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大学受験失敗&自由すぎる大学時代編~アイルランドで占い師になるまで~【プロフィール #2】

【プロフィール】

コロナ禍から生まれた、世界中の人々をオンライン上で占う令和(ニュータイプ)占い師です。

大阪で生まれ育ち、大学を出て会社員に。

趣味優先の自由な生活を突き詰めた結果、2018年にはアイルランドワーホリへ。

2019年にアイルランド人と結婚し、夢のアイルランド暮らしを手に入れる。

フリーランスとしてネットショップをはじめたところ、コロナ禍で大ダメージ。

それを機に、一念発起で占い師の道へ進むことに。

ピンチのときにどういう考え方でどうやって乗り越えてきたのか、どんな思いで今占い師をしているのか、そういったことをつらつら書いています。

今回は高校時代~大学時代について

【はじめて占ってもらった高校時代】​

高校生の時にはじめて占い師に対面で占ってもらいました。
近所で評判の占い師に母が鑑定してもらって当たっていたということで、私も占ってもらうことになりました。
その占い師さんは霊感があり、幽霊が見えていてお祓いなどもしているらしく、占い方法は霊視+タロットでした。

当時はタロットカードというものがあるというぐらいの知識しかありませんでした。
目の前で自分のことを占われるという経験ははじめてだったので、興味津々でタロットカードが展開される様子を見ていました。
タロットカードを混ぜて展開して一枚ずつ読み取っている姿は、不思議でなんだかかっこいいと思いました。
特殊な能力を持っている人はそれを仕事にできていいな、と羨ましくも感じました。

その占い自体はよく当たっていたと思います。
大学受験を控えた冬だったので、「もし本命大学に受からなかったら浪人すべきか、現役で滑り止め大学に行くべきか」という内容を尋ねました。
「あなたは浪人しても勉強しないで遊ぶから、滑り止めの大学に行きなさい」と言われました。
その言葉を聞いたとき、「たしかにその通りだな」とめちゃくちゃ納得している自分がいました。
浪人したら予備校に通いながらバイトして遊びほうけて、本命どころか現役時代に受かった滑り止めすら落ちる自分が想像できました。

私は興味のないことに関して、自主的に勉強することができない人間です。
自由に時間が使える1年間の間に、必死に勉強する訳がありません。
自分の人間性なんて自分が一番よくわかっているはずなのに、指摘されるまでそのことに気づいていませんでした。

そもそも私はその本命大学にそれほど執着もしていないことにも気づきました。
国公立で学費が安いから、というだけでそこを本命にしていました。
ありがたいことに、奨学金と親の援助で私立大学でも通えるので、浪人はしないことに決めました。

私は人生において大事なことを決めなければならないとき、いつも占いに頼っています。
そういう風になったのは、占いによって自分の方向性がクリアになったという、最初のこの占い経験があったからです。

【大学受験の悲劇】


大学受験については、本命の国公立大学は落ちて、私大に入学することになりました。
ちなみに滑り止めの私大にも落ちたので、滑り止めの滑り止めに通うことになりました(笑)

滑り止めの大学は模試だとA判定だったので、落ちるなどとは思っておらず、落ちたとわかったときにはとても衝撃的でした。
ショックというより、信じられない思いでいっぱいでした。
本命大学はもともと受かる見込みが少なかったので「まあそうだよな」ぐらいの気持ちだったけど、滑り止めで滑り止まらんとは予想外。

慌ててさらにランクの低い私立大学でいくつもの学部学科を併願で受けました。
もう浪人する気は毛頭にもなかったので、現役合格するために必死でした。

その大学は見事に受けた学部学科すべて受かったので、その中から法学部を選びました。
本当は(本命か滑り止めで受かってたら)文学部に入りたかったけど、こんなにランクの低い大学で将来性のない学部に入ったら終わる、という思いで全く興味ない学部に入ることに。
公務員志望だったので、法学部はそのためにはもってこいの学部。

