プラトン

「石浦昌之の哲学するタネ 第4回 プラトン」

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OPテーマ いしうらまさゆき「明日のアンサー」(2015年4枚目のアルバム『作りかけのうた』より)
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【オープニング】
夜も更けて日をまたぐ時刻になりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?オープニングはいしうらまさゆきの2015年のアルバムより「明日のアンサー」という歌で始まりました。改めまして、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。「日本初の出版社が運営するインターネット深夜放送・極北ラジオ」、昨年に引き続き「石浦昌之の哲学するタネ」、今回は第4回目…ということで、私・いしうらまさゆきが哲学するための必要最小限の基本知識を「タネ」と呼びまして、混迷の時代にあって、答えのない問いに答えを求め続けるためのタネ蒔きをしようじゃないか、というのが、この番組のコンセプトです。今年1月からは新装・リニューアル!ということで、ツイキャスからYouTubeへと場を移しての「哲学するタネ」になります。ツイキャス配信でなくなったことで同時性は失われてしまうんですが、いつでもどこからでもアクセスして聞くことができるのはメリットであるようにも思います。新しいメディアの実験のような部分もあるかと思いますが。ちなみにもう一つの極北ラジオの番組、社会学者の竹村洋介さんの「夜をぶっとばせ」。こちらは引き続きツイキャスでの配信となりますので、お間違えの無いようにお願いいたします。

【西洋哲学はプラトンに対する一連の脚注】
先月のテーマは実質上の哲学の生みの親・ソクラテス[B.C.470?-B.C.399?]でした。そのソクラテスの思想を書物の形で残したのが弟子のプラトン(Plato)[B.C.427-B.C.347]です。そうです、今日のテーマはプラトンです。彼が生きた時代、日本はまだ弥生時代でした。英国の哲学者・数学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)[1861-1947]が西洋哲学の歴史は「プラトンに対する一連の脚注」であると評していますが、彼の哲学が西洋哲学の屋台骨となっていることは、これからはっきりしてくると思います。本名はアリストクレス、プラトンというのは肩幅が「広い」という意味のあだ名でした(レスリングをやっていました)。母方は学者、父は政治家というアテネの名門に生まれ、20歳でソクラテスの弟子となって哲学の道を志します。彼こそがソクラテス最大の理解者であったことは間違いないでしょう。40歳の時にはアテネ郊外に学園アカデメイア(学問・学術を意味する「アカデミー[academy]」の語源です)を建設し、そこではソクラテス譲りの対話重視の教育が行われました。プラトンの師ソクラテスがアテネのデモクラチア(民主政治)の下で裁判にかけられ、刑死したことは既に触れました。その時プラトンは28歳、愚か者の多数決政治であるしゅう衆ぐ愚せい政じ治に堕していたアテネのデモクラチア(民主政治)をさぞや恨んだことでしょう。現代における日本や世界の民主政治も同様ですが、デモクラシー(民主政治)とは市民の教養や知性、良識を前提に担保される危うい制度であり、多数決がときに暴力と成り得ることには留意しておくべきです。しばしば私たちは「政治家が悪い」と口にしますが、それを選んだのはいったい誰ですか、という話になって跳ね返って来るわけです。後にプラトンは、これを踏まえた上で理想の国家について論じます。

プラトンは、対話を重んじるあまり著書を残さなかった師ソクラテスの思想を「対話篇」というダイアログ形式で残しました。『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』『饗宴』(原題はワインを飲んで語り合う「シュンポシオン[sumposion]」で公開討論会を意味する「シンポジウム[symposium]」の語源になっています)というソクラテスの四福音書、そして『国家』やソフィストが登場する『ゴルギアス』などの著書がよく知られています。どこまでがソクラテスの思想で、どこまでが彼本人の思想であるか、については判断しづら
いのですが、初期はソクラテスの思想、中期以降はプラトンが独自に展開させた思想だと見ることができるでしょう。

