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続・分身主義宣言!

(表紙絵:森川寛 分身 / 文章:徳永真亜基 分身)
この作品は、2002年制作の『人類の育てた果実』を基にして、2003年2月11日から2008年2月25日の約5年間にわたり計106回発行したメールマガジン『世界を平和にする「自己愛的生活」』の中のNO.29~NO.47をまとめて『続・分身主義宣言!』というタイトルに改題したものです。
【102.881文字】



NO.29 アダルト・チルドレンの嘘 2003.09.30

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【精神的疾患(脳の病気)は、脳を個人の持ち物だと信じている個人主義的発想をする社会環境が作り上げてしまった病気かもしれない】

Q1、見つめなければいけないものと、見つめる必要のないものを見誤っていませんか?


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
オリオン座のみなさーん、元気してますか!? あなたの分身、徳永真亜基です。ぺテルギウス分身さん、こんにちは! 
相変わらず目立ちすぎですよ~!

オリオン座


しばらくご無沙汰していましたが、まだ見ぬ分身さんたちに会うために、地球の裏側を旅していたわけではありません。
そんなことは100年早いと言われそうです。

「自己愛」が本当に世界を平和にするかどうかの実践編メルマガ『世界を平和にする「自己愛的生活」』はまだまだ続きますよ。

(このメルマガは『人類の育てた果実』を齧ってくださった方にお送りする、世界を平和にするための実践編として発行します。まだそちらを見てくださっていない方には少しわかりづらいかもしれません)

早速始めます。
アダルト・チルドレンって聞いたことありますか?
最近、いろいろなところで耳にするようになりましたが、こんな言葉、僕が小さい時、聞いたこともありません。

アダルト・チルドレンという言葉には、子どもを引きずったままの大人になりきれない大人、のようなイメージがありますが、そうではないそうです。
語源は Adult Children of Alcoholics(アダルト・チルドレン・オブ・アルコホリックス)で、アルコール依存症の親に育てられ、そのことが原因で何らかの生きづらさを感じて生きることになってしまった成年者、に対してつけられた名称のようです。

現在では、親から性的虐待や家庭内暴力を受けて育ったり、または仕事依存症、ギャンブル依存症などの嗜癖(しへき)問題を抱える親に育てられたりして、そのことが原因で何らかの生きづらさを感じて生きている成年者に対しても、アダルト・チルドレンと言うようになったようです。

「親たちの混乱に巻き込まれながら、親たちを心配し、親たちの期待に沿うことばかりを考えて生きてきた子どもであった人々であり、「子ども時代」というものを持てなかった人々であり、決して与えられることのなかった親の愛と関心に飢えたまま大人として生きている自己評価の低い人々‥‥」

それで、一般的には Adult Children of Dysfunctional Family(アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー)、つまり、機能不全の家族の元に生まれて大人になった人、という捉え方をするようです。

また、多くのアダルト・チルドレンは、苦しみから逃れるために次のような精神症状や行動に陥りやすいということです。

・ひきこもり、
・リスカ(*01)などの自傷行為
・暴力(DV(*02)や非行)
・アディクション(依存、嗜癖)、摂食障害(過食おう吐・拒食)
・落ち込みやすく、考え事を良くする(憂鬱、仮面鬱病)
・精神的虐待(モラルハラスメント(*03))
・共依存(*04)

[*01.リスカ]-リストカット(手首等をカッターやその他の刃物等で切ってしまう行為。)
[*02.DV]-ドメスティック・バイオレンス(家庭内にて、男性が女性に暴力を振るう。また、その逆もある。)
[*03.モラルハラスメント]-精神的虐待。けなす、屈服させるなどの精神的虐待を受けて育った子どもはアダルト・チルドレンになりやすく、やがて自分の子どもに同じような精神的虐待をしてしまう。
[*04.共依存]-人間関係において依存してしまい、いい人間関係を作れない。


機能不全家庭に育った人(アダルト・チルドレン)は、その後の人生でも心的外傷を抱えたままの人間関係を作りやすく、また同じ体験に対しても、大きなダメージを受けやすいために、生きづらさを引きずって生きることになるそうです。

さて、ここまでは調べたことを単に抜き書きしてみただけです。
こんなアダルト・チルドレンなんて言葉、僕が小さいころ聞いたこともなかったものですが、言葉がなかっただけで、アダルト・チルドレンちゃんは昔からいたのでしょうか?

それとも、近年になって突如として出現した新人類たちだけに与えられた特権なんでしょうか?

その答えは、近年出現したものだと言えそうです。

脳を個人の持ち物だと信じている個人主義的発想をする現代人が、ある種の傾向を持った人々に対して、アダルト・チルドレンと名づけてしまったのが原因だと思います。

病名をつけるということは、次のような利点もあります。

今まで漠然としていた概念を、あるいは曖昧(あいまい)にしていたものを、あるいは認めようとしなかったものを、病名をつけることではっきりと意識して、それに対処していこうという姿勢が生まれる点です。

(注:アダルト・チルドレンは実際には疾患名や診断名ではなく、認知行動的概念で、極端な言い方をすると、機能不全家庭に育ったために現在生きづらさを感じていると自認する成人は、誰でもアダルト・チルドレンだと言うこともできるそうです)


しかし、いくら後から「疾患名や診断名ではない」などと言われても、その名前が一般に定着(流行語大賞トップ10にも入ったらしい)してしまっているなら、我々にとっては「病名」をつけられてしまったのと同じ効果がありそうです。

病名をつけるということは、良いことばかりとも言えません。
何故なら、病名というのは、それ(病名)がなければあっけらかんとしていられて、自然に関心ごとを他へ転化させることができていたものを、一旦、それ(病名)をつけてしまうことにより、病気としての存在感を誇示したがるという恐ろしい性質を持っています。

アダルト・チルドレンだと言われれば、深く傷ついて悲壮な顔をしていなければ申し訳ないような気がする人もいれば、あるいは、はっきり断言してもらえたことで、理解してもらえたような、救われたような気になる人もいます。


精神医学の世界で基準とされているアメリカのDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders『精神障害の診断と統計マニュアル』)に分類されている精神障害の数は、第1・2版では、130だったものが、第3版には265にも増えています。

このように病名をたくさん増やすことで、人間の心をパターン化する上において幅ができ、分析しやすくなり、病気に対してより適切な対処が施されると考えられているからでしょう。

しかし別の言い方をすれば、名前を付けたことで、単に病名を増やしただけではなく、今までなかった新たな「病気」を作り上げてしまったとも言えます。

DSMの中の一つ、パニック障害というのを見れば次のようにあります。

・心臓がドキドキする
・冷や汗をかく
・身体や手足のふるえ
・呼吸が速くなる、息苦しい
・息がつまる
・胸の痛み
・吐き気、腹部のいやな感じ
・めまい、頭が軽くなる、ふらつき
・非現実感、自分が自分でない感じ
・常軌を逸する、狂うという心配
・死ぬのではないかと恐れる
・シビレやうずき感
・寒け、またはほてり


実際には、この中の4つ以上の予期せぬ発作が発生し、再び起きるのではないかという不安が一ヶ月以上続き‥‥、のような細かい基準があるようですが、こんなこと、誰でも仕事のストレスや疲労がたまっている時、少しくらいあるものです。

たまたま僕の身体がそのような状態で、心が弱っているような時にこれを読んだら、そのような不安が増幅されて、ここにちゃんとしたパニック障害患者ができあがりそうです。(笑)


でも、僕は、真の科学が導いてくれた「分身主義」の立場から、この精神医学界の傾向に警鐘(けいしょう)を鳴らします。

僕たちの脳は、個人の持ち物ではありません!

僕たちの脳は、個人の意識でどうにかなるものでもありません!

僕たちの脳の状態は、この脳を取り巻く環境を反映している、つまり環境に作られているということを、絶対に忘れてはいけません!!

これから精神医学関連の勉強を始めようとされている方は、既成の学説や病名を無批判にただ受け入れるのではなく、絶対にこのことを覚えておいてください。

何故ならあなた方は、悩んでいる人を助けるために勉強をしようと思っているのであって、悩んでいる人たちを薬漬けにして儲けるために勉強をしようとしているのではないですよね。


眼鏡がよく似合う精神科医、香山リカ分身さんが、その著書『<じぶん>を愛するということ(私探しと自己愛)』の中で、次のように書いています。

自分を愛するということ

「(現代では)親との関係で何らかのトラウマを背負った人、傷ついた経験を持つ人は、皆アダルト・チルドレンと拡大解釈されるようになった。しかし、考えてみれば、親との関係で全く傷ついたことのない人はいない。誰でもひどく怒られた、出て行けと言われた、締め出されて立っていなさいと言われたなどという経験はあり、その意味では、皆何らかの形で親との関係の中でトラウマを背負っている」

そして、最近のアメリカでは、今の自分が生きにくいのはトラウマを持たされた親の育て方のせいだとして、子どもが親を訴えるケースも増えているそうです。

そして、子ども側につく精神科医の中には、賠償金などの利害がからんで、無理やり「アダルト・チルドレン」を作り上げようとしてしまうケースもあり得るそうです。

また、精神科医の町沢静夫分身さんは『「自己中心性」の病理』という本の中で、次のように書いています。

自己中心性の病理

「(アメリカから入ってきた)個人主義が行き過ぎると、利己主義に行き着く。それは過度の自己中心性となり、そして病理的な自己愛性(人格障害)に陥ってしまう」


さて、この方たちの実に得心のいくご意見を踏まえた上で、冒頭に掲げた質問を考えてみてください。

質問は、「見つめなければいけないものと、見つめる必要のないものを見誤っていませんか?」です。

今ここにコップがあり、そこに水が入っているとします。
あなたがそれを手に持ち軽く揺らすと、もちろん中の水は波立ちます。

僕たちが見つめなければいけないものは、あなたの手をコップを揺らすようにしむけている何らかの力です。

それなのに、僕たちはコップの中にできた波ばかり見つめて、ハラハラしたりイライラしたりしています。

これが、現代の精神医学界の陥っている病気です。
彼らはこのコップの中にできた波、つまり個人の脳の状態ばかり見ているのです。あげくの果て、薬物を投与して波を鎮めようとまでしています。

でも、薬にできることといったら、せいぜい、波立っている水を本人には気づかなくさせることくらいです。
何故なら、コップの中の水に波を起こしている原因は、その外側にあるから、その原因を取り除かない限り、波はなくなってはいないからです。

では、その外側の原因とはなんでしょうか?

アルコール中毒者だった親でしょうか?

違います!
僕は、親が悪いんだから親を治療するべきだ、などということを言っているんではありません。
実は、このように考えるカウンセラーの人も実際にいるんですけどね。そんな本がアメリカからやって来て、日本でベストセラーになったこともありましたよね。


脳は、記憶という素材を組み合わせてつじつま合わせをする癖があります。と言うより、脳のやることはつじつま合わせだけとも言えます。

例えば、脳は身体中に張り巡らされている神経系との連動の中で、怪我をすれば痛いと感じるのは他でもない「この身体」だ‥‥、マッサージをしてもらって気持ち良いのは他でもない「この身体」だ‥‥、そういう記憶(体験)を積み重ねることで、「自分とは神経系の作っているこの境界線の内側だ」とつじつま合わせをします。要するに脳が「錯覚」するわけです。

そのつじつま合わせによって、「錯覚の自我」が作られてしまったのが現代人の脳です。

錯覚とは「本当はないものをあると思っている」ということには違いないのですが、「そんなの錯覚だよ気にすんなよ」などという単純なものではありりません。

「錯覚」とは、それを信じてしまった人にとっては確かに存在し、自分の人生や周囲の人の人生を変えてしまうほどの力を持っているものなのです。

例えば、アパートの構造部が温度や湿度の関係で伸縮して起こるラップ現象なども、その原因を「この部屋でなくなった霊が歩いている」などと錯覚してしまった場合、引っ越しを余儀なくさせられたりするわけですものね。



この脳というのは、身体のすべての臓器とつながっているだけでなく、五感を通してこの身体を取り巻く周囲の環境や、あらゆる他の脳とつながっています。まるでこのインターネットの世界のように。

そのようにして個人の脳は作られ、その脳を取り巻く環境からの情報を得て記憶も作られていきます。

実は、精神的疾患というのは、このようにして環境に作られた記憶の中で、どうしても受け入れがたい記憶(心の傷)が作られ、それをやわらげるためのつじつま合わせしている「適応症状」のことなんです。

過去に受けた傷(記憶)は、このパソコンのように「ごみ箱」にポイと削除するように簡単にはいきません。
でも、記憶の上書きは可能です。
僕たちは今、記憶に新しい考え方を上書きする必要があります。

僕はかつて、ダンゴムシが嫌いでした。
便所虫とも呼ばれる虫だし、汚らしい感じがしたからです。
でも、ある日『かがくのとも』という子ども向けの本で、ダンゴムシの習性を知り、それはちっとも汚いものではなく、危害も加えないとても可愛い生き物だったんだって知ったんです。

ダンゴムシ

科学が教えてくれた真実の「上書き」は、ダンゴムシを好きにさせてくれました。


「つじつま合わせをする脳が、"錯覚の自我" を作ってしまった」と言いましたが、現代人はその「錯覚の自我」にがんじがらめに縛られています。

これは錯覚なので当然、自然界の中で様々な軋轢を生みます。その最たるものが、「個人主義的な環境」を作り上げてしまったことです。

そのせいで、現代人は大海に放り投げられて溺れそうになっているような状態なのです。そして溺れまいと手足をばたつかせるので尚更水をたらふく飲んでしまいます。

実際に溺れてしまう人もたくさんいますよね。

だけど、力を抜いて息を一杯吸い、水の上に仰向けに寝転んでみてください。気持ちよく浮かぶことを誰でも経験しているはずです。
これが、自然界との軋轢が消えた状態です。自然界に産み落とされた人間が、一番良い生き方をしている状態です。

そのためにはつじつま合わせが作った「錯覚の自分」ではなくて、自然界が教えてくれている「本当の自分」を知る必要があります。

「本当の自分」を自然界に教えてもらうための最良の道具こそ「科学」です。
そして、真の「科学」によって「本当の自分」を知ったものが「分身主義」です。

救わなければいけないのは、患者よりも、むしろ、患者を作ってしまうようなこの環境であり、その中で生きている人たちの方だったのです。
つまり、「錯覚の自我」にがんじがらめに縛られていた僕たちの脳を「錯覚の自我」から解放し、科学が教えてくれていた「本当の自分」を上書きすることだったのです。

僕たちは、両親を憎むような記憶をこれ以上入力してはいけません。

僕たちは、ある国を憎むような記憶をいつまでも持ち続けていてはいけません。

僕たちが、ある記憶によって激しく憎んでいる人がいるとします。でも、記憶の上書きをすれば、その人を好きになることだってできるんです。

僕たちは、両親を、他国を、隣人を憎まないような記憶の上書きをするべきです。


真の科学が導いてくれた分身主義は、僕たちの脳は、個人の持ち物ではないことを知りました。
僕たちの脳は、個人の意識でどうにかなるものでもないことを知りました。

何故なら、分身主義は、僕たちの脳の状態はこの脳を取り巻く環境を反映している、つまり環境に作られているということを知ったからです。

そして、僕たちはその「環境に作られた脳」にすべての行動を取らされていたのです。それこそ腕の上げ下げから瞬(まばた)き一つにしても。

だから分身主義は、天才も、落ちこぼれも、英雄も、犯罪者もこの環境に作られていると考えます。天才も、落ちこぼれも、英雄も、犯罪者もこの環境を作っているみんなの脳に作られているのです。天才も、落ちこぼれも、英雄も、犯罪者も、そして「精神疾患者」も、実はみんなで作っていたのです。


今、僕たちに必要なのは、この「分身主義的視点」あるいは「分身観」を現在の脳に上書きさせることです。

宇宙の全てがつながっていて、互いに影響し合っていて、それがコップの水を波立たせているという捉え方は、慣れてしまえばそんなに難しいことではありません。
世界が平和になるためにも、僕たちが幸せになるためにも、早くその捉え方に慣れたいものです。


いいですか!?

ほとんどの精神的な疾患は、分身主義で解決できてしまいます。
先程、町沢分身さんが「(アメリカから入ってきた)個人主義が行き過ぎると、利己主義に行き着き、それは過度の自己中心性となり、そして病理的な自己愛性(人格障害)に陥ってしまう」と言っていました。

ところが、分身主義とは、僕たちの脳は個人の持ち物でもないし個人の意識でどうにかなるものでもない、ということを知ったものですから、過度の自己中心性とは全く無縁です。

このメルマガのタイトル『世界を平和にする”自己愛的生活”』の「自己愛」とは、実は、町沢分身さんの言う「自己愛」ではなくて、「分身主義的自己愛」の意味だったのです。
つまり、自分を愛することと他人を愛することがイコールである「分身主義的な自己愛」のことだったのです。このメルマガは、その愛が世界を平和にできるかどうかの実験だったわけです。

真の科学が導いてくれた分身主義の視点を持った人の「自己愛」が、病理的な自己愛性(人格障害)に陥ってしまうことなどあり得ません。

これはまるで、言葉の綾(あや)か詭弁(きべん)のように聞こえるかもしれません。でも、本当のことなんです。

記憶は環境によって作られ、環境はまた記憶によって作られています。
戦争を起こし病気を作っていたのは、環境や記憶です。
その環境や記憶が、現代人の「錯覚の自我」が作り上げている「個人主義的環境や記憶」から「分身主義的環境や記憶」に変化すれば、世界を平和にし苦しい心の病から解放されることなんて、いとも簡単なことだったんです。


そのことに気づかない精神医学界に、これ以上病気を増やされたら堪りません。

そのことに気づかない歴史学者たちに、これ以上憎しみの数を増やされたら堪りません。(彼らは、過去の歴史の過ちを、特定の国や特定の団体や特定の個人に求めたがるものです)

僕たちはみんなで病気を作り、みんなで戦争を起こしてしまっていたのです。「錯覚の自我」にがんじがらめに縛られている僕たちが作る「個人主義的環境、個人主義的社会」がそれらを作ってしまっていたんです。


あなたが本当の意味で幸せになるためには、アダルト・チルドレンなどという病気?を作ってしまうような偏狭な社会を救わなければ、自分も幸せになれません。

何故って、そう、僕たちはつながっていたんですもの。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

僕たちの身体が、受精卵というたった一つの細胞から始まり、何度も分裂を繰り返し、それぞれの環境に合わせた細胞(あるものは心臓の細胞になったり、またあるものは目の細胞になったり‥‥)が作られていくことを「分化」と言います。

この宇宙も、ビッグバンという超高温・超高密度の小さな種(たね)から始まり、その時に存在していた素粒子がそれぞれの環境に合わせて組み合わせを変えることで、天体を作り、地球に生物を作り、僕たちは作られてきたのです。

僕はこれを「分身」と命名しました。この事実を知れば、そしてこの物語をうまく上書きできれば、今まで精神的な病とされていたものは消失します。

病気から解放されます。

僕たちは、個人主義的発想をするような、余裕もスキもない回線を持ってしまった精神医学界が作り上げてしまった、その「病名」に縛られていただけなのです。

その、余裕とスキを作り出してくれるものこそ、分身主義だったんです。

分身主義は、一人の人の脳の状態(=精神の状態)は、その脳を取り巻く環境を反映しているものだと考えます。
そしてその脳を取り巻く環境はまた、多くの人の脳の状態を反映していると考えます。


脳は決して一人ぼっちでは存在できません。

僕の作ったホームページ『僕は健康だよ。ただちょっと‥‥』
にそのことを書いています。
(*現在、自分のホームページから、この note に移し終っています

是非、読んでみてください。


NO.30 僕はアダ・チルだったのかも? 2003.10.07

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【僕たちが平和のために乗り越えなければならない障壁は、意外に家族という壁だったのかもしれない】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

前回、アダルト・チルドレンのことを執筆している最中に、僕のもう一つのホームページ『アラスカの風に乗せて』を見てくれた人から突然メールが来ました。
差出人は、中学二年(14歳)の男の子でした。

僕は小6くらいまでは明るく元気でしたが、中1になって勉強をしなくなり、イジメとかもあい、静かで暗い性格になりました。
おかしくなったのは中1の秋ごろからです。
親に暴力・暴言を吐いたり、綺麗好きの僕なのに部屋は散らかり放題。
最近では、人と話をするとき、人に顔を向けるのが苦痛だったり、家族内にいると意味不明なことを言ったり‥‥、
そしてなぜか学校に行きたくなくなってしまったのです。
今は暴言は吐きますが、暴力は何とか抑えてます。
ですが、やはり学校は行きたくない気持ちでいっぱいです。
早くこの病気が治るといいです。
病院に通院して薬をもらってるのですが、やっぱり早く治るものではないん
ですね。
この病気のせいで、時には何にもやる気がおきなくなって心が憂鬱になり、自信を失って、絶望的な気持ちになったりも・・・。
孤独さを感じたりもします。


そんな彼のメールで、僕は、今の彼の精神状態と、とてもよく似ていた同じ年頃の自分の精神状態を想い起こしていました。

中1の終わり頃、ホームルームだか何かの時間に、担任の先生が、「みんなちょっと聞いてくれ。昨日、驚いたことがあった。徳永のお母さんに、最近、暴力をふるって困っているという相談を受けた。あの徳永が?って、先生はびっくりした」
と、みんなの前で、僕の目を見ながらそんなことを言ったんです。

その先生は、僕のことをとても買ってくれていて、みんなの前でよく誉めてくれていたから、よけいに意外だったんでしょう。

僕は、親に対する反抗なんてみんなやっていることだし、自分の理屈が通らないので腹を立てるだけだし、そんなこと別に自分が特別とは感じませんでした。

だけど僕は、その先生をとても尊敬していたので、家で暴力的になると、先生の言葉を思い出して、先生の期待を裏切らないようにとか、先生にまで相談を持ちかける母親の気持ちを察する努力をすることで、少しずつ治っていったような気がします。

でも今考えると、原因は、理屈が通らないなどという確たるものなんかではなかったのかもしれません。

その頃の僕は、学校ではいろいろな委員をやらされて、おとなしい優等生的に見えていたようですが、心の中はめちゃくちゃに散らかった部屋のようで、ポワーンとした現実感のないようなところを彷徨っているような、頼りない荒野を一人ぼっちで歩かされているような、それでいて常にどこか苛立っていたような気がします。


だから僕は、メールをくれた少年に次のように返事を書きました。

はっきり断言することはできないけど、僕のケースから見て、君のは、思春期に誰もが経験する一過性の苛立ちではないでしょうか。
身体や環境の変化に対応しきれない無意識の苛立ちではないかと思います。
そう思わなきゃ、負けてしまいますよ。
病気だなんて思ったら、そして薬になんか頼ったら、抜け出せなくなりますよ。
その頃の僕は、時々、心の中が、散らかり放題で、めちゃくちゃで、何もかもどうでもいいやなんて思ったりしたこともありました。
でも、そんなの病気だなんて思わなかったし、今も、こうして平気でいます。
必ず、時間が解決してくれて、そこから抜け出せます。
だから、薬にだけは頼ってはいけないよ!

そして、分身主義にたどり着いた僕は、彼に対して、「過去の傷(記憶)は消すことはできないけど、その上に新しい記憶を上書きさせることだ」ということを説得しました。

それに対する返事が来ました。

もう心の中は徳永さんと同じようにめちゃくちゃ状態になったりもします。
それでも徳永さんは病気だなんて思わなかったなんて、僕にはとても想像がつきません。
時間が解決してくれるとは親からも言われたりしますが、いつになったら治るのかがわからないのでとても恐怖です。
でも徳永さんの言った通り、薬には頼りません!
過去の記憶(心の傷)に上書きすれば、僕は大丈夫になるはずです。
でも新しい考え方ってそう簡単にはいかないと思います。
どういう考え方をしてどのような気持ちでいれば上書きできるのでしょう?


