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Decolonizing Designとはなにか?デザインのもつ特権性と支配を考える

Masafumi Kawachi

近年の海外のデザインの議論では、Decolonization=脱植民地化と直訳できる概念をよく聴きます。Decolonizing DesignとかDecolonizing Futureとか、Decolonizing Imaginationをテーマにしたワークショップが開催されたり。ぼくもぼんやりとしかつかめてないのですが、デザインにとって、それはどういう意味をもつのか?というのを考えたいと思います。

西洋の"支配"の歴史

Colonization=植民地化の意味は、ご存知だと思います。他国を統治下していくことであり、多くの場合はその土地に本来住んでいた、原住民を奴隷化したり、迫害するといった行為が付随しました。そして、支配された土地に根付いていた文化は統治国のイデオロギーに上書きされます。

西洋において社会とはそもそも他国の植民地化をすることにより成り立っていた、そして我々はそのような特権性と抑圧のシステムの中に存在しており、「わたしたちのものだ」とみなすカルチャーの多くは実は適応された者もしくは盗まれたものなのだ。
(What Does It Mean to Decolonize Design? より)

とあるように、重要なのはこの議論が「西洋」ゆえに起こっているということです。ヨーロッパ諸国はこうしたColonizationの上に成り立ち文化と繁栄を築き上げてきた、という歴史があります。もちろん、そこには戦争があり、血が流れ、あらゆるものが失われた。現代はそれと無関係ではいられない、という意識を改めて考える必要があります。なぜならそうした支配の上に今の私達は生きているから、ということです。

De-colonization=脱植民地化とは?

De-colonizationとはなにか、というのをまず観た上でデザインにおける意味合いを考えていきたいと思います。

脱植民地化とは植民地主義者のもつ力をあらゆる形式において明らかにした上で解体するプロセスであり、これは政治的独立が成し遂げられた後にも未だに残る、そのような植民地主義を維持する隠れた権威性や文化的な力の行使を解体することでもある。
https://literariness.org/2017/10/04/decolonization/

と述べられています。これは政治的意味合いが非常に強い言葉ですが、こうした支配の仕組みを解体することはデザインにも繋がることです。今回考えたいのは、無意識的にもデザインは加害と支配に容易に貢献できるということ、そして歴史の上に流れる支配的な力や特権性を解放していく、というデザインにおけるDe-colonizationなのです。

デザインにおける"Decolonization"とは?

デザインの価値や歴史は、ある基準や原則を通して教えられてきた。その「何が良くて、また悪いと言えるか」という基準は主にはヨーロッパまたはアメリカの男性デザイナーにより設定されたのだ。
(What Does It Mean to Decolonize Design? より)

と、そもそもデザインの文脈における"良さ"が、偏った視点で作られていることを提起しています。つまり支配的な物事の見方を設定して、当たり前を作ってしまっている。当たり前の基準があれば、当然それ以外は良いものだと認められなくなってしまいます。その基準が、「西洋の白人男性デザイナー」に定められたものである、と。もっというと、「西洋、白人、異性愛者で五体満足の男性」とかなのかもしれません。

そして"西洋的な言説がデザインの中心に置かれている限りは、その他のものが異なるモノだとみなすことを意味する"と。ここで異なるモノ=劣るモノを意味します。つまりこの西洋の立場で生み出された価値体系は他の価値体系を排除し、そうした価値により構成される文化圏を除外するという意味で、「植民地化されている」という状態を表しています。What Does It Mean to Decolonize Design?では、例えばアフリカにおけるデザインプロダクトが"工芸"と揶揄される、みたいなお話をしていたり。

こうした価値観からくる支配を行うこと、これは文化的な差異だけのお話では当然ありません。身近にいえば、資本主義の価値体系の中で、効率性・合理性・経済性がモノサシになり文化や芸術システムを支配してたり。簡単に言えば、一元的なモノサシで優劣を図り、そのあり方を押し付けてくるというのはすべて植民地支配的な行為ともいえるかもしれません。「なんでこうしないの?こうやれよ!」と自分のやり方を押し付けてくる人ってたまにいるけど、そういうノリに近いかもしれません。だから多元的であること、他を許容して選択肢をオープンにするというのは大事。