【ソクラテス思想に輪郭を与える】
プラトンの功績は、師ソクラテスの思想を明確に理論化したことにあります。「プシュケー魂への配慮」といった時の「魂(プシュケー)」とは何か、「よ善く生きる」と言った時の「善」とは何か…ソクラテスははっきりとそれを語りませんでした。そこでプラトンは「イデア論」を提起して、ソクラテスの愛知(フィロソフィア)の思想を理論化し、理想主義の基礎を作るのです(プラトンの理想主義[idealism]は、後に紹介するアリストテレス[B.C.384-B.C.322]の現実主義[realism]としばしば対比されます)。「イデア」とは、英語でいうと「アイデア[idea]」のことです。「idea」は思い描いた「考え」や「観念」「理念」そして「理想」などと訳されます。簡単に言えば私たちが「美しい」「正しい」「平和」「三角形」「犬」…という言葉を聞いた時に頭に思い描く、完全無欠な「美しさ」「正しさ」「平和」「三角形」「犬」…「そのもの」のイメージのことです。プラトンはこれを「真実在」と呼びました。私たちが現実界にある個々の美しいものを「美しい」と思うのはなぜでしょうか。イデア論に従えば、真に美しいものの不変のイメージ=「美のイデア」を想定しているからだといいます。目の前にある個々の花や彫刻を美しいと思うのは、「これぞ美そのもの」という完全無欠の「美のイデア(観念)」に当てはまっているから美しいと思う…というわけです。あるいは目の前を歩くダックスフントやゴールデンレトリバーを見たときに、そこに共通する「これぞ犬そのもの」という完全無欠の「犬のイデア(観念)」に合致しているから、「犬だ」と認識できるわけです。間違っても「猫だ」と認識することはないのです。『パイドン』にはこんな一節があります。

「「ぼくたちは、正しさそのものというものがあると認めるか、それとも認めないか」「認めますとも」「また、美とか善は?」「もちろん認めます」「では、君はいままでに、そういうものをどれ一つでも目で見たことがあるかね?」「いいえ、けっして」」(『パイドン』)

とはいえ「美しさ」や「正しさ」、「平和そのもの」(「平和のイデア」)は理性(知性)でしか捉えられず、五感では捉えられないのだといいます。確かに私たちは、「平和そのもの」(「平和のイデア」)を目や耳で確かめたことはありませんが、世界で起こった個々の出来事を「平和であるか、そうではないか」と判断することはできます(個々の出来事は五感で捉えられます)。では、黒板に書いた「一辺15センチメートルの正三角形」はどうでしょう。「一辺15センチメートルの正三角形そのもの」(「一辺15センチメートルの正三角形のイデア」)を五感で(視覚で)確かめられるではないか、と思う人がいるかもしれません。しかし、黒板に描かれた図形をよくよく見てみれば「一辺15センチメートルの正三角形」の線には太さがあります。どんなに機械で正確に作図したとしても、何ミクロンか「一辺15センチメートルの正三角形そのもの」からはズレているはずです。つまり、「一辺15センチメートルの正三角形そのもの」=「一辺15センチメートルの正三角形のイデア」は感覚を超えた観念・イメージであり、それを五感で捉えることは不可能なのです。
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ジングル1
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【イデアはどこに】
では「真実在」である「イデア」は一体どこにあるか…といえば、「現実界」ではなく、天上の普遍的な「イデア界」にあるのだといいます。「イデア界」は五感で認識できませんから、見ることも聞くことも触ることも叶いません。このプラトンの「イデア界と現実界」という「二元論[dualism]・二項対立的思考」は西洋の発想に脈々と受け継がれていくものです(「心(精神)と身体(肉体・身体・物体)」を別物と考えるデカルト[1596-1650]の「ぶっ物しん心(しん心しん身)に二げん元ろん論」や、「西洋と東洋」「理性と感性」「二大政党制」「右翼と左翼」…など色々あります)。

