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消えたとき

 あらゆるものが消えた時に、新しい自分が始まる。世界が、目の前で溶けていく。そんな幻想を見ることがある。しかし、その幻想は自分の本心であって、自分が希求するものそのものの姿なのだ。
 
 命が欠けていく中でしか、自分の生命体としての意義を感知することはできない。すべてはトレードオフなのだ。どちらかを選択することでしか、何かを得ることはできない。

 僕らは失っていく。そして、獲得していく。後悔の中で、人は明日の人生の意味を見いだす。心は、脆弱だ。脆く、儚い。言葉によって削られ、打撃によって崩壊する。あらゆるものが、自分にとって、重要なものではなくなっていく。真理が遠ざかるから、物事の重心が判断できなくなる。価値観が揺れ動いて、正しさが見いだせなくなる。
 
 誰のための自分なのか、何かのための自分なのか。見いだせない。触れられない。相補性の中で、自己を成り立たせるこっとはできない。何か意味があって、それでいて「自分」がいるというのはもはや誤謬のような気がする。自分は、そもそも自分なのだ。それ以外に自分を肯定する方法が見当たらない。
 
 他者との関係が、自分を苦しめる。しかし、他人しか自分を自分として見てくれない。自分とは、曖昧な存在だ。だからこそ、自分を明確に定義しなければいけない。自分の在り方を、しっかりと見いださなければいけない。
 
 自分を肯定するのは自分だけ。それが事実であり、真理なのだ。しかし、真理は必ずしも現実に付随しない。現実は、他者との関連の中で、つまり、構造の中で自分の生き方が位置づけられる。

 もしも他人が消えたなら、もしも世界が消えたなら。もしも、何かが決定的に世界から消えたなら。世界の骨格がふやけた時、真実の意味での自律が始まるのかもしれない。それを求めるのは、今はまだ酷だろう。人は、それほど強くない。ネットへの人格の移譲に人々が慣れていないように、そこでの病理によって人々が違いの尊厳を傷つけ合っているように。
 
 まだ、世界は硬直していていいのだろう。自分を自分たらしめるために、確たるシステムによって縛っていてほしい。まだ、覚醒は遠い。それでいいのだ。大切なことは、心の内側で自分を静かに頷くことだ。自分を肯定すること。それでいい。

  

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