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ニーバーの祈りのマインドセット

好きな言葉を聞かれたら、私は真っ先にラインホールド・ニーバーの祈りを挙げる。そのくらい好きだ。この祈りには全ての人生訓のエッセンスが詰まっていると思う。色々なエッセイを読んでいても、いつもこれに行き着くのだ。

しかし、これは最初の部分こそ有名だが、その続きがあることはあまり知られていないように思う。そこで今日は、その全文をご紹介し、また私なりにこの祈りから見出したマインドセットを共有したい。

God grant me the serenity
to accept the things I cannot change,
courage to change the things I can,
and wisdom to know the difference.
Living one day at a time.
Enjoying one moment at a time.
Accepting hardships as the pathway to peace.
Taking, as He did, this sinful world
as it is, not as I would have it.
Trusting that He will make all things right
if I surrender to His Will.
That I may be reasonably happy in this life
and supremely happy with Him.
Forever in the next.
Amen.
(拙訳)
神よ、私に与え給え
変えられないものを受け入れる心の平穏と、
変えられるものを変える勇気と、
そしてそれらを見分ける知恵とを。
今日この日を愛で。
一瞬々々を慈しみ。
困難は安寧へ至る道として受け入れよう。
神のなさる様に、この業にまみれた世を
己の理想によらず、あるがままに受け止めよう。
神の意志に委ねるなら
全てはあるべき姿へと帰るのだと信じよう。
そして私は、今世において相応に幸せであり、
来世においては神と共に、
至高にして永遠の幸福を得るだろう。
アーメン。

①運命に委ねる=自分にできることだけに注力する

これは言わずもがな、有名な最初の一節で明確に説かれていることだ。

そして、古今東西の思想はこの「変えられないものと変えられるものを見分ける知恵」の探求のために生まれたと言っても過言ではないだろう。

古代ローマのストア派哲学では、自分の思考と行動だけを変えられるものとし、それ以外の一切は変えられないものだとした。政治の行くすえ、富や権力、他人の心、さらには自分の身体までも、変えられないものだとした。明日いきなり政変が起き、国外に追放されるかもしれない。信じた盟友に裏切られることもある。病に倒れることもあろう。それらを防ぐことはできない。自分が支配できるのは、そういった出来事に対してどう反応し、どう行動するか、ということだけだ。その外部の事象は、全て運命の女神フォルトゥーナの手中にある。彼女に背くことは苦しみしかもたらさない。これがストア派の答えである。

中国の道教は「変えられないもの」を支配する原理を「道」(ダオ)と呼び、その流れに、まさに川の流れに身を任せるがごとく委ねることを善しとした。仏教においても、物事は複雑に絡み合った「縁」に導かれて起こるものだと考えられ、私たちの「変えられること」はその縁をどう活かすかという点に限定されている。そして、「変えられないこと」への不合理な拘りを「執着」と呼び、苦しみの原因としてこれからの脱却を目指すのである。

厳密にどの立場を取るかは人それぞれだろう。しかし共通して言えるのは、「変えられないこと」への拘りこそが苦しみの源であり、「変えられること」にフォーカスして生きるしかないのだ、という態度であろう。

②全てのことに意味があると信じる

では、「変えられないこと」のもたらす苦しみにどう向き合えば良いのか?その答えは後の部分に書かれている。

困難は安寧へ至る道として受け入れよう。
神のなさる様に、この業にまみれた世を
己の理想によらず、あるがままに受け止めよう。
神の意志に委ねるなら
全てはあるべき姿へと帰るのだと信じよう。

ここでニーバーは、苦しみにも必ず意味があるから受け入れるべきだ、という態度を取る。全ては神の御業である。その壮大な計画は、私のようなちっぽけな人間では理解できない。だから神の意志に委ね、苦しみを受け入れよう、というわけだ。

これは私たちがそのまま受け入れるには少々宗教的すぎるのは否めない。しかし「風が吹けば桶屋が儲かる」理論のように、一見関係のないことでも相互に関わりあってこの世界を成り立たせているのだと考えれば、今の苦しみが将来享受する幸福の遠因となっているのではないか、と信じて希望を持つことはできる。失敗は成功の基だと、間違いは正解への道だと、信じるのである。

