アル中の父に生まれた事とポジティブに考える事について

私はDVはされた事は記憶にあまりありません。

どちらかというと母へのDVが今でも記憶に焼き付いています。2018年、警察への相談を受けた件数は7万半件。日本の人口は一億二千万人程なので、あまり経験がない方が大多数でしょうか。確かに、私の家庭のDVの全盛期に高校生の頃、耐えきれず相談したところ、当たり前だと思っていたDVが当たり前ではないことを知りました。とある日に私の家庭の中で事件が起こり、耐えきれずに放課後友人に「普通、月一、年には何度かはこういうことあるよね?」と聞いたところ、「そんな事ない」と言われ、衝撃だった事を覚えています。それくらい私にとってDVが身近で当たり前にある事だと思っていました。それを知ってかなりのショックを受け、それ以降、高校の放課後は四歳下の妹にそのストレスをかけさせたくないと思い、できるだけ急いで帰っていたのを覚えています。

なぜなら、DVをしていたのは父でした。昼間から酒を飲み、私の家庭では頂点であり、誰も逆らえない存在。しかし、母は父には何も反論はせず笑って機嫌を取っているのを当時小学生の自分ですらわかっていました。ですので、妹が帰ってくる前には帰って、父がそのようなモードに入った場合は止めたい、出来るだけ妹には苦しい思いをさせたくないと考えたからです。

それから幾月が経ち高校生の時、私には夢がありました。F1レーサーです。その話をクラスメイトに言うと笑われ、両親に言っても「なれるわけない」と。

なぜ私は挑戦をしていないのにそのような事をいうのかわかりませんでした。プロ野球選手やプロサッカー選手も目指さなければなれません。F1レーサーも同じだし、なぜ最初から諦めているんだと。この頃からポジティブに考える思考があったかもしれません。そして聞くと周りにレーサーを目指した人はいなかったのです。私の考えですが、周りで目指した人の話を知らないのになぜ「なれるわけがない」という考えになるのか、当時の自分にはわかりませんでした。ただ世界のモータースポーツの頂点F1だけど、挑戦しないと可能性も生まれないと思っていました。

その頃、小林可夢偉という世界で22名しかなれないF1の中で、日本人唯一活躍しているレーサーがおり「偉大な夢を可能にする」という名前そのままの日本人ドライバーがいたのも背中を押しました。なぜ、馬鹿にされるのかわからなかった自分は必死にモータースポーツの頂点F1を目指して、周りのネガティヴな意見を聞かずに努力していたのを今思えば懐かしく、悪い意味で扱いづらい人間だと思われていたかもしれません。なぜなら当時の高校の校長先生にレース費を稼ぐために「アルバイトをなぜしていけないのか」、地元の教育委員会に「夢を目指すのに頑なにアルバイトをなぜしてはいけないのか」を直談判で、しかもアポ無しで訪問し、質問していました。

私の高校ではアルバイトは家庭の事情がなければ原則禁止、そして両親の協力が得られなかったからです。ですのでレーサーを目指したくても、それを目指すレース費用がない。ということで校則では合法である名刺と企画書を作り、「スポンサーになってくれないか」とあらゆる企業をアポイント無しで周り、それが新聞に掲載されて、その話が高校にまで連絡が来たのを覚えています。(しかし、結局家庭の事情が無ければアルバイトを表では許されませんでした。ですので私はそれに納得できず、アルバイトをしてレース費等を稼いでいました。なので、新聞の取材が決まった時、レース費をどのようにしているか?という質問の時答えに困ったのを覚えています。)

当時、地元熊本の最低賃金は時給647円でした。1日にかかる練習日は、サーキット走行費、ハイオク代(カートはガソリンとエンジンオイルを混合するのでプラスαオイル代がかかります)、タイム計測代等1万円はかかりました。レーシングカートの高校一年生の半年以上かけて中古のカートを自ら購入しました。そして私の家庭は貧しくお小遣いと言うものがなく、もしアルバイトがなければ何も買えません。もっと私の家庭は貧しい事を、当時の先生に言えばよかったのかもしれません。また父はお願いしても聞いてくれなかったため、祖父に往復3時間はかかるサーキットまで連れて行って貰いました。祖父には本当に感謝してもしきれないです…。

そして高校2年生の時「アマチュアレッドブルカート世界選手権」というレッドブル主催のレースが日本に初上陸しました。これに2年生の時は予選敗退。3年生のときも出場しましたが、予選は突破しましたが九州大会でクラッシュし敗れました。今でも勝っていればヨーロッパのチケットがあったかと思うと悔しくてたまりません。

