ではインクルージョンされた教育とは何でしょうか。みんなともに学べる場であるとすると、そこにはニーズの多様性を包含する学びの場とカリキュラムが必須になります。

かつて私が教育大学の助手をしていた時(20年位前?)、ある小学校の通常級の研究授業で、ことばの理解・表出も困難な知的障害とASDのある子どもが後ろで飛び跳ねている中で、先生や他の児童は淡々と教科の授業を進めているということがありました。先生からはその授業を評して「ありのままを受け入れ、その子の自発性を尊重している」と言われました。私は、そのASDのある子どもが自身の発達的な特性やニーズに合った教育を受ける機会は?、他の児童は本当に「この子がいることで自閉症や障がいへの理解が進んでいる(担任談)」のか?などなど、疑問に思ったことを質問したのですが、逆に「障害者差別」だといわれてしまいました。

その子どもが、退屈してかまってほしいと大声を上げ続けたり、他のクラスメイトや先生にちょっかいをかけることをしたら?イライラして攻撃や自傷行動が生じたら?その先生はどうしたでしょうか?おとなしい、他児童に迷惑をかけない子だけ?

問題は、この授業ではみんな一緒の授業内容が展開され、個の教育的ニーズが取り上げられていなかった点です。また多様性への配慮は、当該の障がいのある子どもだけでなく、教科内容が理解できない子、逆に応用が学びたいという子にも開かれないといけないと思います。

これを可能にするのが基礎的な環境整備とそれらの教育環境を教師がどのように活用できるかということです。現在「GIGAスクール構想」によってPCやタブレットが入ることで個別の学びができる環境は整いつつあります。しかし、教育現場のICTの普及に関しては「教師の役割が減る」や「学校に来なくてもよくなる」というような表面的で極端な議論がなされており、どう使うかという見直しが進んでいないように見えます。

これには一斉授業重視、クラス全体をまとめる、などの教師側のこだわり行動ともいえるものが阻害要因として強く影響しているのでは思えてなりません。インクルーシブな教育環境の追求にはこれらの「学校教育の当たり前」を根本から見直す必要があるのではないでしょうか。

「習熟度別グループにすると子どもたちの中に差別化生じる」のは本当でしょうか。たとえ本当だとしても「個別化」にしてしまえば、いちいち隣の子どもが何をやっているかは気にならないはずです。単に知識を問うようなレベルや、計算をさせる→解き方を教えるような授業は、集団での一斉授業で先生が全体に発問して、フィードバックを行う意味はそれほどないように思います。

もちろん、すべての授業を個別化すべきといっているのではありません。自分の意見を言う、相手の意見を聞く、話し合う、協力することを目標とした時間はつくるべきですし、それを主目標とした教材や学習環境を作るべきです。お楽しみ会でなにをするか、少し高尚なものだと社会問題解決するためのアイデアを考えるような授業テーマは、このような目的の授業に適しているでしょう。

学びのニーズに差があっても対応できる実証的な教育環境の研究というというのはなされないのでしょうか。





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