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高校サッカーの思い出


みんなでオムニバス形式の記事を書いてみよう!
今回のテーマは「高校サッカーの思い出」です。

新型コロナウイルスの影響で、世の中は大変動揺しています。
高校スポーツの分野だと、夏の高校野球やインターハイは中止となってしまいました。

高校サッカーの全国選手権は冬に行われるので、まだ先の話ではあります。その頃の世の中はどのようになっているのでしょうか?
Jリーグなども再開が決定したので、次第に日常を取り戻していけるとよいですね。

今回は「高校サッカーの思い出」について書いてもらいました。それでは今回のお品書きです。


「僕のポジションはサイドベンチ」 タケジーニョ

「私がPK戦恐怖症になったワケ」 さとうかずみ@むぎちゃ

「それは高校サッカーに非らず。」 サカマキ

「中二病と高校サッカー」 円子文佳

OWL magazineでは、読者を中心としたコミュニティからの寄稿記事を月2本程度掲載しています。今回も僕(円子)以外の記事については無料部分として公開させていただきます。旅とサッカーについて、自分の考えを世に問いたい!という方は、下記にお問い合わせいただければと思います。



僕のポジションはサイドベンチ

タケジーニョ

高校3年生のインターハイ県予選で、僕は念願の登録メンバーに入った。
しかし、1回戦から出場メンバーを外され、スタッフとして監督の側に座るよう指示された。

ボールに触れることも、コントロールミスを犯すことも、全力で走ることすら許されない。チームが勝つことは自分自身の評価を落とすことになる。
また、試合に出場できない苛立ちや情けなさといった感情が混じり合う。

そういった拷問状態の中、監督の側に座るポジション。
それがサイドベンチである。

僕は飛び抜けた技術を持っていなかった。そのような選手が生き残る術は、まず骨折のような大きい怪我以外は怪我と考えてはいけない。怪我で1日休むことは1日以上の遅れが生じるからだ。
また、たとえ出場して結果を残したとしても、試合内容や1回の判断ミスで次の試合に出られなくなることもある。練習から1プレーごとに集中しないと試合では全く通用しない。
とは言え、勝負の世界なので努力しても出場できないという結果が出た以上、現実を受け止めなければならない。

複雑な心境の中にいる僕に、監督は試合開始後から話しかけてくる。

「なぜ、○○○○は同じ判断ミスするのだ?」

― (それは本人に聞いてや)

口や態度には出さないよう気を付けたが、心の中ではそうつぶやいていた。
自分自身の実力を棚に上げ、不貞腐れて味方や対戦相手のミスを嘲笑い、起用しない監督の文句を陰で言うのは簡単だ。また、ドリフの高木ブーのように、目の前に起きていることに無関心で何もせず、ただ時間が過ぎるのを待つことは、僕の存在自体を無にすることになる。いつあるか判らない出場機会を得るためにも、とにかくサイドベンチの拷問に耐えることしかなかった。

試合後には監督室で1回戦の総括を手伝った。
その時、監督からサッカー部のモットーの意味について質問された。

我がサッカー部のモットーは、「怯まず、驕らず、溌剌と」
どのような状況にも対戦相手にも怯まず、決して自分自身に驕らず、サッカーができる喜びと感謝の心を持って溌剌とプレーをしなさい、というメッセージだ。

高校入学した日からずっと叩き込まれたモットーの意味を当然のごとく答えた。
すると監督に「3年間の練習や試合で、お前はいつも自分のことに必死。言葉を理解していても行動に移せない選手は使えない」とはっきりと言われ、チームスタッフとしてサイドベンチに座ることが確定した。

手伝いを終えて監督室を出ると、この日出場していたチームメイトが1人でずっと待っていた。僕の気持ちを酌んだのかは分からないが、監督室での話を一切聞かず、暗くなるまで他愛もない話をしてくれた。落ち込む気持ちが少し楽になった。その後、帰り道で僕はこのチームメイトが試合にいつも出場できる根拠を必死に考えた。

その答えの一つとして、チームの伝統として「登録メンバーは全学年による投票で決める」ことが思い浮かんだ。
登録メンバーの投票は、単に実力だけで選ぶのではなく、応援したいチームメイトも選びなさいというメッセージが込められている。
実際に彼は満票。実力も人間性も評価されて然るべき選手だった。対する僕は彼の票の10分の1にさえ満たしていなかったが、誰かが僕に投票してくれたおかげで登録メンバーには入ることはできた。この事実に僕は感謝の気持ちを一切持っておらず、自分のことしか本当に考えていなかった。このことに気付いた瞬間、恥ずかしい気持ちになった。