それからの将来レーサーを目指すか進学するかの5.6月頃に、アル中であった父が私が見た中で狂っていった時期でした。当時父は会社の健康診断でγ-gtp(肝臓の健康具合を表す数値)の基準値が100前後程に対して700の値を示していました。基準値から7倍の値。確かに、父は今思えば九州ではお馴染み、焼酎の白岳25度1800mlを毎日買っては飲んでいたのは異常だったかもしれません。毎晩の様にお酒を飲み、ベランダには大量の白岳焼酎の紙パックが散乱していました。(お酒を飲んでいなかった私はリサイクルのためだと思っていましたが、今思うとゾッとします。)

その後、私にとっては大事な進路を考えるときに父は毎晩の様に狂い、物を破壊し、家庭を崩壊させました。その時初めて父の事を警察に通報しました。警察に通報したのも初めてでした。しかし、恐怖と母が死ぬかもしれないと思い、必死の思いで震えながら通報したのを覚えています。しかもその週で三回。暴力に洗脳されていた母は自分の事を「何で通報したと!?」と言われ、母を助けたかったのに、やるせない気持ちでいっぱいでした。しかし、今でも覚えているのが恐怖で家を飛び出して裸足でパトカーの元に行き「助けてください」といった自分に対し親身になって駆けつけてくれた警察官は優しく、とても嬉しかったです。「気軽に通報していいからね」と言ってくれた警察官には今でも力強かったです。

そして大学生になってから酔ってしょうもない暴力に遭うかもという事に対し、警察に通報するという癖がついてしまったのもこれがきっかけだったかもしれません…。あのトラウマが何年越しにも記憶に残っていると思ってびっくりです…。(通報してしまってごめんなさい…)

高校卒業からはF1レーサーになるにはお金がかかり過ぎると観点を変えて、せめてF1のエンジニアに携われる様な大学の機械工学科を目指しました。そして私は東京に憧れていたので、学費は全額払うと両親に言って首都圏の大学に行きました。大学時代はいつもお金に困っていましたが、首都圏に行けてとても楽しかったですね。満額奨学金借りてよかったと思います。

しかし、今思えば何も夢を目指して失敗や後悔、どんなに人に批判されても、メンタルは凹んでいません。がむしゃらに目指した事で同年代にはできない事は結構ありました。とある責任者に呼ばれVIPの招待状や、現役レーシングドライバーとの一対一の対談、F1ワールドチャンピオン(ジェンソンバトン)のサインをもらった事、ハリウッドスターを目の前で見れた事、ターミネーターのシュワちゃんを目の前で見れた事など、恐らく行動しないとできないことじゃないことを体験でき、思いっきりやっていれば同年代では経験していないことを出来たんじゃないんですかね。

いまは新卒でサラリーマン真っ最中ですが、またやりたいことができて、どうすれば叶うのか考えています。元々映画が好きで大学時代はレッドカーペットや、試写会も死ぬほど行きました。そして大学時代はよく友人を誘って飲みながら家で映画を見て楽しかったですね。その中でミニシアター×バルみたいなのがあればいいなと考える様になり、もし知らない人がいても映画を観た後に感想やらで盛り上がることができ、オススメの映画も聞けて楽しくなる。不特定多数と飲みながら楽しく映画を飲みながら観れるお店を開きたいと思っています。ですのでいまは資金を集めながら計画を立てています。

私は割と楽観的で、ポジティブに生きてきました。何とかなるんじゃないか。高校時代に目指した経験が今のポジティブシンキングに繋がりましたね。可能性0%以上ならチャレンジしてみるし、やりたいことならずっと行動してしました。お金はなかったですけど、映画は観たかった。でも試写会はタダで見れる。しかもみたい映画を。だからどうすれば当選するのかずっと試行錯誤してました。

今年新社会人になり、割と同世代が体験してないことを行動してた方なんじゃないかなと思います。面接や上司にF1レーサーを目指してたことをいえば「凄いじゃん」と興味を持って聞かれる。しかも課長や偉い人にまで認知された。しかし、当時の自分にとっては、なりたかったから目指しただけで凄いことをしてるとかなんて思ってもなかったです。固定観念・既成観念に囚われず、自分に自信を持って生きていくことが我が身の人生が幸せになると思っています。周りから批判されるかもしれません。たまに、自分は行動をしてないのに批判してくる人は何処でもいます。恐らくその人は人生の中で誰にも負けない行動とか体験や経験をしてないから言うと思うんですよね。しかし、間違っていないと思うならば一歩踏み出して一回きりの人生冒険に出てもいいと思います。

たぶん何とかなる笑


追記

でもサークルの友達だったりバイトの友達、学科の友達とか素晴らしい人達にたまたま出会えたのが良かった。

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