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ポピュリズム現象としての一月万冊/清水有高ポピュリスト論



 以前、私はジャーナリストの烏賀陽弘道氏と一月万冊のホストである清水有高氏が対立していることを記事にした。あれから、二ヶ月近く経過しているが、事態は改善せず、事実上、両者は決裂してしまった。
 詳しい経緯は全くの部外者である私には預かり知らぬことだが、大変残念に思う。

 ただ、私が一連の流れをみて疑問に思ったのは、一月万冊の視聴者と思われる人たちが清水氏や一月万冊に対して否定的な言葉を投げつけていることである。もちろん、問題があるのを指摘するのは当然だが、いきなり相手を否定するのはいかがなものかと思った。


あなただって、清水さんや一月万冊を信じていたんじゃん。それが、上手く行かなかったからと云って、急に「裏切られた!」「嘘つき!」「拝金主義者!」と云うのはヘンなのではないか。


 私がこう思うのは、一月万冊のおかげで助かったと云う記事を挙げている他に、こう云う風に相手を0か100でみる態度は、あまりにも短絡的ではないかと考えるからだ。確かに、清水氏は問題の多い人物なのかも知れないし、個々の対応についても首をかしげたくなることが多々ある。
 しかし、そんな彼の言葉を私を含め多くの人たちは信じたのではないか。あなたも私も、彼が語っていた理想が素晴らしいと思ったから、視聴して応援したのではないか。それをあっさり捨てるのはおかしいのではないか、と思うわけだ。

 ただ、同時に私が思うのは、「私たちがみている清水有高氏」と「清水有高氏本人の自己認識」には、だいぶ「隔たり」があるのではないか、と云うことだ。その「隔たり」が表面化したのが一連の騒動なのではないかと思った。そう私が思ったのは、清水氏が2021年5月17日に投稿した動画で語っていた内容が引っかかったからだ。



 動画内で、清水氏は自身の生い立ちに絡めながら、どのように読書をしてきたのかを語っていたからだ。清水氏は動画の中で、自身にとって読書は「生き残るため」と強調している。


清水)清水さんは社会人になる前に、なった直後に、読んだわけですよ。自分自身が労働力と云う商品として経済社会にどう流通するのだろうと云うことに興味があって、どうせ流通させられるのならば、環境を知った上で、しっかり生き残るためにはどうしたらいいのか、と云う視点でね、色々情報収集していたんですよ。
平田)そうですね。
清水)これがね、あ、もしここがだいぶ違うところで、こう云う宇宙とか、そう云う哲学的な思想的な部分があるじゃん、ここまでいくと。おっきい世界になっていくとね。そっちばっかりに興味があるんだったら、マルクスの話に行くはずなんですよ。例えば、この『日本的慣行の経済学』と云うのを読んだとき、「けしからん!」。
平田)あー。
清水)「資本主義許すまじ!万国の労働者は立ち上がれ!」みたいな。『賃労働と資本』とか、そう云うのを読むわけですよ。
平田)(笑)
清水)「共産党革命だ!」とかそう云う方向に行くんだけど。全く興味がなかった。二つ大きな理由があった。
平田)二つ?
清水)一、父親が経済学者だったから。
平田)あー。
清水)なんか、自分を捨ててですね、あーの世の中をよくする云々とか云っている、そう云う奴ら。自分の家庭も大したこともできないのに、「正義」だけを振りかざすバカ。さらに云うと、そう云う奴らがですね、あの、俺が生まれたときから3年後、1981年から、その頃からさ、何かキレイごとばっかり云っててさ、全然なんにも、世の中なんにも上手くいってないじゃん。
平田)今だに云っているよね。
清水)さらに、今でも良くなっていないから、そんな思想的なものなんて役に立たないよね。
平田)あー、そう云う「しらけ世代」なちゃった、と云う(笑)。
清水)(笑)「しらけ世代」の割にはだいぶ頑張ってると思うけど。あのそう云う風に思ってたわけ。その次に、「生き残ること」が重要だったんですよ。
平田)まー、そうだね。
清水)3歳のときの話を思い出してください。死ぬほど大変だったわけですよ、清水さんは。「生き残りたい、生き残りたい、生き残りたい」って云う風に、死ぬかも知れないから、「怖い、怖い」と云う欲求があって、子供の頃はそう云う宇宙とか、今でも好きだけど、そう云うのでごまかすことができたわけ。生き残るために、宇宙の本が必要だったわけ。自分の心の平安を保つため。
平田)うんうん。
清水)社会に出るにつれて、「宇宙」が生き残るために、こう云う本(『日本的慣行の経済学』を掲げる)が必要になって。
平田)そう云うことね。
清水)て云う風になっていって、平田さんの最初の印象て云う話になったときに、生き残るためには、まず、自分が商品として労働力を経済の中でね、流通させられる強制的にね、この社会の状況はどうなっているのだろうか。当時、俺『日本経済新聞』『日本流通新聞』あの、今だと『日経MJ』とか。
平田)あー、うん。
清水)後、『日本金融新聞』
平田)(驚)うわー。
清水)後、『日本産業新聞』。
平田)(驚)あー。
清水)『朝日新聞』
平田)あー。
清水)『読売新聞』
平田)あー。
清水)俺、全部読んでたよ。プラス、自分が応募する会社、
平田)会社?
清水)業界の、専門誌。
平田)例えば、『繊研』(繊研新聞社)とかね。「繊研」は受けないだろうけど。
清水)そう云うやつ。読んで、情報収集をした上で、こう云う風に自分が置かれている労働商品としての状況はどうなっているのか、プラス、実際に自分が営業に就いたら、営業の本を読む。だからね、「生き残るため」なんですよ。
平田)なるほどね。
清水)清水さんは確かに、あのー、ま何だろう、オカルト本とかね、あのそう云う本とかもね。あの結構好きで、読んでた時期もあるのだけど、それも全部生き残るため。
平田)うーん。
清水)全部が死にたくないから、読んでいると云う感じ。(31:27−35:10)


 清水氏の語っている内容には賛否があるかも知れない。だがここで、清水氏が語っている内容を分析すると、以下のような傾向の人物なのがわかる。


一、イデオロギーには関心がなく、役に立たないと考えている。
二、思想的な議論はエリートが行うことで、エリートに対して強い反発を抱いている。
三、社会で生き残ることが何よりも重要と考えている。

 

 私は上記のような清水氏の傾向を考えると、ある結論が出た。

 それは、「清水有高氏はポピュリストなのではないか」と云うことだ。


「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」と云う図式


 私がそう思ったのは、現代の政治学で議論されている「ポピュリズム」やその担い手である「ポピュリスト」に関する研究と、一月万冊や清水氏の言動と重なる点が多々あるからである。

 「ポピュリズム」と聞くと、あまり多くの人はよい印象がない。理由は、「ポピュリズム」が主に「大衆迎合主義」と翻訳されており、転じて「愚かな大衆を先導するデマゴーグ」「大衆に媚びを売る人気取り屋」と云うイメージが強い。実際、プラトン以来、西洋文化圏では「大衆迎合」は強く忌避されており、日本でも同様の印象を持つ人が多い。
 しかし、現代の政治学における「ポピュリズム」の定義は、そのような善悪の価値はなく、むしろ、逆で「イデオロギー」がないことが第一の特徴とされる。