プラトンはどうくつ洞窟のひゆ比喩[allegory of the cave]を使って「イデア界」と「現実界」を説明しています。地下の洞窟に閉じ込められた囚人が壁を見ると、一匹の犬が見えます。囚人は感覚を信じて、「あれは犬だ」と思い込んでしまうのですが、それはたき火によって投影された本物の犬の「影」にすぎなかったのです。つまり、私たちが「現実界」で目にしている犬は、完全無欠な「犬のイデア」の「影」にすぎない…という例え話です。限りなく犬に近いもの(「犬のイデア」の影)ではあるけれど、完全無欠の「犬そのもの」(「犬のイデア」)ではない、ということです。先ほどの三角形の例を挙げれば、「黒板に書いた一辺15センチメートルの正三角形」も、「一辺15センチメートルの正三角形のイデア」を分かちもつ(分有する)虚像・似姿であるところの「一辺15センチメートルの正三角形のイデア」の「影」にすぎない…ということになります。

そうなると、「イデア界」には「犬のイデア」や「三角形のイデア」「美のイデア」に「正義のイデア」…といった様々な「イデア」があることになるわけですが、それら全てを秩序付けているのは「善のイデア」です。ソクラテス同様、プラトンは「善」に最上の価値を見出しました。「善のイデア」は太陽のように「イデア」を秩序づける「イデアのイデア」とされました(これを「太陽の比喩」といいます)。

このように超自然的なイデアによって現実界(自然)の存在に形が与えられる…という少々不自然な発想は西洋(哲学)独特のもので、プラトニズム(プラトン主義)と呼ばれます。ギリシア語で「自然」を意味する「フュシス(ピュシス、フィシス)」が「生成する」という意味の「フュエスタイ[phyestai]」を語源としているように、ソクラテス以前のギリシアでは『古事記』に描かれる神話的世界観と同様、自然を(丸山眞男[1914-1996]のいう)「なる」論理で捉えていました。しかし「フュシス」をラテン語に訳した「ナトゥラ[natura]」(ネイチャー[nature])が神の天地創造直後とみなされたように、キリスト教世界では自然を超自然的な神の被造物と捉えるようになるのです(丸山のいう近代的な「つくる」論理です)。アウグスティヌス[354-430]に代表される古代キリスト教の教父哲学が新プラトン主義の影響を受け、超自然的なイデアと神を重ね合わせた点はまた別の機会に触れますが、そもそもプラトンはユダヤの一神教(キリスト教やイスラームに継承されるヘブライズムの原点です)に触れて、超自然的原理から存在がつくられるという発想を得た可能性があるようです。

【魂の想起説】
ここまでの話をおさらいしましょう。「現実界」では(美しい花もいつかは枯れてしまうように)不完全で永続性のない個物(「イデア」の「影」)のみを感覚によって捉えることができます。一方「イデア界」は、(美しい花という観念は枯れることがないように)完全で永続性があり、理性(知性)によって普遍的・本質的な「イデア」を捉えられるのです。では、五感で捉えられないという「イデア」を知ることなど、果たしてできるのでしょうか。プラトンはピュタゴラス[B.C.6C?]や師ソクラテスが説いた魂の不死とりん輪ね廻を信じていました。それによると、「現実界」において私たちの心の中にある魂は肉体という不完全な牢獄に閉じ込められています。肉体が滅んだ後も、魂は死にません。魂はまた別の人間や動物などの魂として生まれ変わってしまう(輪廻する)のです。それは何としても避けたいことです。そこでピュタゴラスは「数学や音楽」で、ソクラテスは「善く生きる」ことで魂を浄化(カタルシス)させ、永遠の輪廻から救い出そうと考えました。その魂の救出先である神的世界を、プラトンは「イデア界」と呼んだのです。

