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サンキューの日

3月9日はサンキューの日!

だそうです。


昨日はミモザの日。

3月9日は、
個人的なことなんですが、
わたしにとっても記念日であります。


心療内科に通院し始めて、
向精神薬を服薬し始め、
わたしは薬に弱く敏感な体質でもあったからか、
あっという間にドンドン悪化していきました。


正確には、
服薬して2,3ヶ月は錐体外路症状などの副作用に苦しみながらも、
どうにか仕事もして持ち堪えてました。


でも、
その後は坂を転がり落ちるように、
どんどん悪化して、
仕事もとてもフル勤務で働けず退職しました。

その後も、
家でのんびり主婦をできるレベルならよかったのですが、

手もブルブル震え(錐体外路症状)、
元々は落ち込んで鬱々なだけの症状だったのに、
ものすごい精神不安定になり、
1人で家にいることも困難になっていきました。

もちろん、
主婦業のメインである料理もできなくなってしまいました。
(理由は今もって謎ですが、認知機能がやられたと思ってます)


とにかく、
誰かがわたしのそばについて、
介護というか面倒をみなくては危なくて
1人でほっておけない!

みたいな状態になりました。


夫は仕事。
子供達は学業。

夫や子どもたちが、
自分の仕事や学業を放り出して、
家でわたしと一緒に過ごす生活など
不可能でした。


幸い、
関西の実家の両親がまだ健在でした。
母親もちょうど数年前に仕事を退職し、
父も定年退職してました。


夫とわたしの両親の間で話し合いがもたれ、
わたしは、
しばらく実家で療養することになりました。

最初はわたしは拒否しました。
泣いて拒否しました。


やはり、
夫や子供達と離れて暮らすことが寂しかったのだと思います。


父が関東まで迎えにきてくれました。

東京駅まで、
夫と子どもたちが見送りにきてくれた
時のことは、
今でも覚えてます。


当時飼っていた愛犬のマロンとわたしは、
父と一緒に新幹線に乗り関西に行きました。


それでも、
当時は数ヶ月間ぐらいで自分は良くなり、
夏か秋には家族の元に戻れると思ってました。


そこから、
数年間にもわたり家族の元に戻ることは出来ず、
精神医療にはまり込み、
あんな紆余曲折の年月を送ることになるなんて、
夢にも思いませんでした。

結局4年間近く、
わたしは家族の元に帰ることはできなかったのです。


途中、
数ヶ月間家族の元で暮らしたり、
数日間だけ来たりと、
行ったり来たりはありましたが、
メインの生活は関西での実家でした。


経過は、
過去のブログに闘病記として書いてるので省きますが、

簡単な結論から言うと、

向精神薬を減薬断薬して、
精神科と縁を切り、
離脱症状の酷い時期を乗り越えて、


やっとのことで、
完全に実家から我が家へ住まいの拠点を移動しました。


家族の元へ戻ってきたのが、
2年前の3月9日でした。


自分としては、
まだまだ不調で、
「もっと実家で療養したい」

いい歳して、親に甘えてました。

母親は、
あえて厳しくわたしを突き放したんだと思います。

そんなこと言ってたら、
いつまでも自分の家に戻れない。
それに、
自分達も歳をとり疲れて、
もうあんたの面倒をみれない。
自分の家族の元へ帰りなさい!