そこで僕は分身主義というのを提示しました。
彼は、僕の書いたものを必ず読み通すと約束してくれました。


その後の彼とのメールのやり取りで、どうやら父親は本当の父親ではないということがわかりました。
そのことから、彼の精神的なトラブルは、家庭環境に原因があったのではないかと思い始めました。

すると、その時は読み流していましたが、この「それでも徳永さんは病気だなんて思わなかったなんて、僕にはとても想像がつきません」という言葉に引っ掛り始めました。

もしかしたら、子どもの頃の僕の苛立ちは、思春期に誰もが通過するものなんかじゃなくて、僕の特殊な家庭環境がもたらしていたのかもしれないと、この年(46歳)になって初めて思ったのです。

それで、僕は自分の過去の家庭環境を振り返ってみることにしました。


僕の父は、埼玉で生まれましたが、幼い頃、福岡の徳永家に養子にやられました。
都会から来た子ということでイジメられないように、勉強も運動も負けないように頑張ったということです。

苦しみも悲しみも誰にも打ち明けず、じっと自分の心の内だけに閉じ込めてしまうような父の性格は、その時作られたんだと思います。

大学を出てから、旧国鉄に就職しました。
国鉄の建築区というところで働いていて、一級建築士の免状を持っていました。

30歳になって僕が生まれると、それまで住んでいた宿舎を引き払い、都内に80坪の土地を購入して自分で設計して家を建てました。当時の公務員の安月給ではとても土地の購入などできないはずなので、福岡の土地を売ったかなんかしたのだと思います。

子どもは姉と僕と、僕の三年後に生まれた妹の三人です。
そして祖母を入れて六人の家族でした。

庭には大きな藤棚を作ったり、イチヂク、夏みかん、ぶどう、いちご、ザクロ、トマト‥‥など、いろいろな植物を植え、僕が少し大きくなると池を改造してプールを作ってくれたり、ブランコを作ってくれたりしました。

いつもは酔っ払って夜遅く帰ってくる父でしたが、休みの日などは料理を作ってくれて、「おいしいか、まずくないかどっちだ!?」と問い詰めて、よく笑わせてくれたのを思い出します。

とても、ユーモアのセンスがあり笑わせることが上手な父でした。
進駐軍で働いていた祖母は、時々アメリカさんから珍しいお菓子やオモチャや日用品や家具などをもらってきました。
その影響からか、当時としては珍しい、椅子に座って食事をする板敷のダイニング・ルームがありました。

クリスマスには、庭に植えてあるモミの木を根っ子から引き抜いて鉢に植え替え、部屋の中に置いてみんなで飾り物をして祝いました。
毎年、大きくなるモミの木を見るのが楽しみでした。

その頃のクリスマスの写真には、三角の帽子をかぶって姉と肩を組んでいる笑顔の僕がいました。
部屋には、クリスマスの時に天井や壁によく吊り下げる飾り付けが見えています。
こんな話をすると、ラジオから軽快なジャズでも聴こえてきそうなハッピーな家庭を想像されると思います。

でも‥‥、
温かな家庭は僕が小学校に入学するくらいから冷えていきました。
父は、家庭よりも仕事の同僚との付き合いを大切にする人で、家にはほんのわずかの生活費しか入れてくれないようでした。
それで、母は父の反対を押し切り、働きに出ることになるのです。

学校から家に帰っても両親がいない、淋しい「鍵っ子」と呼ばれる生活が始まります。

それからの父は、以前にも増して、毎晩べろんべろんになって帰ってきては、わけのわからないことを怒鳴り散らし寝てしまうようになり、家族との会話もほとんどなくなりました。

休みの日は、庭いじりもせず、料理も作らず、冗談も言わなくなって、一日中酒を飲みながら、テレビにかじりついているだけの父親に幻滅をするようになりました。

話をしようにも、仕事のことしか頭にない父親とは共通の話題もなく、途切れがちです。
父に気に入られるための言葉をいつも探していました。

他人に話しかける時、いつも自分の言葉を頭の中で反芻(はんすう)して、他人がそれを聞いてどう受け取るかと、自分の中でリハーサルをしてからでないとしゃべれない、いつも他人の気持ちを気にして行動するビクビクした人間になったのは、父親の影響だと思っています。

それは、ずっと大きくなるまで続き、そのせいで生きづらい思いもしてきたような気がします。
家族はみんなバラバラになって、氷の世界のように冷えきってしまったように感じる時もありました。

僕は、小学校の3~4年生くらいまで、担任の男の先生が自分の父親の変装している姿じゃないかと本気で疑っていました。
先生が時々僕を見る視線には、「夜の自分の姿は仮の姿で、本当はこうして毎日お前の側にいて、お前だけを見守っているんだよ」と言っているようでした。

だから、その先生のほんのちょっとした癖や、言動にも自分の父親である証拠を突き止めようと一生懸命でした。

そんなことも、みんなが想像することだと思っていましたし、それに、心の中がめちゃくちゃだった時期は確かに辛かったけれども、思春期にみんなが通過する単なる苛立ちだと考えていました。

でも、そうでないのが普通なのかもしれないと、この年になって始めて思ったのです。
僕の抱いていた幻想も、心の状態も、みんなみんなその頃の僕の家庭の状態が脳に反映されていたのではないか、そう気づいたんです。


ある日、珍しく素面(しらふ)だった父が、家で仕事の書類か何かを書いている時に、「書き物をする時、手が震えてうまく書けない」と言ったことがあります。
僕は、心配して「お酒の飲みすぎじゃないの?」と聞くと、「むしろアルコールが少し入った方が震えないんだ」と答えました。

その頃、もうアルコール依存症だったんだなと、思います。
そんな父は、平成7年に他界しました。

アルコール依存症の父親と、冷え切った機能不全の家庭に育って、大人になっても長いこと生きづらさを感じて生きてきた僕は、今で言うアダ・チルだったのかもしれません。(何故か、縮めるとカッコいい!)

そのことに気づかず、意識もせずに生きてきてしまった僕は、とても幸せだったと思います。
おかげで、病人にならず薬も飲まずにすみましたから。(笑)

それに、不幸中の幸いか、14歳の少年のメールによって今そのことにやっと気づかされた僕は、もうアダルト・チルドレンとは無縁の、分身主義の目指すゴールに向けて歩き始めていましたから‥‥。

むしろ機能不全の家庭に育ち、生きづらさを感じていたことで、分身主義にたどり着けたと感じています。

自分の家庭に、あるいは自分の家族に責任の所在を探してはいけません!
もし責任を負わせるなら、この環境です。この宇宙です。

だって、僕たちには宇宙全体が一つの家族だったんですもの。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

もし、僕の家庭がぬくぬくしたものであったなら、寒い冬の日のコタツのようにそこから抜け出そうなどと思わず、分身主義にもたどり着けなかったかもしれません。

なぜなら、分身主義は、ある意味「家族のつながり」を希薄にします。
家族という小さな閉塞した単位から、もっともっと大きな解放された単位に跳躍するものです。
家族は守らなければならない単位ではなくなります。

もっとも、分身主義的な環境になれば敵がなくなるので、守らなければならないものもなくなりますが‥‥。

可愛いあなたの子どもは、あなただけの子どもではなくなります。
世界中のみんなの子どもです。
みんなの分身です。

そこで言い忘れていましたが「今日の一言」の意味です。

「僕たちが平和のために乗り越えなければならない障壁は、意外に家族だったのかもしれません」
そろそろ、そのことに気づかなければならない時代がやってきたのかもしれません。世界平和のために。僕たちの本当の幸福のために。



NO.31 さようならアダルト・チルドレン 2003.10.14

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【分身主義は共感で世界中の人を一つに結び付けてくれる。その時、自然界様が教えてくれた「本当の自分=自分の全身」が姿を現すだろう】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

二週に渡ってアダルト・チルドレンについて書いてきましたが、今回で終わりにしようと思います。
それと同時に、僕たち人類は、アダルト・チルドレンという言葉を作り出してしまう思考回路からも卒業するという決意を込めて、『さようならアダルト・チルドレン』というタイトルをつけました。


先日、8年振りに会った友達と、健康ランドへ行ってきました。
10種類以上のお風呂に入り、マッサージも受け、心身ともにリラックスしたその帰り、お店の玄関を出て、そこで友達が車を取ってくるのを待っている時のことです。

同じようにご主人の取りに行った車を、玄関先で待っているらしき家族がいました。
まだやっと歩けるようになったくらいの男の子と、お母さんと、おばあさんの家族です。

しばらくして、火が着いたような子どもの泣き声がしたので、驚いてそちらの方を見ると子どもが地べたに転がるように這いつくばっていました。
それを見ても母親もおばあさんも手を貸そうとしません。

「すぐ助けてくれると思ってるんだから」
冷たくつぶやく母親の姿は、子どもを自力で立たせようと躾(しつけ)をしているようにも見えました。

いつもなら、優しいお母さんがすぐ手を差し伸べてくれるのでしょうか?
でも、いくら泣いても誰も助けてくれないので子どもの声はますます大きくなり、その次に驚くべき行動に出たのです。

自分の腕の力で、地面から10センチばかり顔を上げたかと思うと、顔面をアスファルトの上に叩きつけて抗議をしたのです。

それを見てびっくりして、おばあさんは咄嗟(とっさ)に子どもの顔の下に手をやりました。
お母さんも心配そうにちょっと反応しましたが、やっぱり口も手も出しません。

その側にいた別のお客さん(60歳くらいの女性)が、子どもに声をかけました。
「おにいちゃん、ああ、えらいなあ。自分で立てるんだね」

その言葉に注意をそらされたのか、子どもの泣き声はちょっと小さくなりました。
その人はもう一度繰り返しました。
「ああ、えらいなあ。おにいちゃん、さあ、立てるかなあ?」
今度はぱったりと泣き止み、腕の力で数10センチ上げた顔をそちらに向けてじっとしていました。

すると、その子の視線の先にある玄関の自動ドアが開き、そこから杖を突いた老女(70歳は超えているような女性)が出て来ました。
老女はその言葉を受けて、「さあ、立てるかなあ!」と大声を上げました。
少し酔っ払っているような感じでした。

そして、もう一度、「さあ、立てるかなあ!」と言った後、
「男は元気に‥‥」と、言いかけて僕と目が合い、まるで僕に向かって言うかのように「立ちなさい!」と言いました。

僕はちょっと赤面して、その側にいた別のお客さんたちと顔を見合わせて笑ってしまいました。
さっきまで泣いていた子どもは、みんなの笑い声に気をそらされて、すっかり泣き止んでしまっていました。
みんなの興味もその子から各々のことへと移っていきました。

それからしばらくして気がつくと、子どもが笑いながら歩いています。
「ああ、じょうず、じょうず」
周りにいたお客さんの気持ちは一つになったように、その子の歩きに声援を送りました。

僕は、この子育ての大先輩である、おばあちゃんたちの堂々とした態度に、頭が下がりました。
彼女たちは、子どもを楽しいことに目をそらさせる天才たちです。


この一件を見ていて、僕は以前読んだ、僕たちの誇るべき分身さん、三宮麻由子(さんのみや・まゆこ)分身さんの書かれた『鳥が教えてくれた空』というエッセイ集を思い出していました。

鳥が教えてくれた空

その中に、彼女の子ども時代のことが書かれていました。

男の子たちと喧嘩が始まりそうになった時、彼女は自分で作った「喧嘩ソング」というのを歌ったそうです。

「けっこう毛だらけ、猫灰だらけ。あなたと私は泥だらけ、大事な玩具(おもちゃ)を貸さないよ。ブザーをブウブウブウって押さないで」

そうすると、それまで目をむいて怒っていた子どもたちが「いまの、もう一回言って」と歌を聞きたがってきて、一節ずつ教えてあげると、そのうち本題の喧嘩はどうでもよくなり、みんなで大合唱が始まったそうです。

現代は、どれを採用していいのか迷うくらいに子育てのマニュアルが氾濫して、神経質になっているお母さんが多いようですが、僕は、子育ての本質は、もっと違うところにあるんじゃないかと感じます。

この人生の先輩のあやし言葉のかけ方やユーモアも、それに三宮さんの機転も、子どもの意識を他にそらしているわけですが、関心をそらすことに成功したということは、少なくとも目の前に楽しい何かがあるということです。

マニュアルには、子どもが転んでもすぐに手を出してはいけませんと書いてあるかもしれません。
でも、心を鬼にしてマニュアルを守るお母さんによって歪んだ自主性を育てられるより、側にいたおばあさんたちの方が、ずっと素直な自主性を育てているような気がします。

自分で立ちなさいと叱るより、自分で立って歩いた方が楽しいよ、と感じさせることです。
喧嘩はいけないと怒鳴ってやめさせるより、仲良くする方がどんなに楽しいか、ということを感じさせることです。

それを可能にするのは、みんなで一つのものを声援したり、大勢で大合唱したりする中に生まれる「共感」を、喜びとして感じることができる脳です。

死の恐怖よりも強い「共感」の脳を持っている限り、人類はまだ大丈夫です。

個人主義を突き進んで孤独に陥っている僕たちの脳ですが、バラバラになった僕たち(分身)を呼び戻してくれる部分が、脳の中には未だ健在です。
世界を平和にする脳は、未だ健在です。

そうして、この共感の脳からは、アダルト・チルドレンなどという言葉も生まれてこないということを、今回僕は言いたかったんです。


僕の大好きな作家、村上春樹分身さんの『海辺のカフカ』を読んでいたら、次のような文章に出会いました。

海辺のカフカ

田舎の家庭は暴力で満ちています。親のほとんどが農民です。みんなぎりぎりの生活をしています。朝から晩まで働いて疲れ切っていますし、どうしてもお酒が入りますし、怒るときには口よりは先に手が出ます。そんなことは秘密でもなんでもありません。子どもたちからして、多少殴られたってあっけらかんとしておりますし、その場合、心の傷はまず残りません。しかし中田君のお父さんは大学の先生でした。
(中略)つまり都会のエリートの家庭です。もしそこに暴力があったとしたら、それはおそらく田舎の子どもたちが家の中で日常的に受ける暴力とは異なった、もっと複雑な要素を持つ、そしてもっと内向した暴力であったはずです。子どもが自分ひとりの心に抱え込まなくてはならない種類の暴力です。

どうして都会のエリートの親の暴力は、子どもに心の傷を残すのでしょうか?
一緒に考えてみてください。


また、岩手県の方言「ケセン語」で聖書を翻訳した山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)分身さんは、次のように仰っています。

標準語は「建前」の言葉です。本音を隠して建前だけでものを言うには実に便利な言葉ですが、心情を吐露するにはあまりに人工的で命が欠如しています。ひところ我がケセンでも中学生がひどく荒れた時代がありました。
学校の校舎の廊下を単車で走り回って乱暴狼藉の限りを尽くすようなゴロツキ中学生が暴れたそうです。
わたしの同級生の教師はそのころなぜそうなるかを必死に研究し、面白いことを発見しました。教師が標準語でしか話さない学校では生徒達が暴れ、教師がケセン語で叱る学校では昔ながらの温かい師弟の関係が麗しく保たれていたといいます。「君は馬鹿だね」と冷たく言われれば頭に来ますが、「このバガガギ!」と怒鳴りつけられると、そのバガガギは頭を掻いて素直になるのでした。

僕はこの二つに共通しているものがあると思います。
それは、叱る側と叱られる側との間にある人間関係です。
田舎の親子関係や、方言で叱る先生と生徒の関係には、お互いの弱さを見せ合って甘えを許し合う関係があります。

そう、お互いが‥‥ですよ!

子が親に甘えたり、生徒が先生に甘えたりするだけでもなく、「お互い」にです。
そこには大人と子どもという上下の関係を超えた、人間に最も必要な共感が生まれる下地があります。

でも、都会のエリートの親や、標準語で叱る先生には、相手の甘えを許す余裕も、自分の弱みを見せるスキもないのかもしれません。
そして、そんな余裕もスキもない思考回路が作り上げてしまったものが「アダルト・チルドレン」なんです。

アダルト・チルドレン!

それは、「錯覚の自我」が過度になり、個人主義をどこまでも突き進んでしまった現代人の脳が作り上げてしまったものです。

「錯覚の自我」が過度になり、自・他を意識し過ぎ、自分にこだわり過ぎ、自分を可愛がり過ぎるあまり、自分を余裕もスキもない思考回路で何重にも縛ってしまい、ついにはどこにも逃れられなくさせられてしまった脳が見る幻想です。

他の楽しいことに、目を向ける余裕すら持てなくなってしまった現代人の脳が見る幻想です。

自分の脳の中の、他者との共感を感じる部分の神経細胞が鈍ってしまっていて、深い孤独感に陥ってしまうところから生まれた幻想です。


もうわかりますね、僕の言いたいことが。
冒頭の「今日の一言」を思い出してください。

「分身主義は共感で世界中の人を一つに結び付けてくれる」


そうです。
「分身主義」のゴールは、世界中の人が共感でつながることです。
それは、ジグソーパズルの一つ一つのピースである我々(分身)が、自分の「全身」を完成させた瞬間です。

ジグソーパズル


その時こそ我々が、「錯覚の自我」から解放され、自然界様が教えてくれていた「本当の自分」を知った瞬間です。

共感で一つに結ばれた分身主義には、アダルト・チルドレンなんて言葉、辞書にもない単語だったんです。
アダルト・チルドレン、そんな言葉、笑い飛ばしてしまいましょう!!

だって、僕たちはみんなつながっていたんですもの。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

ところで、前回、僕の機能不全の家庭環境を例に挙げ、僕の思春期の脳が散らかり放題の部屋の中のようにメチャクチャだったのは、そのせいだったのかもしれないと書きました。

だけど、たとえ家庭がトラブルを抱えていなくても、現代の僕たちの脳は、この社会が抱えているたくさんのトラブルから無縁ではいられないはずです。

脳というのは、身体のすべての臓器とつながっています。それどころか五感を通してこの身体を取り巻く全ての環境や、あらゆる他の脳とつながっています。

まるでこのインターネットのように‥‥。

そもそも家庭環境だって、この脳を取り巻いている「五感から入ってくる外界の情報」の一つでしかなかったんですものね。


考えてみれば、家庭のトラブルは社会のトラブルの反映だし、社会のトラブルは‥‥の反映だし、‥‥は‥‥。

結局は、責任はこの宇宙に存在する全てのものにあったんです。

もう、いい加減、責任の所在を誰か一人に(アダ・チルの場合は親に)負わせて、余裕もスキも与えないような、そして自分自身にも余裕もスキも与えないような思考回路から卒業しましょう!

世界を平和にして、あなたや僕が本当の幸福になるために。



NO.32 ひとりぼっちの脳 2003.10.21

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【お山の大将で威張っていた脳も、みんなの貢物(ミツギモノ)をあてにして自分で働こうとしない無精者(ナマケモノ)だったんです】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

今日は、思考実験というものをしてみたいと思います。
科学は実験と観察の学問と言えますが、実際には実験を行なうことができない場合、自分の立てた仮説に従って論理的に考えを進めていき、結論を導き出さなければなりません。

その方法を「思考実験」と言います。

今日やる思考実験とは、脳は人体の管制塔のように偉そうにしているけど、ひとりぼっちにされたらどのような「仕事」をするか? というものです。

夢を見るのでしょうか?
誰かを憎んだり愛したりするんでしょうか?
失われた腕の痛みを感じたりできるのでしょうか?
それとも、ひとりぼっちにされて淋しくて泣き出すのでしょうか?(ただし涙は流さないことは確かですが😃)

これを実験することは不可能です。

そこで、僕の脳を取り出してちゃんと血液を送り続け、栄養(ブドウ糖)と酸素を供給し続けたとしたら、どうだろうかということを頭の中だけで考えてみることにします。

うーん、脳味噌のことを脳味噌が考えるということは、ひょっとしたら手前味噌になりかねない実験です。
そうならないように、できる限り客観的に考えてみることにします。

その前に、確認しておきたいことがあります。
僕はいろいろなところで「実体」と「幻想」という言葉を使ってきました。
「幻想」とは、人間の脳の作用によって作り出される全ての現象のことと定義します。

だから、もし、この宇宙に「人間の脳」というものが存在しなかったなら全てが「実体」でできていると言えます。
ねっ、簡単でしょう!?
「実体」の定義は「幻想」以外の全て、ということです。

脳の作用によって作り出される現象(連想、想像、感情、思考、意志‥‥など)以外は全てが「実体」と覚えればいいんです。

この宇宙の全てのものは「実体」と「幻想」に分けられます。

さて、脳のことを脳で考えるわけですが、その前に脳というのはどのような「実体」なのかを知らなければなりません。
つまり、脳の機能ではなく構造を確認しておこうということです。


人間の身体というのは、骨、筋肉、内臓、皮膚から、髪の毛、血液に至るまで全てが細胞というもので作られています。
その中の人間の脳というのは、1000数百億個の神経細胞(ニューロン)と、それを覆い尽くす、それよりずっと数の多いグリア細胞という二種類の細胞だけでできています。

主役である神経細胞は、一つの細胞体から、たくさんの短い「樹状突起(じゅじょうとっき)」と、一本の長い「軸策(じくさく)」という突起が生えています。

樹状突起


細胞体が刺激を受けると、その内外をたむろしていたナトリウムイオンやカリウムイオンが活動することで電気信号が発生し、電流となって長い軸索を一方通行で流れます。( ⇐ このメカニズムはかなり詳しく解明されています)

そして、その先端は他の神経細胞の樹状突起や細胞体につながっていて(わずかな隙間がありますが)、そこまで辿り着いた電気信号は化学物質に変身し、他の神経細胞に情報を伝達します。

僕は今、情報と書いてしまいましたが、人間がそこに何かの意味を見出そうとする(これも脳の「幻想」の仕業)ので情報と感じるだけで、神経細胞のやっていることとは刺激を受け刺激に対してしかるべき反応をしている、ただそれだけの話です。

だから脳内で行なわれていることを簡単に言うと、その中の細胞同士が、
刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応 ⇒ 刺激 ⇒ 反応‥‥
と、一方通行で延々と続けているだけ、と言えます。

その様子をグラフとして捉えたものが脳波計と言えます。
この繰り返しの中で、固定的な回路が作られ、記憶という基本的な働きが生まれてきました。

僕はこの記憶という働きこそ、「幻想」の大元だと考えています。
何故なら、ちょっと考えてみてください。
あなたに全く記憶というものがなくなったとしたらどうなるでしょうか?

過去の記憶も今の記憶もなくなったと想像してみてください。
何かを見たり聞いたり感じ取ったりすることができるでしょうか。
記憶とは、恐らく、ものを理解するための背景を作っているのです。

僕たちに記憶がなくなったら、物を「認識」したり、自分を「意識」したり、「意欲」を持って行動したりすることがまったくできず、あらゆるものが自分の前をただ通り過ぎていくだけなのではないでしょうか!?
重度の痴呆性アルツハイマーの人を考えてみてください。

そうして、この記憶という働きが元になって、その他の脳のあらゆる現象(連想、想像、感情、思考、意志‥‥など)を引き起していると言えそうです。


ところで体細胞は常に新しく作り替えられているのは知っていますよね。
「実体」の立場から言えば、今日の自分は昨日の自分ではありません。

でも、脳の細胞は二度と作り替えられないって知っていました?
脳の細胞は、胎児の時はさかんに細胞分裂を繰り返しますが、9ヶ月くらいになるとストップしてしまいます。

そして、生まれるまでの間に、その約半分は互いに連絡を取れずに消滅してしまうんです。
その後は、細胞は二度と分裂することはなく、ひたすら消滅するのみです。

ちなみに、20歳過ぎると、神経細胞は一日に10万個ずつ減っていると言われています。
恐いですね。
でも、仮に1000億個ある神経細胞が一日に10万個ずつ50年間減り続けても、まだ981億個残りますから安心してください。
‥‥って気休めですかね。💦

この、二度と作り替えられたりしない、ってことが、どうやら記憶を作り出すことに寄与しているようです。

また、このように神経細胞は、必要がなかったり使わなかったりすると消滅するという習性があります。

例えば、マウスの実験で、生まれてすぐに目に覆いをして長いこと何も見ないようにしてしまうと、視神経自体が消滅して、見える目が作られません。
つまり末梢神経からの刺激がない神経細胞は、不要なので間引かれてしまうんです。

神経細胞は赤ちゃんの時が一番多いのに、赤ちゃんの脳はわずか400グラムくらいしかありません。
それなのに、神経細胞の減っていくはずの大人の脳が、1200~1500グラムというのは、何故でしょうか?

