目的意識

はじめまして、、、と言いつつ誰も見てないだろうこのnoteを始めてみる。

プロフィールにも書いてはいるが、清原並みの体格も相まって側から見れば所謂体育会系サラリーマンというフラグが自分の意思とは関係なく立っている私。

全く本人に体育会マインドを持ち合わせている自覚がない為良い迷惑だが、結構このイメージ先行が仕事の上では役立って来た。まぁ中学では2年連続全国ベスト8、高校では甲子園はいけなかったが、プロのスカウトが何球団か来た訳だしそう思われても無理はない。

と、そんな自分の過去の栄光を話したいのではなく、高校野球で感じた違和感について触れたい。

中学ではリトルからボーイズリーグ(硬式野球のクラブチーム)に所属し、全国大会の常連だった。だから皆勉強は出来なくても、スポーツ推薦を貰って高校へ入る、そして甲子園を目指す。この為に頑張っていたと言っても過言ではない。野球しかない者にとって甲子園を目指すのは当然の事だ。

そんな自分も漏れなくスポーツ推薦の話を貰う。

そして、全て断った笑

そもそも高校生活を野球だけに捧げるなんて考えられなかったし(当時ギターに夢中だった)、そもそも強豪と言われる私立校の偏差値の低さたるや、「なんでわざわざそんな所行く必要あるんだ?」と至極真っ当に考えていたからだ。(幸い中学時は学年5本指に入るくらいに入る学力があった)

そんなこんなで、高校は自由と文武両道を謳う都内有数の公立進学校に通う事にした。

文武両道と言っても自分が入る頃は都大会5回戦が良い所だから本当に強い強豪と当たれば勝てる確率はかなり低い、そんな高校だ。だが、入部して最初に目に入ったのは、バックネット裏に貼られた、

「目指せ甲子園!」の文字。

今でも覚えているあの時の、、、

「正気なのか!?」という感覚。

周りはどう捉えていたのだろうか?同期の殆どは毎日朝練を怠らず(親のサポートって凄い)、黙々とティーバッティングをこなしていた。私は8時過ぎに学校に着いて教室からそれを眺めていた(結局3年間で1度も朝練は行かなかった)。

そんな我々の最後の夏は3か4回戦で負けた。甲子園なんて夢のまた夢だった訳だ。センターライナーを取れなかったキャプテンが自省の言葉を並べていたが、正直、いやいやそんなの取れるレベルじゃないよ、あれはヒットじゃないか、と思っていた。

はて、あの「目指せ甲子園」は何だったのか?

10年くらいしてから、よくぞ甲子園目指すなんて書いたよな〜と話した時、いや一応書くもんじゃん、と返事が返ってきた。あれ?本気じゃなかったのかな?いやでも3年間1日も休まず朝練やってたやん?最後の夏負けた時泣いてたよね?それって何だったのか?皆んな本気ではなかった?それとも一部の人だけ本気じゃなかったのか?

混乱した笑

多分ホントの所は、半分本気でもあり、半分は夢、というか希望的観測。悪く言えばあわよくば感なのかなと。

はなから甲子園など興味を持たず己の飛距離に拘った自分の純心たるや誇らしいくらい笑

まぁあの時皆高校生だ。そこまで真面目に考えてもいなかっただろうから仕方ないと言えば仕方ないし、こんなのおっさんの後悔でしかないとも言えるが、そもそもよく考えたら、監督、チーム、親御さん含めて、自分達はどういうチームで何を目指してどうしていくのかなんて事を共有してコンセンサスを取った事なんて一度も無かった。

もし、半分でも甲子園を目指したいと思っていたならば、進学校が故少ない練習時間や、サッカー部と分け合ってた為グランドが使えない日があるハンデ、そもそもの体力や技術が劣る分を挽回する策について真面目に考えて、議論して徹底的に勝つ方法を考えるべきだったなと今更ながらに思ってしまう。

相手は体力も上だし、授業はそこそこに昼から野球をし、夜は寮でバッティングマシンを相手に練習しているのだ。それを考えたら、まともに普通の事やって勝てる訳ないなんて、少なくとも進学校の自分達には分かっていたはずなのに。。

ただただひたすらに緩く打ちやすくトスされたボールを打つ朝練。そんなものに価値は有ったのだろうか?本来ならばゴールに対して自分の役割を認識し、その役割を全うする為の練習をすべきだ。点を取る為には必ずしもヒットが必要なのではない。盗塁や送りバント、ピッチャーを揺さぶるリードだって重要なはすだ。打率が低くても百発百中バントが出来れば相当に心強いはずだ。

それなのに、ただ闇雲に真ん中にトスされたボールを打ち続けるトスバッティングがなんだか許せなかった遠い記憶。

今更ながらに思う、あの時自分も甲子園を目指していて、本気で勝つ為に向き合っていれたならどうなっていただろうか?メンバー1人1人と対峙して議論して、甲子園に出る為の道筋を付けて牽引出来たのだろうか?


これって、企業も同じだなと思うんです。

会社の理念や方針では高らかに気持ちの良い言葉を並べていても、現実は全然異なっているパターン。

前者を企業文化、後者を、組織文化なんて言ったりするようですが、この両者の乖離と言うのが「シラける」度合と比例していると言う研究があるようです。個人的にもそれは非常に良く感じる部分で、高らかに謳って何も進まないよりは、小さいながらも目標に沿って認識を一つにして進める集団の方が強いと思うのです。

意識がバラバラに乖離せず、目的を一致団結して意識を集中させていく事、、、

それこそがチームの力を最大限に引き出す事に繋がる。

一人一人が天才ではないはずの殆どの企業にとって、集団で働く意味、多くの人の力を使い足し算的にではなく乗数的に成長していくには、しっかりと意識を合わせて補完し合っていく必要がある。  

だから、企業においてリーダーたるものは自分達の役割や意味を解き、目的を理解させ、動機付けしていかなければならない。時には先頭に立って自分の背中を見せなければならない。そうやってチームのマインドを磨き、ビルドアップしていく。

どんなに小規模な集団でも大規模な集団でも、これは絶対にやらなければならない。


皆が目的意識を持って臨めたなら、もっと僕らはやれるはず。

そしたらもう、未来は俺らの手の中、でしょ?

更に言えば、目的と役割がはっきりすれば、個々のやるべき事が明確になる、するとそれが個人目標までブレイクダウンされ、結果としてそれが評価の対象ともなる。高校野球で皆がひたすらに同じ練習をしていたのは、個々の役割を理解できていなかったからだ。まだ野球というスポーツならば打率や打点などで成績を数値化出来るが、それも役割と照らし合わせたらKPIとして正しいとは言えない。

仕事も然り。ジョブディスクリスションが曖昧な会社は怪しい。弊社も割とそんな感じで、「商社パーソンとしての云々」みたいな超定性的な言葉で新人目標が書かれていたり笑
プロパーの商社マンってやつではない自分には全くの意味不明な言葉笑

どうやら商社というのは先輩の背中を見ながら、圧倒的仕事量をこなして育つのを待つ、職人的スタイル?らしい。こんなんじゃ金太郎飴製造機にしかならなそうだ笑

今、商社には大きな方針転換が求められている。そんな先行不透明中そこに対応できる人材が求められているはずだ。それは今までのやり方では簡単には生まれない。ならば自分もそこに貢献できるよう身近な所から意識改革を巻き起こしていきたい。

高校野球の時出来なかった分まで、今やろう笑


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