みたいなことを言われました。


わたしは18歳で家を出てます。


両親と、
こんなにベッタリと暮らせたのは、
ある意味、
神様からのプレゼントだった年月なのかもしれない、

過ぎてみれば思います。

特に、
父親は団塊の世代で多忙で留守がちで、
一緒に遊んだりした記憶があまりありません。

幼い頃は、
わたしが起きる前に父は出勤して、
わたしが寝た後に帰宅する。

当時は土曜日も世の中のサラリーマンは
働いてました。

さらには、
わたしが中学生からは、
事情があり父は単身赴任でした。

父と一緒に暮らした記憶は、
ほとんどわたしにはなかったのです。


でも、
この数年間は、
歳とった父と母と密接に暮らすことができました。


関西から関東の我が家に戻ってくるとき、
母親が新幹線のホームまで見送ってくれました。


母親は泣いてました。
わたしも新幹線が走り始めてから、
泣きました。


家族の元へ帰れるのは嬉しいことでしたが、
数年間暮らした両親と離れることは
寂しいことでした。


向精神薬の副作用で、
転げ回り手足が勝手にバタバタ動き、
もがき苦しむわたしを、
数ヶ月間にわたり、
毎日父親はマッサージしてくれました。


2年前の3月9日


東京駅には息子が迎えに来てくれました。
実家で療養中に愛犬マロンは癌で
亡くなりました。


久しぶりに、
過去のミニ日記帳を読み返しました。


まだまだ不調でした。


認知機能がやられていて、
脳がなんか変で痺れる。
自分の頭がバカになってるのが悲しくて
泣いた。



書かれてました。

まだ、
料理もすることができませんでした。

料理って、
とても頭を使う作業なんです。


メンタルも落ち込みが酷く、

「わたしは、やはりメンタルの病気なのかな?」

「やはり、うつ病なのかもしれない」

という記述は、
その後数ヶ月間以上に渡り、
定期的に書き込まれてました。



体の痺れと痛みも強く、
寝込んでる日も多くありました。


日記を読むと、
3月は、
時々頓服として手元にあった、
抗精神薬リスペリドンを飲んだりもしてました。


睡眠薬も手持ちに持ってました。


やはり、
手元に薬を持ってるというのはダメですね。

覚醒剤患者が、
自分はもうやめた!
飲まないけど手元にはシャブあるぜ!

みたいな状態です。


ある時、
息子がクスリは俺が全部預かると言うので、
息子に全部渡しました。


結果的には、
息子はそれらをサッサと捨ててしまったようです笑

ないものは飲めない。

単純ですが、
効果抜群でした。
(基本的に、わたしはもう断薬済みでしたので)

精神科の通院を卒業したのも良かったと思います。
ダラダラ通院してたら危険でした。

それに、
新たに違う素晴らしい精神科を探すなんて
ハードルが高いことをする気力もありませんでした。
(素晴らしい精神科医は遠方にしか知りませんでした)


3月25日の日記にこのように書かれてました。


簡単な夕食を1人で作った。
お風呂の準備もして、
食器洗いもした。

家族はみんな大喜びしてくれた。


結果的には、
暖かくなる頃までは、
わたしは簡単な料理を時々作ることぐらいしかできませんでした。


それでも、
以前は全く料理ができませんでした。

痴呆老人が料理できないのと同じなんです。

冷蔵庫を開けて、
そこにある食材を眺めても、
それ以上何も考えられないんです。


いまなら、
これとこれがあるから、
こんな料理にしよう!


パパっと手際よくできるのですが。


ただ、
ボッーとして、何もできない。

洗濯機すら使えなくなってましたから(笑)


その後、
キッチンに立ち料理するわたしの姿を
見てる娘が

「お母さんがキッチンに立って、料理してるなんて信じられない」

何度も何回も言ってました。


そんな娘も、
昨年あたりからは、

わたしが料理するのは当然モードに
なってしまったので


「今夜のご飯は何?」

なんて、
呑気によく聞いてましたが。



精神科に通院してる時、
主治医に何回か言ったことがあります。


頭が悪くなってるんです。
料理もできないんです。
家事もできない。


って。

主治医からはこう言われました。

あなたは元々料理が嫌いなんでしょ。
面倒臭いんでしょ。
親元にいるし甘えてしないだけでしょ。
元々家事なんて嫌いなんでしょ。

あの時は、
本当に悔しくて悲しくて泣きました。

違うんだよ!
料理は嫌いじゃない!
本当にできないんだよ!


心の中で叫んでました。


今なら断言できます。

向精神薬で脳を鎮静されてたから、
おバカになって、
知能も落ちて、
いろんなことができなくなってたんです!



って。



長くなりましたが、

3月9日 サンキューの日


我が家に戻ってきて丸2年間が過ぎました。


まだ細かい症状は抱えてますが、

同い年の女の人よりも、
たぶんわたし、
よっぽどアクティブで元気だと思います。


死にかけたし、
とても辛い目にあったので、
人間が変わりました。

なんでも前向きにチャレンジしてやろう!


しないで後悔するより、
して後悔した方がいい!!



減薬断薬も
チャレンジと困難を乗り越える。


それの繰り返しでした。
まさに登山のよう。

諦めなくて本当に良かったと思います。


感謝の日です。

ミモザ大好き!

庭に3株、鉢植えで育ててます。


何にでもチャレンジ!!

ということで、
先日はアイスクライミングに初挑戦しました!

また、
登山ブログ書きます!

一度死にかけると、
強くなるかも、、、、

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