 政治学者のカス・ミュデとクリストバル・ロビラ・カルトワッセルは『ポピュリズム』の中で、「ポピュリズム」を「社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」であると定義している(14頁)。
 

 「中心の薄弱なイデオロギー」というポピュリズムの定義は、その概念がしばしばもつと言われる順応性を理解するのに役立つ。イデオロギーとは、人間と社会のあり方ならびに社会に構成や目的にかんする規範的な理念の集合である。簡単にいうと、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかという、物の考え方のことである。「中心の強固な」あるいは「中身のつまった」イデオロギー(たとえばファシズムや自由主義、社会主義)とは異なり、ポピュリズムのように中心の薄弱なイデオロギーは限定的な形態をとるのであって、表向きは必然的に他のイデオロギーと結びついた――場合によっては同化した――ようになる。むしろポピュリズムは、必ずといってよいほど他のイデオロギーの要素と結びついており、それらの要素は大衆により広く訴える政治計画を進めるうえでなくてはならないものである。したがって、ポピュリズム自体は、現代社会の生み出すさまざまな政治問題に対して、複雑な解決策も包括的な解決策も示すことはできない。 
 これはつまり、ポピュリズムがきわめて多種多様なかたちをとることがあるということであり、そのかたちはポピュリズムの核心となる概念がどのようにして他の概念と表面上結びつき、それぞれの社会にとって多かれ少なかれ魅力的な解釈の枠組みを形成するかによって異なる。こうして見ると、ポピュリズムとは各個人が政治情勢を分析・理解するのに使用する一種の頭に描いた図式(メンタル・マップ)のことだと解さねばならない。ポピュリズムは、一貫したイデオロギーの伝統というよりもさまざまな理念の集合なのであって、現実の世界では全く別の、場合によっては相矛盾するイデオロギー同士が組み合わさって現われるのである。(14ー15頁) 


 つまり、「ポピュリズム」は中心にある思想がほとんどないことで、様々な思想と融合して現実の世界に現われると云うことだ。もっとも、全ての思想と融合するわけではないと云う。
 ミュデたちは、ポピュリズムはエリートが社会を指導すべきと考える「エリート主義」と社会には様々な人々が生きており、権力は分散させるべきと考える「多元主義」が結びつくことはないと述べている。理由は、ポピュリズムの中核概念である「人民」と相性が悪いからだ。また、ポピュリズムは「エリート」は腐敗堕落した存在として描き、「人民」こそ高潔な存在だと考える二元論とも相性が悪い。
 もし、ミュデたちの議論を日本人に馴染みやすい言葉で云うなら「一般庶民」や「普通の人たち」「国民」と云うべきか。

 実際、一月万冊を視聴している人間なら、上記の構造は理解しやすいと思う。一月万冊では、基本的に「エリート層」である自民党や電通、東大、あるいは各種利権団体や学歴差別を批判の俎上に上げている。ミュデたちの議論に即して云えば、清水氏や一月万冊は、私を含めたそう云う「エリート層」ではない人たちの声を代弁するメディアとして振る舞っているのがわかる。

 ただ、ポピュリズムでの「人民」や「エリート」と云う分類はかなり恣意的である。


しかしながら、ラクラウが力強く主張したように、「人民」が「空っぽの記号表現」だからこそ、ポピュリズムはそのように力強い政治的なイデオロギーであり現象なのだ、というのはまさに事実である。ポピュリズムには、さまざまな有権者を惹きつけ、彼らの要求を明確なかたちにできるよう「人民」を組み立てる力があることを考えれば、ポピュリズムは多様な集団間に共有されたアイデンティティを生み出し、共通の目標を支持しやすくすることができるのである。
 「人民」は構築物であるため、多大な柔軟さが可能となる一方で、ほとんどのケースで次の三つの意味を組み合わせて使われる。すなわち、主権者、普通の人びと[庶民]、国民としての人民、である。(19ー20頁)
 エリートはまずなによりも権力に基づいて定義される。すなわち、それには政治、経済、メディア、芸術の世界で指導的な地位にある人びとのほとんどが含まれる。(略)とはいえ、標的となるエリートから、ポピュリスト自身はもとより、これらの集団のなかでポピュリストに共感をもつ人びとは除外される。(23頁)
 ポピュリズムにおける主要な区別が道義的である一方、ポピュリズムの担い手たちは、人民とエリートを区別するのに多様な二次基準を用いる。そうして得られる柔軟性は、ポピュリストが政治権力を獲得するとき、とりわけ重要となる。エリートの定義が人民の定義と同じ基準に基づくならば道理にかなっているだろうが、いつもそうだとはかぎらない。(27頁)


 事実、一月万冊の出演者の多くは都市部出身のインテリで、高等教育を受けており、難関大学を卒業し、大手企業に勤めた経験があり、客観的にみれば、「エリート」の一員である。また、ホストの清水氏もシングルマザー家庭出身で、過酷な生い立ちを経ているものの、経済的には成功をおさめており、「人民」「労働者」の一人とは云い難い。
 しかし、ミュデたちが指摘しているように、ポピュリストにとって重要なのはそのような客観的な経歴ではなく、彼ら・彼女らが「人民の声」を代弁することである。ミュデたちはフランスの哲学者・ルソーが提唱した「一般意志」”Volonté générale”と表現している。


ルソーは、一般意志(ヴァロンテ・ジェナラール)と全体意志(ヴァロンテ・トゥス)を区別する。前者は、人民が共同体に共に参加し、共通の利益を強いるよう立法化する能力を指し、後者はある特定の瞬間の個別利益の単純な総和を意味する。ポピュリズムによる汚れなき人民と腐敗したエリートの単一論的で道義的な区別は、ひとつの一般意志が存在しているという考えを強めるものである。(29頁)
ポピュリズムは人民の一般意志に訴えることで、それぞれのやり方で分節化を行なう論法を定め、その論法にしたがってひとつの強いアイデンティティを有した幅広い人びとからなる主体(「人民」)の形成が可能になり、現状の体制(「エリート」)に挑戦できるようになるのである。この観点からポピュリズムは民主化する力とみなされうる。なぜなら、それは人民主権の原理を擁護し、政治的エスタブリッシュメントによって代表されていると感じていない集団に権利を与えることを目指すものだからだ。(31ー32頁)


 すなわち、ポピュリズムとは直接民主制を求める政治運動と云えよう。一月万冊がYoutubeやインターネットを用いたメディア戦略を用いたのは、政治学的に云うならば極めて理にかなったことを行なっていると云える。まさに、ダイレクトに視聴者(人民)とつながることで、既存の大手メディア(エリート)が報じない情報を発信して、多くの人をひきつけてきたと云える。
そんなポピュリストは非常に魅力的な人物として自身をみせようとする。


 ポピュリズムの担い手は属人的な選挙手段を開発することで、強力などの政治組織とも結びつくことなくみずからをクリーンな担い手として演じることができる。つまり、自身と「人民」を媒介するものがなにもないゆえに、彼は「市井の人」の声の代弁者でありうるのだ。(69ー70頁)


 一月万冊が一気に視聴者数を伸ばしたのも、同様の原理が働いたとみるべきだろう。大手のメディアに所属しておらず、出演者である著者に一時間近く「タブー」なく語らせると云うのが大きな魅力として映ったと云うわけだ。ただ、であるがゆえにポピュリストは制度やシステムを構築するのが苦手だ。


