朝風呂に浸かりながらボンヤリ考えたこと

仕えることに自己承認を得る人格形成、一種のゾンビ化、思考停止。

武士道。主君に仕える。主君の名のもとに死ぬ。依存。

徳川慶喜は近代人? 渡辺多恵子の『風光る』を思い出しながら。

原因論的解釈、誤謬への不寛容さ。一様ならない物事の解釈。

理不尽な不平をもらす人に対し、道義を説いても埒はたいてい明かない。

生理には個性がある。性欲、食欲、金銭欲、名誉欲……いずれの欲望も、個人に対し均等に分配されているとは言えない。

倫理とはダーツのターゲットのようにポイント=倫理性の大きいサークル(同心円)を描いているのに過ぎない。このサークルの根拠は、さまざまな抗争が生じるのを観察した結果ではあるだろう。しかし、人間生理を考えていなかったのではないか。あるいは恣意的な条件を一定構えたその中にある者に限定しながらそれを人間の全体としたのではないか。狂人が誕生する。

性欲のない者と、性欲に度々駆られる者とが、倫理規定「日常においては性欲に基く行動は慎まれなくてはいけない」によってかかる努力負荷の高低はとうぜんに違ってくるものだ。一対一の対決と一対十の対決が、同じ土俵にあがるのは公平とはいえない。

知に働いて角が立つのは、基盤となる生理が一般化されているからではないか。

まあ、原因論になったり、厳密な合理性を求めたりすると対話が膠着する場合がある。

日常会話のなかで用いられる原因論は憶測的で、信頼できる精度は基本的にもっていない。

厳密さにこだわれば問題がレトリックに終始してしまう。

そこで目的論で考える。

同僚3人で夕食を食べようと思ったけど、Cさんは残業が確定していて難しそうだ。それが分かっていて「どう?」とは言えない。空気を読んで話しかけず、今回はBさんと2人で行くことにしよう。
後日、2人で夕食したことを知ったCさんに「どうして誘ってくれなかったの」と憤慨された。

このとき「どうして」に着目すれば原因論になる。

原因論的釈明
「あの日、Cさん残業してたから話しかけるのも悪いと思って」

「憤慨」するCさんに着目して、悪気があってしたわけではない、むしろ善意で今回はそうなったのだと考える場合もあるだろう。

憤慨の理不尽への言及
「そんなに怒らなくてもいいんじゃない、善かれと思ってしたのに」

むろん油を注ぐ行為だ。

ここまでは咄嗟に観察できるところに着目して返答していることに注意して、そして(普段から)「人の行為にはいつも欲望がある」という仮定をもっておくようにする。捉え方は自然と変わってくるはずだ。

Cさんが怒るのは蔑ろにされたことだが、その意味するところは「私も行きたかった」を怒りの表現型で示している。

相手の欲望に基いた返答
「そうなの、Bさんと行ったけど、やっぱりCさんも呼んだらよかったねって話を2人でしたの。だから今度はきっと3人で行こう」

自分たちもCさん不在で残念だったことで、Cさんの誘われなかった不本意さと平衡しながら、その失敗を踏まえて将来に双方の欲望を充足する約束をする。

現場的には文言や気分に注意を逸らされて、本質的な訴えは見失われがちである。咄嗟のタイミングでこのように返せるのは一定の鍛錬が必要だろう。それは、事後に自己のまたは他者の言動を観察する振り返りをすることだ。そして、この観察は飽くまでその言動は何を欲望しているのか、何を目的にしているのか、という視点でとらえるのだ。その場でどうなれば欲望は満たされたのかと考える。すると上記のような返答を思いつきやすい性質が次第につくられていく。

知らんけど

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