それは、神経細胞自体は減少しても、樹状突起や軸索の先端部分の接続部(シナプス)や隙間を埋めているグリア細胞が増えるせいなのです。


さあ、それでは今日の課題をもう一度思い出してください。
「僕の脳を取り出して、ちゃんと血液を送り続け、栄養(ブドウ糖)と酸素を供給し続けたとしたら、脳はどのような仕事をするだろうか」ということです。

その結論は、「外部からの刺激が入力されない脳は、神経細胞がどんどん消滅して、しぼんでいく」と言えそうです。

夢を見たり、誰かを憎んだり愛したり、失われた腕の痛みを感じたり、ひとりぼっちにされて淋しくて泣き出すこともなく‥‥ね。


お山の大将で威張っていた脳も、みんなの貢物(ミツギモノ)、つまり脳の外部からの刺激や情報を待っているだけで、これっぽっちも自分で働こうとしない無精者(ナマケモノ)だったんです。

だけど広い心(心とは脳の働きのこと)で、彼を許してあげましょう。
彼が悪いわけじゃないんです。

外部からの刺激とは、その脳を取り巻く、この宇宙に存在する分身みんなで作っている環境のことです。
僕たちの脳は個人の持ち物でもないし、個人の意識でどうにかなるものでもなく、宇宙に存在する分身みんなで作っているものでしたよね。
(実は今日は、本当はこれが言いたかったんです)

だって、僕たちは一つの宇宙でつながっていたんですもの。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

今日書いた中で、さらりと聞き流さないでほしい部分があります。
「脳の作用によって作り出される現象(連想、想像、感情、思考、意志‥‥など)以外は全てが「実体」と覚えればいいんです」
と書きましたが、この「意志」という言葉に注目してください。

僕は、いろいろなところで、人間には意志はないと言い続けています。

それは今まで言われていた意味での「意志」はないということです。
今までは、人間には何か特別に、この自然界の営みとは独立した、自分自身で何かを成し遂げようとする「強い意志」のようなものを、自分自身の力で作り出すことができるように思われていました。

例えば、「彼は強い意志で酒を断つことに成功した」などという使われ方をします。

でも、僕たちの「意志」とは、脳の作用によって作り出される他の全ての現象と同じように、それはその脳を取り巻くあらゆるもの(脳を取り巻く環境)によって作られているだけなんです。

そして我々の行動は、取り巻く環境に作られた自分の脳内に映し出されている「意志」に動かされていただけなんです。(分身主義ではこの「映し出された意志」のことを「mirrored will」と呼ぶことにしています)


と言うことは、広島・長崎のあの原爆投下という悲惨な事件は、アメリカ人が加害者であり日本人が被害者であったと共に、加害者であるアメリカも、ある意味、その時代の環境の被害者でもあったし、日本人は被害者であったと同時に、日本人も、その時代の環境を作っていたという意味で加害者でもあったのです。

北朝鮮の日本人拉致事件では、北朝鮮が加害者であり日本人が被害者であっただけでなく、北朝鮮もその時代の環境の被害者でもあり、日本人もその時代の環境を作っていたという意味で加害者でもあったのです。

ナチスが加害者でありユダヤ人が被害者であっただけでなく、ユダヤ人が加害者でもありナチスが被害者でもあったんです。

言わば、その時代の世界中の誰もが加害者であり、世界中の誰もが被害者となって、あのような悲惨な事件は実行されてしまったんです。

つまり、その時代の環境を作っていた全ての人類が一緒になって、引き起こしてしまった惨事だったのです。

今、とても辛い言い方を心を鬼にして言わせていただいているんです。

世界中の人たちがこの、「科学が僕たちに示してくれている視点」を持てた時、初めて戦争も犯罪もなくなるからです。

この宇宙に生まれた人間という同じ被害者同士であるという理解から、仲良く助け合う気持ちが生まれます。

世界を平和にするのは、科学が示してくれている、このような視点を持つ分身主義しかないのです。
NO.7 武装解除させるための攻撃』には次のように書きました。 

戦争は、一部の人間が起こしているのではなく、ビッグバンが放ったシナリ
オです。
この宇宙は、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている素粒子たちの劇場です。
僕たちは、言ってみれば全員が自然界の犠牲者だったんです。
そのことに気づいた時、そして自らの無力さとあきらめを知った時、心細さに僕たちは肌を寄せ合って生きようとします。
一人では生きていけないという弱さを認め合った時こそ、むしろ武器の不必要な世界がやってくると僕は信じています。
何故なら、みんながみんなを弱いと知っている、これほどの安心はないからです。


今、僕のメルマガという環境が、あなたの脳内に、世界を平和にしたいという「意志(mirrored will)」を浮かび上がらせてくれていたら、いいのになと思います。



NO.33 戦争を起こさないための21番目の法則 2003.10.28

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【戦争を起こす原因はこの僕にあります。どうか僕を救ってください。僕を戦争をしなくてもすむ場所へお導きください】

宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。


ピースボートって聞いたことありますか?
大型客船をチャーターして地球一周をはじめとしたクルーズを運営し、民間レベルの国際交流の船旅を続けている、非営利のNGOです。
まさに、「平和を運ぶ船」です。

1983年に発足以来、あらゆる政党、宗教団体、企業から独立した運営を続け、これまでに2万名以上の参加者と共に世界中の港を巡ってきたそうです。

そのピースボートの出航20周年を記念して集会が開かれたそうです。
その時の講演者20人の発言をまとめて『戦争を起こさないための20の法則』(ポプラ社)という本になりました。

戦争20の


その本を読んで、印象に残った言葉をいくつか取り上げます。

・「戦争は、メディアのサポート(プロパガンダと情報操作)なしには決して起こらない」(by ヤナス・バスティッチさん、サラエボ出身のフリージャーナリスト)
・「(戦争が起きる共通のパターンは)メディアによって人々に非常に大きな恐怖心が飢えつけられ、それをきっかけにして国中が巨大な被害妄想にとりつかれる」(by 同上)

・「(日本政府の難民拒絶姿勢などの)排外主義を止め、多様なものを受け入れる精神が戦争を止めるには必要だと思う。戦争を起こさないための活動は、私たちの隣人を同じ地球人として受け入れることから始まる」(by 土井香苗さん、弁護士)

・「戦争を起こさないための法則の一つは『国境を越えて人に会う』(注:人をモノとして見るところに戦争が始まるので、モノではなく人に会うことが大切)ことであり、もう一つは『国益ではなく人益のために行動する』こと」(by 吉岡達也さん、ピースボート共同代表)

・「靖国神社は、遺族の悲しみや怒りを、『戦争で親族を失ったことは名誉である』あるいは『光栄である』という感情にすり替えるための巨大な装置である」(by 高橋哲哉さん、東大哲学科教授)

・「人々は、つながることができる。遠い国、よその国の人々のことも、私たちは近くに考えることができる。想いをめぐらすことができる。その力を持っている」(by 石坂啓さん、漫画家) ⇐ 女性です。

・「これから先の戦争を止めていくには『非戦』(注:反戦ではない)の運動を続けて、『エネルギー、カネ、軍需』(に対する欲望)こういったものを無効にする社会を作っていくことが必要」(by 田中優さん、未来バンク事業組合理事長)

・「残念なことですが、平和は私たちのDNAには組み込まれているわけではありません。平和を達成するためには、国際的な平和教育のネットワークをつくって、平和のために様々な努力をしていく必要があります」(by コーラ・ワイズさん、アメリカ反核平和活動家)


確かにみなさんのおっしゃる通りだとは思いますし、みなさんはご自分の関わっている仕事に密接した具体的な解決策を提示してくださいました。

でも、20人の方みんなに共通する弱点が見られます。

「戦争を起こさないために我々は何をしたらいいか?」などという大きなテーマを与えられると、大体の人は、自分の外側にばかり目が向いてしまい、自分の内側に目が向かないという点です。

そして、外側を何らかの形に改革する必要があると説き始めます。

あるいは、みんなの心を改善する必要があると説きます。

その「みんな」の中には大抵自分は入っていなくて、少なくともそのことに気づいた自分は、もう改善された後の模範的人間だと思い込んでいます。

もう一つ、提言者に共通する特徴は、次のように考えている点です。
「戦争は何の罪もない人々を犠牲にする非人道的行為である」
そして、自分はもちろん何の罪もない側の人間であって、被害を被る側の人間であって、戦争に怒りを覚え、戦争を止めさせるように訴える善意の人間である、という立場から発言を始めます。


戦争を起こさなくするためには、戦争を起こす原因を知り、それを取り除かなければなりません。
だけど、その原因を見誤っていたのでは、いつまでたっても戦争をなくせません。

それではまるで、沼地に建てられた家が倒れそうになると、その度にどこからか木材を探してきて沼地に埋め込み、支えをすることを繰り返しているようなものです。

戦争を起こす原因を外に探しても、根本的な解決にはなりません。
戦争を起こす本当の原因は、自分の中にあるからです。

では、僕の考える戦争を起こす本当の原因を、以下の二つの意見を取り上げて述べてみたいと思います。

・「本当の敵は、個々の国家以上に自分自身の所属する国家も含め、『国益』を追い求める国家という構造そのものにある」
(by 吉岡達也さん)

これは、戦争を起こす原因を内側に探している発言といえます。
本当の敵は相手国ではなく、欲望に根差した国家という構造そのものにある、という発想は、かなり「戦争を起こす本当の原因」のすぐ側まで踏み入っていると思います。
だけど、できればその先にまで踏み込んで欲しかったと思います。

本当の敵は、自我(他者と区別した時に生まれる自分という意識)を作り出してしまう脳の構造そのものにある、ということです。

僕たち人類の脳には、どうしようもなく自我という幻想を作り出す構造があり、それが様々な欲望を生み、敵を作り、恐怖を作り、戦争を作り出す原因となっている‥‥そのことを諦めを持って知ることがまず大事です。

(*ちなみに、分身主義は、科学が導いたこの諦めを受け入れるところから始まります。それを受け入れて、自我を滅却させようという無駄な努力をするのではなく、むしろ自我を宇宙にまで広げる逆転の発想をします。
そのことにより、今まで作っていた自我が滅却されるというパラドックスが起こります)

・「メディアの役目は、『国の役に立つこと』をするのではなく、真実を伝える仕事に徹すること」
(by ヤナス・バスティッチさん)

もし本当に、メディアに真実を伝える力があるとすれば、これは合点がいく発言です。

2001年9月11日の同時多発テロ事件直後、CNNテレビを見ていた彼(ヤナス・バスティッチさん)は、コメンテーターの一人が「このような状況になったとき、メディアがすべきことは、我が国の役に立つことをすることなんだ!」と語ったのを聞いて恐ろしく感じたということです。

それはメディアが戦争を正当化し、戦争政策の道具となることだからです。
このことに気づいている彼も、「戦争を起こす本当の原因」のすぐ側まで踏み入っていると思います。
でも、僕はこの先を考えて欲しいのです。

では、どうしたらメディアが真実を伝えることができるだろうか?
そもそも、メディアに真実を伝えることなど可能であろうか?

いいですか!?
本当は、メディアが真実を伝えることができるなどと思い上がること自体、世界を平和にできない本当の理由だったんです!

僕たち人類は、そのことを諦めを持って知ることがまず大事です。
人間の脳が何かを意識したり何かを考えたりするのは、脳がある刺激に反応し、ある方向に偏っている状態です。

僕たちが中立と呼んでいるものも、右と左の中間という偏見に過ぎません。

本当の意味の中立というのは、脳が何も意識していないニュートラルな状態でしかありません。
脳が何かを意識した途端、それはもう中立ではあり得ないんです。

その意味で、メディアは「報道する人たちの偏見」を形にしているだけと言えます。
その偏見を生み出すのは、その人の脳を取り巻く環境からの情報です。
つまり、メディアの報道も自分の言動も、みんなその人の脳を取り巻く環境によってやらされているだけだと、僕たちは諦めを持って知ることが大事です。

もっと踏み込んで考えれば、戦争は、取り巻く環境の操り人形に過ぎなかった僕たち人類が、環境に操られて起こしているだけだったんです。
言い換えるならば、「僕たちはみんなが戦争の加害者であり、みんなが戦争の被害者なんです」



では、戦争を起こさないための21番目の法則を、もし僕に書かせていただけるとしたら、冒頭にこのように書かせていただこうと思います。

みなさん、ごめんなさい。僕は謝っても謝り切れないことを今しようとしています。悔やんでも悔やみ切れないことをしようとしています。この僕が「戦争を起こさない法則」なんて書けるでしょうか!?
戦争を起こしているのは、この僕なのに‥‥。みなさん、僕はどうしようもなく環境に支配されています。自分ではどうにもなりません。
この場所にいる限り、どうして僕が誰かを批判したり何かを改革しようと提案したりできるでしょうか? 
だからどうか僕を救ってください。僕を戦争をしなくてもすむ環境へお導きください。そこから始めさせてください。


僕たち人類が環境や自然界の操り人形に過ぎないことは、確かなことです。

では、環境や自然界の操り人形に過ぎない僕たち人類に、世界を平和にすることなんてできるんでしょうか!?


まずは、自分に目を向け、そして科学が解明していることを手がかりにして自分を知ることから始めることです。
戦争を起こす本当の原因を知ることが必要です。

そうすれば、自・他をくっきりと分ける「錯覚の自我」が、この環境を、あらゆるものを自分の利害(利益と損害)を秤(はかり)にかけて考え行動してしまう「個人主義的社会」にしてしまったことがわかってきます。

自・他の意識が恐怖を作り、敵を作り上げてしまっていたのです。そして自分の利益のために争い、自国の利益のために戦争をしていたことを知ります。

僕たちが戦争をしなくてもすむ場所があるとすれば、「自我」の滅却された場所しかありません。
それこそ欲望も敵も恐怖も存在しない場所です。

しかし、僕たちの脳の構造上、自我を滅却することは不可能です。
たとえ禅の高僧が死ぬほどの苦行をしたところで叶えられるはずはありません。自我を滅却するとは死ぬことを意味します。

しかしその自我が宇宙にまで拡大したらどうでしょう。

今までの「錯覚の自我」を滅却する、という奇跡が起こるのです!

その場所は、僕たちが戦争を起こす本当の原因を知らしめた、同じ科学が導いてくれていました。
科学は、この宇宙に存在するあらゆるものは、全てつながっていることを教えてくれています。
そこから生まれたのが分身主義です。

一人一人はいろいろな考えを持ち、いろいろな行動をするかもしれません。
でも、僕たちが一つであることを知った脳(土台に分身観を持った脳)は、たとえいろいろな考えを持ち、いろいろな行動をしても、それは今までとは違い、世界を平和にする考えと行動を持ったものに変化するはずです。

分身観2


土台に分身観を持った上で、いろいろな改革をして、ルールを取り決めていけば、それは今までとはどこか違う改革でありルールになります。
まさに、何かに操られるかのように、世界は平和に向けて操られていきます。

それと同時に、根底では一つにつながっている安心感は、僕たちに死の恐怖さえも乗り越えた本当の幸福をもたらしてくれます。


最後にもう一度言います。

僕たちは、科学が発見してくれた情報を上書きすることで、必ず戦争をなくすことができます。

だって、それは‥‥、
僕たちは一つだったということですもの。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

ピースボートに誰でも気軽に参加できるボランティア・スタッフには、乗船費が割引になる特典もあるそうです。
詳しくはピースボートのホームページをご覧ください。

あなたも参加されてはいかがでしょう。
持ち物は、花柄パンツに、手ぬぐいに、歯ブラシに、眼鏡に、入れ歯?に、化粧品に、帽子にピアス?に‥‥。
でも、心の土台に分身観を持っていくことを忘れないようにね。

そうして、世界中のみんなとつながっていたと実感できる旅であればいいですね。

暗い海を航行中、デッキに出てみれば、夜空の星ともつながっていたことを実感させてくれるでしょう。
その時あなたは、もはや平和そのものの中にいます。



NO.34 本物の人体標本は何も語らず 2003.11.05

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【科学とは、人間の「幻想」を使って、人間には知ることのできない「実体」の存在証明をする学問である】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

今回、徳永分身は、忙しいあなたの代わりに、なんと人間の死体の観察に行ってきました。

だけど、その恐い話を始める前に、確認しておかなければいけないことがあります。

科学が教えてくれたことは、「この宇宙は、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている素粒子たちの劇場だった」ということでしたね。

自然界の法則というのは、一言で言えば、この宇宙の方向性や性格を決定づけている一定の力です。

それは、ビッグバンという最初の一突きの加減が作り出した性格であり方向性です。

その「さじ加減」に、約140億年経った今でも振り回されているのが、我々の人生であり、今もものすごいスピードで膨張している宇宙であるわけです。

ビッグバンの最初の一突きは、その内部に存在していた素粒子という最小の部品を組み合わせて、自然界の法則というシナリオに基づいて原子を作ったり、分子を作ったり、銀河を作ったりしてきました。そして地球を作り、そこに生物を作りました。
ここまでは「実体」だけの世界です。

やがて、人間を作り、人間が言葉を持つに至って、いわゆる僕たち「人間の脳」と言われるものを作りました。
ここに来て初めて「幻想」が出現しました。

「実体」と「幻想」の言葉の意味はいいですか?
これは約束事のようにそのまま覚えてください。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質。

・幻想‥‥人間の脳の作用によって作り出される全ての現象(=意識、連想、想像、感情、思考‥‥など)。


忘れてはいけないことは、「幻想」はあくまでも「実体」に従属して生まれてきたものです。
脳という「実体」が作り出す現象が「幻想」だということです。

そうして、もっと忘れてはいけないことは、「実体」とはあくまでも人間の知覚に認知される以前の物質のことです。
人間の知覚に認知されてしまった物質は、もはや「幻想」の範疇です。


ギリシャ神話には、元々は美少女だったのに神の怒りに触れ、蛇の髪の毛を持つ怪物にされてしまったメデューサの物語があります。彼女は見るものをすべて石に変えてしまうという恐ろしい力を持っていたと言われています。

メデューサ

人間は、ある意味、一旦見てしまったものは、すべて「幻想」という石に変えてしまうのです。「人間の脳」を持ってしまった見せしめに、神様に、モノをそのままの形で見ることは絶対にできない怪物にされてしまったと言ったらわかりやすいかもしれません。😭

例えばあなたが月を見る時のことを考えてみましょう。
雲ひとつない満月の夜です。あなたの身体には、月(の表面に当たって反射している太陽)の光の粒子が降り注いでいます。

顔を上げると、あなたの目に到達した粒子が、目の神経に、ある反応を起こさせます。
その粒子は電気刺激となって後頭部の視覚野に到達し、最終的に大脳新皮質に回されて様々な過去の記憶などのフィルターを通した月を見るわけです。

決して、月そのものが目に入ってくるわけではありません。
だから、月は宇宙にたった一つしかない「実体」なのに、人間が見ている月となると、もはや「幻想」の範疇であり、同じ月でありながら人それぞれ違う月を見ているというわけです。

目で見ている月は、「幻想」で見ている月で、宇宙にたった一つしかない「実体」としての月ではありません。
逆の言い方をすれば、宇宙にたった一つしかない「実体」としての月は、人間が目をそらした時に、それでも存在している月です。

では、決して見ることができない「実体」としての月が、どうして宇宙に存在していることを証明できるんでしょうか?

それは、科学の方法論を使って「存在しているであろう」と推測することができるということなのです。

つまり、科学とは、人間の幻想を使って「実体」の存在証明をする学問なのです。

僕たち人類は、科学の方法論を使って、実際には見たこともない約140億年前のビッグバンを証明したり、実際には見えない素粒子の存在を証明したりしてきました。

僕たちが何かを理解するということは、脳の中の「幻想」というフィルターを通過させることです。


では、人間以外の動物が、月をこのような形で認識しようとするでしようか?
彼らは人間のように物を客観的に眺めることはしません。もし夜空に黄色く丸いものが浮かんでいようと、それが自分に何らかの危害を加えてきたり、興味の対象とならない限りは、彼らには見えていないのです。

僕はこのような状態の彼らのことを「自然界と地続き」と表現します。
人間だけが「自我(これが自分であると信じているところのもの)」を持ってしまい、その対象を客観的に見ることになってしまったのです。

例えば、チンパンジーが「我々はどのような生き物なんだろう?」、「どのように生きたらいいのだろう?」、「あの夜空に輝く丸いものは何者なんだろう?」などと考えたら笑っちゃいますよね。

でも、人間だけがそのように対象物を見るようになってしまったんです。


逆に言えば、そのように見てしまう脳を持った人間だから、約140億年も前のビッグバンや素粒子の存在を証明できたわけです。

ここまでのことをまとめてみます。
人間は、自分が認識したものが何なのかを理解しようとしてしまう脳を持ってしまったけれど、そのような脳を持ってしまったからこそ、今まで地続きだった自然界と対峙するようになってしまった。そしてモノそのものを「幻想」に変えてしか見ることができなくなってしまった‥‥ということです。


と言うことは‥‥、もし「人間」を理解しようとするなら、それは、「何かを理解するために "幻想" のフィルターを使って理解する人間」を、自分の「幻想」のフィルターを通して理解しようとすることに他ならないと言えます。

ややこしいのでもう一度言います。
人間とは、「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する」ものです。
その人間を理解するということは、「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する人間」のことを、自分の「幻想」のフィルターを通して理解しようとする(=その存在証明をする)ことに他ならないと言えます。

それは、もちろん「実体」としての人間を理解しているのではなく、脳内の「幻想」を通して理解された人間です。
でもその「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する人間」存在証明をすることこそ科学の役目です。

「実体」を見た瞬間に「幻想」に変えてしまう人間には、「実体」としての人間は決して知覚できないので、科学にその「幻想を持ってしまった人間」の存在を証明してもらうしかないからです。


そして(ここが大事です)、これこそが、平和を願う人類が、科学を必要とする唯一の意味だったのです!

ちょっと複雑ですが、最後まで読んでくだされば、この意味をわかっていただけると思います。



さて今回は、こわいこわ~い人間の死体の観察に行ってきました。

きっかけは、このメルマガのNO.11NO.12に友情出演してくださったcorruptmenさんからの次のようなメッセージです。

わたくし先日「人体の不思議展」なるものを見てきました。
本物の人体標本を直に触ってきました
私は「人間の死体」という禁忌に近づこうと、とても楽しみにして行きました。
ところが、会場内はカップルや家族連れで溢れかえっており歩くのもやっとでした。
たまに医学生らしき人たちがメモをとりながら勉学に励んでいました。
人体標本はカップルで見て楽しいのでしょうか?


人間や動物の遺体またはその遺体の一部の内臓などに含まれる水分と脂肪分をプラスチックなどの合成樹脂に置き換えることで、ホルマリンなどにつける方法ではなく、半永久的に常温保存できるような技術ができたというのは僕も知っていました。

実物がどのようなものか知りたければ、インターネットで、「プラストミック 画像」と画像検索すればたくさん見ることができるはずです。
(*ちょっとグロテスクなので心臓が弱い方は見ない方が無難かも)

『人体の不思議展』というのは、その標本を集めて一般に公開した展示会のようでした。

僕は、教えていただいた「人体の不思議展」のホームページにアクセスしてみました。

ホームページを覗くと、東大・京大名誉教授、日本医学会会長など、そうそうたる「人体の不思議展監修委員会」の方たち。
そして後援には、日本赤十字社、日本医学会、日本医師会、日本歯科医学会、日本歯科医師会、日本看護協会、〇〇教育委員会、などが名を連ねています。

そして次のように書いてありました。

本展は、(プラストミックという最新技術で保存した本物の人体を)一般に公開し、その人体標本を通じて「人間とは」「命とは」「からだとは」「健康とは」を来場者に実感していただき、その人体標本が「自分自身である」との共感を得ることを主旨とします。


僕はこれを読んでちょっとショックを受けました。

彼らがやっていることは、人間から「幻想」を抜いた人体標本という単なる「標本」を見せることだけなのに、そんなもので「人間」「命」「からだ」「健康」とは何か、を実感できるなどと安易に考える主催者の発想にショックを受けたんです。

でも、それだけでは終わりませんでした。
実際に展覧会を観た人の声として、次のような言葉が書かれていました。
たぶんこれは主催者側がPRで作った言葉だと思いますが‥‥。

今まで知ることのできなかった人体を見たり、触れたりすることでなぜか命の大切さを学んだ気がしました。もし自分に子供ができたらぜひ一緒にいきたいです。(21歳・女性)

あるいは、

「病気の恐さを知りました」
「煙草はやはり体に悪いことがよくわかりました」

などというのもありました。
僕は、この短絡的な発想をする人たちの言葉を見てショックが倍になりました。(その時はPRで作ったものではなく、本当にそのように感じた人がいるんだと思ってしまったからです)

corruptmenさんが言うように、家族連れで、あるいは恋人同士で、まるで『モナリザ』でも鑑賞しに行くように死体を見に出かけ、そして、帰りにレストランで美味しい肉塊をかじりながら、「命の大切さを学んだね」などと談笑したりしている、その麻痺した感覚に恐いものを感じます。

僕は、現代医学界を取り巻く、「幻想を抜いた人体から人間を理解できる」などと発想する、何かに麻痺してしまった脳の構造に恐ろしいものを感じます。もちろん死体解剖は、人間のある一面を理解できるし、医学には役立ってきました。

だけど、それは僕が言う「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する人間」の理解(あるいは存在証明)ではなく、「何も理解しなくなった人間」の理解(あるいは存在証明)に過ぎません。

それは主催者側の意図するもの、つまり『その人体標本を通じて「人間とは」「命とは」「からだとは」「健康とは」を来場者に実感していただき、その人体標本が「自分自身である」との共感を得ることを主旨とします』の何一つも実現されていないのです。

こんな憤りを感じながらも、実際に見ないことには先に進めないと思い、先日、ついに僕は、「人間の死体」を観察しに行ってきたわけです。


中国の大学の協力の下、「南京蘇芸生物保存実験工場」というところが標本を作製したということで、生前からの意思を持って献体された(との説明書きが壁に掛けられていた)のは、50人ほどの中国人の男女でした。

でも、そこに展示されていたものは、「人間の死体」なんかではありませんでした。

僕が尊敬する養老孟司さんは、「親が死んだら、庭に転がしておけ」と過激なことを言っています。腐って骨になるまでの過程を凝視する。そこに親が子に語れる人生のすべてがある。‥‥ということです。

僕にはその「人生のすべて」の意味がよくわかりませんが、彼は、人間が死ぬと、人間の身体を構成している「細胞」の中のライソソーム(酵素の分子を包んでいる粒)の膜が壊れ、その中の酵素が細胞内に溢れ出し、自らを溶かし始めると言っています。

それだけでなく、抵抗力をなくした身体は、容易に微生物(細菌)に侵食されていくそうです。
つまり、死体というのは放置しておくと、自ら溶け、そして腐っていくもののことなのです。

腐らない展示物は死体ではなく、人体の素材を使って加工したオブジェのような気さえしました。

そこにあったのは死体ではなく、腐りも溶けもしない、いわば「標本」に成り下がった(あるいは成り上がった)物体です。

医学に携わる人が勉強のために見るのは仕方ないですが、一般の人に公開するのはやっぱり見世物のように下品な行為のような気がしました。


科学は真実を伝える義務があると言われるかもしれないけれども、そこに提示されているものは「人間の真実」の姿ですらありません。

「命」「大切さ」「尊さ」「健康」などという言葉で美化していますが、本当にそんなものを実感できるのでしようか?