僕はスタッフとしてサイドベンチに座らされるが、僕に投票してくれたチームメイトが投票したことを後悔しない行動をとろうと考え直し、自分に与えられた役割を果たそうと決心した。
それ以後、試合に出場できない悔しさは消えなかったが僕はサイドベンチに座り続けても、自分自身を恥じる気持ちを持つことはなく、心の底から仲間を応援することができた。

そのように行動していたからなのか、監督はチームマネージメント方法や戦術論など今でも影響を受けているサッカー哲学をイチから教えてくれた。
高校を卒業して23年が経った。ふとした時に、この日の悔しい想いが蘇る。そのたびに自問自答をする。

今の自分は怯まず、驕らず、溌剌としているのか、と。

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「私がPK戦恐怖症になったワケ」      

さとうかずみ@むぎちゃ

2008年〜2010年の高校サッカーは、私も闘っていた。
支える側、家族として。

我が息子は、1992年生まれ。お腹の中に居るときから「闘魂こめて」読売巨人軍選手応援歌を聴いて育った。
幼い頃から運動神経だけは良く、当然、将来、甲子園に連れて行って貰えるものだと期待していた。

中学校に入り、入部届けを貰って来て吃驚!!
野球部じゃない…、サッカー部!?
はじめてこの時、息子はサッカー大好き。将来プロサッカー選手を夢見ていたと知ったのだ。
そして、この中学のサッカー部非常勤顧問に、当時まだJFLの栃木SC の片野寛理選手(現:タイリーグdv.2シーサケートFC )がいて、私もサッカーにハマり、栃木SC サポーターの道を歩き出すのだ。

このサッカー部入部届けを出した日から、全国高校サッカー選手権大会、正月の国立陸上競技場に立つ事を目指す事になるのだ。

この年から、選手権大会が始まれば、将来の為に、地元栃木県代表高校を追いかけてスタジアムに足を運び、真冬のナクスタで食べるカップヌードルの美味さの格別な事を知り、元旦は国立詣でをした。

高校への進学もサッカーメインで進路決定をした。
すべては充実したサッカー部ライフの為、国立のピッチに立つために。

実際には、1年生からレギュラー入りし試合に出れる可能性と、特待生指定を取れる、県内では常にベスト8には名を連ねるサッカーレベルの私立高校に進む。
(と、言っても、その昔、サッカー選手権大会1964年優勝、1986年ベスト4、翌年1987年には高校サッカー選手権史上に残る激闘伝説のPK戦で名を残しており、現:鹿島アントラーズコーチ黒崎久志(黒崎比差支)や、元川崎フロンターレ小泉淳嗣が先輩に居る、知る人ぞ知る、宇都宮学園、現:文星芸大附属高校である。)

私も、母としてサッカーの為にできる支えは全力で取り組んだ。

朝、5時前に起き、複数個のお弁当作り、朝食を用意し、部活後夜遅く帰って来ても、食事を用意し、翌日の練習の為、練習着の洗濯をした。土日祝祭日の関係なし。

でもね、ちっとも苦じゃないの。毎日楽しくて仕方なかった。
サッカーに打ち込む息子をサポートする事が楽しくて仕方なかった。息子の試合を観るのが、Jリーグ観るより楽しく、燃えた。

しかし、現実は厳しい。

1、2年生の時の選手権県大会は県予選は突破するも、本戦はベスト16にも入れなかった。

いよいよ、3学年、背番号2を背負い、挑むも栃木県大会本大会2回戦敗退、ベスト16に沈み、高校サッカー生活にピリオドを打つ。

2010年10月30日、
この時期にしてはまだまだ珍しく早い、霙交じりの冷たい雨降る極寒の日。当時、栃木SCが練習場として使っていたうつのみやサッカーフィールド。
 
0-0のまま、試合終了。PK戦へ。
私は緊張感に耐えられず、応援席から離れる。

聞こえる歓声、溜め息、ざわめき、ホイッスルでなんとなくPK戦の様子を伺う。

ピピーーーッ!!

