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なぜ、子どもを産むのか。

 子どもが産まれてくるとき、その親や周囲の人が「おめでとう」と言っている。本当に、おめでたいことなのだろうか。人生を楽観的にみることができず、苦しいものと思っている人にとって必ずしも出産は祝福できる事ではない。もしも、人間が生まれてくるということが本当に祝福されるべきことなら、私もそれを実感し、まだ見ぬ子どもたちの出生を心から祝福したい。

 子どもをなぜ産むのかというところから始まり、男女間で話し合った合意の上で子作りというものは行われるべきである。にも関わらず、「避妊具をつけなくても大丈夫な日だから子どもができるとは思わなかった」「避妊具をつけない方が気持ちいい」など、性に対する知識の乏しさが、あらゆる悲劇を起こしていると思う。男女間の欲を満たすためや、快楽を求めた果ての性行為の結末に、子どもができた時、自分の出生を知った本人はどう思うだろうか。

 子どもを授かるという事は、家族が増えて賑やかになるとか、自分の子孫を残せる。という、おめでたい部分だけではなく、過酷な側面が同等かそれ以上にある。人間が1人産まれるということは、まず、母体と子どもを危険に晒すことになる。そこから、母子ともに健康に生まれてきたとしても、それ以降の人生も健康的な生活を送り続けられるとは限らない。20歳になったら独立するものだと思っていたら全く家を出て行かず親のスネをかじり続けていたり、子どもが不治の病にかかり親が介護をするようになったり、両親が期待するような子どもにならなかったりと、思っても見なかった事が起こったりして、困難なことの方が多いのではないかと思う。相応の知識を持ち、覚悟を持って子どもを産むことを決めてほしいと考える。ところが、既成事実婚といわれるものがある。男女間でいかに既成事実(妊娠)を作って結婚に持ち込むかという一種の策略として、1つの命が使われたりする。また、男の子ではなく、女の子が欲しいからもう1人産んでみようと思ったとか、気持ちいいことをしたら結果としてお前が見つかった。母さんが堕すのを戸惑ったから産むことにしたとか、1人の人間がこの世に産まれてくる事に疑問を抱かずに子作りをする者たちがいる。

 私は、子どもを産みたいと思っている人、妊娠が不意を突かれた形でわかった人たちと一緒に子どもを産むことがどういうことなのかを考えたい。子を産み育てる覚悟がないから子どもが死にたいと思うようになったり、親が子を虐待し、殺すというような悲しい事件が起きる。産んだ側、産まれた側みんな苦しんでいる。大前提に子どもを育てる環境ができているか、夫婦関係、経済的側面、子どもと関わるということは多くの準備が必要。子どもを産むとなれば必ずしも周囲の子と同じように生まれてこないかもしれない。考えられる全ての状況をどこまで考えても充分ということはないと思う。

 今回、noteを書いているうちに、子どもを産みたい理由が見当たらなかったり、望んでいないができちゃった場合だとしても、人間が人間を作り出すことに、いいも悪いもないのかもしれないと思うようになった。なぜ子どもを産むのかという問いは難しい。それでも、考えに考え抜いた結果として、子どもを産むという選択をしたならその行為だけは正しいと言える筈だと私は信じたい。産まれた人間が必ず苦しむことになり、幾多の不幸が襲ってこようとも、その人が幸福であり続けることはできる。問題の本質は、子どもを産んでおきながらも、育児を放棄したり、虐待をして命を奪うことや、子どもから生きる勇気を奪い、自殺へ直接的でなくとも追いやるという事が、問題ではないかと思う。子どもである前に1人の人間であり、その人間を尊重できない者に子どもと関わる資格はないと思う。

 シャーペンには「書く」という目的のために生み出された理由がある。人間には産み出された理由がないことが多く、残酷な理由ばかりが突き付けられる。さらには、一般的な生きる意味はなく、その意味を自分で見つけなければいけない。
人生は苦である。みんな、生きていれば1度は苦しいと感じた事があると思う。中には現在進行形で苦しいと感じていて、こんなにも苦しいなら生まれてこない方がよかったと思うほどに追い詰められていたり、これから先、生きていくことはできないだろうと生きる勇気を失ってる人はいると思う。それでも、どうか死なないで欲しい。あなたがいなくなってしまうことで悲しむ人は必ずいる。そして、その悲しみは必ず伝播し、あなたを失った悲しみは世界に広がっていく。ただ生きているだけでいい。それだけで間接的にでも私は救われている。少なくとも、苦しみを感じながらも、懸命に生きているあなたが存在することで、私が勇気をもらっている。


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