 明らかに、ポピュリストは個性的リーダーシップを通じて選挙で躍進を遂げうる。これがとりわけ真実なのは、ポピュリズムの指導者がカリスマ的な人物で、自身をアウトサイダーとして演じる十分な資格と、大衆との直接的な結びつきを確立する能力をもっている場合である。しかしながら、こういったタイプの指導者はたいてい制度を作るのがひどく下手だ。彼らは有能な担い手と職員がいるよく組織された政党よりも指導者個人の選挙舞台を組み立てることで、選挙での持続性という点で成功するには深刻な問題を抱えることになる。(91頁)


 清水氏は、ミュデたちの分析にものの見事に当てはまるのがわかると思う。つまり、一月万冊とは清水有高氏と云う傑出した人物にのみ支えられたメディアであり、出演者たちの間でほとんど思想的なつながりが存在しないと云える。


 ポピュリズムの指導者の特徴として、おそらく最も盛んに議論されているのがカリスマである。ドイツの著名な社会学者マックス・ウェーバー(一八六四〜一九二〇年)によると、カリスマ的支配とは、個人の非凡な天賦の才(カリスマ)のもつ権威、つまり神がかったお告げや英雄的行為などの指導者個人の脂質に対して[人びと]が完全に全人的に傾倒したり信頼を寄せることを指す。ウェーバーは、カリスマ的支配が盛んになるのはとくに危機の時代、人びとがもっともよくある権威の源(すなわち習慣や法令)よりも、政治におけるアウトサイダーであることの多いどこかの誰かがもつ、何らかの特質にすがって難を逃れようとするときであると考えた。(略)
 ウェーバーの解釈にならえば、カリスマ的支配とは指導者と追従者との間で結ばれる特定の絆が肝心なのであって、どのような絆であるかは、指導者個人の特質と少なくとも同程度には、追従者の期待や認識によって決まる。それゆえ、カリスマについて万国共通の決まった特徴を探し求めても、ほとんど意味がない。むしろカリスマおよびカリスマに含まれる個別の特徴とは、文化によって決まるものであって、たとえばスウェーデンでカリスマ的とされるものと、ペルーでカリスマ的とされるものとでは異なってくるのである。(101ー102頁)


 つまり、清水氏と出演者たちの間にはほとんど思想的な共通項はなく、唯一存在しているのはウェーバーの云う「絆」しかないと云える。逆に云うと、だからこそ非常に柔軟性が高いメディア発信が行なえると云えるし、思想的な部分があいまいだからこそ、関係が築けたとも云える。しかし、一旦、思想的な差異が明確になると、瓦解しやすい関係とも云える。もっとも、私の見立てでは一月万冊の出演者たちは互いに異なる思想を持っているのを了解した上で清水氏と関係を結んでいたのだと思う。それは清水氏が中心にあるイデオロギーがなかったからこその関係だったと云える。


たいがいのポピュリズムの指導者たちは、みずからが猛烈に拒絶しているのとまさに同じエリートと長年にわたって深い関係があったことを隠すため、政治のアウトサイダーであるというイメージを作り上げることに、ことさら意を注ぐのである。それゆえ、ポール・ダガートの所見をみじって言うならば、ポピュリズムとは凡庸な人物像を構築した非凡な指導者による、凡庸な人民の政治であると考えられる。(119頁)


 こう書くと、やはりポピュリズムは胡散臭く、一月万冊の活動も胡散臭いと思う人がいるかもしれない。しかし、物事には一長一短が存在するわけで、清水氏や一月万冊も長所と短所が存在すると云うことだ。組織化されていないと云うことは視聴者の声が反映しやすい一方で、極めて属人的なメディア運営になりやすいことを意味する。思想的なバックグラウンドが存在しないと云うことは、柔軟に状況に合わせて対応することが可能だが、一方ではたからみると、無節操にもみえる言動を行なっていることになる。ラジカルな言論を行なえると云うことは、タブーや忖度がないとも云えるが、意見の違う他者との妥協が困難と云うことも意味する。

 一月万冊を視聴者ー私を含めてだがーは既存のメディアや言論人が信頼できなかったり、もの足りないと感じていたから、清水氏の活動に賛同したのではないだろうか。私のみる限り、一月万冊の出演者は比較的リベラルな言論人が多いと思うが、著名な論壇人が同様の活動を行なってもおそらく「エリート」の言論としかみなさないと思う。そうなると、ポピュリズムの根底にある作動原理である「人民」対「エリート」と云う対立構造が発生しなくなり、端的に云うならば、つまらなくなる。
 
 「真実とはつまらないものだ」、と割り切れる人が読者の中にいるかもしれないが、一月万冊や清水氏に対して「期待はずれだ!」「嘘つき!」「裏切られた!」「信頼を返せ!」と云う人の発言が件の騒動以後、散見されるようになった。その人なりに清水氏や一月万冊が信頼があったのだと思うが、「では、主要な言論人ー例えば、内田樹氏や中島岳志氏、小熊英二氏、上野千鶴子氏など平成時代を代表するようなリベラルな言論人ーはどんな発言をしているのか」をチェックしたり、一月万冊以外のメディアはどう云う情報発信を行なっているのかを調べたり、「どうして、言論人は他にも大勢いるのに、一月万冊の出演者たちばかりを信頼したのか」について考察を行なっている人がいるかと云うと、私がみる限り、皆無だ。もっとも、私はツイッターばかりみているので、単純にリサーチ不足なだけなのかもしれないし、そう云う人は読書が中心でネットにあまり書き込まないのかもしれない。