歓声に湧いたのは、聞き慣れない声、逆サイド側応援席。

(終わった…)

とぼとぼフィールド内を見に行く。

息子が大の字に倒れ込み、人目を憚らず声をあげて泣いている。

チームメイトに支えられ、ヨロヨロフィールドから泣きながら消えていく。
あんなに泣いている息子を見たの初めてだった…。

その後の事は、正直、覚えていない。

相変わらずの冷たい雨の中、掛ける言葉もなくトボトボ歩いて帰った事しか覚えていない。

高校サッカー生活最後の日となった。終わってみれば呆気無い幕切れ。

国立のピッチなんて夢のまた夢。

高校サッカーが残したもの。

試合内容なんて覚えていない。

今思えばただ、ただ、毎日サッカー中心の生活で、充実し楽しかった3年間。沢山の事を学んだ。経験した。

息子自体はその先のサッカー人生を2015年ヴィアティン三重を最後に引退発表するまで続いた。 

そして、今だ私は、


          PK戦恐怖症のまま。

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「それは高校サッカーに非らず。」

サカマキ


ボールを手に持って、地面に落とす。地面でワンバウンドして浮いたボールを、足の甲で受け止めて乗せる。


これが高校3年生3学期の体育の授業の課題だった。言い換えれば、高校3年3学期の成績はこのプレーで決まる。つまり期末テストだ。サッカー部でなかった自分にはこのプレーの意味がわからなかったが、今思えばリフティングの前段階のような意味合いだったのかもしれない。とはいえ地味だ。すげえ地味。とはいえリフティングをしろと言われても、まるで出来ないから困るのだけれど。

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テスト前の授業はこの、なんのテクニックなのかよくわからないプレーの練習に費やされることになった。授業といっても、クラスを何チームかに分け、総当たりで試合をしていく半ば昼休みの延長のような時間。試合の合間に練習をする。ボールを手に持つ。落とす。一見リフティングに挑戦するようで、しない。知らない人が見たら何をしてるのだろうと思われる練習だ。地味な割になかなかボールは止まらない。足を少し引き、勢いを殺してやる。するとボールは少しずつコントロールできるようになる。運動は苦手だったが、猛練習の成果で試験はすんなり合格した気がする。


この課題を科した先生は、サッカー部の監督でもあった。サッカーをプレーしていたとはお世辞にも思えないずんぐりむっくりな体型、煙草のせいか長州力並みの嗄れ声。落ちている枝を使っていつもグラウンドに何かを書いている。集合がかかり、何やら怒っているようなので黙って話を聴いていると、気付いたらニタニタと笑っている。サッカー部の同級生に「先生なんて言ってたの?」と聞いても、「よくわからんからいつも聞き流している」と言われる不思議な先生だった。


時に外国語を交えて何やら含蓄のありそうな話をする。何を喋っているかはほとんど聞き取れなかったが、時たま言ってやったとばかりに笑うので、僕はこの先生がなんとなく好きだった。予想通り、卒業後に先生の文章を拝見すると失礼なかまら普段の雰囲気からは想像もできないほど歯切れの良い文章で、やっぱり聡明な人なのだと今更ながら感心した。本当か嘘か、60年代初頭までWMシステムを引き摺っていた日本に4バックを導入した張本人などという噂があったが、成る程、今考えれば先生は戦術家タイプの監督だったのかもしれない。その割に、我が校のサッカー部が躍進したという話は一度も聞いたことがなかったけれど。多分、部員に戦略の意図が伝わらなかったのだろう。謎のテストの意図も教えて欲しかった。


テーマの高校サッカーの範疇に、サッカーの授業は多分含まれないと思われるが、僕にとっての高校サッカーはこの1000文字ぽっちが全てだ。あとはジダンの真似をして頭突きをした思い出くらいだ。大会でも部活でもないけれど、これも高校サッカーの端くれだと胸を張って言ってみる。


むしろ、そんな高校時代からよく地域リーグまで観戦するレベルまで巻き返したものだ。
なんの知識も無いのに、サッカーの文章を書くまでになった。
高校時代に戻れるなら、もう少しあの先生と話してみたい。
結局聞き取れないかもしれないけど。



中二病と高校サッカー

円子文佳


今回のテーマである、「高校サッカーの思い出」を募集したのは、他ならぬ僕です。しかし自分には、高校サッカーの思い出はほとんどありません。

その理由は二つあります。一つはフランス人、もう一つはハッピーマンデーです。

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