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同志少女が撃つべきものは

「同志少女よ、敵を撃て」を読んだ。

ソ連の小さな村で暮らしていた、当時18歳の少女、セラフィマ。
ドイツの狙撃兵に母を殺され、赤軍に村を焼かれた彼女が、復讐を誓い、独ソ戦の中、狙撃兵となる。
多くの敵を撃ち殺し、多くの仲間、愛する人を失いながらも、生き抜いて終戦を迎える。
そして、最後にひとつの決断をする。

ざっとこんな内容だ。
書店では、いわゆる鈍器本サイズの本書が、本屋大賞受賞のポップと共に山のように積み上げられている。
まさに、売らんかな。
あそこまで派手にやられると、手に取りにくいと思うのだけれども。
しかし、周りの目を気にしながらも手に取る価値はあるかもしれない。
とにかく、500ページ近くあるが、大丈夫だ。
ぐいぐい引き込まれて、読み切ってしまう。
映画でいえば、「3時間があっという間でした」という感じだろうか。
いずれにしても、電子書籍ならば、人知れず購入して、人知れず読むことができる。
僕も、そちらで読んだ。

もちろん、これはドキュメンタリーではなく、小説だ。
だから、伏線は回収され、ストーリーは、そうであるべきように展開していく。
そこを批判する意見もあるようだが、ここは好みだろう。
何箇所かの、作者はこのシーンが描きたかったんだろうな、このセリフを入れたかったんだろうなというところがある。
僕は、むしろ、そうした作者の鉛筆の跡が見える作品が好きだ。
映画監督で言うと、ブライアン・デ・パルマのような。

また、最後のところも意見の分かれるところではないかと思う。
「戦争は女の顔をしていない」を書いたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチを登場させている。
僕はむしろ、これによって、この小説が大きく牙を剥いてきたような気がした。
フィクションだと思って舐めるなよと。
「戦争は女の顔をしていない」にも、多くの狙撃兵が登場する。
フィクションとノンフィクション。
いわば、2つの異なるバースがここで交錯したのだ。

「同志少女よ、敵を撃て」の読者は、「戦争は女の顔をしていない」も続けて読まなければならない。

さて、独ソ戦といえば、人類史上最悪の戦いと言われている。
両軍の死者は民間人も含めて、3,000万人とも4,000万人ともされ、その凄惨さから、この世の地獄にたとえられる。
また、この戦いで、ソ連は世界で唯一女性兵士を採用したとされる。
1941年6月22日に始まり、1945年5月9日ドイツの降伏まで戦いは続いた。
ロシアでは、5月9日を戦勝記念日としている。
そして今、プーチンは、この5月9日にウクライナに対する勝利宣言をするために、強引に攻勢を仕掛けるのではないかとの憶測が流れている。

あるテレビ番組で、タレントが、
「5月9日というのは、日本の終戦記念日みたいなものですか」
と尋ねていた。
それに対して、解説していた専門家は、
「そうです。日本の8月15日と同じようなものです」
と、サラリと答えていた。
こんな認識の専門家は、少なくともマスコミを通じて語らせるべきではないと僕は思うのだが。

敗戦国の終戦と、戦勝国の終戦が同じであるはずはない。
そんなことは、小学生でも想像できる。
ましてや、あの過酷なドイツとの戦いに勝利した日が、敗れた日本の終戦の日と同じだなどと、どうして言ってのけることができるのか。
歴史には感情がないと思っているのだろうか。

あの独ソ戦が、かつてのソ連で、そして、ロシアでどのように語り継がれてきたのか。
敵国ドイツ兵の残忍さ、理不尽さと共に、ソ連兵の勇敢さも語り継がれてきただろう。
しかし、同時に戦うことの愚かさ、悲惨さも語られてきたと思うのだ。
その、地獄を見たに違いないソ連が、ロシアが、なぜ、いつまでも戦争という手段を手放さないのか。
専門家なら、その疑問に答えるべきだ。

登場人物のひとり、看護師のターニャは言う。

「もう戦争は終わる。そうしたら、平和の時代は終わらないさ。世界中が戦争の恐ろしさをいやってほど知ったんだもの。きっと世界は、今よりよくなるよ。あたしも、セラフィマも若いんだ。もちろんシャルロッタもママもそうさ」

しかし、現実はそうはならなかった。

セラフィマが戦争から学び取ったことは、八百メートル向こうの敵を撃つ技術でも、戦場であらわになる究極の心理でも、拷問の耐え方でも、敵との駆け引きでもない。  
命の意味だった。  
失った命は元に戻ることはなく、代わりになる命もまた存在しない。  
学んだことがあるならば、ただこの率直な事実、それだけを学んだ。  
もしそれ以外を得たと言いたがる者がいるならば、その者を信頼できないとも思えた。

同志少女よ、敵を撃て。

そう言って、セラフィマが最後に撃ったものは。



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