それはまるで、「竹を見てパンダの可愛らしさを実感してください」とでも言われているように、まったく別物に思うのですが。

もし科学が『その人体標本が自分自身である』と言うのなら、それが人間の存在証明をしているという意味です。

だけど、その科学には「幻想を抱きながら生きている人間というものは確かに存在している」という「実体」の存在証明はできていません!

彼らが存在証明しているものは「幻想を抱くことをやめた物体」の存在証明です!

人間の愚かさは、幻想の中だけで生きている自分に気づかないことです。


ところで、このメルマガは世界を平和にするための実践編です。もっともそのために『人体の不思議展』に行ってみたわけですから。

世界が平和になるには、僕たちが一つにならなければいけません。
対立や争いを避けて僕たちが一つになるためには、「幻想」を超えた「実体」の存在証明をしてくれる科学がどうしても必要です。

「実体」の存在証明は、僕たちに唯一信頼できるものがあることを教えてくれるからです。
その信頼が、僕たちの心を一つに結びつけてくれるはずだと、僕は考えるからです。

「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する人間」という「実体」の存在を証明することなら科学はできるはずです。

科学がやらなければいけないのは、そのことです!


そして、「そのような人間」の証明もできなければ、何故、人間というものが、対立や争いを起こすのかのメカニズムもわからず、それらをなくすこともできないからです。

僕たちは、「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する人間」というものがどこからきて、その「幻想」がどのように作用しているのかを知らなければいけない時がきました。
そして、そのためにこそ、科学に救いを求める時がきているのです。


「本物の人体の標本展」は、もはや人間ではなくなったものを「これこそがありのままの人間の姿だ」などと証明しているように見えますが、人間が  "生きる"  ということは、ひたすら夢を見続ける脳の「幻想」を、まるでコンビニのように24時間営業でフル稼働させることです。

だけど、それが対立や戦争を起こす原因でもあったのです。


最後にもう一度言います。
世界が平和になるには、僕たちが一つにならなければいけません。
対立や争いを避けて僕たちが一つになるためには、「幻想」を超えた「実体」の存在証明をしてくれる科学がどうしても必要です。


つまり、「人間とは何か」、「それはどのような形で存在しているのか」、ということを知るということは、「何かを理解するために「幻想」のフィルターを使って理解する人間」という「実体」の存在を証明しなければならないはずです。

幻想を持たなくなった人間」を持ち出してきても、それでは「人間」の何一つ存在証明ができてはいないじゃないですか!?

世界を平和にするためにも、このような嘘っぱちな科学を、科学であるなどと思う幻想は捨てなければいけません。

それをしている限り、世界は永遠に、科学に救ってもらうことはできません。




深夜の0時ごろ、「人体標本」は、誰もいない展示会場にひっそりと置かれているに違いありません。

誰の目にもさらされないその時こそ、「実体」のありのままの姿なのかもしれません。

「実体」のありのままの姿なんて、この「本物の人体の標本」を作製した人にさえ見ることも触れることもできません。

それが幻想というフィルターを脳内に作ってしまった人間の性(さが)なんでしょうね。

そう、本物の人体標本は何も語らないものです。
語られるのは、人体標本を見た人たちの幻想のフィルターを通して発せられる、その人の言葉です。

会場を出る直前のテーブルの上には「人体の不思議展」のチラシが置いてありました。
その裏には、東京都港区在住の松村愛さん(24歳・女性)という方の素敵な笑顔の写真がありました。
開催前に彼女に公式カタログを見てもらって、どのような印象を受けるかインタビューしてみたという内容です。

えっ、これって全部本物なんですか? スゴイ。
本物だと信じられない位クリアで、なんかオシャレ。
(中略)
私の身体の中もこうなってて、それが今動いて血が流れているかと思うと不思議だなー。もうちょっと自分の身体をいたわってあげなきゃなっ。
こんな展覧会なかなかないので絶対見に行きます。


主催者の方たちが、本物の人体標本という恐いイメージを、明るい雰囲気に変えるための工夫だということは見え見えです。
頑張っていると言えば言えないこともないですが。(笑)


「幻想」の中でしか生きられないのが人間です。
人間という「実体」を扱っていると錯覚している『人体の不思議展』の会場は、様々な「幻想」が渦巻く『不思議な幻想展』でしかなかったようです。




◆◇◆編集後記

「人間が  "生きる"  ということは、ひたすら夢を見続ける脳の「幻想」を、まるでコンビニのように24時間営業でフル稼働させることです」という言葉は、人間を定義している言葉ではありません。

つまり、脳の幻想が停止している植物人間は人間ではない、などということを言いたいのではありません。

植物人間が人間として生きているかどうかを問われても、僕は答えを保留します。それを判断するのは、僕や植物人間になった本人の幻想ではなく、それを見ている目の前の人間の幻想(感情)だからです。
尊重してあげたい幻想だからです。

科学が唯一踏み込んではいけない領域かもしれません。
でも、科学が踏み込めないからといって、科学が敗北を認めたわけではありません。今は踏み込めない、と言っておきましょう。

本当の科学は、世界中のすべての人を、いえ、宇宙中の全てのものを、そう、この自然界が産んでくれた万物を、やがては一つに結び付けてくれるものです。

まだ僕たちの方に、その心の準備ができていないだけなんです。




NO.35 切れているものを探してください 2003.11.11


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。

今日は、みなさんに「世界平和のための宿題」を出したいと思います。

「この宇宙の中で、切れているものを探してください」

これが、宿題です。
えっ! 昨日ついに自分の上司に切れて啖呵(たんか)を切ってしまった!?
ち、違います。
その切れるではありません。

えっ! 3時のおやつのケーキを三等分したですって!?
そ、そう、そのことです。(汗)

でも、ケーキはお皿を通してつながっていますよね。
もっと完璧に切れているものを探してください。
この宇宙の中で‥‥。

あなたがジャンプした時、地球と切れているって!?
でも、空気を通してつながっています。

それでは、宿題頑張ってください。

みごと、切れているものを探し出した方には、豪華ハワイ旅行をペアーでご招待いたします。
愛する方とお二人でどうぞ!

もちろん、日帰りではありません。
えっ!? 何日かって?
じゃ、じゃあ、えーっと、一週間でどうでしょう。
その代わり僕も同伴させてくださ~い。(愛想笑)

えっ!?
は、はい、ごめんなさい。
僕は成田で帰ります。

ちきしょう、お前ら切れろ!(陰の声)


それでは、またお会いできる日を楽しみにしています。




NO.36 切れているものは‥‥何? 2003.12.09

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【名前をつけるということは、この世界を細かく切り刻むことでもあるが同時に、そのモノと自分との関係をつなげていく作業でもある】

宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
こんにちは! あなたの分身、徳永真亜基です。


前回、みなさんにお出しした「世界平和のための宿題」ですが、覚えていますか?

「この宇宙の中で、切れているものを探してください」

恐らく、忙しい日常を送っていらっしゃるみなさんは、この哲学的な宿題を考察するのが面倒なので、重要ではないこととして即座に切ってしまったかもしれません。(笑)

そこには「バカの壁」が厳然として横たわっています。
「バカの壁」とは、養老孟司さんのベストセラーになっている本のタイトルです。

バカの壁


それは、「人はその時の自分に興味あることしか見聞きしない」という壁のことです。

だから、あなたが宿題に手をつけなかったと言っても、それは、あなたの脳が、たまたまその時、「切れているものを探す」ことに興味を持つような環境にいなかったからというだけの意味で、決してあなたがバカだと言っているのではありません。

勘違いしないようにお願いします。


でも、今回の僕のメルマガには興味を持ってくださると思います。

養老孟司さんと言えば、有名な解剖学者ですが、解剖は死体を切るのが仕事です。
そんな気持ちの悪いことをする彼が、大変興味深いことを言っています。

「解剖の始まりは、ものに名前をつけることである」

自分の身体の部分に「頭」とか、「腕」とか、「足」というように名前をつけると、頭や腕や足でない部分との境ができます。
また、上空から見たらどこにも境界線なんてないのに、「中国」とか、「インド」と名前をつけることで国境ができます。

だから、名前には、つながっているものを切るという性質があるわけです。

次に、人間は頭の中で考えたことを、外に実現する癖があると彼は言います。車というものが考えられたから、やがて車が作られるようになったということです。

それと同じように、人間の身体を「ことば」にしようとするところから、解剖が始まったということです。

解剖は、人間の死体を切り刻んで残酷で気持ち悪いとは思うけど、僕たちは常日頃、解剖と同じ行為をやっていたわけですね。😉


余談ですが、人間の身体を、解剖する道具でできることよりも、もっともっと切り刻んでいくとどうなるでしょうか?

それはやがて細胞になり、それも切り刻むと分子になり、それも切り刻むと原子になり、ついには素粒子になるということを現代科学は解明しています。

素粒子を発見したのは、まさにアルファベット的発想をする西洋人の功績と言えます。

どういうことか説明します。
マッチを擦(す)ると出現する赤くて熱いものを、漢字では「火」と一語で書きますが、アルファベットでは「fire」と4字で書きます。
「火」という漢字はそれ以上小さくできない単位ですが、「fire」は、f、i、
r、e、の四つに分けられます。

漢字の最小単位である「火」にはそれ自体に「火」の意味がありますが、アルファベットの f にも、i にも、r にも、e にも、「fire」の意味はありませ
ん。f、i、r、e の四つを順序よく並べると、だしぬけに「火」の意味を伴った言葉が立ち現われるわけです。

アルファベット的発想をする西洋人には、そのようなものの見方が当たり前になっているんです。

だから、アルファベットを使わない世界では、素粒子は発見できなかったに違いありません。

その証拠に、昔の中国には陰陽五行説というのがあって、世界はどんどん切り刻んでいっても、五つの元素に行き着くだけだと考えたようです。
五つの元素とは、木、火、土、金、水の五つです。

これがアルファベット的発想をする西洋人と漢字的発想をする東洋人の違いです。


さて、話を元に戻しますが、先程、「解剖の始まりは、ものに名前をつけることである」と語っている養老孟司さんの話をしましたが、彼はもう一つ興味深いことを言っています。

それは、「人間は機械を作るけれども、機械とは、実は人間の一部である」「人間は自分の延長として、特に身体の延長として機械を作る」という言葉です。

例えば、お箸は指の延長、杖は手の延長、自転車や車は足の延長‥‥。だから、「もし誰かに自分の車を蹴っ飛ばされたら、カンカンになって怒るはずである。それは、自分の足を蹴飛ばされたのと似たようなことだからである」ということです。

人間は、ものを作り出すことでどんどん自分の世界を広げていきます。
自分と外の世界とをつなげていきます。
機械ではないですが、人間の作る情報というのは脳の延長とも考えられます。(今では、もはやこの地球全部があなたの延長だと言えないでしょうか!?)

それは動物でも同じです。
ビーバーは木を切り倒してダムを作りますが、ダムは、ビーバーの一部です。
カラスは電信柱の上に作った巣を、電力会社の人が何度撤去しても同じ場所に巣を作ります。
動物の巣は、動物の身体の一部ということなんです。

それでも、なかなか僕たちは、お箸や杖や車が、自分の身体の一部とか延長であるとは思えません。

それは、自分の腕を切り取って机の上に置いておくと、自分の一部だとは思えないのと同じことで、そういう考え方に慣れていないだけだと、彼は言います。
「その証拠に、手であれば、切り取ってすぐなら、元に戻すことができる。そうすれば、また自分の一部になるのである」と言っています。

これはとても素晴らしい考え方なんです!

何故なら、常にそのようなこと(自分の手を切り取ったりくっつけたりするようなこと)をやっているのが自然界なのですが、この考え方に慣れると、自然界に存在する全ての物は、実は自分の一部だと考えることができるからです。

僕たちの身体は死ぬと解体され、その分子はリサイクルされて他の物になります。食物連鎖を通して、違う生物の身体になることもあります。
常にこのように、自分の手を切り取ったりくっつけたりするようなことをやっている自然界に存在する全ての物は、自分の延長であり自分の一部であるわけです。

このことを言い換えれば、全てが素粒子の作り出す「分身」であるということに行き着きます!


解剖という、モノを切り刻むことを生業(なりわい)としている彼が到達した境地は、むしろつながっている世界観です。

これは決して矛盾していることではありません。

「切り刻む」ということは、元々、それがつながっていたからこそできたことでした。
彼は、元々つながっていたものをバラバラにして詳細を眺め、そうしてもう一度くっつけて元の世界に戻しただけの話なんです。

このように考えていくと、名前をつけることには、養老孟司さんが言っている「ものを切る」以外に、もう一つ別の側面もあることがわかってきます。

ある人が「名前をつけるとは、その存在が自分とどんな関係を持つのかを決めて行く作業である」と言っています。
つまり、人間は身の回りにある全てのものに名前をつけることで、手当たり次第に自分につなげているとも言えるわけです。


さあ、宿題「この宇宙の中で、切れているものを探してください」の答えを言います。
「この宇宙の中で、切れているものは何一つありません」
これが答えです。

これが分身主義的世界観です。
この分身主義的世界観は、とても素晴らしい世界観です。
何故なら、

・心の病なんてなくなる
・死なんて恐くなくなる
・世界に争いなんてなくなる

というものなんです。
えっ、それって困りますか!?

医者や警察や兵器製造業者がいらなくなり、彼らが首をつらなければならなくなるからですって!?
そう考えるなら、あなたの方こそ間違っています。

本当の医者は、自分が必要でなくなる世界を夢見ているはずですよね。😉
つまり、自分たちが不要になる世界を夢見ているのが本当の医者だということです。
本当の警察は、この世から犯罪がなくなることを望んでいるはずです。😉

それに、本当の兵器製造業者という人がいるとしたらの話ですが、彼が望んでいる世界は、自分の敵を全て抹殺すること、つまり、恐怖も憎しみも消えて兵器がいらなくなった世界です。
味方ばかりの平和な世界が来て、いつの日か自分の兵器がいらなくなることを夢見ているのが、真の兵器製造業者であるはずです。😉


この世界を理解する方法はいくつもあります。
科学とは、自然界を解釈、あるいは説明しようとする一つの方法論に過ぎません。科学は、物をその要素がなくなるくらいまで、とことん切り刻む発想をする西洋人の発見した方法論に過ぎません。

僕たちは、しかし、物を切り刻む発想をする西洋人の発見した科学的方法論が、皮肉にも導いてくれることになった「つながった」世界観を、喜びを持って受け入れる時がきました。


それは、僕たちがありのままの姿に回帰したということではないでしょうか。

そう、だって僕たちは元々一つだったんですもの。 😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

名前をつけると、その行為によって、概念を共有することができます。
僕たちは「昨日、大きな熊に遭遇したよ!」と説明する時、わざわざ大きな熊を連れてくる必要もありません。

概念を共有することによって喜びを共有し、悲しみを分け合うことができます。

それはまるで、元々、僕たちが一つであったこの世界を、人間だけが切り刻んでしまったから、共感という脳を通して、昔の姿を渇望しているかのようです。脳の発達していない他の生物などは、自分と世界がどこまでも地続きですから。

でも、人間は言葉によって世界を切り刻んでも、それは頭の中だけのことで、世界は決して切り刻むことができないことを忘れないでください。

この世界は、「実体」からみても「幻想」からみても、ほんの小さな隙間もないくらいにつながっていることを実感してください。

この世界に見えている全ての物は、素粒子がくっついたり離れたりしてリサイクルを繰り返しているその過程の一時的な姿です。
その一つ一つを、分身主義では「分身」と呼びます。

僕たちは、全ての英雄を自分の分身と考え誇りに思います。
僕たちは、全ての犯罪者を自分の責任として一生懸命救い出そうとします。

世界を平和にすることは、心に分身観を持っている人しかできない、という意味をよく考えてみてくださいね。



NO.37 想念で動かす義手 2004.01.06

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【人間の想念とは、脳に発生している電気信号のことであるが、その電気信号を発生させるものは、科学では解明できない霊的な何かなのだろうか?】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
明けましておめでとうございます! 
新しい年が始まりました。今年もお付き合いください。

一年という区切りは、僕たちの分身でもある地球と太陽に関係があります。
地球分身さんが太陽分身さんの周りをちょうど一周(公転)して、また新しい一年が始まるということです。
そして、あなたの分身でもある徳永真亜基分身は、みなさんの媒体として、今年もみなさんに書かされます。
辛く?楽しい一年の幕開けです。


今年は近くの富岡八幡宮(東京・江東区)に初詣に行って、僕の脳内をきれいにしてきました。
きっと、美しい幻想(脳を取り巻く環境から入力された情報が、記憶や感情の回路をベルトコンベアーのように流れることで生み出される、意識・意志・連想・想像・思考‥‥などの現象)を見られることでしょう。

幻想や錯覚は、実際にはありもしないものを見ているのかもしれませんが、それは「そんなもの幻想に過ぎないよ」とか「錯覚だよ気にすんなよ」などというものではなくて、その人が幻想や錯覚を持ってしまった時点で確かに存在し、自分や周囲の人の人生までを変化させてしまう力を持つものでしたね。

だから、美しい幻想は、きっと、僕や周囲の人に変化をもたらしてくれることでしょう。これも科学的に説明できるんですよ。


早速ですが、前回ご紹介した、養老孟司分身さんの言葉を覚えていますか?
「人間は機械を作るけれども、機械とは、実は人間の一部である」という言葉です。

それでも、なかなか僕たちは、ナイフや杖や車が、自分の身体の一部とか延長であるとは思えません。

「それは、自分の腕を切り取って机の上に置いておくと、自分の一部だとは思えないのと同じことで、そういう考え方に慣れていないだけだ」と、彼は言いましたね。「その証拠に、手であれば、切り取ってすぐなら、元に戻すことができる。そうすれば、また自分の一部になるのである」と言っていました。

覚えていますよね!?

ところが、先日テレビで、実際に取ったり戻したりできる手を見て仰天しました。
それは、「筋電義手(きんでんぎしゅ)」(正確には筋電制御前腕義手)という名称の義手です。


人間の脳を構成している神経細胞(ニューロン)の中には、常に微弱な電気が流れています。
人間の想念(意思あるいは意志)というものも、突き詰めればこの電気(インパルス)によって引き起こされる現象のことです。

僕は以前、自分探しをしていく過程で壁にぶち当たりました。

もし人間に、今まで言われている「意思(意志)」というものがあり、それが行動を決定しているとすれば、その「意思(意志)」の正体は、いったい何なのか? という疑問が湧いてきたんです。


人間は今まで言われているような「自分の意思(意志)」で決定して行動をしているとすれば、細胞や筋肉を動かす力は、科学には解明できない何か霊的なものが関与しているということにもなります。

そのことを知るために、細胞や筋肉が動く仕組みをどうしても知りたくなったんです。そうして、いろいろな科学の本を調べていくうちに、現代科学は、僕の予想をはるかに上回る地点に到達していることを知りました。

腕力とか脚力を司っている筋肉を「骨格筋」と呼んでいます。
これは、筋線維(繊維とも表記します)という細長い細胞が多数束ねられた物です。
この筋線維はそれ自体が伸び縮みしているわけではなく、それを形成しているアクチンというタンパク質とミオシンというタンパク質からできた太さの違う線維が、注射器のピストン運動のように滑るようにして移動していたのです。

アクチンとミオシン


筋肉は、まず脳から発せられた「収縮しろ」という命令が電気的な刺激として神経を伝わり、その刺激が末端まで行くとアセチルコリンという化学物質が放出されます。

このアセチルコリンは接合部の筋線維に作用し、電位を発生させ、興奮収縮連関により筋を収縮させます。

この時の筋肉の収縮する仕組みは、以前のメルマガで書きましたので、もし時間があれば、参考に読んでみてください。(『君の筋肉を動かすのは誰?』)


ちょっと難しい説明ですが、以前のメルマガで、この辺のところを図入りで説明しています。
それでも難しかったり、面倒だったら、そういうもんだ、と思ってください。
これは、頭のいい科学者さんたちが、緻密な実験や、それこそ気の遠くなるような観察を繰り返してわかった事実で、嘘やでっちあげではないからです。

とにかく、そこには、「筋肉を動かしていた張本人は電気を帯びたカルシウムイオンである」という結論を書きました。
そのカルシウムイオンを放出させるものは脳内に発生している電気信号(インパルス)であり、この電気信号こそ想念そのものだと言えます。

これらが嘘ではなかったことを証明するかのように、現在では、脳の発するインパルス、つまり想念を利用して動かすことのできる義手が、開発されていたんです。


そこで、話を筋電義手に戻します。

自分の筋肉に「収縮しろ」という命令を発する時に発生する電気信号が、化学物質に置き換えられて筋線維に伝わり、その刺激が筋線維を興奮させる際に発生する活動電位を筋電位といいます。

筋電義手は、この時の筋電信号を、切断された腕の皮膚表面から検出して、その信号を義手に伝えて、義手内に組み込まれている電動モーターを動かし、義手の指や手首を動かすというものです。

肘から先がない人に装着する義手なんですが、それはカパッとはめるだけで、一切、神経や電流コードを用いて人体側と接続しているわけではありません。

まるで、超能力者が動かす義手です!

テレビで見た義手は、母指対向性を持たせてあり、人差し指と中指との3指によるつまみ動作、および5指による握り動作でかなりの作業をすることができました。

ただ、筋肉を収縮させる時に発生する筋電位には個人差があるので、筋電義手には、その制御信号を学習させるシステムが組み込まれています。
想念が義手を動かすわけですから、その人の想念に義手が適合していくための学習システムが必要なわけです。

腕を事故などによって失った人には「幻肢」というものが、存在しています。これは、消失した手や足の部分をまだあるかのように感じ、そこに痛みを感じたりするそうです。

このような感覚が残っている人の方が、筋電義手には有利なのは言うまでもありませんが、テレビに出ていた人は、生まれつき腕のないまだ小さな子どもでした。

でも、さすが子どもです。
少しずつ訓練によって動かせるようになっていました。

「初めのうちは嫌がっていたけど、最近は自分からつけてくれって言ったりします」
と、お母さんはおっしゃっていました。
それは、必要性を感じてきたということで、その気持ちがますます筋電義手を動かす力になるはずです。


ところで筋電義手には、皮膚の触覚、圧覚に相当するフィードバック装置も装備されています。
これは圧力センサーを義手内部に配置しておき、指が物にふれるとそれを検出し、電気パルス信号に変換し、表面電極により残存断端部などから皮膚を介し、電気刺激として脳へフィードバックするものです。

フィードバックとは、行動や反応をその結果を参考にして修正し、より適切なものにしていく仕組みのことです。

僕たちは玉子をそっと割らずにつかむことができます。
何でもないことのように思いますが、これは皮膚感覚情報をフィードバックさせつつ学習した結果なのです。

学習後はフィードフォワード制御(次に発生するであろうことを予期して対応する)を行なっていますが、常に視覚フィードバックがあるから、割らずにつかむことができるようになるわけです。

義手の感覚フィードバックは、そのほかにも大切な意味があります。
それは使用者が義手との一体感を獲得するのに、非常に役立っています。

日常動作において、僕たちは皮膚感覚をそれほど意識していません。
でも情報は絶えずフィードバックされています。
義手の場合も同じで、機械である義手から絶えず情報が送り返されていることにより、一体感が強まります。
その結果、義手の重量も実際ほど重く感じなくなるそうです。

今回は、現代科学の、僕たちの想像をはるかに超えた話題をご紹介しました。
今では、歩くロボットだけでなく、実際に両足を地面から浮かして走ることのできるロボットも作られているようです。
あらためて、僕たちが走るということが、どんなにすごいことをこなしているのかを考えさせられます。

少し前までは、「心を持つロボットは絶対に作れない」と言われていましたが、それは僕たちが心というものをまだよく知らなかったからです。
心や魂は、身体とは別のところにある特別な何かなのだと信じていたからです。

はたして、心や魂は、科学では解明できない霊的な何かなのでしょうか?

それとも、まだ科学が解明できていないものに対して、霊的という言葉を当てて、わかったような気になっていただけなのでしょうか?


次回は、いよいよ、筋電義手を動かす人間の想念(意思あるいは意志)の真相に迫ります。
要するに、脳に電気を発生させるものの正体です。

それは、今まで、「心」とか「魂」とか「意志」とか、いろいろな名前で呼ばれていたものです。
それを一緒に解明していきましょうね。

どうしてそんなことをするのかって?