恥ずかしくて同級生にこの大学に行ってるなんて言えないな、と思ってたけど、ちゃんと現役合格はできたので気分的には前向きでした。
本命も滑り止めも落ちたくせに、滑り止めの滑り止め大学の学部学科すべて受かったということでご機嫌になっていました。

「本命大学の文学部に入るよりも、この大学の法学部の方が将来の夢(公務員になる)への近道じゃないか!」とポジティブに考えていました。
無理してレベルの高い高校に入ったせいで、いつも成績は底辺争いをしていて自信がなくなっていたので、逆に自分のレベルより低い大学だと授業が簡単でいいかもな~と楽観的に考えてもいました。


「本命大学に落ちたけど、逆にラッキー」
当時からそういう考え方でした。

私が大学受験で落ちたり受かったり右往左往しているとき、親はとくに何も口出ししませんでした。
本命の国公立大学だって親に言われて決めたのではなく、私が授業料安い方がいいからと考えて決めたことでした。
併願でいくつも学部を受けたときは、受験料だけで何十万円もかかったのに、親は何も言わずに払ってくれました。
奨学金だけではまかなえない授業料も払ってくれ、公務員試験用の補講授業代も出してくれました。
私がやりたいことを反対せず、いつも必要な援助をしてくれていた親に感謝しています。

【占い師デビュー!?趣味に生きる大学時代】


結果的にはその大学に通ってよかったです。
授業は思った通りカンタンで、試験前の一夜漬けだけで良い成績が取れました。

部活に入っていましたが、その大学だからこそ、楽しんで活動できたんだと思います。
(私が志望していた大学だと、その部活は未経験者不可だとあとで知りました。)

通学途中に都会を通るので、難波で下車して買い物するのが大好きでした。
友達と都会をぶらぶらすることもありましたが、ほとんどは1人で徘徊です。
大学時代は1人でカラオケに行ったり、1人で映画を観に行ったりしていました。

高校3年生の冬に競馬にめちゃくちゃはまって(←このせいで受験失敗した)、大学生になってからは1人で競馬場にも頻繁に通っていました。

ギャンブルには一切興味がなく、ただただ好きな馬の写真を撮るのに夢中でした。
私は多趣味で飽きっぽい性格なので、ここまでひとつのことにのめりこんだのは初めてのことでした。
(そして現在は競馬のためにアイルランドに永住までしています。)

一眼レフカメラを買って、大学2年生の頃には本格的に好きな馬を追っかけて地方遠征もしていました。
阪神競馬の翌日に東京競馬場に行ったり、春は福島、夏は函館、秋は中京、冬は小倉という具合にひたすら全国各地を飛び回っていました。
北海道に昼到着して、競馬を見て当日に帰る(往復6万円)という弾丸トラベルは当たり前。
せっかく北海道に来たんだから1泊して観光、なんて気は起きませんでした。
1人で来ているし、もともと観光旅行に興味がなかったからです。

ストイックに好きな馬を追いかけていました。
馬だから変わっていると思われがちですが、アイドルやバンドの追っかけをしている人たちもそんな感じだと思います。

日本の中央競馬場は、大学生の間に札幌と新潟以外すべて行きました。
旅行に興味がないから、競馬を好きになっていなかったら海外はおろか今でも地元からほとんど出ていなかっただろう…
インドアなので休日も競馬がなかったら一歩も外に出ません。
家の中でいくらでも楽しめる趣味があるから、服を着替えて外に出るのめんどくさい。
競馬のおかげで、適度に出かけて健康的に生活できている気がします。


また、占いに関しては、大学1年生の時にはじめて占い師として(?)うれしい体験がありました。

その頃私は手相占いにはまっていて、手相占いの本を何冊か読んでいました。
(手相占いで世界一有名な占い師はアイルランド人なのですが、その人の本も読んでいました。アイルランドに来た時にそのことを知って、なんだか不思議な縁を感じました。)

最初は身近な友達の手相を見て遊んでいたのですが、いつしか部活内でも私が手相占いができると噂になって、結果何十人もの手相を見ることになりました。その部活は80人ぐらいの大所帯でした。
しゃべったことのない先輩や、たまたまその場にいたOBさんなど、普段関わりがほとんどない人と占いを通じて会話することができました。

