閉塞した時代に

 世界が閉ざされていって、停滞していく。そんな中で、自分にできることはやはり「小さな暮らし」をつなげていくことだけなのだと思います。

 僕の生活は随分小さく、あまり他言することのできるようなものは少ないのです。毎日沸き起こっているあらゆる雑念を処理するために、時間を見つけてnoteに投稿しています。

 家にいて、時間があると色々なことを考える。とりわけ、僕は「記憶」に苛まされていて(これは以前書いたような気がします)、結構フラッシュバックを起こしているんですね。フラッシュバックは避ける方法はなくて、突然やってきます。

 避ける方法はないといいましたが、最近一つだけそれを回避する方法を見つけたような気がしていて、それはシンプルな方法で「入ってくる刺激を減らす」ということです。意外にこれは大切で、世界には本当に情報があるんですね。もう、どうしようもないくらいの情報が世界にはあるわけです。

 その刺激のチャンネルを封鎖して、入ってくる情報を減らしてくる方がかえって自分にとっては楽なのかもしれません。
 
 テレビはもちろん、Youtubeなどのエンタメは結構、自分に過度な刺激を与えて、自分の感覚を無意識に興奮させていくんですね。もちろん、エンタメはほとんど、それらの「無意識的な感覚」を強く刺激して、サムネイルや、動画の紹介文などに趣向を凝らすだけです。

 もちろん、可視化されない欲望をいち早く嗅ぎつけて、そこを刺激するのはきわめて健全な手法だと思います。
 
 ただ、あまりに増えすぎたエンタメの刺激の前で、僕らは無為に自分の生活を拡張させ、自分の世界を閉塞化させてしまっているのではないか。そう思います。

 Youtubeの見せる世界は、編集された一部分であって、世界の全体ではありません。

 それは意図的に撮影された世界であり、非現実です。しかし、それらのアクセスするための方法は、手元のスマホをタップするだけ、というわずかな動きだけであります。

 そして、自分の趣向に合わせたチャンネルを選択し、自分だけの情報を蓄積していく。

 テレビは放映の順番が決まっていて、テレビに対して自分を合わせていかなければいけません。国境を超えるのは自分であり、その意味でテレビとは遠景であり、他者です。

 しかし、その一方Youtube等のネットメディアは、自分の趣向によって選択され、その選択も極めて簡便な方法によってなされる、という点から鑑みた時に、それらは極めて近景であり、すぐそばにある「世界」なのです。

 まさにYoutubeとは、仮想現実ではなく、拡張現実であり、それは言い換えれば「拡張生活」とでもいうべきものです。 

 ただ、自分の「趣向」によってのみ拡張された生活とは、実世界から見た時に相対的に「閉塞」しているように思われます。 
  

 ツイッターによる情報だけで世界を構築することはできないだろうし、また、テレビだけの情報だけでも世界を構築することはできないだろう。拡張された現実、ゆえに、閉塞していく想像。僕らは、想像をしなければならないのだろう。

 そう思います。少ない言葉から、多元的な世界を想像し、ひも解く。それが必要な動作なのだと。 

 それを可能にする意味でも、僕らは物語の世界に耽溺し、それらから想像力を獲得していく必要があるのではないでしょうか。

 拡大された生活は、限定された指向性のみで成り立ち、かえって精神の閉塞を招く。外部空間との隔絶は、よりその閉塞性を加速させていく。身体を狭めるなかで、精神をも縮めてはいけないと思います。

 僕が物語を書き続けるのはそういう理由もあります。他人となりかわり、未知の生活を覗きこむなかで自分の価値観を相対化させていく。

 僕が言葉によって生み出した人間たちですが、彼らは「もしかしたら僕と出会う人たち」であり、その意味で実在する人物だと言えます。

 彼らの経験する感情や、出来事は僕にとっては他人事ではありません。それは僕がいずれ出会う出来事なのかもしれないし、あるいは、僕が忘却したなかに残された記憶の断片なのかもしれない。

 雑文になってしまいましたが、このような時代だからこそ、心を豊かに日々を生きていきたいなと思っています。


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