それは出発点からして、科学者の好奇心とは全く違う性質のものです。

僕たちには、科学者のような余裕はありません。
僕たちは早く世界を平和にしたいんです。
僕たちは早く本当の幸福をつかみたいんです。
でも、もう焦る必要はありません。

分身主義が全てを解決してくれていますから‥‥。😉✰ネッ!


◆◇◆編集後記

今回は、筋肉を動かす時に皮膚表面から検出される筋電信号を利用して、自分の思い通りに動かす筋電義手のご紹介をしました。

もし、その電気信号を空中に飛ばす装置や、その固有の信号を解読する装置が発明されれば、それをあらゆるものに組み込むことで、自分自身は全く動かないで生活できるエスパーも夢ではありません。

そんな未来の話でなくても、便利さを追い求めた結果、身体を動かす機会の減少した現代人は、高いお金を払って自分の身体を動かしています。
スポーツジムなどがその典型です。

僕たちがエスパーになってしまったら、自分の身体を動かしたいと思った時にはお金を払う、という常識がまかり通る世の中がやって来そうです。

便利さを追い求めたのはある時代までは良かったのですが、どこかで歯止めが必要です。

世界はこれから、科学がますますその力を見せ付けてくる時代に向かっていきます。そんな中で、分身主義は科学の先回りをして歯止めをかけています。

何故なら、分身主義は、科学がこの先どんなにいろいろなものを解明していこうと、決して知り得ないことがあることを示唆しているからです。

科学者は、ある反応が「どのような働きで」起きるのかとか、「どのような原因で」起きたのかということは、限りなく解明していくことでしょう。
でも、根本的な理由「何のために」には、絶対に答えを出すことはできません。

つまり、宇宙が生まれた原因は解明できても、宇宙は「何のために」生まれたのか、人間は「何のために」存在しているのか、それには理由がないことを科学の先回りして示唆しているのが分身主義だからです。

宇宙は「何のために」生まれたのか、人間は「何のために」存在しているのか、これに明確に答えるのは、むしろ宗教のお得意の分野でした。
でも宗教は、科学を中心とした地球規模、あるいは宇宙規模の世界観の中に放り込まれている現代人にそぐわないものです。
それは、民族的、地域的規模の世界観の中で最大の効力を発揮するものでした。

科学を先回りした分身主義は、僕たちに、自然界の元では全くの無力であることや、人類は地上の生物の中で最も弱いということを示唆しています。

今までの人類は自分たちを地球上で(あるいは宇宙で)最も優れたものと自惚(うぬぼ)れ、強さ、健康、富を最上の価値において生きてきました。
自らを霊長類(万物のかしらとなる最もすぐれているもの)と呼び、しかもその最上階に置きました。

神の姿さえも自分たちの似姿に作りました。

しかし今、その価値観が限界にきています。

もうこの価値観では、幸福も平和も手に入れられない時代になります。
これからの人類は、自分たちの無力と弱さを直視する時代に入ります。
でも、逆説のようですが、その時人類は、本当の強さと、本当の健康と、本当の富を手にしたことに気づくはずです。

その時こそ、僕たちが今までどんなに願っても得られなかった平和を手にする時です。
そういう形でしか、平和は実現できないことに気づいてください。




NO.38 ビッグバンと素粒子の紡ぎ出す物語 2004.01.20

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【140億年の宇宙の歴史の中で、「幻想」はあくまでも「実体」にくっついてできてきたずっとずっと後発のものである!!】

【この宇宙は、ビッグバンの最初の一突きの力と方向性が、その時に存在していた素粒子に演じさせている劇場である】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。

前回、僕は次のように約束しました。

次回は、いよいよ、筋電義手を動かす人間の想念(意思あるいは意志)の真相に迫ります。
要するに、脳に電気を発生させるものの正体です。
それは、今まで、「心」とか「魂」とか「意志」とか、いろいろな名前で呼
ばれていたものです。
それを一緒に解明していきましょうね。


でも、それをする前に、ちょっと整理しておかなければいけないことがありました。
分身主義は、この宇宙の全てのものを「実体」と「幻想」に分けています。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質。

・幻想‥‥人間の脳の作用によって作り出される全ての現象(連想、想像、意識、意志、思考‥‥など)。

科学は「実体」を使って実験したり、「実体」の観察を繰り返すことで自然界を理解しようとします。
それに対して、例えば宗教や哲学などは、「幻想」にのみ着目して自然界を理解しようとします。

だけど、注意しておかなければいけないことは、人間の「幻想」は、人間の祖先が地球に誕生して、しかもそれから大脳新皮質が大きくなってから言葉が生まれ、やっと作られたずっとずっと後発のものだということです。

例えば、宇宙の始まりを1月1日として、現在までを一年で表すカレンダーを作るとすると、僕たちの銀河系ができ始めたのは3月初旬、地球と月ができたのは9月中旬、地球上に最初の魚が登場したのは9月19日ごろ。

そして最初の人間が登場したのは12月31日の午後10時半ごろ、ということになるそうです。
まして、宗教を生み出すような「幻想」の脳が人間に備わったのは、もう除夜の鐘の最初の一突きが始まる寸前ではないでしょうか?

人間が言葉を覚え、今のような「幻想」を持つ脳になるまでの長い長い年月、この宇宙は「実体」だけでできていました。
「幻想」は、ずっと後発のものです。
これは重要なので決して忘れないでください!!

だから「実体」を扱う科学は、人間が生まれるずっと前の様子も解明することができます。
だから「実体」を扱わない宗教には、人間が生まれる前のことは“想像”で埋め合わせるしか方法がないんです。

多くの宗教は、人間の傲慢さを諭そうとします。
でも、こう考えると人間中心の発想をする、とても傲慢なものが宗教だったわけです。

そして、多くの科学は人間の力を誇示した傲慢なものだと思われています。
でも、本当の科学は、人間中心ではなく自然界中心のとても謙虚なものだったのです。
本当は、人間に無力さを突きつけるものだったのです。


ちょっと話がそれました。
これから僕たちがやろうとしていることは、そろそろ除夜の鐘を突こうかなという時に生まれてきた「幻想」、つまり人間の脳の働きについて考えることです。
どのような働きが人間に想念(心、意思、意志など)を起こさせるのかを、筋道をたてて解明していこうとしているわけです。

筋道をたてて解明するのは、僕たち人間の脳の「幻想」の分野ですが、あくまでも「実体」に忠実に、自然界中心に考えていく気持ちで臨みます。


その前に、人間が誕生するまでのことを簡単に整理しておきます。

この宇宙が誕生した時、ビッグバンという超高温・超高密度の状態だったことは、その後の調査結果が証明していることですが、その時には今のような原子も分子も存在しませんでした。
順を追ってみていきます。

1、ビッグバンの最初は、クォークとか電子などの、いわゆる全ての物質の最小単位である素粒子しか存在しなかった。

2、宇宙が膨張し温度が下がることで、クォークが三つくっついて陽子や中性子という原子核を作るものができた。
・陽子‥‥アップクォーク2個とダウンクォーク1個
・中性子‥‥アップクォーク1個とダウンクォーク2個

3、さらに宇宙の温度が下がることで、原子核(陽子+中性子)と電子が結びついて原子ができる(宇宙誕生から約30万年後)。
しかしまだ簡単な、水素原子やヘリウム原子だけ。

4、その後、水素原子やヘリウム原子が集まって天体が作られ、その超高温・超高密度の天体の中で、核融合を繰り返しいろいろな元素(原子)が次々と作られる。

5、天体の中で鉄までの元素が作られた時点で、重力と圧力のバランスが崩れ爆発が起きる(超新星爆発)。

6、この爆発によって、鉄よりも重い元素が次々と作られる。

7、太陽や地球は、この超新星爆発の時に飛ばされていた元素が濃縮されたガスによって、今から約46億年前に作られた。

8、僕たちの地球には、このようにしてできた100種類ほどの元素(原子)が存在し、それが結びつく相手を変えることであらゆる物質を作り出している。


僕たちの骨の中のカルシウムも、血液中の鉄も、身体の組織の炭素も、微量なあらゆる元素も、全てどこかの超新星が爆発して飛んできたものだと言えます。


「素粒子」という言葉ですが、これは、「それ以上分割できない、内部に構造を持たない点状粒子」をイメージしたものです。

原子核の内部構成がわかったばかりの頃は、電子と陽子と中性子が素粒子だと考えられていました。
現在のところ、物質の素粒子は、陽子や中性子を作るクォーク、そして、レプトンと呼ばれる電子、ニュートリノ、ミューオンなどのことです。


ところで、「素粒子」が三つくっついたものを「陽子」や「中性子」と呼び、それが「電子」という素粒子とくっついたものを「原子」と呼び、それがいくつか集まったものを「分子」と呼び、それがいくつか集まったものをそれぞれの物質名で呼んでいるわけですが、それは僕たちがその一つ一つに名称を与えているだけで、簡単に考えれば、全てが素粒子によって作られているわけです。

では、素粒子がくっついていろいろな物質を作る原動力の大元は何でしょう?

それはビッグバンというビリヤードの玉の最初の一突きでしたね。
実際のビリヤードの玉は、テーブルや空気などとの強い摩擦があり、すぐに動きを止めてしまいますが、この宇宙は約140億年経った今も、その時の最初の一突きが続いていて、その過程の中で僕たち人間も生まれてきたということです。

人間がつけるあらゆる「名前」は、この宇宙という劇場で、素粒子が演じさせられているその過程で現われている形や現象に対してつけている「目印」に過ぎません。

例えば〇〇の法則などという「名前」もそうだし、物や生物につけた「名前」もそうです。
あなたの名前も僕の名前もそうです。
僕たちの体の部位の名前もそうです。

本当はこの宇宙のどこにも切れ目なんてないのに(『NO.36 切れているものは‥‥何?』参照)、僕たちが理解する必要上、切れ目を入れて、人間はその一つ一つに名前をつけたのです。

名前をつけたから、切れ目が存在してしまったと言い換えることもできそうです。

物に名前をつけない人間以外の動物には、自分とその物とを隔てている明確な切れ目(の意識)さえないはずです。あっても主に種の保存に関わる本能的な識別ではないでしょうか?


さあ、科学者たちのような明晰な頭脳や、一つのことに拘(こだわ)る根気強さや集中力や忍耐力や、たくさんの科学用語を記憶しそれを駆使する頭脳のない僕たち(一緒にしてごめんなさい)は、次のように簡単に覚えておくことにしましょう。

この宇宙は、ビッグバンの最初の一突きの力と方向性が、その時に存在していた素粒子に演じさせている劇場である。

でも、この一言で、科学が到達した真実は十分言い尽くしています。

この言葉が科学の真実である理由は、次の言葉からも証明できます。
それは、「全ての物事には原因がある」ということです。
ということは、ある物事の原因の原因の原因‥‥は、とどこまでも遡(さかのぼ)れば、ついにはビッグバンに行き着くということです。

このことからも、やっぱり「この宇宙のあらゆる物質やその現象の原因は、ビッグバンの最初の一突きにあった」と言えます。

この科学が到達した真実は、たとえこの先、クォークやレプトンを構成するもっと小さな粒子が発見されたとしても、あるいは今までの法則が修正されたとしても、覆(くつがえ)されることはありません。

これは科学の真実だからです。
「全ての物事には原因がある」という前提こそ、現在の「科学」を科学たらしめていると言い換えてもいいでしょう。

もしこの真実を覆さなければならない何かが発見されたら、その時点で、それは「科学」ではなく他の名前で呼ばれるべきものです。

ここまでの理解はいいでしょうか?


今日整理したことをよく覚えておいてください。
そこで、いよいよ次回は、あなたと一緒に、人間に想念を起こさせるものの正体を暴きます。


僕たちがこれからの未来を生きることは、難しいことでも悲観することでもありません。
元気に明るく生きていけます。
心配しないで! 信じてください!

分身主義が全てを解決してくれていますから‥‥。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

最後に、分身主義と最も関連ある「法則」を二つご紹介して終わります。
「法則」とは、ビッグバンの一突きと素粒子が紡ぎ出している物語の中で、いつも不変的に用いられる筋書きの一つ一つに、人間が名前をつけたもののことでしたね。

1、エネルギー保存の法則
2、質量保存(物質不滅)の法則

エネルギーには、位置エネルギー、運動エネルギー、電気エネルギー、熱エネルギー、光エネルギー、音エネルギーなどがありますが、これらは決して消滅することはなく、消滅したように見えても他のエネルギーに変換されているだけである、というものが「1、エネルギー保存の法則」と言われるものです。

つまり、エネルギーは常に他のエネルギーに変換されているだけで、その総和は変化の前と後で同一であるという法則です。

例を挙げると、太陽からの光エネルギーは、海水を温めて熱エネルギーに変わり、やがて雲を作り雨を降らせてダムに水をため、ダムにたまった水の位置エネルギーは、水路を落ちて運動エネルギーとなり、発電機を回して電気エネルギーに変わり、電気エネルギーは送電線などによって家庭に送られ、いろいろな電気器具で光や熱や音や運動エネルギーに変わるのを僕たちが利用しています。

さて、この不滅であるエネルギーの大元をどこまでも辿れば、やはりビッグバンの最初の一突きということになります。

「エネルギー保存の法則」とは、言い方を換えれば、ビッグバンの最初の一突きのエネルギーが消滅せずに様々に変換しているという意味です。


「2、質量保存(物質不滅)の法則」とは、物質を作る原子の組み合わせが化学変化によって変わっても、物質全体の質量は変わらない、つまり原子の数は変わらないということです。
これは、原子の循環や食物連鎖を説明することもできます。

原子の循環とは、例えばある酸素原子にAというマーキングをしておくとします。
ある人が呼吸によって酸素原子Aを取り込み二酸化炭素として吐き出しましたが、その二酸化炭素を構成していた酸素原子Aを今度は植物が取り込み、光合成によって酸素原子Aを含んだ酸素を空気中に放出し、その酸素原子Aを他の人間か動物が呼吸によって体内に取り込むというものです。

食物連鎖とは、生物が死んでも、それを構成している原子(元素)はリサイクルされるだけで、この世から永遠に消滅してしまうわけではないというものです。

生物を構成していた原子は分解され、植物や微生物の栄養となり、やがて新たな動物や人間の身体の一部となるわけです。

この「質量保存(物質不滅)の法則」は、ビッグバンの時に存在していた素粒子が作った原子は消滅することなしに、結びつく相手を変えて様々に変化しているだけであり、僕たちの身体もその過程に見せている一時的な姿であるという分身主義の根本的な考え方の裏付けでもあります。

だから、科学的に言っても僕の身体は、昔、カエルを作っていた時の原子の一部や、インドの靴職人マハティーラさんを作っていた時の原子の一部が入り込んでいるかもしれないわけです。
前世や輪廻転生は科学が証明しています。

だからもうこの辺で、非科学的な「前世占い」や「輪廻転生」を語るのは終わりにして科学的な前世や輪廻転生を語りましょう。
世界の平和と、本当の幸せをつかむために‥‥。



NO.39 想念(心)の正体(1) 2004.02.03

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【原子がある規則に則って結びつくと、分子が新たな性質を持って突如として立ち現われ、その分子がある規則に則って結びつくと、物質がまた新たな性質を持って突如として立ち現われる】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。

ネットの友人、yasurere(ヤスレレ?)さんが、このメルマガを登録したという連絡をくださいました。
途中からの参加なので、今までのおさらいをしておきます。

僕たちが自分の筋肉を動そうとする時には、「動け!」という想念(思い)が脳に発生し、それが神経の中を微弱な電流となって流れて、筋肉まで届いていることを知りました。

その事実を証明するかのように、その微弱な電流を利用して動かす義手のことを、『NO.37 想念で動かす義手』に書きました。

でも、それは実は、ある疑問を解くための入り口に過ぎませんでした。
義手や自分の筋肉を動かすものは、脳から神経を伝って送られてくる微弱な電流であることはわかりましたが、その微弱な電流を作り出す大元、つまり想念(思い)は一体どこから来るのか? という疑問です。


その手始めとして、前回は、宇宙が誕生してから今までを一年のカレンダーに縮小して眺めてみました。

それによると、この宇宙はビッグバンというビリヤードの最初の玉の一突きの力と方向性が、その時に存在していた素粒子に演じさせている劇場だったということでした。

そうして、僕たちの脳が作り出す現象、つまり意識、連想、想像、感情、思考‥‥など(これらを一まとめにして「幻想」と呼ぶことにします)は、一年も終わりに近づいてそろそろ除夜の鐘をつこうとしている頃に生まれてきた、ずっとずっと最近の出来事だったということでしたね。
( 『NO.38 ビッグバンと素粒子の紡ぎ出す物語』)

yasurereさん、ここまではいいでしょうか?
もう一度、上の二つを読んでから次に進んでください。


現代科学では、この宇宙を支配している力を四つにまで絞っています。
強い順に書きます。

4つの力

強い力(クォーク同士を結びつけて陽子や中性子を作ったり、それをまとめて原子核を作ったりする)
電磁気力(電子と原子核を結び付けて原子を作ったり、原子同士を結びつけて分子を作る)
弱い力(原子核の崩壊などの粒子の変化に働く)
重力(全ての物質に引力として働く)


でも、これらは同じ力が、違う状況下において変化して現われているだけの力かもしれません。
もしかしたら、この宇宙を支配している力は、最終的には一つの力として統一されて理解される日が来そうな予感がしていますし、その期待に光がさし始めています。
世界中の物理学者が、今、目指していることでもあります。


さて、クォーク同士を結びつけて陽子や中性子を作っている力は、宇宙の中で最も強力な「強い力」ですから、まず離れることはありません。
陽子や中性子をもっと小さな構成要素である素粒子に分解するには、3兆度という高温が必要になります。

宇宙がそのような温度だったのは、ビッグバンから1万分の1秒後のことです。
つまり、クォークという素粒子を見ようと思ったら、ビッグバンの最初の一突きの瞬間にちょっとでも瞬(まばた)きをしてしまったら見逃してしまうほどです。

最も、目を凝らしていても肉眼ではとても見えませんが。💦

だから大まかに言えば、この宇宙では、素粒子が作る一つ上の階層の原子レベルや、もう一つ上の階層の分子レベルでのリサイクルを繰り返していることになります。

原子がそのくっつく相手を取り替えると、いろいろな違った性質のものが生まれてきます。それを僕たち人間が、わかりやすくするために便宜上いろいろな分子名や物質名で呼んでいます。

ですが、全ての大元の素材は素粒子であることを忘れてしまってはいけませんよ。
何事も基本を見失ってしまってはいけません。

「この宇宙は、ビッグバンという最初の一突きが、素粒子に演じさせている劇場である」と僕が言う場合に、「素粒子」という言葉を使って、「原子」や「分子」という言葉を使わないのは、大元である素粒子の存在を忘れないでいたいためなんです。


さて、この宇宙に存在する原子は、100種類ほどです。
そのたった100種類ほどの原子が、組み合わせを変えるだけで、これほどまでに多様な物質が多様な性質を携えて生まれているわけです。
そして多様なドラマを生んでいます。

yasurereさんが、ある人に恋をするのも、ビッグバンと素粒子の仕業だったんです。
どうして、そんなことが起こり得るのですかって?

これは、100種類ほどの原子を、レゴという玩具に置き換えてみればわかりやすいです。

レゴというおもちゃ、知っていますか?
赤、黄、緑、青などの鮮やかな原色をしたプラスチックの小さなブロックで、直方体や三角柱や円柱形など汎用性のある形をしています。
その表面につけられた凹凸によって、任意の他のブロックと組み合わせることができるようになっています。

レゴ


そのようにして組み立てることで、思い思いのものを作って遊ぶものです。
僕はアメリカが発祥の地だと思っていましたが、調べたところ1950年頃に
デンマークで売り出されたもののようです。

今では世界中の子どもたちに愛用されていて、もちろん日本でも相当ポピュラーな存在です。
デパートでも街のおもちゃ屋さんでも普通に売っている‥‥はずです。

さて、レゴの一つ一つのブロックが原子だとします。
それを組み合わせ、組み立てて「風車」を作るとします。
そうすると、そこに今までなかった「風を受けて回転する」という性質の物質が突如として立ち現われるわけです。
これが、僕たちの住むこの自然界の特徴であるようです。

原子がある規則に則って結びつくと、分子が新たな性質を持って突如として立ち現われ、その分子がある規則に則って結びつくと、物質がまた新たな性質を持って突如として立ち現われる‥‥ということです。
そういうものなんです。

だから、そうしてできてきた人間という物質が、誰かに恋をする、という性質を持って立ち現われたとしても、特別不思議がることも理解に苦しむということもありません。

ちなみに、「ある規則」というのは、それはビッグバンの一突きの時に決定された、方向性を持った力のことです。
僕たち人間はその一つ一つを発見しては、〇〇の法則などと名前を付けたりしています。


約46億年前に誕生した原始地球の海を想像してみてください。
そこには、遠くの超新星爆発によって飛ばされてきた様々な原子が溶け込んでいます。
水素や炭素や窒素や酸素ももちろん。

・4個の水素と、5個の炭素と、5個の窒素がある規則に則ってくっつくと、アデニンという分子ができます。

・4個の水素と、5個の炭素と、5個の窒素、それと1個の酸素がある規則に則ってくっつくと、グアニンという分子ができます。

・4個の水素と、4個の炭素と、3個の窒素、それと1個の酸素がある規則に則ってくっつくと、シトシンという分子ができます。

・5個の水素と、5個の炭素と、2個の窒素、それと2個の酸素がある規則に則ってくっつくと、チミンという分子ができます。


アデニン、グアニン、シトシン、チミン‥‥、どこかで聞いたことがありませんか?

そう、このアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という塩基性の分子が、リン酸と糖でできた鎖にくっついて、ある規則に則って組み立てられると、そこにDNAという名前で呼ばれている分子のかたまりが生まれてきます。

遺伝子


そこに、今までになかった新たな性質、「タンパク質を作る」や「自己複製をする」という性質が突如として立ち現われるわけです。

このDNAは、僕たちの体を作っている細胞一つ一つの中の「核」と言われる部分に収められています。

さて、みなさんは自分の体を作っているあらゆるもの、脳、筋肉、内臓、皮膚、骨、血管、血液‥‥、が全て細胞という単位で構成されていることは知っていますね。

でも、脳は脳の細胞、筋肉は筋肉の細胞、胃は胃の細胞、腸は腸の細胞、とみんな違う形や働きをしています。

中でも想念を作り出す脳の細胞は、他の場所の細胞とずいぶんと違った形と性質を持っています。
その違った性質をこれから調べることで、想念がどこからやってくるのかわかるはずです。

前回僕は次のようにお約束しました。
「そこで、いよいよ次回は、あなたと一緒に、人間に想念を起こさせるものの正体を暴きます」

でも、どうやらその前に、細胞の特性を知っておく必要が生じました。

僕たちはどんな人間も例外なく、元は一つの受精卵でした。
一つの受精卵という細胞が、2個になり、4個になり、8個になり、16個になり‥‥、

と細胞分裂を繰り返し、約60兆個になったところで、このような立派な?体になったわけです。
たった一つの受精卵という細胞が、細胞分裂を繰り返す過程で、男性なら精子という細胞が、女性なら卵子という細胞ができて、それが受精によってまた受精卵を作ります。

その受精卵は細胞分裂を繰り返し、また立派な体を作り、精子か卵子を作ります。
それがまた受精によって受精卵ができ‥‥と、どこまでも繰り返します。

細胞の元をたどると、受精卵から受精卵へどんどんつながって遡(さかのぼ)ることになります。
細胞は細胞からしか生まれません。

この当たり前のことをドイツの病理学者ウィルヒョウさんは、1855年に「全ての細胞は細胞から生じる」と発表しました。
でも、これはとてもすごい言葉だったんです。

次回はその意味と、この「細胞」のことを詳しくわかりやすく書くつもりです。


ごめんなさい。ちょっとした苦労を増やしてしまいましたね。
人間に想念を起こさせるものの正体を暴くのは、ちょっと先送りになりました。

だけど、みなさんは、小・中・高・大学と16年間、苦労に苦労を重ねます。
それも、将来、より良い生活をして幸福になりたいためです。
より良い生活とは、収入や世間体などと関係があると思い込んでいるからです。

そのために、朝から晩まで勉強勉強で、時には、家族そろって楽しむための何かを犠牲にしたり、大切な友達を何人かなくしたり、誰かの思いやりの心を無にしてしまったり、自分の熱中できそうな遊びを犠牲にしたり‥‥しなければなりません。

その16年間の苦労と比べたら、僕のメルマガを読むことなんて、何千万分の
1の苦労でしかありません。
でも、何千万倍の苦労をして生きて来た(あるいは生きている)あなたは、本当に今、幸せだと言い切れますか。
将来に何の不安もないと断言できますか?

yasurereさん、せっかく登録してくださったからには、何千万分の1の苦労でしかない僕のメルマガにしばらくお付き合いください。
でも、その先には今まで知らなかった何千万倍もの幸せが待っていますから。
お約束します。

分身主義が全てを解決してくれていますから‥‥。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

今、僕の視線の先は、宇宙に向いています。
この地球に生きる全人類に向いています。
冒頭で挨拶させていただいているように、いつも僕は、宇宙に存在する全ての物質に語りかけています。

でも今日は、初めて登録してくださった方のために書きました。

分身主義にたどり着いた人間にとっては、宇宙の星々に語りかけるのも、63億人に語りかけるのも、たった一人に語りかけるのも同じ重さをもったものだからです。

また、宇宙や全人類に向けている僕の視線の先は、僕自身に向けられていることとも同じことだったんです。

yasurereさん、あなたは、地球の総人口63億人を構成する中のたった1人に
は違いありませんが、同時にその全体なんです。

あなたが63億の顔を持ってこの地球に存在しているんです。
それどころか、あなたはこの宇宙全体だったんです。
あなたは僕であり、僕はあなたであり、あなたや僕は宇宙全体です。

これが分身主義です。
分身主義を少しわかっていただけましたか?
でも、分身主義は、屁理屈でもつじつま合わせでもこじつけでもありません。
分身主義は僕たちがお世話になっている現代科学を、整理したものに過ぎないんです。

科学は、たくさんの専門分野に分けられて研究されているので、科学者たち自身だってとても全体像を捉える余裕など持てません。
科学者たちこそ、視野が狭くなってしまうとも言えます。

科学という学問の本当の目的が「人類の幸福のため」という大前提から発していたことさえも、忘れてしまっています。
現代科学の全体像を、「人類の幸福のため」という初心を忘れない心で、俯瞰(ふかん)して眺めてみると、そこには素晴らしい世界が見えていました。

それをこれから段階を踏んで説明していきます。

分身主義は、「ふ~ん、世の中いろいろな人がいるから、そういう考え方をする人がいてもアリかもね」とか、「まあ、そういう考え方も世界を平和にするためには役立つかもしれないね。自分には関係ないけど」とか傍観者的に語られるべきものではないんです。

これは、科学が導いてくれた揺るぎない唯一の真実なんです!!