 事実、清水氏は2021年5月18日に公開した本間龍氏との動画で、以下のような発言している。



清水)いやー、でもね、ホントにね、この番組を運営しててね、大変だなーと思うのが、好き勝手云うんだわな、「視聴者」つーのは(笑)。
本間)ハハ、そりゃそうだわな(笑)。
清水)あのー、メディアの批判をしたので、ちょっと、「視聴者」の批判をするとですね(笑)。うちの十三万人ぐらいの人たちが好き勝手云ってくるわけ。で、あれね、やっぱり、『朝日新聞』とかTBSとかね。一応、再販制度とか電波法とかで守られているじゃないですか。
本間)うん。
清水)そうするとさー、「うっせー、バカ!テメーがバカなせいで、こんなこと云ってくるんじゃねー、ボケ!」て云う風にね、視聴者のクレームに対応できないでしょ(苦笑)。「事情も知らねーくせに。俺たちだって、大変なんだよ」て云えないじゃん(苦笑)、ね。
本間)(苦笑)
清水)そう云う意味では、視聴者のリテラシーが低くて、好き勝手連絡してくるって云う、自分の正義感で、暴走する人たち(苦笑)。て云うので、旧来のメディアとか出版って動けないな、とも云えるね。確かにね、チャンネル登録たかだか、十三万人でこれなんだから、視聴率20%の番組って、単純計算で二、三千万人みていることになりますから、鬼のような連絡が来ているはずですよね(苦笑)。
本間)まー、来るよね。
清水)あれだからね、それを含めてね、私は、ぜーんぶ、旧来のシステムのあり方が終わってんだろなって云う風に思うね。うん。
本間)うん。やっぱり、変革期にあるわけよ。
清水)だってさー、私が、さー、なんにも事情が知らない人からね、あーだこーだ、コメント書かれたときに、たまに、コメントをね、「うっせー、ボケ!」とか書いて、自分のコメントを削除しているわけですよ。でも、それNHKのアナウンサーが行なった大問題になるじゃないですか(苦笑)。
本間)そりゃなるよね。
清水)だからにね、ほんとに、こー、そう云う意味ではね、あのー、テレビ的なものとしてみている人たちはいるかもしれないけれども、ラジオ的なものとしてね。でも、Youtubeって云うサーバー空間って云うのは、アメリカ合衆国にあるのだから、日本の法律が届きにくいところにあり、かつ、あの、運営の方法が、いわゆる大企業のスポンサーで成り立っているわけではない。
本間)うん。
清水)で、さらに、自分勝手な清水って云うなんだか、よくわかんないやつがやっているから、この、好き勝手なんか云われても、「ハッ?」とかやっているって云うですね、これが多分ですね、違うところなんですよね。なにより今日伝えたかったのは、こう云う構造的な違いよりも、こう云う問題でね、あのー、いろんな五輪とか電通とか憲法とかの問題でね、一人の作家さんが問題にしている、と。「いや、あの人も書いてる、あの人も書いてる」て云うかもしれないよ。書き続けて、電通批判し続けているのは、本間さんだけだから。
本間)ふふ(苦笑)。
清水)これ、恐ろしいことだし、なんとか守っていかないと駄目だなーと思って、本間さんとかをね、しっかりと応援していきたいし、他にもね、いろんな人を応援したいんだけどね、残念ながら、私ひとりなんで。完璧にはできないんだけども、まー、ほんとにねー、あのー、チャンネル登録がここまで増えたのは、皆さんのおかげだって云うのと、本間さんのおかげですよ。ありがとうございます。
本間)ありがとうございます。(44:32−47:46)


 もちろん、清水氏は急速に影響力を増しているメディアを運営している言論人であり、上記の発言では「視聴者のリテラシー」ばかりを問題視するのはいささか軽率な気もする。ただ、清水氏の基本的な認識は間違っていないと思う。だからこそ、一月万冊は短期間の間に成長したメディアになったのだと思う。それは清水氏の抱いている問題意識が正しかったからだとも云える。
 ミュデたちはポピュリストたちが述べている意見にもっと(おそらく、読者であるリベラルな傾向で、ポピュリズムに嫌悪感を示しているであろう人たち)耳を傾けるべきだと述べている。


ポピュリズムに対処する最善の方法は――実際にやろうとすると難しいのだが――ポピュリズムのの担い手および支持者たちとの率直な対話に取り組むことである。この対話の狙いは、ポピュリズムのエリートおよび大衆による主張や不満をもっとよく理解し、それに対してリベラル・デモクラシーにふさわしい回答を展開することに置くべきである。それと同時に、現場の人間も研究者も、メッセージの発信者よりメッセージのほうに焦点を当てるべきである。ポピュリストたちが間違っているとはなから決め込むのではなく、その政策立案がリベラル・デモクラシーの体制の範囲内でどれほどの利点があるのか、真剣に分析しなければならない。(175ー176頁)


 私は、清水氏の強みは既存のリベラルなメディアや言論人が扱いがちな社会科学の用語を使わずに、社会分析を行なうことができることだと思う。
例えば、2021年5月18日に公開した平田悠貴氏との対談で以下のようなことを述べている。



平田)清水さんの、えー、Kindleには「異世界転生」で検索すると、アホみたいな量出てきますね。そんなにたくさん読んで、本当に全部面白いのかと、私は常々疑問になんですけれども、おそらく面白いとかではなく、もはや勉強のために、清水さんは読んでいると思います。
清水)でね、この異世界転生ものは、これね、アニメ・ゲーム漫画の歴史をみると、前からあった。前からあったけど、異常に多い。
平田)まー、そうですね。『レイアース』とかそうでしょう。
清水)『レイアース』とかもそうなんだけど、例えば、『マジンガーZ』、『機動戦士ガンダム』。このあたりもさ、まあ、まず現実世界、『マジンガーZ』は現実世界にドクター・ヘルの軍団が攻めてくるとかになるのだけれども、主人公がさ、突然、「これは、おまえは神にも悪魔にもなれる!」と云われて、マジンガーをさ、もらうわけじゃん。
平田)カッコイイ〜、カッコいいなあ〜(笑)。
清水)チョーカッコイイじゃん(笑)
平田)ヤバ、ニコニコしちゃう(笑)
清水)で、『デビルマン』。同じ永井豪だけど、『デビルマン』も。あと、『ドラえもん』も、一応、現実にドラえもんがやって来る、現実世界にデビルマンがやって来る、とかじゃん。
平田)デビルマンがいい話かと云ったら、良くねーけど。
清水)最高の名作ですよ。読んでみると。
平田)そうでだよ。
清水)『明日のジョー』とかもさ。完全なリアルな世界として描かれているわけじゃん。でもね、最近はね、異常に多い。
平田)多いね。
清水)でね、なんとなくね、歴史的な俯瞰でみるとさ、例えば、『宇宙戦艦ヤマト』。これはさ、あのー、地球がズタボロになっているわけじゃないですか。
平田)そうですね。
清水)流星爆弾によってね、デスラーの、ガミラス帝国によってですよ。
平田)本間さんのアイコンだ。
清水)あのー、宇宙戦艦ヤマトに乗って、ね。あのーみんなが倒しに行く。あれはプロデューサーの西崎さんが、「特攻の精神」。「元気のある若者」みたいなことを訴えたかったわけ、新聞で書いていたんだけど。で、地続きじゃないですか、そっから先にあるのが『ガンダム』とかさ、そう云うのになっていくんだけどさ、あれは戦争の悲哀とかを書いているわけ。
平田)そうですね。
清水)その次の世代になっていきますと、『機動警察パトレイバー』になってくるわけですよ。
平田)あー(笑)。
清水)『機動警察パトレイバー』になってくると、敵がだんだんわからなくなってくるじゃん。
平田)まー、そうですね。コンピューターAIだったりするから。
清水)あのー、漫画版の、あのー、
平田)篠崎重工?
清水)ヘッドギア、ヘッドギア原作なんだけれど、結城まさみさんが書いている漫画版の方はグリホンを操る内海と云う組織があって、敵はわかる。
平田)カッコいい!
清水)でも、あれ少年漫画だから、でも押井守版の、
平田)あれは、もうわからない。
清水)『機動警察パトレイバー』はもう2とかになってくるとさ、これさ、俺子どもの頃にさ、レーザーディスクに1万4千8百円買ってさ、何だかよくわからないけど、すごい作品だけど、何なんだ。あれ、湾岸戦争のオマージュなんだよね。
平田)うわー。
清水)簡単に云うと、
平田)ほんと、押井守って、ね。
清水)「日本に本当に戦争があったらどうなるだろう?」。そう云うことを、描いているわけですよ。
平田)うんうん。
清水)こう云うのを、もっと最近で云うと、『エヴァンゲリオン』。あれになると、なんだか、よくわからない敵が、逃げちゃいけないんだけど、戦わないといけない話になってきて、さらに『エヴァンゲリオン』も一巡すると、『エヴァンゲリオン』の碇シンジはいろんな葛藤をもとに、戦っていたわけなんだけど。
平田)そうですね。
清水)なんかもう、突然、現世から死ぬ。
平田)はい。
清水)そして、無敵の力を得て、異世界に転生する。
平田)うん。
清水)俺、これが流行り続けるとさ、
平田)ちょっとね。
清水)なんか、怖い。
平田)それは思う。それはもう、さー、
清水)まあ、面白いけどね。
平田)あの、われわれがすごくやっているのは、なんか、「最近の若者は」的なもの?かもしれないけれども、
清水)そんなことない、そんなことない。
平田)そう?
清水)何で、そう云う、だってさー、そんな、異世界転生ものとか読んでいるの、若者じゃないって。
平田)げっ、そうか、そうだな。
清水)おっさん、おばさんだよ。
平田)そっか。
清水)ごめんなさい。おっさんか、四十代のお姉さんとか。そう云う人たちですよ。
平田)うーん、なるほど。社会の厳しさや苦しさを知らなかったら、読まないもんな。
清水)うん。だから、そう云う、すごく流行っていて、こう云うのを、「まったくさー、もー、そう云うのに逃げてさ。ほんと怖いよね。もう、しっかり勉強して、いい大学に入って、いい会社に行って、ね。そう云うことをしないから、そうなっちゃうのよ」と云っていたら、バカ。完全にバカ。やられている。どっちも宗教なんだよ、これはもう。
平田)異世界転生もまた宗教だ、と。
清水)宗教現象として、あの、みないと、例えば、「ユダヤ教があります。キリスト教があります。イスラム教があります。」、まあ、他にも何だろうな?
平田)仏教、ヒンドゥー教?
清水)仏教があって、ヒンドゥー教があって、ゾロアスター教があってですね、どんどんマイナーなものになっていくわけですよ。
平田)「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」とかね。
清水)それって、
平田)ほんとにあるんだぞ(笑)
清水)それでね、どこの宗派に入っても自由だけども、それぞれルール、戒律があって、でー、払う寺銭が必要なわけですよ。
平田)うんうん。
清水)その中で、「自分が得するためはどうすればいいのかなー」って云う風に考えるか、「絶対、ここにしかないんだ」と思うのはヤバいなって。
平田)うんうん。
清水)でも、日本で一番主流である宗教の、あの、「大企業、いい大学、いい会社、そして一戸建て」が完全に崩壊して、もうプランプラン。ヤバい、ヤバい、ヤバいと云う状況になってきているので、おそらく皆さんは知らない間に、騙されやすい状況にいるんですよ。
平田)まあ、そうだねー。(31:01ー36:41)


