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桜を見ながら散歩して思ったこと感じたこと

 毎年、隅田川に桜を見に行く。幼い頃からの習慣だ。墨堤通を進み、川辺へと上る。仰ぎ見れば天を突き抜けんとする東京スカイツリーがそびえる。


 川面には光が遊び、おだやかな流れが春の情調を誘う。川を挟むようにして両岸には桜が並ぶ。墨田区と台東区を結ぶ桜橋の真ん中で川面に望めば、そこには一枚のパノラマ写真のような風景が広がる。向かいに言問橋が控え、さらにその遠方には一際高いビルが、青々とした空を鋭利に切り抜いている。人工的に整理された、いわば「作り物」感を容易に越えて、そこにはその「作り物」ゆえの「逆説的な自然」が存在している。


 都会の中で周囲に発散していくいくつもの「ノイズ」がこの風景の中に吸収されていくような気がする。ノイズとは何も「雑音」だけではない。雑音の類いを気にすれば、この場所だって隣接する首都高からの雑音がひっきりなしに耳に届く。ノイズといわば都会の中で死んでいった感情そのものなのだ。よくこの場所を散歩する。散歩している間は何も考えない。ただひたすら歩く。最近整備された川辺のテラス沿いにひたすら歩いていく。


 歩くとは実に不思議な行為で、歩いている間に色々な思念が沸き起こる。別に何かを考えようとしているわけではない。ただ、何も考えずにただ歩き続けていると、体の中にたまった「感情」がすっと抜けおち、体が軽くなる。軽くなった体の中に新しい発想がすっと入ってくるのである。


 感情はヘドロのようにたまる。それは時折掃除してあげなければならない。その上で散歩というのは実に効率のよい方法だと思っている。


 隅田川の景観もこのような効果を持っているのだと思う。都市に蓄積した雑音的な感情を、このような形で受け、それらのエネルギーを中和する。膨張するエネルギーを吸収し、受け流す。このようにして都市の複雑な景観の「衝撃」を中和してくれるのではないだろうか。
 都市の隙間にぽっかり浮かぶ緩衝材としての景観。それがこの墨堤の大きな意義のように思える。
 例年、春になるとこの場所はたくさんのお花見客で賑わう。吾妻橋から桜橋へと歩いていこうと、多くの観光客に阻まれ、なかなか前進するこっとができない。途中、桜の下ではシートを広げて酒宴に興じる人々の姿を見ることができる。川面を見れば、たくさんの屋形船が並び、それらの光景も満開と桜と相まって春の独特の景観を作り上げていた。


 しかし、今年はあまりにも静かだ。人は少ない。それでも花は力強く咲く。桜をゆっくりと見ている余裕なんて誰にもないのかもしれない。儚く散っていくその脆さも、どこか人の有り様を暗示しているようで切ない。桜が咲いている時間は短い。それはまさに刹那である。鮮やかな桃色はすぐに消え去りそして新緑が萌し、力強い夏を連れてくる。


 その刹那の時節、桜は気高く「今」を生きる。そして、来年もまた夢を咲かせるだろう。時代のノイズを吸い上げ、それでいて深き色味を携えて咲くのだ。桜の樹の下には何があるだろう。それを言葉にするのは野暮かもしれない。あえて言うなら希望だろう。また、来年も同じように力強く咲くその勇姿を拝むことができるという希望だ。
 長く部屋にいると言葉にならない空しさが去来する。そんな空しさも桜のように散っていくに違いない。そして、豊穣の緑を連れてきてほしい。
 そんな随想めいた言葉をしたためる今日である。

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