見出し画像

卒哭忌

 百箇日法要のことを卒哭忌という。「哭」というのは、嘆くこと、悲しむこと。「卒」というのは、卒業の卒で、終わること。嘆き悲しむのも100日程で終わるという意味もあるのだろうが、100日も経つのだからそろそろ泣くことをやめなさいという意味なのだろう。
 亡くなった人のことは一定の期間が経つと周囲の人も忘れていくというが、中々そうならないこともあると思っている。一つ目は、亡くなった一因が自分にあるのではないかという、答えのない自問を果てしなく借り返す場合。二つ目は、亡くなる前に何かできることはなかったのかと思い悩み、這い上がれない深淵に陥る時である。
 これらのことは頭では「そんなことはない」と思うのだが、あえていうなら心が納得しないのである。後悔というものは本当に辛い。そんな風に考えたらダメだ!と自分で自分をたしなめ、その時は涙を拭くのだけれど。
 K代ちゃんとは初めて会って以来、36年に渡り付き合ってきた。その親友を昨年亡くした日から、100日どころか1年が過ぎた。一周忌にはお墓に手を合わせに行ったのだが、この下にK代ちゃんが眠っているなんて、また1年も時間が経ったなんてどうしても思えなかった。

《K代ちゃんへ》

 K代ちゃんとお別れをして早いものでもう1年が経ちました。そちらの世界はどうですか?寂しい思いはしていませんか?寒くはないですか?辛くはないですか? 永遠の眠りについたK代ちゃんの棺にあの日すがって泣いた、あなたのかつての同居者だった私の嫁さんは、今日も1日をなんとか過ごしています。私が寄り添わないと一人ではもう何もできなくなってしまいましたが、嫁さんがあなたと2人で住んでいた時のママごとのような不自由な暮らしを振り返ると、幸せとは何なのだろうとしみじみ思います。あなたは決して涙を見せない強い人でした。都会での居心地の悪さを感じていた田舎者同士が歯を食いしばり肩を寄せ合ったあのマンションは、まだ現役で日本橋に建っていますよ。近くを車で通る時にはあの頃のK代ちゃんの熊本県人らしい明るい笑顔を思い出します。

 さて卒哭忌なんてとっくに過ぎ去った今、残された私たちはそろそろ泣くことをやめなきゃいけないのでしょう。でも今でも時々、K代ちゃんが頭に浮かんできて涙があふれてしまうことがあるのです。それは状況を選びません。通勤電車の中や会議中だったりもします。もしかしてあれはK代ちゃんの意思ですか? だったら嬉しいのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?