私たちの魂は、もともと「イデア界」の住人であったため「イデア」を知っています(不完全な肉体は「イデア界」を知りません)。よって魂は「現実界」の「真・善・美」(古代ギリシアの究極の「知」)に触れたとき、(それらは「真・善・美そのもの」ではなく、「真・善・美のイデア」の「影」であるにせよ)限りなく「イデア」そのものに近いものになりますから、元の居住地であり、「真・善・美そのもの」である「イデア界」を思い出します。美しい絵を観たり、身を賭して人助けをする人や、無償のボランティア活動を行っている人に出会ったとき、私たちの魂が動くような感覚を覚えることがあるでしょう。これをプラトンは想起(アナムネーシス[anamnesis])と呼びました。こうして、魂が「イデア界」に恋焦がれる気持ちから、理性でしか捉えられない知(エピステーメー[episteme])への憧れがおこります。これこそがエロース[eros]であり、ソクラテスのいう知への希求・フィロソフィア(愛知)なのです。よく考えてみれば、知らないことを知りたい、と思えるのは不思議ですよね。これは魂が「イデア界」を思い出した、想起の瞬間だったのです。

ちなみに、古代ギリシアに同性愛の風習があったことは既に触れました。永続性がある魂への恋は美しく高貴で、永続性のない肉体への恋は醜く低俗であるとされました。肉体的に結びつくことのない同性愛は高貴な愛の形なんです。このように肉体的な結びつきではなく、人を精神的に愛することをプラトニック・ラブ[Platonic love](プラトン的な愛)といいます。プラトンによる理想的[ideal]な愛の形です。
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~お便り紹介~
---------------------------------------------------------------------------------------それでは音楽もいってみましょう。今日はちょっと珍しい音源ですが、私の4枚目のアルバム『作りかけのうた』のタワーレコード限定ボーナスディスク用に製作したミニ・カバーアルバムより、ビーチ・ボーイズの「God Only Knows(神のみぞ知る)」をお届けしたいと思います。ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソン…私のプロデューサー馬下義伸さんともども、大ファンですね。まさにプラトニズムといいますか、音楽の無垢な理想を探求した永遠の少年です。そのパラノイア的内向性、ドラッグもあって、廃人状態だった時期もあるんですが、まだ元気に生きています。中でも「God Only Knows(神のみぞ知る)」は世界一美しいラブソングじゃないでしょうか。ビートルズのポール・マッカートニーですら、今まで聴いた中で最高の曲だ、と絶賛してもいます。さて、おこがましいのですが、いしうらまさゆきのカバーした「God Only Knows(神のみぞ知る)」。
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【理想の国家像】
プラトンが、ソクラテスを死に追いやったアテネのデモクラチア(民主政治)を憎んでいたことは既に触れました。そこでプラトンは、たましい魂のさん三ぶん分せつ説で理想的な国家のあり方を論じています。ソクラテスが示した魂をプラトンは「理性」「意志(き気がい概)」「欲望」の3部分に分けました。これは国家の3階級に対応しています。「統治者(政治家)」が「理性」、「防衛者(軍人)」が「意志(気概)」、「生産者(庶民)」が「欲望」という魂の三部分を分担し、それぞれ「知恵」「勇気」「節制」という徳に転化して活用すれば、「正義」の徳が実現した理想国家になるというのです。この「知恵」「勇気」「節制」「正義」は古代ギリシアのし四げん元とく徳[cardinal virtues]といわれています。ちなみに「統治者(政治家)」は「防衛者(軍人)」と「生産者(庶民)」を指導する立場にあるとされました。
ではその「統治者(政治家)」、つまり国の指導者にふさわしいのは一体どのような者なのでしょうか。プラトンは、「真・善・美」という真実在を理性で直観することができる哲学者か、あるいは哲学を学んだ王が国の指導者となるべきである…と考えました。理想主義者プラトン(「イデア」は「理想」とも訳されます)はこの哲人政治を理想とし、弟子(恋人であったともいわれます)ディオン(Dion of Syracuse)[B.C.408-B.C.354]の要請でシチリア島のシラクサの王ディオニュシオス2世(Dionysius II)[B.C.397-B.C.343]を2度にわたり、「哲人王」にするべく教育します。しかし残念ながら、ディオニュシオス2世はプラトンを後ろ盾に哲学の素養があるところを見せようとするに留まり、この試みは失敗するのです(結局ディオンも内紛の中で暗殺され、シラクサは無政府状態に陥ります)。この辺りを理想主義の限界が露呈した現実、と見てとることもできるでしょう。また、エリート「哲人王」が政治を行うべき…というのはエリート主義的・独裁主義的でもありますし、デモクラチア(民主政治)の衆愚化を敵視していたプラトンは全体主義的である、と批判されることもあります。この辺りは難しいところです。とはいえ人間の大半は理性的とは言い難く、私欲や感情についつい負けてしまうものです。悲観的な見立てではありますが、理性的な哲学者然とした人物が多数決で選ばれることは、あまりないのかもしれません(これがまさに愚か者による多数決=衆愚政治の末路です)。現実の政治の世界で政治家の横暴や堕落、感情的なポピュリズム(大衆迎合主義)がニュースになるたびに、理性的なエリートによる理想の政治体制を夢想する人もいるのではないでしょうか。

