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生活空間を共有することは、きっと心の状態を共有すること

神経が疲れちゃったな、というときは掃除することにしています。

 展示会の搬出をした昨日は「あ、ひと区切り」と思ったら急にどーんと沈んでしまいました。重たい気分は、ひと息ついてリラックスしていいようなときにやってくることが多い。楽しみや緊張が支えていたものが一気に落ちてくる感じがします。 

昨日はちょっと荷解きして、あとは諦めてぼんやりして過ごしました。寝て起きたらきれいに晴れた日だったのに、モヤモヤした気持ちのまま。そんなわけで、いつもより少し一生懸命に掃除をしました。少しですけど。

 掃除機をかけて終わりにするところを、床やら腰板やら棚やらを雑巾で拭く。鏡もきれいにする。洗面台を磨いて配管を漂泊する。洗濯槽も漂白する。 一回り掃除をしたらやっぱり気分は明るくなりました。不思議です。 
沈んでいるなら掃除。という方法を知ったことは、実生活にとても役立っています。

さて、少し話は膨らんでしまうのですが、生活空間を共有することは心の状態を共有することだなと思うんです。 部屋の状態は心模様を映すとよく聞きますし、自分の経験からもそのとおりだと思います。初めてnoteに書いたのものそういう内容でした。 

部屋のすみっこに、なんとなくごちゃっと色々置いてある場所ができてしまう時、ほかに大事なことがあるから、今は考えたくない! という心の表れのような気がする。

ボロボロのパジャマを買い替えられないときは、他人に見られていない自分をおろそかにし過ぎているのかもしれない。

たぶんもう着ないだろう服を捨てらないのは、思い出を捨てらないのか、新しいものを買うお金を心配しているのか、、、。

大事なものを大事にしていたい」2019.10.31


心の散らかりで、部屋は荒むし、荒んだ部屋を目にしていると、心はますますゴチャゴチャになる。逆に部屋をきれいにすると、心も整ってくる。連動してる。だから、もしも自分の心のモヤモヤのせいで部屋が荒れていたとしたら、きっと一緒に暮らす人は視覚で触覚で嗅覚で無意識に何かを感じ取り、その人の心にもモヤモヤが忍び込むんじゃないかと思うんです。

上の例でいくと、部屋のすみのゴチャゴチャゾーンは、一緒にいる人に対する軽い拒絶のようなかたちで作用するかもしれません。

 逆に、ボロボロのパジャマを買い替えてあげたら、自分を大事にするようになることだってあるかもしれません。

部屋に心が表れるなら、言葉のコミュニケーションの前に部屋からいろんなものが伝わってしまっている。言わなくたって、ぜんぶ表れている。部屋の中に誰かがいるというのは、心の中に入れているようなものなのかもしれません。

生活空間を共にしているなら、その空間を大切にすることは、そのまま、一緒に暮らす人の心を大切にすることだと思うのです。家で過ごす時間が長くなっている今は、いつもの場所を整えることがこれまで以上に大切に感じます。

お掃除、お片付け、完璧じゃなくてもそこそこ快適に過ごせるようにしていたいですね。まずは自分のために。誰かがいるなら、その一緒に暮らす人のためにも。 




文字でもものづくりでも、どこか通じ合える人と出会いたくて表現をしているんだと思います。何か感じてくださったならとてもうれしいです。