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マドリードで死んで、ロシア・ロストフで成仏されたオレのサッカー人生。

去年の今頃、俺はひとりぼっちのマドリードで泣いて泣いて泣きまくっていた。

ずっと続けてきたサッカー人生が、今まさに終わる――。
小さいころから憧れ続けた日の丸にはかすりもせず、何万人の観客の前でゴールを決めることも、お世話になった人たちに成長した姿を見せることも、とうとう叶わなかった。
BIGになるとか、子どもたちに愛されるとか、すべての夢は自分の右足に紐づいていたはずで、なのにそれを今この瞬間に全部あきらめるんだと思うと、脳ミソが感情と過去の記憶でパンパンになって、涙を出そうが大声を出そうが、しばらく正気に戻ることはなかった。


おねしょでもしたかの如く、枕をビチャビチャに濡らしたころ、泣きすぎてゲッソリ疲れながら、マドリードで練習参加していたクラブにあいさつに行くことにした。

バスを待つ間、いろんな人に電話して「サッカー辞めるんです、俺」と報告する。とても澄み切った心持ちで、人生で一番晴れやかな気持ちだったかもしれない。卒業式とか、そういうときの清々しさに似ていて、でもそれよりさらにさらにスッキリした気持ちだった。

次は何をやろうか。サッカーのことをやるのか、違うことをやるのか。
映画監督とか、アパレルとか、やってみたいなと思ってたことに挑戦するのもいいな。

とにかくサッカーからある意味で「解放」された故に、現役時代は自然と抑えられていたアイデアが沸き出てくる。自分自身に無限の可能性と選択肢があるような気がして、ワクワクしながらバスに乗っていた。



スペインでサッカーをやりたいなら、指導者の勉強をしながらプレーするといい。

バスが練習場近くにつく。シメオネとかグリーズマンとか、その辺の人が止めているであろうランボルギーニの横を通って、警備員に門を開けてもらい、広い敷地を歩いていく。

トレーニング場所はアトレティコ・マドリーの巨大な施設の中の、ひとつのピッチで行っていて、本当にカスみたいな実力だった自分が、この門を選手としてくぐっただけでも、認めてあげないといけないのかなって気持ちになった。

そんなことを思いながらクラブハウスに行くつもりが、突然躊躇してしまい、足が止まる。
本当は練習前にあいさつしたかったけど、契約できなかったという惨めな気持ちと、素晴らしい経験をさせてもらった感謝の気持ちに振り回さ荒れ、クラブハウスをあける踏ん切りがつかず、結局施設の中をぐるぐる回ってしまい、練習場に入れなかった。

選手として、最後のプライドが表に出てきたのかもしれない。

40度近い気温の中、はるか遠くから練習を眺める。ここでトーレスも、グリーズマンも、カラスコも、フェリペルイスも練習してるんだよな。そんなことを思いながら、チームのみんなに発見されないよう、小さくなってトレーニングを見ていた。

練習が終わり、選手が引き上げる。
そのタイミングを見計らって、監督とコーチたちが談笑しているところに顔を出す。**
**「おお!マルよく来たな!」

と、大きな声で俺に握手をしてくるコーチたちの少し後ろで、微笑みながらこっちを見つめているおじいちゃんが監督だ。

俺を練習参加させてくれたのも、俺を契約させずに日本へ帰すと決めたのも、すべてこの監督。若い時なら、「何もこいつわかってねえな」ってガンつけて帰ったりなんてしたかもしれない。
けど、この日は自分を非契約にした目の前の老人に感謝の気持ちでいっぱいだった。

「練習に参加させてくれてありがとう」
「すごくいい経験ができた」
「コーチも施設も選手もみんなプロフェッショナルで最高だった」
「自分は今日でサッカーを辞める」
「スペインへのチャレンジが最後になる」

へたくそな英語と、覚えたばかりのグラシアス(ありがとう)で、たどたどしくこんなようなことを伝えた気がする。

覚えてるのは、泣くのを必死でこらえながら話してる俺を、やさしくスタッフたちが見守っていたことだ。
「どうしてサッカーを辞めるんだ?日本で続けたらいいじゃないか」
さっき、大きな声であいさつしてきたコーチが、5分の1くらいボリュームを落とし、やさしく語りかけてくる。
ありがとう、でも俺は今日でやめるって素直にそう決意したんだ。