 おそらく、上記の清水氏の分析を、既存の左派やリベラルなら「新自由主義」や「ポスト・フォーディズム」と表現するかもしれない。つまり、労働者の福利厚生を国家や資本が放棄することで、格差が拡大し、社会不安が生じていると云うことだ。事実、2020年にベストセラーになった政治学者の白井聡氏の『武器としての「資本論」』や現在話題の斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』と同様の議論を行なっている。
 しかし、清水氏が白井氏や斎藤氏と大きく異なるのは、マルクスの『資本論』や最新の社会科学の議論ではなく、「異世界転生」と云う流行の漫画のジャンルを参照していることだ。それは、彼自身が特定の思想・哲学に強いこだわりがないと云う特性によると云えるかもしれない。


左派ポピュリズムと闘技デモクラシー



 清水氏の強みは人間の感情に訴えることであり、それはまさに政治学者が議論の対象としているポピュリストのそれであり、日本の左派やリベラルな言論人やメディアが今までできないことであった。事実、ポピュリズムを担ってきたのはどちらかと云えば、ナショナリズムを訴える右派が多かった。アメリカのトランプ前大統領がその代表と云えよう。
 そんな中で、左派の側でポピュリズムを利用しようと動きが近年目立っている。理由は、左派がソ連崩壊後になかなか対案が出せず、停滞気味で、右派の方が政治を牛耳ることが多かったからだ。資本主義だけが残り、社会のあらゆる分野がマーケットに任されるようになり、政治の領域が小さくなったことで、有権者が政治に対して無力感を感じることが多くなったからだ。
つまり、一票よりもお金のことやその日の暮らしばかりに目がいく人が増えたと云うことだ。それは日本だけではなく、ヨーロッパやアメリカなどの他の先進国でも同様の現象である。
 そんな中で、一部の左派の理論家では、イデオロギーに訴えるのではなく、人間の感情に訴えることを重視するポピュリズムの手法を用いるべきではないか、と云う意見がある。つまり、マルクスや社会科学の用語を用いずに、現在の社会の問題点を指摘できるポピュリズムこそ、多くの人の心に訴えることができると云うわけだ。
 その代表と云えるのが、政治学者のシャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』と云える。同書の中で、ムフは既存の左派は政治的な対立を避けるあまり代案が出せず、一般の人たちを政治から遠ざけてしまったのではないかと批判している。


 ソヴィエト・モデルの崩壊以来、左派の多くのセクターは、彼らが捨て去った革命的な政治観のほかには、自由主義的政治観の代替案を提示できていない。政治の「友/敵」モデルは多元主義的民主主義とは両立しないという彼らの認識や、自由主義は破壊されるべき敵ではないという認識は、称賛されてしかるべきである。しかし、そのような認識は彼らをして、あらゆる敵対関係を否定し、政治を中立的領域でのエリート間の競争に矮小化するリベラルな考えを受け入れさせてしまった。ヘゲモニー戦略を構想できないことこそ、社会ー民主主義政党の最大の欠点であると私は確信している。このために、彼らは対抗的で闘技的(アゴニスティック)な政治の可能性を認めることができないのである。対抗的で闘技的な政治こそ、自由ー民主主義的な枠組みにおいて、新しいヘゲモニー秩序の確率へと向かうものなのだ。(56頁)


 ムフの議論を日本に当てはめるのなら、政党では野党の立憲民主党の枝野幸男氏や共産党の志位和夫氏の言葉が心に響かないのと似ていると云える。確かに、安倍晋三氏や自民党は気にいらない。しかし、対抗馬の野党がどうしても支持できないでいる。あるいは、ネトウヨ的な言説は嫌だが、かと云ってリベラルな言論人の本はとっつきずらいと云う人が多いのではないだろうか。
 だからこそ、ムフは代案として「ラディカル・デモクラシー」と云う概念を全面に打ち出している。



 民主主義を根源化する(ラディカライズ)とはどういうことか?この点を明確にしておく必要がある。なぜなら、ラディカル・デモクラシーにはさまざまな構想が存在し、また、『民主主義の革命』で擁護した「根源的で複数主義的なデモクラシー」について、深刻な誤解が生じているからである。(略)[しかし]じっさいには、私たちが支持したのは、自由民主主義体制の倫理ー政治的な諸原理の「根源化」であり、「すべての人々の自由と平等」であったのだ。
 このプロジェクトの重要な次元を成していたのは、左派にかんして、人々が抱いている信念を問いなおすことであった。その信念とは、いっそう公正な社会へと移行するためには、自由民主主義の諸制度を放棄し、まったく新しい政体を、つまり新しい政治的共同体をゼロから建設しなければならないというものである。私たちが主張したのは、民主的な社会において、現行の諸制度に批判的に関与することこそが、民主主義をいっそう前進させるということであった。(60−61頁)