つまり、こうした植民地化(権威的に支配)された物事や概念、価値体系を解体していくのがDe-colonizationということになります。例えば、西洋的なものにとらわれない、新たな価値軸を再構築していき既存のシステムをアップデートしたり、または隣に別の文化圏を構築することで多元的な価値の受容を目指していくというニュアンスなのかなと思います。

ちなみにこうした議論はとりわけ新しいことを言っているわけではないと思いますが、近年デザインの文脈で叫ばれているのは、ポストヒューマニズム理論の台頭、つまり西洋的な人間(Man)中心主義の崩壊ー国籍や民族性に基づき人間とはなにかが語られることーなどが背景なのだと思われます。

ある種の植民地化の形式としてのデザイン

わたしたちは、MacBookをもち、クールなCanonのカメラ、モルスキンのノート、そしてカラフルなポストイットと共に、"貧しい"国に、貧困や課題をなくすんだという心持ちでつく。勿論、彼らを救えると信じている、デザインの仕方は知っているし、それでなんとかなるんじゃない?正直なところ、多くの場合、状況を変えられると信じてはいるのだ。しかしながら、そのように楽観的であることと、恩着せがましくすることの境界はとても曖昧だ。わたしたちは、そのコミュニティに奉仕するためにデザインを持ち出すことが大事であり、わたしたちにとっての唯一解や真実を押し付けることが必要なわけではない。力関係というのは非常に厄介であり、どのようなアティチュードや行動が周囲に影響を与えているのかに自覚的でなければいけない。ガーナのむらに、おしゃれで、スマートなデザイナーが問題を解決するために現れるときに、わたしたちがそこに運び込むのは知識や考え方だけではない。存在そのものが、多くの次元で無意識にあらゆるものを伝達してしまう。
(ーDesigning for the forgottenより)

デザイナーは医者に喩えられることが度々あります。ただ多くの場合に異なるのは、人々は医者のもとに自らいくけれど、デザイナーは(求められなくても)自分から人々に介入していくということです。もちろん、高い解像度で世界を生き、わずかな違和感を逃さず、未来を見通して、新たな良さを具現化していくことを主体性をもち率先して行うのがデザイナーでもあり、それは必要な姿勢だとも信じていますが、シンプルに言い換えればお節介でもあります。それは少しの傲慢さで自分が見出した"良いであろう価値観ややり方"を押し付ける危険につながります。それのみならず"立ち振る舞い"ですら下手をすれば力関係を無意識に周囲に伝達してしまいます。

これは別に、従来の植民地理論に関する西洋/非西洋や先進国/発展途上国の関係性のみ起こるわけではないのです。UNLEASHのコラムには、都市の合理性を持ち込むことで地方における感情をベースにしたロジックを壊しかねないということが述べられています。しかし、合理的な方法論で状況へ介入していくことも可能なのです、それが地方を都市の論理で支配してしまおうとも。

デザインの実践というのは、このようにあらゆるところで、"こうあるべき"という一元的な価値体系や認識を生み出してしまいかねないし、無自覚的に力や特権性を押し付けかねない。そうすることで、われわれはデザイナーは知らぬ間に抑圧者になり、人々をColonizing=植民地化的な支配に導きます。

まずは自分がどういった特権性をもつのか、それを理解することが第一歩ではないでしょうか。あなたがシスジェンダー(生物学的な性と認知的な性が等しい)であれば、それはもう場面に応じて特権的に働きかねないのです。例えば、アールト大学の授業ではFrame Shift Consultingが提供するワークシートを記入したり、Theater of the oppressedという枠組みで、抑圧された場面を身体的に表現することで、抑圧者の気持ち、抑圧される者の気持ちを身体に刻み込むようなワークを行いました。自覚することが難しいからこそ、こうした取り組みはこれからますます必要かもしれません。


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Masafumi Kawachi

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