黙っていた監督が口を開き、コーチが英語に直して通訳してくれる。
今となっては何を話されたか全然思い出せないけれど、とにかく優しく真剣に本気で話してくれたのを覚えている。

「キミはスペインだとローカルリーグの選手だ。ここ(2部B)のレベルではないし、スペインでプロフェッショナルとしてプレーすることは不可能だ」
「もしサッカーの世界に関わりたいなら、地域リーグでプレーしながら指導者の勉強をするといい」
「若いしきっと良いコーチになれる」

そんなようなことを言われたと思う。「お前はプロになれない」って、百万回は言われ、その度に唇を噛みしめてきたけど、この日に限っては悔しさはまったくなく、むしろ嘘偽りない100%の評価をしてくれたことがありがたかった。

「コンディションが上がれば」
「また次のマーケットが開くときに来てくれ」「次は獲ることもある」
「代理人とは連絡を取り続けてくれ」

そういう優しい嘘というか、お世辞というか、社交辞令みたいな言葉で別れることも多いこの世界。
自分も何度も何度もそうやってお茶を濁されて来た中で、ちゃんと本当のことを伝えてもらえることも珍しいかもしれない。

また少し泣いてしまって、くちゃくちゃになったあと、コーチたちとハグしてスッキリ別れた。本当に素敵な時間だった。

帰り道、速攻で日本行きのチケットを予約する。明日の朝帰ると決めた。観光でもして帰れば?って色んな人に言われたけど、何を観る気にもならなかった。とにかく、何か次に進んでいきたいという気持ちでいっぱいだったと思う。



日本代表は夢だったし、エネルギーだったし、理由だった。

もし自分が望めば、世界中のどこかでお金をもらいながらサッカーは出来たと思う。
トップ選手になれなくても、海外の辺鄙な国ならプロっぽい生活ができるぐらいの実力はあったし、周りの人に辞めると伝えると、それを聞いた多くの人は、まだ〇〇ならプレーできるかもしれないぞ!なんて、様々なクラブや監督、エージェントを紹介してくれようとした。
でも感謝しつつそれはキッパリと断った。


理由はシンプル。
スペインに来て「俺は絶対に絶対に絶対に日本代表になれない」と、心の底から思ったから。

自分は決して上手い選手じゃないけど、人生で一度も日本代表を諦めたことはないし、なれないと思ったこともなかった。

左膝を何度手術しても、脱臼をしても、ヘルニアになっても、いつだって自分にもチャンスがあると信じてたし、もうダメだと口にしたって、心の奥底では大逆転していく自分自身の姿があった。

そうやって自分の人生を思い返せば、日本代表になれる理由を無理矢理探す人生を歩んできたと言ってもいいかもしれない。

けれど、間違いなく才能はなくて、足は遅く、背も低い。運動神経もなくて、ここだけの話、俺はマットの上で後転(でんぐり返しの反対)すらできない(笑)

それでも、時には海外、時にはトレーニング、時には知り合った人、時には本・・・と、何かに可能性を求めて暴れまわってたら、一本道が開けるような感覚が訪れることが何度もあって、その道とは日本代表への道。

その道の先にある日の丸を背負うことが自分のモチベーションであり、年齢と共にだんだん可能性が低くなっていくのは客観的にわかりつつ、1%でも2%でも可能性があると思えたから、自然とサッカーを続けてこれたのかもしれない。


でもそれは決してポジティブな毎日ではなかった。
本田圭佑選手が「自分は凡人。凡人がメッシやクリスティアーノと張り合おうと思ったら、それは鬱になりますよ」みたいなことをインタビューで言っていたけど、それは凄くよくわかる。