「30歳あたりで結婚して離婚するという線があります」「えー!」「お前離婚するんかー!」と一笑い起きたりして、手相占いは盛り上がりました。
なんだか自分が人気者になったような気分でした。
「私の手相も見て~」「すごい!ありがとう!」とちやほやされて、感謝までしてもらえる経験なんてこれまでありませんでした。

何十人も占っているとデータが取れてくるので、占っていても楽しかったです。
「この人は社交的だからあの線あるだろうな、やっぱりあった!」という風に。
実家がお金持ちの先輩何人かを占ったとき、みんな共通して財運線がはっきり出ていたのも興味深かったです。
手相はその人の人生を表してるのかも、と思ったり。

手相占いは、私にとっても部活内でも一時的なブームだったので、3ヵ月ほどでそのブームは去りました。
私も遊びでやっていたので、手相占いを極めようという気もなく、その後誰かの手相を見ることもなくなりました。


部活の新入生が数十人いた中で、私は大人しい人見知りなので基本的には全然目立ちませんが、「競馬好きで手相占いができる変わり者」ということで割と先輩たちから覚えてもらえました。
占いを通して「こいつはしゃべってみると面白い奴なんだな」と知ってもらえ、可愛がってもらえたので、とても居心地が良かったです。

部活の夏合宿では、新入生男子が「食堂に集まってください」という放送を面白おかしくやらなければならない、というキツいしきたりがありました。
男子たちは見事にギャグがウケず撃沈している中で、私は立候補して女子で唯一そのお笑い放送に参戦し、爆笑をかっさらいました。
放送後に数々の先輩から「あの放送めっちゃおもしろかった!」と褒めていただき、大勢の人を楽しませるという達成感も味わいました。

私のネタがウケたのも、私に変わり者のイメージが定着していたからで、私もそのことを認識していたから、恥ずかしがらず自由にのびのびとできたのだと思います。

高校生までは自分の友達数人という狭いコミュニティの中で友達を笑かす、ということをやっていましたが、大学生になってからは自分とは違ったタイプの人たちとの関わりができました。
その中で自分らしく振る舞う、人を楽しませるというのは新鮮で楽しかったです。


競馬にはまって遠征するようになったのを機に、どんどん本来の自分が出てきました。
人に合わせてみんなでワイワイするより、1人で自由に行動することに充実感を覚えていました。

小学生の頃は何の疑問もなく周囲に合わせていましたが、中学生以降はどんどん団体行動ができない人になっていきました。
中高時代の遠足や林間学校、修学旅行、体育祭、文化祭など、行事という行事は大抵休みました。
大好きな友達はいたけど、遠足なんかに参加するのは時間の無駄だ、と思っていました。
興味ない場所に行く時間があったら、家でごろごろ漫画でも読んでいる方がよっぽど楽しい、というひねくれたガキ。

母は、私が行かないと言ったら全く止めずに、学校に休みの連絡を入れてくれました。
親が違えば強制的に行かされていたかもしれないので、本当に理解があるというか、いつだって私の好きにさせてくれていました。

成人式にも行かなかったのですが、行かない代わりに振袖代として母は数万円お小遣いを渡してくれました。
(成人式当日は大学の友達と京都で遊んでいました。)
私は自分の写真を撮るのが大嫌いで、「ブスが振袖着て写真撮って何の意味があるねん。恥さらすだけやん」と思っていました。
今考えると、母親は娘の振袖姿を見たかっただろうな、と思います。
それでも私の気持ちを優先して振袖の代わりにお小遣いをくれました。

私が結婚したとき、結婚式はしなかったのですが、母が「どうしても写真スタジオで新郎新婦の写真を撮ってほしい」と言ってきたので、それには応えることにしました。
ブスとハゲの結婚写真なんて撮ってどうする…と思うけど、これも親孝行になるならと考えられるようになったので自分もちょっとは大人になったかなと思います。

次の記事に続く。

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