 つまり、ムフはポピュリズムの持っている「人民」対「エリート」と云う二項対立的な図式を利用することで、左派の政治主張を実現する突破口が見いだせるのではないかと述べているわけだ。


 左派ポピュリズムの戦略が、ポスト・デモクラシーに異議を申し立て、平等と人民主権という民主的な諸価値の中心性を回復しうるとすれば、それはこのような内在的な批判によってであると考える。(61頁)


 ムフはあえて「闘技」「闘争」「ヘゲモニー」と云う言葉を用いて自身の構想を説明している。ムフは同書の扉でわざわざマキャベリの言葉を引用しているように、政治とは力に基づいた闘争であり、そう云う風に説明した方が多くの人の関心を引くのではないかと述べている。つまり、政治への参加をあえて「闘技」とみなすことで、具体的な当事者の声を反映させようというわけだ。


 闘技的な介入のための場としてみたとき、これらの公共空間は、民主主義を前に進めるための領域を提供してくれる。だからこそ、ヘゲモニー戦略によって多様な国家機構に関与することが必要なのである。こうした関与を通じて、国家機構を変容し、多様な民主的諸要求を表出する手段にすることができる。(69−70頁)


 逆に、マルクスなどの社会科学の概念に基づいた分析で説明しても、人々はついてこないのではないかと述べている。要するに、「本をたくさん読んでいるが、庶民の苦しみがわからないインテリ」とみられないようにしろ、と云うわけだ。

 人々は、社会主義へと通じる「歴史の法則」を信じ、抽象的な実体としての「資本主義」と闘っているわけではない。彼らが行動に移るのは、つねに具体的な状況にもとづいてのことなのだ。彼らが平等を求めて闘うとすれば、それは反ー資本主義の名において動員されるからではない。その理由は、支配の諸形態への抵抗が民主的な諸価値にもとづいており、これらの価値を中心にして、人々の実際的な願望と主体性に訴えかけるからなのだ。(略)
 「極左」の基本的な過ちは、つねにこの点を無視してきたことにある。彼らは常にこの点を無視してきたことにある。彼らは現実において人々がどのように存在しているのかではなく、彼らの理論にしたがい人々がどのように存在すべきか、ということに取り組んできた。その結果、極左は自分たちの役割を、人々に対して彼らがおかれている状況についての「真実」を理解させることであると考えている。人々が同一化できるような仕方で対抗者を指し示すことなく、代わりに彼らは「資本主義」といった抽象的なカテゴリーを使用する。そうすることで、政治的に行動するよう人々を動機づける情動的次元の動員に失敗しているのである。(72−73頁)


 であるがゆえに、ムフは政治に「感情」や「欲望」を持ち込むことを肯定している。抽象的な思想に基づいた議論ではなく、「感情」や「欲望」なら、難しい議論がわからない人でも政治に参加することが可能だからだ。


 左派ポピュリズム戦略は、「常識」(コモンセンス)にもとづく様々な考え方に働きかけ、人々の感情に届く方法で訴えかけなければならない。この戦略は、呼びかける人々の価値観とアイデンティティとも調和し、人々の経験の様々な側面と結びつかなければならないだろう。人々が日常生活のなかで直面している問題と共鳴するような呼びかけを行なうためには、彼らがどこに暮らし、何を感じているのかということから出発する必要がある。(略)
 左派ポピュリズムは、いっそうの民主的な秩序を求める共通の感情に支えられた、集合的意志の結晶化をめざしている。この戦略が要求するのは、新しい同一化の形式をもたらす言説的/情動的な実践への書き込みを通じて、欲望と感情のレジュームを創出することである。(102−103頁)
 したがって、芸術的かつ文化的な諸実践は、左派ポピュリズム戦略において重要な役割をもっている。新自由主義システムがそのヘゲモニーを維持するには、人々の欲望をたえず動員し、人々のアイデンティティを形づくる必要がある。新しいヘゲモニーをつくり出すであろう「人民」の構築は、言説的/情動的な実践の多様性を育むことを必要としているのだ。これらの実践が新自由主義的なヘゲモニーを支える共通の感情を切り崩し、民主主義の根源化に向けた諸条件を創出するだろう。共通の感情を形成する重要性を認めることは、左派ポピュリズムの戦略にとって必要不可欠である。(104頁)


 以上のようなムフの議論を日本でも実践すべきではないかと云う人がいる。
 政治学者の中島岳志氏である。
 中島氏は2019年の参議院選挙で躍進したれいわ新選組の山本太郎氏を、ムフの分析をもとに評価している。中島氏は、2019年8月1日に日本記者クラブで行なった会見で以下のように述べている。中島氏は立憲民主党の枝野幸男氏との比較した上で、山本氏は「物語」をつくるのに成功した、と述べている。