【理想主義が退潮する時代】
私が高校生の頃の経験です。高校生時代の私は、一言でいうと「マイナー・キャラ」でした。全く目立たず、クラスでも居るのか居ないのか、誰も気が付きませんでした(本当です)。教員になって毎日人前で話すようなことになるとは、当時はまさか思いもよりませんでした。クラスメイトからは呼び捨てにもされず「石浦君」と「君づけ」で呼ばれていました。その微妙な距離感が伝わるでしょうか。しかしその頃から音楽に興味があり、ギターを弾き、曲を作りはじめていました。それを知ったクラスのリーダー格の活発な男の子が、マイナーな私に声をかけてくれるようになったのです。クラスメイトが私を見る目
はその日から一変しました。相手によって態度を変えず、分け隔てなく接してくれたその姿に私は感動しました。その時、「私もいつかこんな風になれたら…」と魂が揺さぶられたんです。これはまさに魂が「現実界」の「真・善・美」に触れ、「イデア界」を想起(アナムネーシス)した瞬間であり、その「理想(イデア)」への憧れ(エロース)が生まれた瞬間だったのだと思います。

ターリバーンの武装勢力による襲撃に屈することがなかった、パキスタンの女性人権活動家マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)[1997- ](2014年にノーベル平和賞を受賞しました)の国連におけるスピーチや、黒人差別に非暴力主義で抵抗し、公民権運動を率いたキング牧師[1929-1968]のワシントン大行進(1963年)におけるスピーチ「アイ・ハヴァ・ドリーム私には夢がある(I Have a Dream)」…これらを聞いたときにも、魂がかつての住居である「イデア界」を想起し、「イデア界」に恋焦がれ、それこそ魂が浄化されるような感覚を覚えたことを思い出します。

このように、私たちは「理想」とする人物や世界に憧れ、恋焦がれることがあります。現実を見ればそうなれるかどうかはわからないにせよ、「理想」を追求することで人間は生まれ変わり、前向きな気持ちでいられるのです。それをプラトンは「イデア(理想)」を持ち出して説明してくれたのでしょう。

プラトンの理想主義に対抗したのは、その弟子アリストテレスです。現実主義者のアリストテレスは、プラトンの「イデア論」をこう荒とう唐む無けい稽であるとして切り捨てました。浮世離れした「理想」ばかりを思い描く夢想家だと小馬鹿にされ、現実を見ろ、と迫られる…理想主義と現実主義はその時代により振り子のように揺れ動いてきました。20世紀に理想主義が花開いたのは、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの時代(世界大戦を繰り返さないために国際連盟の設立を訴えたのは米国大統領で理想主義者のウィルソン[1856-1924]でした)、1960年代の「ラブ&ピース」の時代、そして戦後社会が総括された1990年代でしょう。「自由」「平等」「平和」…そうした普遍的な「観念・理念・理想(イデア)」が機能した時代です。戦後1960年代のカウンターカルチャー(対抗文化)は、親世代の既成の価値観に抵抗し、「自由」「平等」の理想を掲げ、性別の壁や人種の壁を壊しました。キング牧師や公民権法を成立させた米国大統領J.F.ケネディ(John F. Kennedy)[1917-1963](大統領就任演説の「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるのかを問うてほしい」が印象的です)もそうした時代の空気と共振していました。その1960年代に都市の物質文明・管理社会にアンチを突きつけたのが大地に帰る(「Down to earth」)ヒッピー[hippie]文化でしたが、そのヒッピーイズムの流れを汲んだ米国・シリコンバレー産のインターネット文化(今でもIT業界はドレスコードが緩く、ヒッピーイズムの残滓を感じ取れます)は1990年代に爆発的に広まり、世界の一体化(グローバリゼーション)を後押ししました。ヒッピーたちの「愛と平和(ラブ&ピース)の祭典」だった1969年のウッドストック・フェスティバルは野外音楽フェスティバルの先駆でしたが、1990年代以降に「夏フェス文化」として日本に定着したのも興味深い相同です(1990年代は1960年代のチルドレン世代の時代でした)。

