影の薄さの治し方
いい天気だ。雲一つない青空のど真ん中に、太陽はいかにも堂々と居座っている。
わたしは視線を傾ける。太陽は視界の右端にフェードアウトし、左から滑り込んできたアスファルトが青空を右半分にまで押し込んでしまった。日に焼けた舗装道路の向こう側から滑るように近付いてきた大型トラックが、わたしの両肩を引き潰し、去っていった。
トラックの後輪には、うまい具合に引っかかってしまったわたしの右腕がまだ張り付いているようだ。放っておけば戻ってくるが、さすがに時速何十キロというスピードに逆らうパワーはない。そのうちカーブかどこかで放り出されたあと、数か月をかけて帰ってくることだろう。その途中で、何人もの人を驚かしながら。
あの運転手も運が悪い。こんな田舎道を通らねば、車の下半身いっぱいに覚えのない血糊と肉片をつけて帰るはめにはならなかったろうに。
お察しの通り、わたしは死体だ。十数年前からこの道路の御厄介になっている、文字通りの路上生活者だ。いや、生きてはいないが。
死因はありふれたものだ。わたしに確認する術はないが、およそ新聞の一面を騒がせたとは思えない、ごく普通の交通事故だった。娘は泣き、妻は保険金に喜び、ほとぼりが冷めた頃に浮気相手と再婚しただろう。わたしが普通に死んでいれば。
また大型トラックがやってきて、今度は首を轢いていった。わたしは千切れた頭で溜息をついて、胴体が近付いてくるのを待つ。最近はトラックが多い。
今度の運転手も、わたしに目もくれはしなかった。もともと話好きなほうではなかったが、下敷きにしたことにさえ気付いてもらえないというのはさみしいものだ。死んだときもそうだった。
今日のような天気のいい日だった。このさびれた山道は、わたしのお気に入りの散歩コースだった。家から数キロ離れたこの道に車を停め、アスファルトを挟んで広がる雑木林をひとめぐりして帰るのを、わたしは休日のお定まりにしていた。その日も同じように午前中の空気を楽しみ、愛想は悪いが料理はうまい妻の昼食を楽しみに車に乗り込もうとした、そのときだった。物凄いスピードで突っ込んできた大型トラックがわたしを跳ね飛ばし、わたしはこの位置にはりつけられて暮らすことになった。
わたしは誰にも見えない。ぶつかったショックも乗り越えてゆく段差も、誰一人として感じないらしい。最初のトラックの運転手も、その後私を轢いていった人々も、誰一人としてわたしに気付くことはなかった。わたしの死はおそらく失踪事件として扱われ、妻の再婚は後ろ倒しを余儀なくされ、保険金はいまだ宙に浮いたままなのだろう。
わたしは昔からそうだった。職場でも、家庭でも、毒にならないが薬にもならない、影の薄い男。
しかし、今は違う。わたしがばら撒いた見えない血と肉は、時折引っかかって運ばれてゆく色のない四肢は、どういうわけか、わたしを離れると見えるようになるのだ。先ほどわたしと胴体を泣き別れにしたトラックも、十メートルほど離れたあたりで血糊が浮き上がるのが見えた。かわいそうに。おそらくは拘束、事情聴取、世間の流言…… まともな人生は歩めないだろう。彼も、これまでわたしを轢いていった人たちも。
そんなささやかな自己主張を続け、もう十数年になる。気付いた当初は驚き、ドライバーたちの人生を台無しにしてしまうことに苦しみもした。動かぬ体を雑木林に放り込もうと無駄な努力を続けもした。しかし、あるとき、わたしは気付いた。たとえわたしが見えなくても、わたしから溢れた血が、戻ってくる手足たちが、わたしの居場所を人々に知らせるだろうことに。
わたしは待ち望むようになった。いつか誰かが、わたしに気付いてくれることを。影さえないわたしは、ここであなたを待っている。