これから先を科学と共に生きるあなたが、どうしても避けて通れない、あなた自身に深く関わっている問題なんです!!

だって、テレビや電子レンジやパソコンや携帯を使いこなしているあなたじゃないですか!?
これからも、ますます現代科学のお世話になっていこうとしているあなたじゃないですか!?

それどころか、人間の傲慢さが科学を扱うことで、僕たちに新たなとても深刻な心の危機を作ってしまいました。
それは僕たちの行動にも、気づかないところで暗い影を落としています。

どうして、その現実を見つめようとしないで幸せになることができるでしょうか!?
その現実に目をつむり、自分(たち)だけの幸せに逃げ込んでも、それは一時(いっとき)の悲しい慰めでしかありません!!



NO.40 想念(心)の正体(2) 2004.02.17

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【僕たちは卵細胞というバトンを介して、延々と過去につながっていました。そしてついには、ビッグバンにつながっていくのです】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。


前回、ドイツの病理学者ウィルヒョウさんの「全ての細胞は細胞から生じる」という言葉をご紹介しました。
今回は、その細胞について勉強しなければならなくなりました。

勉強とはこのように必要性に迫られてするものです。
社会人になって苦しい勉強から解放されて何年もしてから、僕はそのように必要に迫られて猛烈に勉強を始めました。

えっ!? 誰でも必要性があるから学校で勉強する、ですって!?

そりゃあまあ、そうですが、もっと究極的な「何とか今の精神的な苦しみから抜け出したい!」とか、「そのことを知らなければ苦しくて夜も眠れない」とか、「幸福に生きるためにはどうしたらいいか?」とかいう切実な気持ちから、するものです。

有名大学に入り、いい会社に就職することも幸福に生きるための条件だって!?
あのねえ、それはむしろ不幸の条件だったんですよ。

じゃあ、受験のための勉強をやめたり、受験制度を廃止すればいいだろう、って!?
それはあまり現実的な考え方ではありません。

僕やあなたがここでそんな戯言(たわごと)を言っていても、実現的には不可能ですから。


でも、回り道のようだけど、実はそれを可能にする最短距離があります。
それをこれから少々時間をかけて勉強していきます。
そのために、細胞のことを知る必要があるんです。
早速本題に入ります。


僕たちの身体は、元々は受精卵という1個の細胞でした。
それが2個、4個、8個、16個、‥‥と細胞分裂を繰り返して約3兆個の細
胞となってオギャーと生まれてきます。
体重1キロは細胞約1兆個という計算です。
成人の細胞は約60兆個と言われていますが、それは体重60キロが平均だという計算なんでしょうね。

でも実際の体重には、肺の中の空気や消化管の中の食物や細胞ではない部分も含まれているので、それほど正確なものではありません。(まあ、アバウトと言えばアバウトですが、こんなもの誰も数えられません)

ちなみに、僕たちが脂肪の摂り過ぎで太るのは、細胞の数が増えるのではなく脂肪細胞の大きさが変わるのです。
脂肪細胞の数が増えるのは、幼少期からせいぜい成長期までだと言われています。


たった1個の細胞が60兆個になるなんて、気が遠くなりそうですが、そうで
もありませんよ。

例えば60兆個に分裂するためには、何回分裂すればいいのか計算してみまし
た。

画像21

たった、47回分裂するだけで、もう70兆個を超えてしまうんです。

もちろんこれは計算上の話で、実際の細胞分裂の様子はまったく違います。
たった1個の卵細胞が分裂していく過程で、ある細胞は脳の神経細胞や心臓や手足の筋肉細胞になります。
これらは、生まれる前に分裂が終了し、生後は減少し続けるだけの細胞です。

また、ある細胞は胃や肝臓や肺などの臓器の細胞になります。
これらは50~70回ほどの分裂で分裂能力を失い、分裂できなくなった細胞は、老化細胞となって、やがて寿命になるわけです。

また、ある細胞は、血液(造血幹細胞)や粘膜上皮の細胞になります。
常に消耗と再生を繰り返している細胞で、これらも分裂回数に限りはありますが、ある程度高齢になっても分裂して不足分を補うことができます。

細胞分裂とは、あらかじめDNAが自分の複製をもう一つ作った上で二つに分裂するので、全く同じDNAを持った細胞が二つできるということです。
その分裂回数に制限があるのは、DNAの先端にテロメアという部分があって、それが分裂するたびに少しずつ短くなっているからです。
テロメアとは分裂の回数券のようなものです。

テロメア


テロメアは全ての細胞の中のDNAの先端にあります。
と言うことは、生物は生きることと同時に死ぬこともプログラムされていたということです。
でも、人間の身体の中でたった一つだけ無限の分裂能力を持つ細胞があります。

えっ? 癌細胞ですって?
ああ、愛すべき「がんちゃん」のことを忘れていました。(NO.20「僕が癌になりたいわけ」参照)

でも、今はそのことではなく、「生殖細胞(卵子や精子を作る元となる細胞)」です。
これらは消費したテロメアを再生する能力が備わっていて、親が何歳であっても生まれてくる子どもの細胞の中の、テロメアという名の回数券は新品から始められます。


僕たちの体から、例えば皮膚の細胞を一つ取って、それに栄養分を与えていると何時間か経つと分裂を始めます。
と言うことは、栄養分が何らかの形で細胞を満杯にして「うーん、これじゃあキュウクツだよ~」という状態にしているということです。

それが引き金となって、細胞はM期、G1期、S期、G2期という周期で分裂をします。

分裂するプロセスはかなり詳しくわかっています。
分裂する前に、あらかじめDNAは2倍の数になって、その後、細胞の端と端
を押し広げるような力が働いて、風船の真ん中を糸で縛るようなくびれができて、二つにちょん切れます。

そして全く同じDNAを持った細胞がもう一つできます。
そのギューっと押し広げるような力は、筋肉を構成しているアクチンとミオシンというタンパク質の力だということまでわかっています。

わからないのは、細胞が「うーん、これじゃあキュウクツだよ~」って歎く?理由です。
でも、そのことに理由なんて、ありません。

あるのは、様々な原子が細胞という形に組み立てられた時に、新たにそのような力学的な力が立ち現われたという事実だけです。
そんな力を作り出す方向性が、ビッグバンの一突きの中に含まれていたということです。

それは、前回取り上げたこの宇宙を支配している四つの力(強い力、電磁気力、弱い力、重力)などと関係があるのでしょうね。

細胞が分裂する様子は、このように今ではかなり詳しくわかっています。
ここでは省略しますが、インターネットでも調べられますので、興味をもたれた方は参照して下さい。

たった1個の細胞が分裂を繰り返していく過程で、ある細胞は脳の細胞になり、ある細胞は胃の細胞になり、ある細胞は筋肉の細胞になる、などということはとても不思議なことです。

それを知るにはDNAと遺伝子の関係を知らなければなりません。

DNAが塩基性の4つの分子、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)でできていることは前回のメルマガに書きました。

このアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)が、
「GAATACGACGTACC‥‥」と延々と約30億対つながっているのがDNAの構造です。

それが3つで一つのアミノ酸を作るための暗号になっています。
例えば、初めの「GAA」ではグルタミン酸というアミノ酸を作れという暗号です。(注:正確に言えば、DNAの暗号を解読してアミノ酸を作るためにはRNAの仲介が必要です)

ちなみに、地球上の現存の生物は、植物から微生物まで、すべて同じ暗号を用いているということです。
このことは、僕たちの祖先は元をたどればみな同じと理解することもできますよね。なんか分身主義的な視点に行きつきますね。


ところで、アミノ酸がたくさん集まったものをタンパク質と呼びます。

たった4つの塩基の組み合わせによって、20種類のアミノ酸が生まれ、20種類のアミノ酸が様々な順序でつながり僕たちの身体を構成する10万種類ものタンパク質ができるわけです。

(豆知識:現在300種類ほどのアミノ酸が発見されていますが、その中で人間のからだのタンパク質を構成しているのは20種類。人間の体内で作ること
ができる11種類の「非必須アミノ酸」と、体内では合成できない9種類の
「必須アミノ酸」に分けられます)

タンパク質とは、細胞にいろいろな栄養素を取り入れたり、さらにはそれらを材料にして細胞の中で必要なものを作り、その細胞の形と機能を維持していくために大切なものです。
簡単に言えば、タンパク質こそ全ての生命活動を支えているものだと言えます。

さて、この「GAATACGACGTACC‥‥」と延々とつながってできているDNAの中に、実は、遺伝情報が書き込まれた部分は、わずか5パーセントに過ぎないんです。

つまり、DNAの中には遺伝情報ではない、遺伝子と呼ぶべきではない部分が95パーセントもあります。
だから、本当は、その5パーセントの部分だけを「遺伝子」と僕たちは呼んでいるんです。

そうしてこのわずか5パーセントに過ぎない部分も、5パーセント全てが発現されるわけではなく、その置かれた環境にふさわしい部分の暗号だけが用いられ、ある細胞は脳の細胞になり、ある細胞は胃の細胞になり、ある細胞は筋肉の細胞になると考えられます。

一人の人のDNAの中の設計図(遺伝情報)は、脳でも胃でも筋肉でもみんな同じはずですが、どうやらその置かれた環境によってその中の必要な部分だけが読み取られるようです。

有名なクローン羊「ドリー分身君」の話、知っていますか?

クローン羊


あの子は、精子ではなく普通の体細胞から取り出した核(DNAを収めているもの)を、あらかじめ核を壊しておいた卵細胞に注入して生まれたものです。

つまり、生殖細胞とは全く違った形や機能に分化した細胞のDNAも、完全な1固体を作るための全遺伝情報を持っていたということの証明です。

これはつまり、一人の人のDNAはどれも同じ情報が書き込まれているが、その置かれた環境によってその中の必要な部分だけが読み取られる、ということの証明でもあります。

何がその置かれた環境を認知させているのか、ということを調べることはとても興味がありますが、専門家にお任せして僕たちは先に進みましょう。
(とりあえず、宇宙にはビッグバンの最初の一突きが一定の方向性を作り出していて、その力学的な力がこのような不思議な現象を引き起こしていると考えておけば間違いないでしょう。
専門家の研究することは、その一定の方向性を読み解くことにつきるわけですから。)


ここまでを整理してみます。
僕たちの身体は、元々は1個の受精卵でした。
それが自分と同じものを作る作業を繰り返していく過程で、その置かれた環境によってある細胞は脳になりある細胞は胃になりある細胞は筋肉になって、それが一人の人間の身体を作っているというわけでした。

1個の受精卵から分裂してできた全く同じDNAを持った細胞が、その置かれた環境によって様々な現われ方をしている‥‥これを「分化」と言います。
そのイメージを、この宇宙を生んだビッグバンという小さな種(たね)に置き換えて考えてみましょう。

その宇宙の種から生まれた素粒子たちが、組み合わせを変えながら、その置かれた環境によってあるものが星になり、あるものが草になり、あるものが僕となり、あるものがあなたになり‥‥これを「分身」と言えば、分身主義のイメージがわかりますよね。

僕たち(星も草も僕もあなたも‥‥)は宇宙に存在する素粒子の組み合わせが変化して、つまり、リサイクルされて生まれている、その過程に一時的に見せている姿に過ぎないわけです。

元々は一つのものなんです。


さて、冒頭に書いたウィルヒョウさんの「全ての細胞は細胞から生じる」という言葉です。
これは、現代人の僕たちにとっては当たり前の言葉ですが、当時、生き物というのは「うじが湧く」という言葉のように、どこからか自然発生的に湧いてくるものかもしれないと思っていた人たちにとっては電撃的な言葉でした。

でも、実はよ~く考えると、僕たちにとっても電撃的な言葉だったわけです。僕たちは卵細胞というバトンを介して延々と、途切れることなく過去につながっていたということになります。
そしてついには、ビッグバンにつながっていくのです。


今日は、一つの細胞が様々に分化するということを勉強しましたが、その中の一つに脳の神経細胞があります。

脳の神経細胞は生後は分裂や増殖をせず、二十歳頃から、一日10万個程の脳細胞が死んで行くそうです。
僕はこれを知った6年程前、「これはエライこっちゃ!」とうろたえて、生きるか死ぬかの窮地に追い込まれ、あの敬愛する養老孟司分身さんに「こんなバカな話あってなるものか!?」と質問をしてしまったことがあります。

養老先生は「一日に10万ということは、年に千万単位、十年で億単位、百年で十億の単位ということです。神経細胞の総数は1千億を超えるはずですから、別にさした数ではないのではないですか。1千億円持っている人が一生の間にそれを使い切ると考えて、一日にいくら使えばいいか、計算してみなさい」と答えていただき、ホッと脳を、いや胸をなでおろしました。
バカな話は自分の方でした。

どうです。これが本当の勉強です。(笑)

ところで、脳の中で使われている神経細胞は10パーセント程度だという説も
あります。
だから、ボケない100歳老人がいるし、脳出血や脳障害で機能を失っても「リハビリ」すれば回復するのはそのためです。

さて、僕たちが今やろうとしている「想念の正体を暴く」という挑戦は、僕たちの脳を構成している神経細胞(ニューロン)の特徴を知ることでわかってきます。
これから僕たちが知ろうとしていることは、原子というブロックが組み立てられてできた神経細胞(ニューロン)が作られたことで、そこに今までになかったどのような新しい性質が立ち現われたか? ということです。

次回は、そのことを探っていきます。
世界の平和のために!
そして、僕たちの本当の心の幸福のために!


回り道をさせてしまいますが、もうしばらく我慢してお付き合いください。
あなたに損はさせません。
分身主義は全てを解決しています‥‥。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

親と子は似ているのは誰でも認めるけど、親から子に性格や容姿を受け継ぐ元になるものは、血だと思われていました。
「血のつながり」「血縁関係」「血は水よりも濃い」などと言われてきたことを思い出してください。

でも、胎児の血液は母親から分け与えられるものでなく、胎児自身が作りだすものであることが明らかになり、子が親に似る(遺伝する)のは、別の「何か」が存在するから、と推論されるようになりました。

さあ、それが今日勉強した細胞の中の、核の中の、DNAの中の、その中のたった5パーセントを占める遺伝子だったわけです。

僕たちが世界を平和にし本当の心の幸福を手にするためには、架空の話だった「血のつながり」を乗り越えて、科学的な「細胞つながり」の感覚を獲得しなければなりません。
「血のつながり」は、「家族」やせいぜい「親類縁者」で止まってしまいますが、「細胞つながり」はビッグバンや素粒子にまで広がります。

そんなの大げさだよ、ですって!?

それはあなたがまだ、科学を整理しきれていないからです。

生物学者に「生物の最小の単位は何ですか?」と質問すると、大概の方が「それは細胞です」と答えるはずです。
でも、本当の答えは「素粒子」なんです。

生物学者教授大先生は、専門に関しては膨大な知識量を誇っていますが、それがアダとなって科学を整理しきれていないからです。

僕たち専門家でない者は、むしろ科学全体を見渡し整理するチャンスに恵まれています。
ゆっくりと僕たちはそれをやっていきましょうね。



NO.41 想念(心)の正体(3) 2004.03.09

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【LTPという言葉を記憶してみてください。今、あなたの脳は、世界を平和にする脳へと、ちょっとだけ変化しました】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。


前回僕は次のように書きました。

さて、僕たちが今やろうとしている「想念の正体を暴く」という挑戦は、僕
たちの脳を構成している神経細胞(ニューロン)の特徴を知ることでわかってきます。
これから僕たちが知ろうとしていることは、原子というブロックが組み立てられて神経細胞(ニューロン)が作られたことで、そこに今までになかったどのような新しい性質が立ち現われたか? ということです。
次回は、そのことを探っていきます。
世界の平和のために!
そして、僕たちの本当の心の幸福のために!


原子というブロックが組み立てられて脳の神経細胞ができたことで、それはどのような新しい性質を持ったのでしょうか?

それは、脳の神経細胞をいくつか単体で取り出してシャーレの中で育ててみればわかります。

他の細胞と同じように、核やミトコンドリアなどもちゃんとあります。
愛情を込めてシャーレの中で培養し観察していると、やがて細胞体から、もやしのヒゲのような突起をたくさん伸ばし始めます。
たくさんの短い突起は「樹状(じゅじょう)突起」と呼ばれ、一本の細くて長い突起は「軸策(じくさく)」と呼ばれています。

後でまた出てきますので、ちょっとこの二つの名前、覚えておいてください。
神経細胞の細胞体からヒョロヒョロと出てくる突起の名前、「樹状突起」と
「軸索」です。

ついでに、樹状突起は情報の入力担当(入り口)で、軸索は出力担当(出口)と覚えておきましょう。

樹状突起



後で説明しますが、情報とは、体の中に入り込んだら、全て電気信号と化学物質に置き換えられて伝わっていきます。
情報とは、電気信号と化学物質のことなんです。


さて、顕微鏡でよく観察を続けていると、その突起の先端はアメーバーのように這いながら、つながる仲間の方へと歩を進めていきます。
神経細胞に意志はありませんから、何らかの物理・化学的な力が、そのような方向性(行動)を取らせていると言えます。

方向性をガイドする「接着分子」や「神経栄養因子」と言われるものの存在も発見されています。

まあ、難しい話はやめにして、原子というブロックで神経細胞を組み立てると、そこに今までなかった性質、「突起を触手のように働かせて、つながる仲間を探す」というような性質を持たされたのであった‥‥と言えそうです。

あなたも、原子ブロックで神経細胞を作って、シャーレの中で育ててみませんか?
 
酸素原子は1個1円。
炭素原子は10個で1円。
水素原子は‥‥。
えっ、安いですって?

とんでもない! 全部でいくつ必要だと思ってるんですか?💦
(もちろん僕には計算できませんが‥‥) 
世界一の金持ちを連れてきたって買えないほど高くつきますよ、きっと‥‥。

でも、三匹も作れば、とても綺麗なたくさんの網の目模様(神経回路)を作ります。
厳密に言えば、お互いが張り巡らすこの網の目にはほんのわずかな隙間があって、お互いの突起同士は完全に密着してはいません。
(この隙間は、後で説明しますがとても重要です)

網の目模様を作ってどうするかって?
それで終わりです。
僕たちはそれを顕微鏡で眺めて楽しむだけです。


でも、実際の脳の中の神経細胞にはその先があります。
それは何かと言うと、これが脳の中に戻されると回路となって電気のやり取りを始めるのです。
不思議ですが、そのカラクリを知ってしまうと、不思議でもなんでもありません。

実際の脳の中の神経細胞は、海の成分と同じナトリウムイオン(塩分)に浸されています。イオンというのは電荷を帯びた原子や分子のことです。
ナトリウムイオンはプラスの電荷を持っています。

通常は細胞の内側にはプラスの電荷を持ったカリウムイオンが多く存在していて、それが濃度勾配の関係(濃い方から薄い方へ流れる性質)で細胞の外に出ようとしているので、細胞の内側はマイナスの電荷を帯びています。

この状態(外がプラス、内がマイナス)を静止電位と言い、何も刺激を受けていない状態です。

情報の入力担当の樹状突起には、スパイン(とげ)と呼ばれるたくさんの小さな突起が存在します。
それが情報の入り口です。

そこは常にいろいろな情報(刺激)を受けているわけですが、その情報(刺激)によって生まれる電位の総和が、ある量を超えると細胞体は興奮するようになっています。
その興奮が、出力担当の軸索の付け根に伝わります。

ひょろ長い一本の軸索の表面には、イオンチャネルと呼ばれる小さな口が閉じられたままたくさん並んでいると考えてください。
興奮が軸索の付け根に伝わると、驚いた拍子に、付け根にある小さな口(イオンチャネル)をパッと開けてしまいます。

その1000分の1秒ほどの一瞬のスキを突いて、局部的に細胞内にナトリウムイオンが流れ込みます。
この時、その部分の細胞内外の電位差が逆転し(外がマイナス、内がプラス)、局部的に瞬時の電気の流れが起きます。

それが隣りのイオンチャネルを刺激し、そのイオンチャネルが口を開けた拍子にその部分にナトリウムイオンが入り込み、また局部的な電気の流れができ、それが刺激となって隣りのイオンチャネルを刺激し‥‥とドミノ倒しのような連鎖反応を繰り返して、軸索の先端まで電気が走ります。(電流で伝えるのではなくて、電流によって引き起こされる電位の部分的変化の連続によって伝わるのです)

軸索の先端は、またたくさんに枝分かれされていて(平均1万個)それが他の樹状突起のスパインと接続されています。
でも、お互いが張り巡らす網の目は完全に密着していないと書いたのを覚えていますか?

