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茶器陶工 林潤一郎インタビュー①

「この急須はどなたが作られているのでしょうか?」

波佐見町鬼木郷は焼き物だけでなく、実はお茶の産地としても有名。マルヒロがお世話になっている原田製茶さんでお茶をいただいたとき、それまでのお茶の概念が覆されたことを今でもはっきりと記憶している。甘く、脳内で捉えようのない味が駆け巡る感じ。

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茶葉がおいしいことはもちろん、原田さんがお茶を淹れるときに使う道具もおいしさの秘訣に違いない。そこで、原田さんが使っていた急須がとても気になった私は「この急須はどなたが作られているのでしょうか?」と原田さんに聞いてみた。

すると、「波佐見町の三股郷で作陶されている林さんという方が作ってくれたの」と教えてくれ、さらには「茶畑の土を使って急須を作っている」と。

同じ土を介して、茶葉と茶器ができ、また一つになる。とても衝撃的で、とにかく林さんに話を聞いてみたくなった。しかも、波佐見という量産が得意な場所で「蹴ロクロ」という原始的な方法を使って、焼き物づくりをしているという。

ご縁あってようやく林さんにお話しを伺うことができた。「茶器陶工 林潤一郎」になるまでの道程、茶器への想いをインタビューさせていただきました。

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全ての始まり「種子島南蛮」


ーまず焼き物の世界に入るきっかけは何だったのでしょうか?

元々、結婚式場の営業マンをしていました。佐賀県唐津の担当で、朝から夜遅くまで唐津中を回って営業していました。あるおうちでの打ち合わせの後、座敷の方に案内されて。

座敷で待っていると、そのおうちの家宝である唐津の花瓶や抹茶碗が床の間に飾られていて、その中にあった中里隆さん作「種子島南蛮」にとても心を惹かれました。

「種子島南蛮」の素朴な焼き上がりに、ものすごくあこがれて。学生のころから故郷の波佐見の焼き物に見慣れていたため、真っ白くて青白く焼かれたものがきれいな焼き物だと思い込んでいました。観念ですね。

中里隆さんの作品を見たときに「これだったらひょっとしたら自分でも作れるかもしれない」と、軽々しく思ってしまったんです。

種子島南蛮を見て2か月後に、働いていた結婚式場を退職しました。27歳のときですね。そのぐらい自分の中で種子島南蛮というものが、素朴ながらに存在感を発揮していたその風合いというものが、結婚式場の営業をしていても心に引っ掛かっていました。

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(アトリエに飾られていた営業マン時代の写真)


ー退職後、どのようにして陶芸を始めたのでしょうか?

両親も焼き物に携わっていて、親に相談したら、種子島南蛮と波佐見焼は異なるとは思うけど、波佐見にもロクロ教室があるだろうからって教えてくれて。そこから自分で工業組合とかに電話して、後継者育成講座という波佐見の伝統工芸士さんが教えてくれる講座に通うようになりました。

1年間、電動ロクロを習いました。その後、釉薬の勉強で窯業技術センターに半年、絵付けの研修で1年。日中は家業の鋳込み作業を手伝い、夜はロクロの稽古をしてという感じで、その生活が2年半くらい続きました。家業の鋳込みをしながらも「早く自分の焼き物をみたいなぁ」と思っていました。

「30歳くらいで独り立ちを」と思っていたのですが、波佐見で習ったことは磁器のロクロ引きや磁器に絵付けをするといった「磁器」をベースにしたこと。どうしても最初に見た種子島南蛮の素朴な表情というものが自分の脳裏にはあって、自分の脳裏にあるものと磁器で作るものの方向性が違っていました。

そこで葛藤しました。当時はネットなど普及していなかったので、雑誌が参考書みたいなもので。図書館に行っては「これいいな~!やってみようかな~」と。人さまが作った器や一輪挿しなどを真似て作ったんですけど、やっぱり種子島南蛮が脳裏から離れず、35歳のときに行き詰ってしまいました。

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「焼き物づくりをやめる」


ー「種子島南蛮」という憧れになかなか近づけないという葛藤とどのように向き合ったのでしょう?

とても行き詰ってしまい、もう電動ロクロからも完全に気持ちが離れてしまって。「ロクロでは食べていけなかった。そんなに簡単ではない」と自分の中で大きな壁にぶち当たってしまいました。

そのころの自分は甘んじて楽な方を選ぶ性格でした。「もうロクロもやめて、自分の力でごはんを食べていくにはどうしたらいいだろう?」と電動ロクロをやめることを考え始めていました。

当時結婚していた方のご両親に「生活が安定していないのに、自分の思い上がりで振り回すのもいい加減にしてくれ」と忠告されてしまい、自分の中で焼き物づくりの一つの大きな壁の原因になってしまったわけですよ。

一番最初に販売したフリーマーケットで500円・1000円と値段をつけていても、まったく売れなかったですね。当然人さまの真似でもあったし、今になれば1000円の価値もなかったかなって思います。

当時の奥さんには「そんなにすぐ花が咲くわけではないし、自分はそのあたりは分かっている」と言ってくれたのですが、やはりご両親の「焼き物をやめて、きちんとした収入を」という言葉があって、自分の中で葛藤がありながらも、焼き物づくりをやめる決断に至ったんです。

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ー理想と現実のはざまでかなり葛藤されたことだと思います。こうありたい、けれど実際に生きていくためには他の道を選ばなければいけない。「焼き物をやめる」と決心した後はどのような行動をされたのでしょうか?