しかし冷戦が終結し、社会主義という「平等」という普遍「理念」を柱とする理想主義・ユートピア主義の失敗が現実化します(理想主義には全体主義的で不寛容な部分があり、対立者を粛清するなど社会主義国の負の側面も明らかになりました)。その一方で、市場原理に基づく「自由」な経済活動を理想視する新自由主義(ネオリベラリズム)が新たなユートピアとみなされます(日本において小泉内閣の構造改革や橋下維新ブームに沸いた時代を思い出してみてください)。1993年にはEU(欧州連合)が発足し、欧州を飲み込む自由貿易圏が誕生しました(まだグローバリゼーションが格差を生むという負の側面は明らかにされていませんでした)。「世界はひとつ」「世界平和」「核のない世界」…こうした「理想」をわずかながらも信じることができたのが1990年代です。

しかし21世紀に入ると、こうした「理想」が少しずつ、打ち砕かれます。2001年におこった米国の同時多発テロ以降、現在でもIS(イスラム国)によるテロが後を絶たず、キリスト教文化圏とイスラーム文化圏の対立が鮮明となりました。また、2016年には英国が国民投票により、EU(欧州連合)離脱を決定し、米国はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)からの撤退を表明しました。2009年にはバラク・オバマ(Barack Obama)[1961- ]がアフリカン・アメリカン(黒人)出身で初めて米国大統領に就任しましたが、2010年代に入ると、白人警官による不当なアフリカン・アメリカン射殺事件などもおこります。2016年の米大統領選では、アフリカン・アメリカンやヒスパニック、イスラーム教徒、女性、同性愛者といったマイノリティに対して不寛容で差別的な発言を繰り返してきたドナルド・トランプ(Donald Trump)[1946- ]が、米国内の経済格差と雇用を奪うとみなされた移民への不満を背景に選出されました。不遇な立場に置かれた者の平等を夢見た理想主義は近代の進歩主義が機能した時代だったからこそ、支持を集められたのでしょう。もはや「世界はひとつ」などという「理想」や普遍「理念」が機能しない時代に入ってしまったように思えます。

こうした時代にあって、日本国憲法改正の議論がさかんに行われていることは、正直気にかかります。もちろん戦後70年の時が経ち、時代にそぐわない部分が出てきたことは認めざるを得ないでしょう。人間も70歳になれば足腰は弱り、身体にもガタが来るわけです。ただ問題含みなのは、憲法改正の本丸が第9条の平和主義にある点です。ちなみに日本国憲法全体に流れる普遍的で崇高な理想主義のトーンは芸術品のような前文に表現されていると思います。人類が多くの血を流すたびに反省し、永年にわたり築き上げてきたその叡智の結晶をぜひ一度味わって読んで頂けたらと思います。