当然、この考え方には批判もあるだろう。そうは言っても今ここで私が苦しんでいる事実に変わりはないじゃないか、と言って切り捨てることもできる。それに、本当に全ての苦しみに意味があると言い切れるか、突き詰めてゆけば疑わしいところもある。戦争によって家を追われ傷を負った子供たちの苦しみを、未来の善のためだとして正当化できるのか?彼ら彼女らは本当に苦しまなければならなかったのか?など、問い始めればキリはない。

しかし、あくまで自分の人生に対するスタンスとして、常に希望を持って生きるためのマインドセットとして、どんな苦しみにも意味があると信じることは、何の害もないばかりか大きな助けになるのではないだろうか。

③感謝の心を持ち、足るを知る

私たちは「変えられないこと」に抵抗することをやめ、苦しみを受け入れた。日々、嫌なことや辛いことが起こる。しかし私たちは不平を言わず、静かにそれを受け入れるだろう。

するとふいに、視界が開けてくる。確かに良いことばかりではない。だが日々の中に、ちょっとした幸福な瞬間がいくつも転がっていることに私たちは気づくだろう。そんな心の動きが、これらの言葉で表現されているように思う。

今日この日を愛で。
一瞬々々を慈しみ。
[中略]
そして私は、今世において相応に幸せであり、
来世においては神と共に、
至高にして永遠の幸福を得るだろう。

決してこの世で永遠の幸せは求めない。ただ一日一日、ふいに訪れる幸せな一瞬一瞬を愛で、それに感謝を捧げつつ暮らしていくのだ。それで私たちはそれなりに幸せに生きていくことができる。

ここで、来世の存在を信じている人ならば、来世でこそは永遠の幸せが得られると信じ、希望を持つことができる。だが私を含めたそうでない人は、ただ「相応に幸せ」な今世に満足して死んでいくしかない。これは淋しいことだ。しかし、苦しみにばかり目をやって不平不満にまみれながら終わるよりは、相応の幸せに感謝しつつ平穏な心で逝く方がどれだけ良いことだろうか。

だが、これは諦めの祈りではない

ここまでの論調は、様々なことを諦めつつ「小さな幸せ」だけを頼りに生きていくしかないような、諦めを勧めるかのようなところがあったと思う。

しかし、ニーバーはただの諦めを勧めているのではない。そここそが、いわゆる「ゆるく生きる」系の人生論にはない、この祈りの大きな特長である。

もう一度、最初の一節に戻ろう。

神よ、私に与え給え
変えられないものを受け入れる心の平穏と、
変えられるものを変える勇気と、
そしてそれらを見分ける知恵とを。

確かに、「変えられないもの」はただ静かに受け入れるしかない。しかし、「変えられるもの」なら勇気を持って変えてゆけ、とニーバーは説いているのである。そして案外、「変えられること」は沢山あったりするものだ。ちょっと勇気を持って気持ちを口にしてみる。気になっていたあの場所に行ってみる。それだけで、一気に新しい風が流れ込んでくるかもしれない。

問題なのは、何もかも努力すれば思い通りになる、というような極端な考えだ。それは昨今巷に流布していて、多くの人を悩ませているように思う。しかし、そんな世界から完全に引きこもってもならない。ある意味ニーバーは、当たり前のことを当たり前のように教えてくれているのだ。だからこそ、祈りの言葉としてとても強い力を持っている。

礼拝というのは、当たり前のことを再確認するものだ。キリスト教においても、毎年クリスマスがあり、イースターがあり、イエスの死と再臨が毎年毎年繰り返し繰り返し再演されている。それは、私たちが忘れっぽいからである。1年もすれば、熱烈に持っていた信仰心を忘れてしまう。だから何度も、その瞬間が再演されるのだ。そしてその時に、何度も同じ祈りの言葉が口にされるのである。

だから私も、この当たり前のことを当たり前のように説くニーバーの祈りを、何度も繰り返し口にしよう。そして忘れないようにしよう。大切な、しかし当たり前のことを。

(写真は英国ウィンチェスター大聖堂。撮影=筆者)

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