ちょうどその時、「波佐見陶芸協会」というグループに所属していました。ロクロ教室の伝統工芸士の方が「教室が終わってから勉強も兼ねてグループに入ったらどう?林君の場合は焼き物づくりを始めたのがちょっと遅いから、先輩方からいろんなテクニックや技法を習えるグループに入ってても損はしないよ」って。

そのグループにいた田島さんという方が「牛ベラ」という磁器の粘土を薄く伸ばしていく道具を作っていて、本業は床屋さんで趣味以上で陶芸をされていました。公募展などでも入賞して、しっかりとした技術を持たれた方です。

田島さんは本当に手先が器用で、「ロクロにこういう道具があったら、磁器の土も伸ばすことができるよね」ということで、本を頼りに見よう見まねで牛ベラを作られたんです。

焼き物づくりをやめようと決断した後、田島さんにヘラ作りを習いに行って、弟子にしてもらおうと考えました。牛ベラは陶芸教室で需要があるので、教室で販売すれば食べていくということは大丈夫だろうと。まぁ甘い考えですがね。

田島さんのところに「弟子入りさせてください!お願いします!」と頭を下げお願いしたのですが、田島さんからは「弟子を取るつもりもないし、代々教わって教えるという技術でもない。自分の私利私欲が入ったものでもあるから、自分の代で自分は終わりたい。弟子は御免。」と断られてしまって。

自分は結構熱く語る方なので、田島さんにも「電動ロクロは無理なんですよ」と熱く語って、焼き物に対する情熱のようなものが田島さんに伝わったみたいで、田島さんが倉庫の2階から今ここにある蹴ロクロを持ってきてくださって。「さっきお話してくれた情熱があれば、蹴ロクロもいつかできるようになる。電動ロクロで無理ならば、ちょっと転換して蹴ロクロをやってみないか?」と。

「波佐見・有田・伊万里・三河内辺りでは誰も蹴ロクロをしていないから、自分で見つけていかないといけない。これまでいい先生に教えてもらってるから、今焼き物を辞めてしまうのはもったいない。電動ロクロでは自分の力を発揮できなかったかもしれないが、蹴ロクロになればまだ分からない。私は大丈夫と思う。蹴ロクロで食べていけるようになると思う」と言葉をかけていただきました。

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蹴ロクロとの出会い


ー林さんの代名詞でもある「蹴ロクロ」。「焼き物から離れようとしていたときに偶然、田島さんから譲り受けた」というその出来事がなかったら今の林さんは焼き物とは無縁の世界にいるかもしれない。そのように考えると、一つの出来事の重さを感じずにはいられません。

蹴ロクロを始めるとはいえ、この辺りには蹴ロクロをしている方はほとんどいません。田島さんのおっしゃるとおり「自分で見つけていかないといけない」ものだと思います。「蹴ロクロ」とどのようにして関係を築いていったのでしょうか?

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まったくこの辺りで蹴ロクロをしている人もいないし、どういう格好でどのようにして蹴るのかすら分かりませんでした。ここでまた最初の「種子島南蛮」を思い出して、ビデオを借りて、お手本にしたのはやっぱり中里隆さんでした。

ビデオで蹴ロクロの動作を見て練習を積みましたが、力の入れ具合などが難しく、結局技術の習得までに2年くらいかかりました。2年間また鋳込みをしながら、夜は蹴ロクロという形で。

電動ロクロは腕力だけですが、蹴ロクロは全身を使うので、リズムが必要になってきます。1・2・3と蹴ったら、自分の中で10数えれば、土を上に引き上げることができる。足と手が呼応しているんですよ。身体がこのリズムを覚えてくれたので、波佐見町三股郷に自分のアトリエスペースである「静庵」を作りました。

電動ロクロではなく、蹴ロクロを体験できる体験工房も兼ねてます。この狭いスペースながらにたくさんの方に見えていただき、とても静かな山の中なのでものづくりに没頭できる環境です。

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蹴ロクロを使えるようになって「何を自己表現していこうかな」と考えるようになりました。家業が鋳込みで手伝っていたのが、ポットや急須の接着をしていて、「蹴ロクロで急須を作ってみたらどうなるだろう?」と思いまして。

親には「まさか蹴ロクロで急須は難しい」と言われ、「無理だろう」と。確かに感覚的に、波佐見・有田は「急須は鋳込み」という考えがあるので、自分自身もそういう感覚でした。急須やポットのような「袋物」と呼ばれるものは、鋳込みで十分なものができるうえ、効率がいい。

でもやっぱり田島さんから蹴ロクロを譲り受けたときに「これで自分を一新したい」と思ったんです。今まで楽な方を選んできたけれど、自分に喝を入れて「難しいものに挑戦してみようと」。体験工房も始めて収入も安定してきて、時間がかかってもいいから自分の中で難しいものにあえて挑戦してみたいという気持ちが強くなりました。それからは体験工房をしながら1年半くらい急須まっしぐらに稽古をしました。

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「茶器陶工 林潤一郎インタビュー②」に続く

少しずつ「茶器陶工 林潤一郎」に繋がる。今に至るまでに様々な葛藤があり一度は「焼き物をやめる」という決断も。それでもやはり最初に林さんの心を惹きつけた「種子島南蛮」が林さんを焼き物の道に戻していく。

最初に書いた「同じ土を介して、茶葉と茶器ができ、また一つになる」という部分については、後半で明らかになります。「種子島南蛮」「蹴ロクロ」ともう一つ、「お茶農家さん」がキーワードです。お楽しみに!

text by : 衞藤

400年続く焼き物の町、長崎県波佐見町を拠点に、有限会社マルヒロが運営するカルチャーメディアです。 波佐見町のひと・こと・長崎についてなど、マルヒロから広がるつながりを、ときにまじめに、ときにゆるくお伝えしていきます。私たちを取り巻く日常を一緒に歩いてみませんか?