「前向きに物事を考えましょう」
「ピンチはチャンス」
「捉え方ひとつで見方は変わるよ」

そんな言葉は時に人の気持ちを前進させるかもしれないし大切にしたいが、圧倒的な大きい壁にぶつかってしまうと、できないことや弱点というのが否応にでも洗い出され、そんな風に考えられなくなってくる時もある。

それが俺にとってはサッカー日本代表に入るということで、本気で目標にすればするほど、何一つ足りていないという現実に腹をえぐられていく。

それが最後決定的になったのがスペイン挑戦だった。
能力、才能、年齢、インテリジェンス、ポテンシャル、メンタル、スピリット、何かで上回れればと思ったけど、どれも外国人助っ人として求められる域には達せなかった。
ちなみに、マドリードでプレーした短い時間は、サッカー人生での至福の時だった。素晴らしい環境とプレーヤーの中に放り込まれて、自然と持ってるポテンシャルが引き出された。過去最高にサッカーを楽しめた瞬間だったと思う。

ここで何年かやれば、このレベルでプレーできるようにはなったかもしれない。でも、この上に2部Aがあって、1部があって、当然日本代表は1部レベル。自分の努力ではもう辿り着けないとマジマジと実感させられた。
でもそれが本当に良かったと思う。ハッキリと理解できたから、スッキリ辞められた。
こうやってスパイクを脱げるのも幸せなのかもしれない。


サッカー人生の9割は悩んで苦しんで鬱だった。

中2の途中ぐらいから、自分のサッカー人生や将来のことで、本当によく悩んだと思う。

親や周りの大人にも何度もぶつかり、才能のなさや能力のなさで何度も挫折を繰り返した。

その度に頭を抱えて悩む日々。自分の成長や成功をテーマにして、とにかく頭を働かせた時間だけが評価されるなら、それこそ日本代表に入ってもおかしくないぐらい考えた。

でも必ずしも前向きでなくて、自分自身を責めて苦しめたり、鬱状態になったり、そういう時間も長かった。長かったというか、ほとんど全ての日々がそうだったかもしれない。


「苦しまないといけない」
「成功しないとダメだ」
「死んでも達成しないと生きている価値がない」

なんて言いながら、とにかく自分をマゾスティックに追い込むことは、実は多くの場合で意味をなさない。
ということに、今なら気付けている。

だから、このまま15歳にタイムスリップできれば、もっと違ったサッカー人生に出来るかもなんて思うけれど、まあ、そうやってほとんどの時間を生きてきたことにあんまり後悔はない。終わってみればそれも人生の隠し味だ。


長友選手と俺は、サッカーに対する気持ちという意味では、きっと量的に大した差はないだろう。

というか差があるわけもなく、1日のほとんどをサッカーのことだけを考え、何年も過ごしていて、きっと彼も同じなはずなのだから、差なんて生まれるはずがない。

ただ、俺がベッドから起き上がれず、朝から晩までぼーっと天井を眺めながら、突然過呼吸になったりしてた頃、長友選手は体幹トレーニングやストレッチに時間を使っていた。それだけだと思う。

俺ができないことに目を向けていた頃、きっと長友選手はできるようになったら良いことにフォーカスしていた。ただそれだけの違いで、それでいて大きく運命を分けるのだと思う。


今年の春、テレビで自分の人生を取り上げてもらった。テレビショーらしくおもしろおかしくしてもらい、自分の人生をテレビでまとめてくれることなんて滅多にないから、本当に感謝している。

でも、それを見たみんなは少し誤解しいる。俺は決してポジティブではない。むしろ本質的にはネガテイブかもしれない。
小心者で、緊張しいで、イメトレの終着点はいつもバッドエンドだ。

だけどポジティブだから良いってわけではないと思ってるし、長友選手だってすごくネガティブな時も等しくあると思う。

多分、感情の揺れ動きはあくまで自分の状態で、それ以外に大きく意味をなさない。
そのときどんな行動をしていたか、その積み重ねはどこに向いているか、それこそが人生を象っていくのだと思っている。