 ここで、どう云う問題が出てくるかと云いますと、「ラディカル・デモクラシー」と云う風に、われわれ政治学が議論をしている問題であります。これはどう云うことかと云いますと、この、世界中で起きている問題と云うのは、新自由主義の時代を経験すると、新自由主義と云うのは基本マーケットにまかせろ、なので、政治の規模をどんどん縮小していく政策です。とすると、政治がさまざまなとこでやれる関与がどんどん小さくなっていく、と云うことになります。
 ですから、結果のところ、投票によって、何か自分たちは主権者であり、投票に行くんだけれども、しかしそれによって、ダイナミックに政治が変わると云うことがほとんどなくなるんですね。えー、そして、二大政党的なものを取り入れればとりいれるほど、その二つの政党はよく似通った政党になっていくために、ダイナミックな変化が起きず、格差社会なんかが是正されることがない、と云う不満が溜まっていきます。
 で、そう云ったときに高まってくるのが、「ラディカル・デモクラシー」と云うもので、自分たちは主権者であるにも関わらず、主権と云うものから阻害されている、と。こんな投票に行っただけでは、何か自分たちが主権者だ、と云う感覚が持てない。直接的な政治への関与を求めていくと云う感覚が実は世界で、強くなってくると云うのが、このラディカル・デモクラシー論と云うものです。で、そのラディカル・デモクラシーと云うものは大きく二つの潮流があります。
 一つは、「熟議デモクラシー」と云うものです。「熟議」と云うのは、地方政治なんかで、世田谷区町の保坂(筆者注:展人区長)さんがこれを積極的に導入していますけども、「タウン・ミーティング」をやったりとか、あるいは住民が参加をし、そこでグループでいろんな討論をし、みんなで意見を交わしたあと、府政に反映していくような、ま、住民が参加型で、議論をしながら、行政と関わりを持ちつつ、そして、政治を進めていく。これを熟議デモクラシーと云う云い方をしたりします。合意形成、住民の合意形成をベースとした、ある種の、(咳き込む)、民主主義の直接的な関わりのあり方と云うのが一つのゾーンです。で、
 しかし、この熟議デモクラシーが一つの柱なんですけれども、これではラディカル・デモクラシーは機能しないと主張している人がいます。西洋で云われているのは、ラクラウと云う人と、あとシャンタル・ムフと云う人です。シャンタル・ムフと云う人は一つのゾーンとして、「闘技デモクラシー」、闘いのデモクラシーが必要である、と云う風に云っています。つまり、それは争点を明確にし、そしてしっかり境界線をつけ、あれに対して私はこう主張するのだ、と云う明快なですね、争点をつくり出すことによって、大衆の感情に火をつけて、そして、えー、自分たちの政治的な欲望を実現するために闘っていく。こう云う闘技デモクラシーがもう一つ必要だって、云っているのがシャンタル・ムフと云う人です。
 これが、ラディカル・デモクラシー論と云うのが、熟議デモクラシーと闘技デモクラシーと二つあると云うのが、政治学者がこの十年ぐらいよく議論をしてきたことなんですけれども、このうち、「枝野立て!」と云うラディカル・デモクラシー的な声に後押しされた枝野さんは、どう云うゾーンを取ろうとしたのかと云うと、熟議デモクラシーだったんですね。えー、「立憲パートナーズ」と云うものをつくり、これは自民党のような党員制度ではありません、政治家と国民は対等なパートナーです、一緒に政策を考えましょう、と云うものをつくり、そしていろいろなパートナーズの会と云うものをつくり、えー、住民、それぞれの選挙区の人と、それから住民と云うのと直接対話して政策を上げていく、「ボトムアップの政治」と彼が呼んだものでありました。これによって、ラディカル・デモクラシーの熟議デモクラシーを取ろうとしたのが、枝野さんの政治だったのであろうなと思います。
 しかし、今回の選挙はこの声が立憲民主党から離れていった、と云う現象だったのだと思います。このー、比例票の三百万票を失っている、そして八議席にとどまった、と云うのは立憲民主党にとっては実質の、退潮と敗北って云うものを、正確には認識せざるを得ないんじゃないかなと。そことしっかりと前向きに向き合ったほうがいんじゃないかと思います。
 で、何が起きたのかと云いますと、この二年半、国民から立憲民主党はあなたです、と云われてもピンとこない政党にやはりどんどんなっていったんだろうと思います。やはり、「永田町の論理」と云うのが彼らの中から前に出過ぎました。特に国民民主党との争いですね、参議院でどっちが数上にいくかって云う、こう云うことで、いろんな政治的な闘争が目の前にみえた。これが結局のところ、永田町の論理にみえてしまった。この永田町の論理って云うのがみえてしまうと、ラディカル・デモクラシーは一気に引くのですね。自分たちの声なんて聞いちゃいないって云う風政治家像にみえちゃうので、これが、さーっと引いていってしまった。
 そして、次の物語を立憲民主党はつくることができなかった、と云うのが大きな問題なんだろうと思います。もし国民民主党の人たちに対して、寛容な態度を示して、もう一回、この民主党のあり方を再考していく、こう云うような勢いがあれば、もう一つの物語ができたのかもしれませんが、この一年半、一年九ヶ月くらいの間でしょうか、立憲民主党は物語の、次なる物語の作成に、やはり実質上失敗したんだろうと思います。
 そこをかっさらったのが、山本太郎と云う人なんだろうなと思います。ただし、山本太郎と云う人が担ったラディカル・デモクラシーは、枝野さんとはだいぶ違う性質のものです。それが闘技デモクラシーと云うものですね。彼は熟議デモクラシーではなく、闘技デモクラシーのゾーンをはじめて、日本でですね、左派の側から、取った政治家なんだろうと云うのが私の注目するポイントです。
 つまりです、山本太郎はボトムアップ型の政策決定をしていません。むしろ強いかたちで、「消費税の廃止!」、これこそが日本の進めべき道である、と非常に高らかに宣言し、ついて来いって云うそう云う政治のスタイルを取った人なのですね。
 そして、敵をみせたわけです。結局のところ、経団連、そして、えー、小泉竹中路線ですね、これが、えー、さまざまな多くの人たちから、生活を奪っているんだ、と。そう云うことから、彼の演説は九割方は、理路整然としているのですが、一割すごく熱い言葉、感情に訴える言葉が挿入されるのですね。「生きててくれよ!」とかですね、云うんですよ。そして、結局のところ、あの、「国民は政府のATMじゃねーんだよ!」「アメリカの云いなりになるなよ!」とかをですね、こう云う非常に感情的なものをぶつけながらですね、そして、「力貸してくださいよ!」と云う風に云うわけですよ。明らかに、ラディカル・デモクラシーですね、直接的な声とつがながり、敵をみせて闘っていく、これによっていろんな人たちの情念を喚起することによって、支持を受けると云う闘技デモクラシーの典型なんだろうと思います。(1:03:02−10:04)


 もし、ムフや中島氏の議論を、清水氏や一月万冊に当てはめるなら、ラディカル・デモクラシーの闘技デモクラシーそのものだと思う。既存の出版やマスコミを明確な敵とみなし、新しい出版やメディア、言論のあり方を提示したことで大きな成功を収めたのだと思う。清水氏は左派ポピュリストであるがゆえに、著者への利益の還元を最大の目標として掲げ、視聴者の感情や情念を喚起させることが上手いのだと思う。それは、中島氏が動画の中で取り上げている、サンダースやコービンと云った左派ポピュリストと同様の世界的な潮流の中から出てきたものと認識すべきだと思う。

 事実、日本の出版やメディア、言論界は極めて閉鎖的な集団であることはかなりの人間が薄々認識しているのではないだろうか。

 具体的な事例を上げるのなら、評論家の後藤和智氏は安倍政権が長期化した原因は右派の言論人の強い支持があったこと以外に、左派やリベラルな若手の言論人が自分より年配の言論人との差異化ーつまり「逆張り」を行ない、安倍政権への批判の声を結果的に封じてきたのではないかと分析している。



 また、後藤氏は今年問題となった歴史学者の呉座勇一氏が女性の英文学者で評論家の北村紗衣氏に対してツイッター上で、誹謗中傷をくり返し、謝罪に追い込まれた事件で、呉座氏を擁護する男性の知識人が目立ったことは、日本の言論界は実質男性中心の社会であり、左派やフェミニズムに対する揶揄や誹謗中傷が常態化していたことが事件の遠因ではないかと分析している。



 後藤氏は以上のような分析から、平成時代の日本の言論界では右や左を問わず、かなりの数の人間が論壇でのヘゲモニー争いのために、自身の言論を行なっているのではないか、と批判している。


 また、前述の中島岳志氏の主著『「リベラル保守」宣言』の「あとがき」を読むと、出版社側が自主規制を行なっていたことが述べられている。同書は当初、NTT出版から刊行される予定であったが、中島氏が同書の第三章で、保守主義に基づいて維新の会の橋下徹氏の主張を批判している箇所の削除を求められたと云う。中島氏は担当編集者の上司と話し合った結果、削除に応じられないと述べ、NTT出版からの刊行は見送られたと云う。
 中島氏が同書の出版を行おうとした2012年は、ノンフィクション作家の佐野眞一氏が『週間朝日』で橋下徹氏に対して差別的な文章を掲載したことで、朝日新聞社が謝罪に追い込まれた事件が発生したことで、NTT出版が「自主規制」「過剰忖度」を行なったと分析している。

 その結果、現在、同書は新潮社から刊行されている。



 以上のような個別の具体例がわからなくても、既存の言論や出版、メディアにかなりの人が不信感を抱いているのではないだろうか。そう云う不信感をすくい上げたのが、清水氏の功績なのではないだろうか。どう云う著者が優れた言論を行なっているのかを現実の問題と被せ、なおかつ何らかの物語をつくりながら、紹介したのが大きいのではないだろうか。

