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#07 生き神不在の聖地 チベット・ラサ

2000年10月28日

ついに辿り着いた、チベットの聖都ラサ。旅資金を貯めるために東京で働いていた頃、ガイドブックを眺めて、いつかは行くと心に決めていた憧れの地。

到着の翌朝、宿の外に出ると、これまで見たこともないような突き抜ける青空が広がっていた。心まで深く染め上げられそうな青を見上げて、念願の場所にいる喜びを噛み締めた。ラサは標高3650mで富士山山頂とさほど変わらない高さ。階段を登るだけで息が切れるが、移動中に悩まされた頭痛は消えていた。

疲れが溜まっていたので、洗濯だけしてゆっくりするつもりだったが、チベット人の信仰を集めて止まないジョカン寺(大昭寺)が宿から近いので、誘惑に勝てずに気がつくと足が向いていた。冬が近づいているとはいえ、日の当たる通りを歩くと暖かくて嬉しい。

チベットに仏教をもたらした吐蕃(とばん)王ソンツェン・ガンポが、7世紀にチベット統一を達成後、唐皇帝の娘を妃に迎えて廟を建てたのがジョカン寺の始まり。ラサの一番古い建築で街の中心部に位置し、チベット人商店が軒を連ねる賑やかな八角街が寺の周りを囲んでいる。

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辿り着いたジョカン寺は想像より小さかったが、チベット全土からやってきた巡礼者たちでごった返していた。入口前では何十人もの人々が、五体投地と呼ばれる大地にひれ伏す礼拝を行っており、厚い信仰心が伝わってきた。

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仏教文化に慣れ親しんだ一人として、チベット人の列に並んで一緒に参拝することにした。彼らはこの寺に辿り着いた喜びを噛み締め、押し合い圧し合いしながらもニコニコ顔で、仏画で埋め尽くされた回廊を巡り、小部屋に祀られている仏様にヤクバターやお金を捧げて祈っている。長蛇の列はなかなか進まず、本尊の釈迦牟尼仏に辿り着くまでに1時間もかかった。薄暗い堂内に揺らめく何百ものヤクバターの灯明、そのバターの獣臭、人々がブツブツ唱える読経の響きが醸し出す異空間、生き生きとした信仰の場が持つ磁力に強烈な印象を受けた。

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河口慧海も学んだラサ三大寺院の一つ、セラ寺を訪問すると、木漏れ日が揺れる中庭に若い僧侶たちが200人位集まってきた。15時から禅問答修行が行われるのだ。合図もなく禅問答は始まった。やる気溢れる僧は手を大きく振りかぶり、まるで必殺技でも仕掛けるようにバシーンと手を打って、問いを相手にぶつける。一人の回答者を2人で奪い合ったりする三角関係や質問を無視する者、輪に入れない僧、隅っこで座っているだけのやる気のない僧、観光客を意識してオーバーアクションした後に、こちらを見てニヤッと笑う僧もいたりと、複雑な人間模様が展開していて面白かった。

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ジョカン寺、セラ寺は活気があり、チベット仏教が生きている様を見せてくれたが、マルポ・リの丘に建つ世界最大級の建築物、観音菩薩の化身ダライ・ラマが住まうはずのポタラ宮は対照的だった。中国によるチベット侵攻以降、現在まで王宮の主はインドのダラムシャーラーに亡命しているのだ。

ポタラ宮は中国政府の管理下に置かれており、見学には公安警察が一緒について回るので全く落ち着かなかった。3トン以上の金、トルコ石、珊瑚石など宝石を散りばめて作ったダライ・ラマ5世の巨大なストゥーパ(仏塔)は豪華絢爛だったが、写真撮影は法外な費用が必要なので断念。チベットに来たら訪れるべきだが、王がいない現在では最早ただの観光名所でしかなかった。

ラサの街にある尼寺を訪問。「タシデレー(こんにちは)」と挨拶すると、27歳の可愛らしい尼さんが一緒に回って丁寧に説明してくれた。中国による弾圧の酷さを無言で伝えるように、破壊前と現在の寺の写真が並べて貼ってある。本堂裏に長細い部屋の奥には名僧が瞑想した洞穴があった。そこで、証明写真サイズの小さなダライ・ラマ14世の写真を見つけると、尼さんは口に人差し指を当てて微笑んだ。掲示することを許されないダライ・ラマの写真をチベットで初めて見た瞬間だった。

チベットに一緒に来たインド人学生ビピンが待ち合わせをしていた同級生マリアは、チベットにおける人権弾圧の状況を極秘調査中だった。彼女に会って話を聞くと、今も状況はかなり深刻であることを知り、観光気分がすっかり冷めてしまった。

チベットは第二次大戦後に独立を目指したが、チベット侵攻以降は自治区としての地位に留まっている。文化大革命の時代には激しい宗教弾圧が加えられ、寺院の破壊、略奪が行われた。弾圧は依然として続いており、漢民族の移住政策が進み、今ではチベット人口を凌駕する。

チベットの観光ガイドは以前は英語を話すチベット人が多かったが、中国語の資格試験が行われるようになって以降、中国人がほとんどを占める。僕らが観光客よろしく、民族衣装を借りて撮影した宮殿前広場は、元々チベット人居住区だったが、中華人民共和国建国38周年記念として更地にしてしまった場所だった。

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ラサを囲む山の向こう側には刑務所が4つあり、多数のチベット人政治犯が投獄されている。大砲が常にラサ市街に向けられており、10秒で破壊できるという。政府で働くチベット人は、家の中に仏壇を置くこと、ポタラ宮に行くこと、4月のブッダ生誕日にお香を焚くことなど宗教活動が禁止されており、見つかったら解雇されてしまう。

一大宗教都市として栄えたラサ。主要寺院の建物は残るものの、僧侶の大多数が故郷を離れてインドに亡命して活動している。現在は残った人々により建物の再建が少しずつ進み、制限付きながら宗教活動も行われているが、もはやチベット仏教の中心地ではない。

街を歩いているとき、チベット食堂で汁そばトゥクパを食べるとき、チベット人たちと眼が合うとにこやかに笑いかけてくれる。その人懐こい笑顔の奥には沢山の悲しみが潜んでいる。チベットに残り復興を担う僧侶たちから、この抑圧された状況を世界に伝えてほしいとの願いを感じるのは、気のせいではない。

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