感情のポジティブと、ポジティブな行動は別次元の話。
前向きに行動することは経験値になるから、歩みを止めれば止めるほど、成長のスピードは後ろ向きになる。

あれだけの熱量を、もっと行動に移せればよかった。


どんな気持ちでロシアを見ていたか

ワールドカップが4年周期だと気づいた小さいころから、もし出場するなら2018年が一番良いだろうなんて、すぐに予想がついた。

21歳だと若すぎる。29歳以上だと遅いかもしれない。そう計算するのは小学生にも容易いことで、小さいころから何度も何度も25歳(または26歳)の自分をイメージし続けてきた。

その2018年の俺は、まさか現役から退いていることになるなんて、想像もしてなかった。故になんとも不思議な気持ちで日本代表を眺めていたけれど、ひとりでテレビ観戦していれば、センチメンタルな気持ちにもなったのかもしれない。

でも幸いなことに解説の仕事があり、共演の方やスタッフのみなさんと、ワイワイしながら日本代表を応援することができた。
生まれて初めて同い年の選手を心から応援できて、同級生の選手がチームの大半を占めることを誇りにすら思った。



コロンビア戦のキックオフ前、心臓が爆発しそうになるほど緊張して、ポーランド戦のラスト10分はスリルで心臓が飛び出そうになり、ベルギー戦の最後のプレーでは本当に心臓が止まってもおかしくなかったと思う。

結局、そのベルギー戦から、ワールドカップは一切観なくなった。
燃え尽き症候群のような感覚なのかもしれない。スタジオにいく仕事がなければ、決勝も絶対観なかった。

これを言うと、サッカーの仕事してるのにその姿勢はどうなの?とか結構いろいろ言われるんだけど、当の本人はそれでいいじゃんと思ってる。


なぜなら、このワールドカップの日本代表は、俺のサッカー人生そのものだったからだ。


ここを目指し、青春はすべて球蹴りに捧げ、サッカーを想えば想うほど心と身体は痛めつけられ、時に立ち直れなくなり、たまに良いこともありながら多くの人にケチョンケチョンにされ、ボロボロになりながら、ただただ目指してきたのが、この2018年だった。自分でも気が付いてなかったけれど。
その俺と、娯楽としてのコンテンツのひとつとしてワールドカップを消費している人と、差があるのは仕方ない。


ただ、ワールドカップで日本代表が誇らしい戦いを見せたことが本当にうれしいし、だからこそ本気で応援して、試合が終われば緊張から解放されてゲロも吐いた。まさに俺自身がロシアで戦っていた。


そして成仏。

人生を終えても成仏されず現世にとどまるのが幽霊だとしたら、俺はサッカー人生を終えても成仏されなかったサッカー幽霊だったのかもしれない。

自分としてはスッキリサッカーをやめたつもりで、実際心の中では後ろめたい気持ちなんて全くなかったのだけど、何かもう一つセレモニーや手続きが必要だった。

そういう意味でロシアワールドカップというのは、サッカー選手としての俺にとっての葬式みたいなもので、ちゃんと来世へ自分を繋げていくための、大切な儀式だったんだと思う。

日本代表が破れたのは日本時間の7月3日。俺の誕生日は7月4日。スペインで夢朽ちることから始まった25歳という年齢は、小さい頃から思い描いてきたステージで、まさに俺自身をそこに投影できる存在の日本代表たちと、共に終わった。


ファンでも、サポーターでもなく、自分の人生そのものの晴れ舞台だったんだ、あれは。


ちなみに12年前の7月3日は、尊敬する選手の引退が発表された日だった。当然、14歳が始まる日の各紙は彼一色で、何か縁があると思ってずっと実家の部屋に切り抜きを貼っていた。


その後、現場ではなく活動の幅を大きく増やしていく中田ヒデ。きっと彼も成仏できてスッキリ次に進んだんだろうなと、低い目線から少し察してみる。



サッカー選手としての俺は完全に終わった。
でも綺麗に終わった。こうなれない人もたくさんいると思う。

次の人生は何をするか、明確にある。

日本代表にならないと辿り着けないなと思っていたステージに、違う場所から辿り着けるかもしれない。


綺麗に人生を全うした俺の、来世は始まった。前世の経験を生かして、自分に100%の期待をして、やってやろうぜ俺。

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