その日本国憲法の最も重要な特色と言えるのが憲法第9条です。これがまさに理想主義の産物、私たちを正しく導いてくれるプラトンの「イデア」のようなものです。国の最高法規である憲法の「理想」・崇高な普遍「理念」によって政府を縛る…というのが近代民主主義の常識である「立憲主義」です。そもそも政府や人間は信用できないものである、とする大前提は幾多の失敗を乗り越えてきた人類永年の知恵でした。平和主義や地方自治、全体の奉仕者としての公務員のあり方にしても今の日本ではその理想を実現し得ていないわけです。実現させられる現実的な目標に安易に書き換えるのではなく、国民全員が高い意識をもって、その理想に近づけていく努力が欠かせないのです。

GHQ(連合国軍総司令部)は、日本を軍国主義のファシズム国家に逆戻りさせないために、米本国でも実現できないような崇高な「理想」を新生日本に託しました。何しろそこには「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」——これが第9条の「平和主義」の根幹です——までもが明記されているのですから。「自衛隊」という世界で飛び抜けてお金をかけた実質の軍隊を有していて何が「戦力の不保持」だ、とか(政府は「戦力」ではなく「必要最低限度の実力」と呼び、「軍隊」ではなく「自衛隊」と言い換えることで憲法第9条と現実とのそご齟齬をなくしてきました)、米国の核の傘に入ってぬくぬくさせてもらっておいて何が「平和主義」だ、とか。あるいは戦後の平和は、終戦後も米国の施政下に置かれた沖縄に米軍基地の大半を押し付けることで実現した「まやかしの平和」に過ぎない…などなど、現実的に突っ込みたくなる気持ちも確かにわかるのですが、第9条はそもそも、そうした現実主義的性格のものではないのかもしれません。第9条は、天上の「イデア界」にある普遍的「理想」であり、生滅変化する「現実界」の事物を正しく導いてくれる目標のごときものなのです。

私にとって、間違いなく「音楽のイデア」であり続けているザ・ビートルズのメンバー、ジョン・レノン(John Lennon)[1940-1980]の代表曲「イマジン[Imagine]」と第9条の類似も指摘されています。「天国がないって想像してごらん」「国境がないって想像してごらん」「すべての人が平和に暮らしているって想像してごらん」…こんな風に私たちの想像力を膨らませておいて、ジョンは言うんです。「みんなは僕のことを夢想家だと思うかもしれない、でも僕は一人じゃないんだ、いつかみんなが賛同してくれるといいな、その時世界は一つになるんだ」…と。現実を見れば、国境がなくなるわけはないですし、戦争や軍隊がなくなるわけがありません。でも、国境がなくなれば、軍隊がなくなれば…そうした「理想」のヴィジョンを持つ人が一人でも増えれば、世界が変わるきっかけになるかもしれないんです。ジョンはきっと、そう固く信じていたのではないでしょうか。
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~お便り紹介~
---------------------------------------------------------------------------------------EDテーマ いしうらまさゆき「日本(ニッポン)の繁栄」(2014年3枚目のアルバム『語りえぬものについては咆哮しなければならない』より)
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【エンディング】
ではそろそろおしまいのお時間となりました。次回は理想主義者プラトンに対して、現実主義者アリストテレスを取り上げる予定です。ちなみに本日の記事は明月堂書店ホームページ、そしてnoteというサービスを使ってアップロードしていますので、そちらも是非ご覧になってください。極北ラジオですが、近畿大学で教鞭をとられており、最近主著の『近代化のねじれと日本社会』の増補新版が批評社から刊行されました、社会学者竹村洋介さんの「夜をぶっとばせ!」もぜひチェックしていただければと思います。まだの方はアーカイブでも聞けますので、明月堂書店のHPならびに極北ラジオのHPをチェックしてみてください。

最後に新刊のお知らせです。金沢大学教授・哲学者の仲正昌樹さんの「FOOL on the SNS—センセイハ憂鬱デアル」、絶賛発売中です。続編も今年予定されているようです。「SNS言論空間の吹き溜まりを徘徊する〝末人論客〟に情け無用の真剣勝負!」を繰り広げる「FOOL on the SNS—センセイハ憂鬱デアル」、詳細は明月堂書店ホームページをごらんください。以上、明月堂書店の提供でお送りいたしました!また次回お会いしましょう!

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