この接続部分をシナプスと呼んでいますが、その隙間を「シナプス間隙(かんげき)」と呼んでいます。
わずか5万分の1ミリほどの隙間ですから、昔は顕微鏡で観察しても完全に密着していると思われていました。

情報の出口である軸索の先端まで伝わった電気信号は、また次の神経細胞の情報の入り口である樹状突起に情報を伝えるにも、このわずかの隙間があるため、そこで電気信号は途絶えてしまいます。

その時、軸索の先端に詰まっていた神経伝達物質という化学物質を外に放出し、その化学物質を樹状突起の受容体がキャッチするということが起こります。

その時、瞬時に開いた受容体の小さな口を見逃さず、また外のナトリウムイオンが入り込み、細胞の内外に電位差が生じ電気が発生します。

この電気量の総和がある量を超えた時、その細胞体を興奮させ、軸索に電気の流れを作る‥‥、先程見てきたことが繰り返されるわけです。

つまり、電気信号がシナプスで化学物質に置き換えられて、それでまた電気信号に置き換えられる‥‥、という二度手間のようなことが行なわれながら、情報は流れていくのです。

細胞と細胞のバトンに使われる化学物質は神経伝達物質と呼ばれ、現在、知られているだけでも100種類ほどあります。
アドレナリン、セロトニン、ドーパミンなど、僕たちの感情や運動機能に関係する化学物質は有名です。
でも最も重要で、最も多く使われるものがアセチルコリンとグルタミン酸です。

アセチルコリンという名前、覚えていますか?
これは、この「想念(心)の正体」シリーズを執筆することになった『NO.37 想念で動かす義手』に出てきましたね。

一つの神経細胞は一種類の神経伝達物質しか作らず、それを受け取るスパインの受容体もそれぞれ担当の神経伝達物質が決まっていて、それ以外は受け付けません。
アセチルコリンは、筋肉を動かす指令を送る神経細胞たちが、バトンとして用いている化学物質です。

ところで、神経細胞と言っても、それはその形態や機能によって三つに大別されます。

・感覚神経(感覚ニューロン) 
外界および体内の環境の変化を検出し中枢神経系(脳、脊髄)に信号を送る。

・介在神経(介在ニューロン) 
中枢神経系(脳、脊髄)全域に存在し、感覚ニューロンと運動ニューロンの間に介在する。

・運動神経(運動ニューロン) 
骨格筋に情報を伝え、筋肉の収縮や腺の分泌を制御する。


ちょっとここで話を、神経細胞の入り口の入り口、つまり五感に移してみます。

五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)が受けた様々な種類の刺激は、その刺激ごとに担当する感覚細胞があって、それ以外の刺激には反応しません。
例えば、網膜には光の波長(色)にだけ反応する細胞や明暗にだけ反応する細胞などがあります。

耳には、音の高さだけに反応する細胞、音色にだけ反応する細胞。
皮膚には、軽く押された感覚、引っ張られる感覚、毛が傾く感覚、温度の感覚、のそれぞれに反応する細胞。
‥‥といった具合です。


さて、そういった情報が感覚細胞によって電気信号に置き換わり、感覚神経に受け渡され、いくつもの介在神経を経過して脳内のそれぞれの担当部署に運ばれるわけですが、その時に僕たちが光や色や音を認識(知覚)するためには、なくてはならない必要なものがあります。

それは「記憶」です。

僕たちに記憶が存在しなければ、脳は、単に刺激を細胞から細胞に受け渡す細胞たちの集合体に過ぎません。

試しに、過去の記憶も現在の記憶も、それにこれからの記憶をする能力もなくなったと想像してみてください。
あなたは何かを見たり聞いたり感じ取ったりすることができるでしょうか。
あらゆるものが自分の前をただ通り過ぎていくだけなんじゃないでしょうか。

記憶とは、恐らく、ものを理解するための背景を作っているんです。

記憶がなければ、僕たちは物事を認識(知覚)しないんです。
逆に言えば、記憶があるから僕たちは物事を認識(知覚)しているんです。

そうして、記憶こそ、想念を作り出すための工場の機械設備の役目をしていたんです。


何かを素材にして想念を作るために必要な、圧縮機や、攪拌(かくはん)機や、ベルトコンベアや袋詰などの作業をするための機械設備の役目です。

記憶と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、あなたが今使っているパソコンの記憶装置、ハードディスクです。
その中には、書き換え可能な円盤(磁気ディスク)が入っています。

磁気ディスクは、円盤状のディスクの表面に磁性体を塗布したもので、磁気ヘッドを用いて磁性体に磁気を与えることで、0と1のデータを記録します。

そして今度は、その磁気ヘッドで、高速で回転させた磁気ディスク上のデータを読み取ります。

でも、僕たちの脳の記憶に使われているものは、磁気ディスクでも磁気ヘッドでもありませんでした。
それが、先程出てきた名前、神経細胞同士をつなぐ回路を作る「シナプス」だったんです。

記憶の中枢である脳の「海馬」と言われる部分の神経細胞に、実験的に繰り返し電流を流して刺激をすると、このシナプス部が変化して伝達の効率化が起こることがわかりました。
それによって、電気の流れに固定的な方向性を持った神経回路が作られるという現象が発見されました。

これはLTP(long-term potentiation:長期増強)と呼ばれ、数時間から数週間に渡って持続し、今では、記憶を作る基本原理の一つと考えられていま
す。

電気の流れに固定的な方向性を持った回路が作られることを、記憶が定着すると言います。
そして、再び似たような刺激を受けるとその回路上に電気が流れます。
それが記憶の再生と呼ばれるものです。

例えば、バナナを食べたことのあるあなたは、バナナと言えばすぐに黄色くて長くて甘い果物を想起します。

それは、バナナを記憶しているからですが、正確に言えば、バナナを記憶しているというより、バナナに反応した興奮の痕跡が回路として残っているということなんです。
その回路上に、形や、色や、味などが分布していたということです。


ところで、「今日の一言」に気になる言葉を書きました。
LTPです。
覚えられますか?
ELT(Every Little Thing)やTDK(日本の電気機器製造会社)を覚えられるあなたでも、何の脈絡もなくLTPと言われてもなかなか覚えられないでしょう。
でも、今日のメルマガを読んでくださった方の脳内には、はっきりとLTPは記憶されたはずです。


例えば、LTPと聞けば、long-term potentiationとか、長期増強などという言葉を一緒に思い出すかもしれません。
あるいは、このメルマガを読みながら食べたケーキがとても美味しくて、そのケーキの味を一緒に思い出すかもしれません。

シャーレの中で培養した可愛い神経細胞の挿話を思い出すかもしれません。
たくさんの刺激(関連づけ)によって、LTPに関連する回路が太く大きく増強されたはずです。

この言葉を覚えたということは、「記憶」のカラクリを科学の視点で理解したということになります。
それは、僕たちの脳が世界を平和にする脳にちょっとだけ変化したことを意味します。その意味は、もうじきわかるはずです。

僕たちには原子ブロックを使って神経細胞を作り出すことはできませんが、脳内に作られた神経細胞を使って、考えや思い(想念)を作り出すことができます。

そのカラクリはどうなっているんでしょうか?
それはどこから湧いてくるのでしょうか?

五感から入力されたものに反応するだけだった脳の中に、記憶の痕跡がどんどん蓄えられて、ついには五感を自分で作り出すことができる脳が、脳の中に作られました。

つまり、いつの間にか脳の中にもう一つの脳が作られていったのです。
実は、そのことに関係があるんです。
僕たちは、想念の正体を暴くすぐ側まで来ています。


でも、想念の正体を暴くのは少し先に延ばして、次回は、もう少し踏み込んで、筋肉を動かすカラクリを探っていきます。

ここまで勉強したら、ついでに、このシリーズの発端ともなった『NO.37 想念で動かす義手』の中に出てきた筋電義手を動かすカラクリも知っちゃいましょう。

今日は三つに大別できる神経細胞の中の、感覚神経(感覚ニューロン)と介在神経(介在ニューロン)について簡単に勉強をしましたが、次回は、その先の運動神経(運動ニューロン)と筋肉の関係を勉強します。

筋肉が動くのは、カラクリを知ってしまえば、それほど不思議なことでもありません。
それを利用して筋電義手も作り出すことができる僕たち人間です。
不思議なのはその背後にあるものです。
それを今、想念と僕たちは呼んでいます。


でも大丈夫、分身主義は全てを解決しています‥‥。 😉✰ネッ!



◆◇◆編集後記

飽くなき探究心と、血のにじむような努力をしてきた人たちのおかげで、今、僕たちの科学はついにここまでやってきました。

LTPという言葉、初めて聞いた人も多いと思います。
僕たちは科学者の努力を生かしていかなければいけません。
やっぱりいくつになっても勉強は必要です。
何より勉強は楽しいです。
それに、これをすることが世界平和につながっていくんですよ。

ちゃっかり結果取りの僕たちですが、僕たちは誰もが科学者になれません。
僕たちが一人ではできないことを、僕たちに代わってやってくださっている分身さんたちに感謝です。

僕たちができないことを代わりにやってくださっている分身さんたちのために、僕たちは彼らのできないことを代わりにやってさしあげましょう。

それは、彼らの成果を世界の平和に、そして僕たちの幸福に生かすことです。


NO.42 想念(心)の正体(4) 2004.03.23

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【科学を扱うのは人間の幻想だけど、これからは、科学が導いてくれた「幻想」で、科学を扱う時代に‥‥】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。

前回は難しい名前がたくさん出てきましたね。

神経細胞(ニューロン)、樹状突起、軸索、ナトリウムイオン、カリウムイオン、スパイン、イオンチャネル、シナプス、シナプス間隙、アセチルコリン、感覚神経(感覚ニューロン)、介在神経(介在ニューロン)、運動神経(運動ニューロン)、海馬、LTP(長期増強)‥‥。

でも、僕たちの身体がどのようなカラクリで動いているかというのは、とても興味があることだし、それを知ることは楽しいことですよね。
そのためには、モノに名前を付けていかなければなりません。
名前を付けない限りは、いつまでたっても僕たちはそのモノを曖昧(あいまい)な形でしか理解することができないんです。

もちろん、名前さえ付ければそれで理解したというものでもありませんが、それをしない限り、新しく出てきた概念を把握できないんです。
車に興味がない人が車の名前を覚えられず、どの車を見ても同じように見えてしまったり、花に興味がない人が花の名前を覚えられず、どの花を見ても同じに見えてしまうようなものです。

名前を付けるということは、そのモノと他のモノとの関係を知ったり、そのモノと自分との関係を決めたりしていくことです。

つまり、そのモノに意味を与える作業をしていくことです。
名前を付けない限り、それがいつまでも漠然としたままなんです。

このメルマガの『NO.36 切れているものは‥‥何?』で、名前をつけるということはものを切り刻むことだと書きました。それは、本当はこの宇宙のものは全てつながっているのに、人間が勝手に名前をつけて(切り刻んで)いるということです。

物事の本質を理解するために必要だからです。

でも、理解するために切り刻んだものは、最後には元の形に戻さなければいけませんよ。
元の形に戻したもの‥‥それが「分身主義」なんです。
(元の形に戻したものを一つの概念として把握するために、「分身主義」という名前を付ける必要があったわけです)


人類の育てた果実』や、あるいはここまでのメルマガを読んでくださった方にはお馴染みの「実体」と「幻想」という言葉をまた持ち出します。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質。

・幻想‥‥人間の脳の作用によって作り出される全ての現象(意識、連想、想像、思考‥‥など)。

僕たちの生きているこのビッグバン宇宙を、「実体」と「幻想」に大別しました。

この宇宙内で起きている全ての現象は、「実体」と「幻想」が、何らかの刺激に対して物理・化学的な反応をしている様子であると言えます。
(刺激とは、簡単に言えば、ビッグバンの最初の一突きの力がバトンリレーのように次々と引き渡され、形を変化させながら途切れずに今も連綿と続いているもののことです)

さて、科学とは、この「実体」を観察して名前を付けていくものと言えます。
そうしないと、曖昧なままで、理解が進まないからです。

次のような名前もあります。
魂、霊、心、(観念的な意味での)宇宙‥‥、これらはどこまで名前を付けても曖昧なままです。
それは、モノの「実体」を観察することなしに、観念的に理解しようとして付けられた名前です。
このような曖昧なままを好む人もいます。

僕はかなり文系的な人間でした。
曖昧なままを好むような人間でした。
それは、物理や化学の先生が嫌いだったせいもありますが、一番の理由は、大学へ進むためにはイヤでも文系か理系かを選択させられるせいです。

そして、文系に進むことを決めてしまったら物理や化学を勉強しなくていいし、受験勉強に忙しくてそんなものを勉強している余裕もなくなってしまうからです。

そんな僕が科学を口にするようになったのは、世界平和を考えるようになってからです。
その理由をこれから書きます。

「実体」を扱うものの代表は科学です。
「幻想」を扱うものの代表は宗教です。

科学は自然界に存在している唯一無二の「実体」を扱います。
夜空を見上げると僕たちの目に飛び込んでくる月ですが、月がそのまま飛び込んでくるわけではありません。

月の表面に反射した太陽の光の粒子に視細胞が反応して、その電気信号がその人の脳内の記憶の回路を巡ることで「月」を認識しているんです。

人は、人それぞれの記憶を持っていますから、人の数だけ月は存在します。
極端に言えば、人はみんな違う月を認識しているわけです。
それが「昨夜の月はきれいだったよ」と言えば相手に通じるのは、互いの「月」のイメージが近似しているからです。

でも、夜空を見上げれば存在している月は、僕が死んでしまっても、僕が目をつぶっても、そこに確実に存在します。
そのことを今、唯一無二の「実体」と呼んだわけです。
科学は、僕たちが認識する月ではなく、僕が死んでも存在する月を扱います。

科学は自然界に存在している唯一無二の「実体」を扱うので、つまり自然界に忠実なので、自然界で確かに機能するモノを作ることが得意です。

ロケットやロボットや、生活と切り離せないたくさんのモノ‥‥電気炊飯器や、携帯電話‥‥などを作りました。

では、幻想を扱う宗教の場合はどうでしょう。
宗教は、誰も見たこともない「天国界」とか「地獄界」とか「神様」とかを想像力で作り上げることが得意です。
想像力という、いわばメルヘンの世界です。
想像で作る世界ですから、たくさんの宗教が作り上げられてしまいます。

「幻想の世界」は、唯一無二の「月」を扱うのではなくて、人の数だけ存在する「月」を扱うようなものです。

誰かの見た月、例えばお釈迦様やキリスト様の見た月を、「これが月だよ」と説明され鵜呑みにして(信仰して)いるわけです。

教祖様の数だけ宗教が生まれる理由です。

宗教は人間の幻想を扱うので、自然界で機能するロケットなんかを作ることができません。電気炊飯器や、携帯電話や、あなたの足である車や自転車なんかを作ることは決してできません。
代わりに魔女などを仕立て上げて、魔女狩りなんかできます。

僕は、世界を平和にするためには宗教でなくて科学でなければいけないなどと、頭の固いことを言っているんではないんです。
世界を平和にさえできればどちらでもかまいません。

世界を平和にするためには、一つだけ条件があります。
それは、世界中の人が、大元で一つになることです。

幻想を扱う宗教に、それができるでしょうか?
もし、この世界に氾濫するたくさんの宗教をたった一つに決めて、みんなが一つになれるなら可能です。

自分たちだけの地域で宗教を介して一つになれた時代、自分たちだけの平和を考えていられた時代にはそれが可能でしたが、地球の裏側で起こっていることが僕たちの生活に直接影響するようになった現在では、無数に存在してしまう宗教がむしろアダになってきました。

もし、宗教をたった一つに決めて、みんなが一つにまとまることができたとします。それでも、もう一つ問題が残されています。

世界中が、科学が作り出したもの、例えば車や電化製品や、医療技術や、社会のシステムなどを放棄して、メルヘン的精神世界に逆戻りする決意をしなければならないことです。

それが僕たち人類に可能なら、僕はどんなにそのことを望むでしょう。
僕の若い頃の一番の夢は、物質文明に背を向けて、アラスカの大自然の中で生きることだったからです。

でも、将来的に見ても形勢はあくまでも物質文明が有利のようです。
僕たちは電化製品を捨て去ってはもはや生きていけません。
テレビや携帯電話を手放しては、生きていけない人も増え始めています。
これからはますますロケットやロボットが作られるでしょう。


さて、「実体」を扱う科学だから自然界で機能するモノを作ることが得意ですが、その科学を扱うのは人間の「幻想」です。

そしてまさに、この「幻想」が科学を扱い、物騒な殺戮(さりつく)兵器が今もたくさん製造されています。

この現象は、僕の言っていることに矛盾があるからでしょうか?
やっぱり科学にも、世界を平和にすることなんて無理なんでしょうか?

そうではないんです。

僕たちは、科学を今までの人間中心の幻想で扱うのではなく、科学から幻想を導いてもらわなければならないんです。

科学が導いてくれた科学中心の「幻想」でもって、科学を扱わなければなりません。

人間中心の「幻想」が扱っていた今までの科学が、この宇宙をバラバラに切り刻みました。切り刻んで片っ端から名前を付けました。

ところが、そのことによってむしろモノとモノとの関係が明らかになり、つながりが明らかになりました。

そこで、科学が導いた「幻想」は僕たちを一つに結び付けることができます。
これを自然界中心の科学と言います。これこそが「本当の科学」です。
この自然界中心の「本当の科学」が導いてくれた幻想‥‥それこそが分身主義です。

科学がバラバラに切り刻んだ宇宙を、科学の解明したものを整理することでちゃんと元の形に戻したんです。

例えば、科学者は脳をどこまでも小さく切り刻んでいって、そこに出現したモノに「神経細胞」と名前を付けました。
それは、神経伝達物質という化学物質をやり取りすることで、互いにつながっていました。

脳は情報をやり取りすることで、世界中の脳とつながっていました。
地球や天体は重力子をやり取りすることでつながっていました。
このようにして宇宙は全てつながっています。

また次のようにも整理することができます。
「この宇宙は、ビッグバンの瞬間に存在していた素粒子が、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇場に過ぎない」

これは現在進行形です。

僕たち人間は、天体や花や草や、他の動物たちがそうであるように、素粒子のリサイクル品なんです。
そのように整理すれば、宇宙のモノがみんな一つになります。

そして、リサイクル品の一つであるあなたは、宇宙を構成する部分でもあり、この宇宙の全部でもあるんです。

まだまだ、科学が僕たちを一つにしてくれると考える根拠はたくさんあります。

科学は、常に自然界を師と仰ぎ、常に自然界に間違いを修正してもらいながら進む謙虚な学問だし、それを一つ一つモノを作ることで証明していく学問だから、みんなを納得させ一つにまとめることができるんです。

かなり文系的な思考パターンを持ち、精神世界で遊ぶことが好きな、物質文明を憎んでさえいた僕ですが、このようにして、科学が導いてくれた幻想だけが、みんなを一つにしてくれて、世界を平和にしてくれることを知ったんです。

そうして、世界が平和になること以外に、現代を生きる僕たちは幸せになれないことを知ったんです。


さあ、それでは本題に入ります。
ごめんなさい。ここからが今日の本題です。

今日の本題は、三つに大別される神経細胞(感覚神経・介在神経・運動神経)の中の三つ目の神経細胞である運動神経が、どのようなカラクリで筋肉を動かすかということでしたね。

例えば、あなたの目の前に美味しそうなケーキがあるとします。
視覚や嗅覚から入ってきた刺激は、電気信号となって脳にたどり着きます。
美味しいケーキを食べたことのあるあなたの脳内には、その電気信号が特に伝わりやすい経路(特定の神経回路)が増強されていて、その神経回路上に引っ掛った電気信号はその回路上を旋回します。

その回路上には味覚の記憶なども分布されています。
その回路上には唾液を出すための神経細胞も連結されていて、ゴクリとつばを飲み込みます。
そしてあなたの脳は、「ケーキを食べろ!」という指令を発します。
ここまでが前回お話したことです。

今日お話するのは、その後のことでしたね。
「ケーキを食べろ!」という指令が、運動神経(運動ニューロン)に送られ、骨格筋(腕力や脚力を司っている筋肉)に伝わります。
すると、右手が前に出てケーキをつかむわけです。

このカラクリを今日はお話するわけです。
長い前書きにお付き合いくださってありがとうございます。
まあまあ、そんなに怒らないでください。
本題は、数行で終わりますから。

「ケーキを食べろ!」という指令(興奮)が、運動神経の中を電気信号となって軸索の末端まで伝わると、そこで神経伝達物質であるアセチルコリンを放出します。

骨格筋を構成している細胞(筋線維)は、「アクチン」と「ミオシン」という細長い二つのタンパク質で、これが注射器のピストン運動のように滑り込んで収縮したり元に戻ったりしていましたね。

この骨格筋には、アセチルコリンの受容体があり、アセチルコリンを受容すると筋細胞が興奮し、筋細胞内のカルシウムイオンを蓄えている袋(筋小胞体)からカルシウムイオンが放出されます。

このカルシウムイオンが、筋細胞を構成している二つのタンパク質、「アクチン」と「ミオシン」に作用して収縮するわけです。

また、アクチンとミオシンが滑り込む(収縮する)ためにはエネルギー源としてのATPが必要です。
(ATPとはアデノシン3リン酸(Adenosine triphosphate)の略で、生物
の細胞中に必ず存在する、すべての生命活動をつかさどる重要な化学物質ですが、その説明はやめておきます)

これで終わりです。
こんなに簡単に終わっていいのか? ですって?

僕たちは、ちゃっかり結果取りですから。

それに、これ(電気信号が筋肉を動かしていること)が正しいことは、科学が作り出したモノ(筋電義手)が証明してくれています。

筋細胞(筋線維)が興奮する際に発生する活動電位を筋電位といいます。
この筋電位を利用して動かすことができるのが「筋電義手」でしたね。

想念が筋肉や筋電義手を動かすカラクリがわかりましたか?
自然界の中で機能するモノを目の前に見せつけられた僕たちは、有無をも言わず、科学の元で一つにならざるを得ませんよね。

これが「幻想」には不可能だったことです。
「幻想」を扱う宗教にはどうしてもできなかった「全人類が一つになる」ということが、科学にはできるという理由です。


大元さえ一つになれば、僕たちはどんなことをしても平和な世界を作ることができます。

たとえ作りたくなくても作れてしまいます。

それは、僕たちが戦争をしたくなくても戦争が起こってしまうのと同じ自然な成り行きで起こります。
結局は、僕たちが、戦争を無くすにはどうしたらいいかなどと話し合っているレベルでは、戦争は決してなくならないんです。

これは、とても大事なことですよ!

今ちょっと次のようなイメージをしてみてください。

たくさんの風船一つ一つにひもがついていて、そのひもが一つのところで結ばれているようなイメージです。

分身観


たとえ一つ一つの風船が風に揺れて右を向いても左を向いても、どんな宗教を信仰しようと、どんな創作活動をしようと、何をしても平和(仲良しな人間関係を作ること)になっていきます。

どうして分身主義にはそんな奇跡が起こせるのでしょうか?
もうその意味がわかっている方もいらっしゃるかと思います。
分身主義でなくては世界が平和にならない理由も。
分身主義でなくてはあなたの心が解放されず、いつまでも本当の幸せを抱きしめることができない理由も。


メルマガ『NO.37 想念で動かす義手』から始まる、僕たちの「想念の正体を暴く旅」は、最初に戻りました。

最初に戻ったところで、次回はいよいよ、「想念の正体」を暴きます。

「ケーキを食べろ!」という指令がどのようなカラクリで生まれているか、の解明です。


今回までのメルマガは、想念の正体を暴くための材料を机の上に並べたようなものです。
さあ、材料は全部出揃いましたよ。
一つ一つの材料の名前をもう一度確認しておいてください。

原子というブロックが組み立てられて神経細胞(ニューロン)が作られたこ
とで、そこに電気信号と化学物質をやり取りするという新しい性質が立ち現
われ、それが「記憶」という性質を持ってしまったという所もいいですか?

次回は、あなたの脳に爆弾を放り投げます。
科学が導いた美しい幻想‥‥分身主義の真髄を炸裂させます。
逃げないでちゃんと受けとめてくださいね。 


世界の平和とあなたの心の解放のために。 🙏




◆◇◆編集後記

人は生きているその時代のその環境によって、それぞれの世界観の中で生きています。
2000年前の人の世界観と、現代の僕たちの世界観が同じものであるはずがありません。
例えば2000年前の世界観を持つ人の中から生まれた宗教が、現代の世界観の僕たちの迷いを払って幸福にしてくれるものではなくなりました。

自分の周りを見回してみてください。

あなたの着ている洋服類、家の中に置かれている家具、雑貨、電化製品、日々の食卓に並ぶもの‥‥。
それは日本で作られ、日本で獲られているものばかりですか?

テレビをつければいろいろな国のニュース、日本もテロの恐怖にさらされています。
オゾン層の破壊や地球温暖化は、遠い国の話ではなく、自分の生死に関わることです。

学校で習わなかった人も、テレビから時たま流れる、「素粒子」「DNA」「ニューロン」「ビッグバン」「宇宙探査機」などの言葉を聞いていると思います。

現代の僕たちは、好むと好まざるとに関わらず、意識するしないに関わらず、地球的規模、いや宇宙的規模の世界観の中に組み込まれています。
これからもますます、科学に導かれるままに、その方向性に拍車がかかるでしょう。

そんな世界観の中で、もう、これまでの宗教や個人主義的思考パターンでは幸せにはなれなくなりました。

僕たちが幸せをつかむためには、今までの世界観に対応していた宗教や個人主義的思考パターンではなく、現代(科学時代)の世界観に対応したものが必要です。


それが分身主義です。


それは科学を先回りしてゆったりと眺めている安らぎの場です。
一種の信仰のように穏やかな境地です。



NO.43 想念(心)の正体(最終回) 2004.05.06

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【想念はどこから来るのかという発見は、実は、僕たちが世界や宇宙と一体になれる大発見なんです】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。

ゴールデンウィーク、どのように過ごされましたか?
このメルマガは火曜日発行ですが、今回はズラして木曜日に発行します。

『NO.37 想念で動かす義手』から始まった「想念(心)の正体」シリーズも、ついに今回が最終回になります。

一ヶ月以上もこのメルマガを発行できなかったので(その理由は編集後記に書きます)、これまでのところを忘れてしまった方も多いと思います。
できれば『NO.37 想念で動かす義手』から、読み返してみていただきたいのですが‥‥。


僕もたった今、NO.37~NO.42までを読んで、僕たちが今やろうとしていたことを再確認してみました。

脳から発信される電気信号が筋電義手を動かすことはわかりましたが、では人間の脳にその電気信号を起こさせるもの、つまり人間に想念(思い、考え)を起こさせるものはどこから来るのか、その正体を一緒に解明していきましょう、ということでした。


さて、僕の脳は、最近とても面白い現象が起きています。
突然、何の前触れもなしに、「ああ、屋台のラーメンが食べたい」とか、「うどんが食べたい」とか、「うにが食べたい」とか、「クサヤが食べたい」とか浮かんでくるんです。
「ああ、〇〇軒の餃子が食べたいなあ」と店名指定の場合もあります。

そうして、その直後、全身がとても幸せな気分に包まれるんです。
まるで、ホンジャマカの石塚分身さん(太っている方の人)が肉を頬張る時みたいな、しあわせ~な気分です。

本当は、今までもこのような現象は起こっていたし、常にこのような現象が起こっているのが人間の脳だけど、その漠然とした意識を、はっきりと「ラーメン」だとか「うに」だとか「クサヤ」だとか言葉にしていなかったから、瞬時に消えてしまい、気づかなかっただけなんです。

今は、それをはっきり言葉にすると、しあわせ~な気分に浸れることを脳が覚えてしまったので、それが癖になってしまったというのが本当のところです。

でも、なんで突然こんなことが起こったりするのでしょうか?