 東京オリンピックや電通の問題点を指摘している本間龍氏や児童虐待防止に奔走している今一生氏、トランスジェンダーで長年日本社会に生きづらさを抱えてきた安冨歩氏、原発事故後の福島県に取材を続けて烏賀陽弘道氏、日本の政治の問題点を取材し続けてきた佐藤章氏は、なかなか大手メディアでは取り上げづらい人たちである。しかし、であるがゆえに、そこに物語が生じる。既存の出版やメディアと云った権力やシステムと戦う姿をみせることで、ラディカル・デモクラシーの闘技デモクラシーが機能することになったわけだ。


「正しい問いを発して誤った答えを出す」


 もっとも、闘技デモクラシーには欠点がある。中島氏は前述の動画の中では、れいわ新選組と立憲民主党はパートナーを組むべきではないかと述べている。
 それは、闘技デモクラシーは争点を明確にすることで、敵をつくってしまいがちで、場合によってはかなり危ない方向にいきがちだからだ。何らかのかたちで暴走しそうになったところを、熟議デモクラシーのゆっくりと腰を落ち着けたかたちで、議論をしなくては政治は機能しないのではないかと云うことだ。

 しかし、中島氏の会見から翌2020年には、れいわ新選組では内紛がぼっ発した。一部、支持者だった人間が「れいわは終わった」「山本太郎に騙された」と述べ、離れていった。
 そして、現在一月万冊でも内紛がぼっ発し、熱心な視聴者で烏賀陽氏に共感をよせていた人ほど、「もう一月万冊は終わった」「清水は嘘つきだ」と述べ、離れていった。

 なぜ同様の現象が起きるかと云えば、ポピュリズムや闘技デモクラシーが機能するのは、「人民」対「エリート」と云う二項対立の図式が必要になる。しかし、ポピュリストの指導者が「エリート」のような振る舞いをすれば、一気に支持を失うことになる。自分たち人民ではなく、エリートの側についたとみられてしまうからだ。それは結局のところ、相手を「敵」か「見方」かと云う分類をしてしまう危険性を帯びていく。

 であるがゆえに、政治学者の中には、ポピュリズムのそのような性質は民主主義とは相容れないと批判する人もいる。

 ドイツの政治学者・ヤン=ヴェルナー・ミラー『ポピュリズムとは何か』の中で、ポピュリズムは「自分こそは真の人民だ」と主張することで、政治に「道義的な正しさ」を持ち込みがちな傾向を問題視する。自分たちは道義的に正しいと主張しがちで、自分と異なる人間の意見に耳を傾けづらくなることが、結果的に多様な意見を抑圧することにつながるのではないか、と危惧している。


ヨーロッパの多くに見られる、緊縮政策に反対するために(さらに言えば、右翼ポピュリズムの隆隆に対抗するために)、特定の「左翼ポピュリズム」を希求することは、無駄であるか、危険である。目的が単に、左翼の有望なオルタナティブや、社会民主主義の再発明を提示することにあるならば、それは無駄である。なぜ、「人民の構築」というジェスチャーの代わりに、新たなマジョリティ(majorities)を形成することについて語らないのだろうか。正確にはどんな人民を構築するというのか。他方で、左派ポピュリズムが、本書が定義した意味でのポピュリズムを本当に意味するならば、それは危険である。(121頁)


 ムフも『左派ポピュリズムのために』の「結論」部分で、自身の提示した「左派ポピュリズム」「闘技デモクラシー」が実際に成功するかどうかについては「何の保証もない」と述べている(113頁)。


 ミュデとカルトワッセルも『ポピュリズム』の最後の章では、最終的にはポピュリズムの需要を下げる必要性を述べている。それは、ポピュリズムの問いは正しいが、解決策が誤っていることが多いからだ。


一番大事な点として、ポピュリズムがしばしば正しい問いを発して誤った答えを出していることをふまえると、究極の目標はポピュリズムの提供を断つだけではなく、ポピュリズムの需要を低下させることにも置かねばならない。(176頁)


「期待の格差」から新しい「モノサシ」と「価値」へ


 もちろん、私は現時点で、清水氏や一月万冊が誤っていると判断するつもりはない。また、一連の騒動についても部外者の私からすると、よくわからない点が多く、判断がつきかねる。
 ただ、現在の状況をみると、清水氏や一月万冊を「道義的な正しさ」で判断しようしているのはいただけないと思った。もちろん、問題点を指摘するのはけっこうだと思うが、相手を100で肯定するのと0で否定することは、実はコインの裏表のような関係にあることに気づかなくてはならない。

 今回の騒動で、仮に清水氏や一月万冊を否定したとしても、なぜ自分はひかれたのかを総括しないかぎり、別のポピュリズムにひかれることになるからだ。なぜなら、その人の中では、ポピュリズム的なものを求める欲求があるからだ。もちろん、それはラディカル・デモクラシー的な欲求であり、否定されることではない。 

 ミュデとカルトワッセルの『ポピュリズム』の日本語訳を行なった政治学者の高山裕二氏は「訳者解説」の中で、アメリカでトランプを支持した人たちは貧困層ではなく、むしろ中間層の人たちだったと述べている。理由は、現役世代の所得が自身の親の世代よりも高い収入を得る割合が、中間層ほど低いからだと述べている。つまり、トランプはそうした中間層に訴えことで大統領選挙に勝利したのではないかと云うわけだ。高山氏はポピュリズムの原因は客観的な指標やデータによる貧困格差よりもそうした「期待の格差」が大きいのではないかと指摘している。
 高山氏は、ポピュリズムへの代案として、従来とは異なる「モノサシ」や「価値観」をみつけることではないかと述べている。


 われわれ有権者にとって、幸福の条件となるのは一時的に所得を上げてくれることよりも、中期的には新しい産業や雇用の創造、長期的にはその土台となるようなエネルギーのあり方を含めた生活様式ないし水準について、高度経済成長世代とは違うモノサシの再発見ではないか。つまり、ポピュリズムをデモクラシーの友としていくには、国民が己の不満とその熱狂を政策に変換していく経路が、従来の価値観から離れて探求される必要があるのだろう。(189頁)


 高山氏の指摘は、一月万冊の熱心な視聴者なら、清水氏の云っていることと被るのがわかる。新しい出版やメディアのあり方を提示しようとしたのが、清水氏の一月万冊なのだと思う。その実践が多くの人の支持を集めたのだと思う。
 であるならば、清水氏以外の人間も同様の問題意識を持っているはずである。

 私はそう云う新しい「モノサシ」や「価値」を自分でみつけるべきではないかと考える。

 仮に、清水氏や一月万冊に疑問を持ったら、一月万冊に出演している著者以外の言論人はどのような言論を行なっているのかを調べたり、一月万冊以外のメディアがニュースをどのように報じているのかを調べることだと思う。少なくとも、一月万冊以外にもネットメディアは存在するし、出演している著者たち以外にも言論人は存在する。問題はそのことに気づくかどうかだ。
 しかし、ネットで清水氏や一月万冊に否定的なコメントを書いても「モノサシ」や「価値」はみえてこないことは確かだ。確かに、自分で本気で調べることはかなり労力がいる。私も疲れる。

 この記事を書くのに、ポピュリズム関連の著作を4冊読んだ。しっかり引用もしないといけないから、かなり時間を食った。ただ、おかげでネットでありがちな清水氏を「腐敗した敵」とみなしている記事よりはましな評論ができたと思っている。

最近、熱いですね。