例えば、ちょっとバナナを思い浮かべてみてください!

この僕の言葉(=刺激)に、あなたの脳が素直に反応してくださったなら、あなたの脳の中のバナナの記憶の回路、「黄色い・細長い・甘い・やわらかい・かわいい‥‥」などの興奮の痕跡(=記憶)に電気が走り、再びその部分に同じ興奮を起こさせたはずです。
それを記憶の再生(想起)と言います。

あれっ? でも、最後の「かわいい」ってなんでしょう?
バナナを思い浮かべてくださいとお願いしたのに、今のあなたはニヤニヤしてどうしちゃったんです!?
あれっ、今あなたが思い浮かべているのは‥‥、もしかしてあなたが昔、脱腸で入院していた時にお世話になった看護婦さんじゃないですか?
バ、バナナはどこへ行っちゃったんですか、バナナは!?

ああそうか、「やわらかい」の興奮の痕跡を刻んでいた神経細胞が、看護婦さんの記憶の方にも使い回しされていたんですね。

それとも、入院していた時のお見舞いにバナナをもらって、「バナナ ⇒ 病院 ⇒ かわいい看護婦さん」とリンクされていたのかもしれません。

一つの神経細胞は、いろいろと使い回しをしているそうで、それが連想という現象を引き起こしているということです。

僕の脳に起こっている面白い現象も、このせいだったんですね。
モノに名前を付けることができる人間の脳内には、その名前をタイトルとした一連の神経細胞の回路ができています。
それは、無関係の夜空の星々を勝手に結びつけて星座を描くようなものです。

例えば、その時たまたま吹いた風が「寒い~」って感じのものだったりすると、その刺激から、屋台のラーメンが無性に食べたくなったりすることもありますよね。
僕の脳に、突然「屋台のラーメンが食べた~い」が浮かび上がるのは、例えば「寒い~」の星座を作っていた神経細胞の一部が、「屋台のラーメン」の星座を作っていた神経細胞の一部と重なっていたか、あるいは使い回していたからなんです。


僕たちが暴こうとしていた「思い」とか「考え」と言われていたこの「屋台のラーメンが食べた~い」は、このようにして、いわば受動的に、突然、浮かび上がらされたものだったわけです。

人の行動とは、いつも、その突然浮かび上がらされた「思い」や「考え」に、さも自分の意志で、たった今、屋台のラーメンが食べたくなったような理由を後づけでくっつけていただけだったのです。

だからその時、「どうしてあなたは今、屋台のラーメンが食べたくなったのですか?」などと質問されたら、「残業で疲れたし、お腹が減ったからです」などと平然と答えていることでしょう。


つまり脳が、自分の意志と行動を結びつけるためのつじつま合わせをするわけです。


このような、脳のつじつま合わせは、いろいろな実験でも確認されています。
と言っても、本人にしてみれば、自分の意思で「思い」、自分の意思で「考え」ているということに、これっぽっちも疑いはないので、この事実をわかってもらうのは、なかなかやっかいなのですが‥‥。

今の例で言えば、「屋台のラーメンが食べた~い」という思いや考えを浮かび上がらせた刺激は、たまたま「冷たい風」という刺激ですが、我々は生きている以上、休むことなく、常に様々な刺激にさらされています。

例えば、今この瞬間にも、あなたの身体は億単位とも言える量の刺激(情報)にさらされていて、脳によって不必要なものは濾過(ろか)され、排斥されたりしながら、瞬時にいろいろなものを再生(想起)しては瞬時に消したりしているはずです。

僕の脳の中に浮かぶ「ラーメン」だとか「うに」だとか「クサヤ」だとかも、今までは瞬時に再生され瞬時に消えているものだったに違いありません。

浮かぶのは別に食べ物ばかりではありません。
唐突に、「きのこ雲」という言葉であったり、「生活のリズム」という言葉であったり、「明らかな葛藤」とか意味不明な言葉だったりもします。

使い回しをしている神経細胞が何かを浮かび上がらせても、その時に不必要なものであれば、気づく間もなく瞬時に消えていくのです。
僕の脳は、そんな一瞬に浮かび上がったモノを捕まえる幸福な遊びを覚えてしまったようです。

そのような幸福な遊びを体験できるのも、僕の脳の周りをおびただしい量の刺激が取り巻いているからです。

五感(視・聴・嗅・味・触)を通して、ひっきりなしに入ってくる外界からの刺激、あるいは情報。

毎朝、テレビや新聞から知り得る世界で起きている出来事。

本や雑誌を見て知ることや、友達との会話で知るもろもろのこと‥‥。

他にも身体内部から脳に入ってくる刺激もあります。
例えば、胃壁に潰瘍ができた時とか、肩周辺の血流が悪くなった時には、脳に痛みやコリの情報として入ってきます。

あるいは、ホルモンの作用がもたらす刺激によって、脳に、おしっこがしたいとか、のどが渇いたなどの情報として入ってきたりします。


「五感から入ってくる外界からの刺激」や「身体内部からの刺激」は、脳の中で取捨選択されて情報となり、それに「名前(タイトル)」がつけられ、そのことで記憶の定着が強化されたり、より多くの回路(神経細胞が作る星座)とリンクされやすくなります。

また、モノや現象に付けられた「名前(タイトル)」は、文法という一方通行のベルトコンベアに乗せられて「文章」という回路(星座)に拡張されたりしています。

それらの回路(星座)が、その後に入力されてきた刺激に対するフィルターや増幅器としての作用をします。

つまり、情報として使えるかどうか取捨選択したり、その情報を利用するための枠になるわけです。
そこへまた「五感からの刺激」や「身体内部からの刺激」などが入ってくると、脳の中に新たな回路(星座)として残り、取捨選択や利用の枠を変化させたりしながら、死ぬまで休むことなく続けさせられていくのが脳内の活動です。

それではこの辺で、このシリーズの結論を言います。

僕たちの想念を作っていたものの正体‥‥それは、僕たちの脳を取り巻くおびただしいアトランダム(無作為で手当たり次第)な刺激、だったんです。「五感から入ってくる外界の刺激」や「身体内部からの刺激」です。
つまり何らかの刺激が、「想念」を起こす元々の姿、想念の正体だったわけです。

な~んだあ、って感じですよね。

もちろん想念(思い、考え)は、「ラーメンが食べたい」などという卑(いや)しいものばかりではありません。

「よーし、絶対世界を平和にするぞぉぉ」という気高き「思い」もあるし、
「映画スターになりたーい」という夢のあるものもあります。
でも、卑しいか、気高いか、夢があるか、という判定は別にして、みんな同じように僕たちの脳を取り巻くおびただしい刺激と、それが僕たちの脳に作り上げた「回路(つまり記憶のこと)」という枠組みとの相互作用によって、浮かび上がっていただけのものだったわけです。

と言うことは、僕たちの想念(思い、考え)は、僕たちの脳に記憶されていないもの、を決して浮かび上がらせることはできないということです。

あるいは、僕たちの脳に記憶されているものを組み合わせただけのものしか浮かび上がらせることはできません。

その証拠に、あなたがバジュゴリ語を知らないとしたら、あなたの脳に記憶されていないバジュゴリ語で、あなたの脳に何らかの考えが浮かび上がったりは決してしないじゃないですか。
臨死体験で見る映像も、その人の脳に記憶されているものを組み合わせただけのものだという研究結果もあります。


ところで、このおびただしい量の情報の原因の一つ一つをどこまでもたどると、どこに行き着くと思いますか?

この原因の原因の、そのまた原因の原因の‥‥とたどれば、決してどこかで途切れることはなく、全てのものの原因が、この宇宙の始まりのビッグバンに行き着きます。

ビッグバンから約140億年も経っている今も、その時の力は途絶えるどころか、人間の想像を絶するスピードでこの宇宙を膨張させています。
そして想像を絶するスピードで、僕たちの乗っかっているこの地球を回転させています。

例えば、想像を絶するスピードで(赤道部の計測で秒速約460mの速さで)自転させながら、なおかつ太陽の周りを秒速約30kmで公転させています。
ビッグバンの力は少しも衰えることなく、140億年なんてほんの瞬(まばた)きの瞬間だとでも言わんばかりに、今もますます盛んに続いています。

その力があっちに天体を作り、こっちに地球を作り、そこに生物を作り、人間を作り、人間の脳を作り、連想を作り、想念を作り、恋をさせ、木を伐採して家を作らせ、料理を作らせ、宗教を作らせ、あるいは戦争をさせ‥‥ていたんです。


これで、このシリーズ「想念(心)の正体」は終わりにします。

ところで、想念を作り出している正体が、僕たちの脳を取り巻く環境からのアトランダムな刺激だったという発見は、実は、僕たちが世界や宇宙と一体になれる大発見だったのです。

そういったことを次回からテーマを変えて見ていきたいと思います。
もっと、わかりやすく身近な話題を取り込みながら。
もちろん、それは‥‥、

世界の平和と世界中のみんなの幸福のために。 🙏



◆◇◆編集後記

大切なことを言い忘れてしまいましたが、僕たちに行動を取らせているものは、もちろんこの「想念」です。

つまり、僕に今パソコンに入力するという行動を取らせているものは、もちろん僕の脳内に浮かび上がった「想念」ですが、それは脳を取り巻く環境からの刺激(情報)が僕の脳に浮かび上がらせているものでした。

‥‥ということは、僕は、僕の脳を取り巻く環境からの刺激によって、今パソコンに文字を入力させられていたというわけです。

もちろんバジュゴリ語もバジュゴリ語の文法も記憶していないので、生まれてから今までの環境に記憶させられている日本語と、記憶させられている日本語の文法でね。
実は、このことを科学が解明したからこそ、世界を平和にする可能性が見えてきたのです。

記憶もこの脳を取り巻く環境が作るというのは当たり前の話ですよね。環境から入力されない情報を記憶するなんてことは絶対に不可能ですものね。
だから、僕の一挙手一投足は、この環境に動かされていたということなのです。ほんの一瞬の瞬(まばた)きもね。😃 😃 😃



さて、一ヶ月以上も、このメルマガを発行していませんでしたが、さぼっていたわけではありません。
バラ色の素粒子』を執筆していたのです。
それがやっと出来上がりました。

内容は、「中学二年生の少年から送られてくる衝撃的なメールとのやり取りの中で、少しずつ分身主義の真髄に触れていく、分身主義入門編」というものです。

今回、一緒に考えてきた「「想念はどこから来るのか」という疑問に、もっとわかりやすく、詳しく、図入りで解説しています。
ネットの友人(高校生のお嬢さん)が、とても素敵な感動的な挿絵を描いてくださいました。

世界平和への願い、人類の幸福への願いを込めて、現代科学を整理していくと僕たちは分身主義にたどり着きました。

それは僕たちの脳を、これ以上ないほど謙虚にしてくださいます。
謙虚とはつながることです。
僕たちを産んでくれた母の元に帰り、この宇宙に散らばっているきょうだいたちと一体となることです。
そして世界中の人が権威もプライドも武器もお金も捨てて、手をつなぐことです。



NO.44 宇宙を実感する方法 2004.05.18

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【現代科学が発見した事実を整理しようとすると、どうしても人間的な願いが、ほんの1パーセントほど入り込んでしまいます。
“事実” が “真実” になる瞬間です。分身主義が生まれた瞬間です】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。


前回のメルマガ、『NO.43 想念(心)の正体(最終回)』を読んでいただいて、次のようなメールをいただきました。

「知識は、本当に私たちを幸福にしてくれるでしょうか? おそらく多くの人には難しいのではないでしょうか?(中略)徳永さんのおっしゃる理論はすごいと感じますが、あくまでも理論は理論で、日常生活において実感を伴わないのですが、どのようにしたらいいのでしょうか?」


そこで僕は、次のような返信をしました。
ここで公表させていただきます。

 * * * * * * * * * *


例えば、僕は(前回 NO.43では)地球の自転や公転のことを書きましたが、それらに対して、あなたは知識と呼んでいらっしゃるのだと思います。

地球が(赤道部の計測で秒速約460mの速さで)自転しながら、なおかつ太陽の周りを秒速約30kmで公転している、というのは確かに知識かもしれません。
月や太陽の引力が、地球の海の潮の満ち引きを作っているということも、知識かもしれません。

モノにはすべて引きつけ合う力が働いていて、その強さはそのモノの重さ(正確に言えば質量の大きさ)に比例します。
それを引力と言います。

僕とあなたが近づいても、たいした質量ではないのでくっついたりしませんが、僕たちは地球という重い物体には引っ張られています。
だから、僕たちは地球からこぼれ落ちないでいられるわけです。

月や地球や太陽分身さんたちは、大きな質量なので、この場合は互いに引きつけ合う力が働きますが、どうして同じ距離を保っていられるかと言うと、それは遠心力と引力がうまい具合に釣り合っているからです。

あなたがボールに紐をつけてまわすと、ボールには外に飛び出そうとする力が働きます。
これが遠心力です。
でも、ボールは紐を通してあなたに引っ張られています。
この引っ張られている力が引力です。

その二つの力が釣り合っているので、ボールは常に同じ軌道上を回ることができます。

僕がこういうことを書けば書くほど、あなたには幸福とは遊離した「知識」としか感じられないかもしれません。

これらは、科学が発見した事実を報告しているだけだという意味に取られれば確かに知識に過ぎません。

この「知識」という言葉を「知る」と変えてみたらどうなりますか?
なんか静的だったものが動的になる感じがしませんか?
なんか受け身的だったものが能動的になりませんか?

僕は、「変化」は「知る」ことから始まると思うのです。


例えば、先ほどの、僕たちの目には見えない力を人類が知ることがなければ、動力装置を持たない人工衛星なるものを作って、遠心力と引力を釣り合わせた状態に放り投げて、地球の周りを永遠に飛ばしたりできなかったはずです。
火星に無人ロケットやロボットを飛ばせるようにまでならなかったはずです。

そして、あなたは携帯で愛の告白をすることもできなかったはずです。( ⇐ 携帯だって、科学がこの自然界の法則を知ることで作られることになったわけですよね)

だから、僕はこういった科学の発見した事実を、報告しているだけではありません。

むしろ僕は、一生懸命、宇宙を実感していただきたいと思って、そのために具体的な数字や具体的な例を挙げているだけです。
その気持ちが伝わらないので、あなたの中で「知識」で止まってしまっているのではないでしょうか?

僕の話を知識に過ぎないものにしてしまっているのは、あなた自身です。
それをわかっていただきたいんです。

(中略)

また、(前回 NO.43では)次のようにも書きました。

ビッグバンの力は少しも衰えることなく、約140億年なんてほんの瞬(まばた)きの瞬間だとでも言わんばかりに、今もますます盛んに続いています。
その力があっちに天体を作り、こっちに地球を作り、そこに生物を作り、人間を作り、人間の脳を作り、連想を作り、想念を作り、恋をさせ、木を伐採して家を作らせ、料理を作らせ、宗教を作らせ、あるいは戦争をさせ‥‥ているんです。

この部分に対して、あなたは理論と呼んでいらっしゃるのではないかと思います。
確かに今の僕たちには、実際にビッグバンを作り出したり、素粒子を組み合わせて天体を作ったり、生物を作ったりできません。

でも、技術の粋を結集してそれらを再現して見せなければ、いつまでも「理論でしかない」と言われ続けてしまうのでしょうか?

ビッグバンは、今では完全に証明されています。
宇宙のあらゆる方向からその時の名残り(宇宙背景放射)が、微弱な電波となって常に届いています。
また理論上の数値と、その後の観測から得た数値が一致しています。
素粒子というものも理論上のものではなく、高速加速器で取り出したり、それを検出する機械まで作られているし、医学への応用なども行なわれようとしています。

ビッグバンの時に存在していた素粒子が集まって天体が生まれ、その内部の超高温状態での核融合反応によって鉄までの様々な原子が生まれます。
鉄はもう核融合しないので、やがて重力と圧力のバランスが崩れ爆発が起こります。

この時に、鉄よりも重い原子が生まれ、その時の残骸の原子(鉛やウランなど)が地球にもたくさん含まれています。
だから、地球はどこかの天体が爆発して、それが圧縮されて作られたものです。
僕たちの体の組織にも、そのように飛ばされてきた多くの原子が含まれています。

それを知ることであなたの中に何らかの「変化」が起こりませんか?


分身主義は科学の知識でも理論でもありません。科学そのものでもありません。
分身主義は科学が発見した事実を、「世界平和、人類の幸福」という願いを込めて整理したものです。

例えば、聖書には、キリストが水をぶどう酒に変えたという記述があります。
そんなのは人間の想像力が作った嘘っぱちに過ぎませんが、でも聖書に書かれていることは、その時代の人類の、幸福への願いが作り上げた偉大なる“真実”です。
嘘っぱちでも、人間としての願いが真実に変えるんです。

現代科学が発見した事実を整理しようとすると、どうしても人間的な願いが、ほんの1パーセントほど入り込んでしまいます。
“事実”が“真実”になる瞬間です。
分身主義が生まれた瞬間です!


ちなみに、聖書と分身主義の違いはなんでしょうか?
聖書は、人間の「想像力」というものが元になって生まれた「真実」です。
分身主義は、科学の発見した「事実」が元になって生まれた「真実」です。

科学が発見した事実は、この日常を生きる僕たちにはあまり実感を持てないかもしれません。
僕たちが秒速約30km(=時速、約11万km)の猛スピードで走っている地球にへばりついて生きているなんて、とても実感できません。

天気図を見慣れた人は、天候は西から東へ移動するのをわかっているので、明日の悪天を憂慮したりできますが、西から東へ移動する天気は地球の自転によって生まれていることを実感することはできません。

自分の体重の増加には悩む僕たちですが、それが地球の重力(重力とは引力と遠心力との合成された力のことです)としては実感できません。

それに引き換え、一週間後の彼女とのデートの段取りを考えることや、部長に怒鳴られないように仕事に気を配ったりすることや、子どもの教育を考えたりすることは、よっぽど実感を持って迫ってきます。

でも、実感できないからといって、科学が発見した事実は嘘でも間違いでもありません。

それが嘘や間違いだったなら、今ごろ僕たちは彼女とのデートも、仕事も、子どもの教育もしていなかったでしょう。
ロケットも人工衛星も飛んでいなかったでしょう。

地球の重力が嘘や間違いなら、体重計に乗って、日々、減った増えたと一喜一憂することもあり得なくなります。

科学が発見したものが嘘や間違いなら、僕たちは車に乗ることも飛行機に乗ることも、携帯を使いこなすことも疑ってかからなければなりません。


僕たちは、科学的なものの考え方に慣れていないだけなんです。


今の僕たちはまだ、そのような環境にいないだけなんです。
もっともっと普通に、家庭で学校で社会で、科学が発見したものを知らせる環境が整えられていき、人々の心の中にもその気持ちが育まれていけば、この宇宙を実感することに慣れていくはずです。

知らなかったことを知ることは、とても楽しいことですよね。
あなた自身の手で、科学に興味を持って、科学の読み物をたくさん読んだり、テレビ番組を見たりすることもいいと思います。

それが、科学の時代に生まれてしまった僕たちが、幸福に生きる最善の方法だと考えます。
それを実践しようとしているものが分身主義なんです。
だから、分身主義は決して “理論” ではなく “実践” なんです。
単なる “事実” を、“真実” に昇格させるための実践なんです。

 * * * * * * * * * *



さて、科学が発見した事実を知るような環境で育ってこなかった僕たちでした。
現在でも下手をすれば、大学卒業までの16年間に、一度も「素粒子」「ビッグバン」「ニューロン」「遺伝子」など習わずに過ごしてしまいます。

科学が発見した事実を簡単に整理した『人類の育てた果実』を読んでみてください。
読み終わったら必ず、目をつぶって反芻(はんすう)してみてください。
人間は、70~80パーセントの情報を目から得ていると言われています。
その視覚情報を一時的に遮断してみるのです。

僕たちは、目に映るモノを少しも正確に見ているわけではありません。
モノを見るということは、常に、その人の過去の記憶に基づいた幻覚を見ているようなものなんです。

僕たちはどうしても、時計の刻む時刻や、四季の移り変わりや、人間の一生などを基準とした時間の感覚にとらわれています。

いったん目をつぶって、視覚情報にとらわれない脳を作った上で、僕たちはビッグバンと今を行き来して見ましょう。
視覚情報に頼っていた、それまでの時間の感覚を、宇宙の時間の感覚に合わせるわけです。
人間は140億年なんていとも簡単に行き来できるのです。

この行為は、ある人たちには瞑想と呼ばれているようなものかもしれません。
でも、今、目をつぶった上で僕たちがやることは、あくまでも科学の発見した事実を思い浮かべることだけに集中しなければいけません。
科学が発見していないことを思い浮かべても、僕たちは一つにはなれないからです。

だけど、あなたは、次のように考えるかもしれません。

「もし、年がら年中、月や地球や太陽のことばかり考えていたら、大切な日々の生活の一つでもあるデートや仕事や教育が、おろそかになってしまう」と。

‥‥でも、本当にそうでしょうか!?
次回はそのことについて、考えていきます。


世界の平和と真の幸福のために‥‥ 🙏



◆◇◆編集後記

僕たちは誰であろうと、今生活しているこの環境に動かされ考えさせられています。
だから、科学が発見したものが実感できないとしたら、おそらく科学が発見したものを実感できないような環境にいるからだと思うのです。

例えばイスラム教徒ではない日本人には、「アッラーの神」の存在は全く実感せずに日々過ごしています。
でもイスラム教徒は常に実感して生きています。
一日に5回礼拝をしなければならないし、お祈りの方法や準備にしても厳しい決まりがあります。

僕たちの環境は個人主義的環境と言ってもいいくらい、個々人のデートや仕事や子どもの教育やダイエットや健康のことばかりで、とてもイスラム教徒のような充実した環境とは思えません。

分身主義は宗教ではないですが、少なくとも個人主義的社会の現在のように個々人の関心事に煩わされ、科学が解明していることを実感できないという環境ではないことは確かです。

何故なら、分身主義は宗教ではないですが、自然界様を唯一お慕いし、科学を通して自然界様に教えを乞うという意味で、一神教であるイスラム教と同じだからです。

唯一違うところは、科学は自然界様に正否のお伺いを立てた時に、それが間違いであれば何度でも何度でも修正して歩む、謙虚な謙虚なものだということです。そして唯一正しい答えを導き出そうとするものです。

分身主義がこの科学の方法にならうのは、このような方法を取る科学だけが、世界を一つにしてくれると信じるからです。
それだけが世界を平和に導いてくれると、僕は間違いなく「実感」しているからです。


NO.45 障子の向こうに耳を澄ますと 2004.06.01

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【今の大人たちは思い出してください。あるいは年寄りから聞かされていたはずです。夜は戸締りなどしなくても、安心して眠れた時代があったことを】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。


突然ですが、「はたおり」という漢字、書けますか?
小学生の時にならったような気もしますが、最近はあまり目にする機会がないので忘れている方も多いと思います。
「機織」と書くそうです。なんかピンと来ないのは僕だけでしょうか?

と言うことは、「はたおりき」は上から読んでも下から読んでも「機織機」です。

今日はまず「機織」の話から始めようと思ったのですが、何故かピンと来ないので、ここでは、「はた織」と書くことにします。

僕はもちろん、はた織はできませんが、はた織をしている人を見るのが好きです。
はた織に没頭している人を見ると、心が落ち着くのは僕だけでしょうか。
はた織は、僕の心の中の原初的な部分とつながっていて、なぜか故郷に帰ったような懐かしく幸せな気分にさせてくれます。

人生は、無常に流れゆく時間という縦糸に、日々の生活という横糸をていねいに織り込んでいく作業と言えます。
だけど、僕たちの日常は美しい織物になっているでしょうか!?


日本の民話「鶴の恩返し」を覚えていますか?
おじいさんに命を助けてもらった鶴が、人間の娘となっておじいさんの前に現れ、恩返しに自分の羽根を抜いて、はた織をするお話です。
「絶対に、中を覗かないでくださいね」とお願いされていたのに、日ごとに体が弱っていく娘を心配に思ったおじいさんは、つい障子を開けて中を覗いてしまい、娘(鶴)は去ってしまうという悲しい結末です。

と言っても、今日は『鶴の恩返し』の話ではありません。

僕たちの日常の話です。機織りをする障子の向こう(人々の日常)に耳を澄ましてみてください。

僕たちの日常は、貧しいおじいさんとおばあさんを助けるために、心優しき鶴が自分の羽根を抜いて「きー とんから」とはたを織るようなリズミカルな音が響いているでしょうか?

前回、このように書いて続きとなりました。

でも、あなたは、次のように考えるかもしれません。
「もし、年がら年中、月や地球や太陽のことばかり考えていたら、大切な日々の生活の一つでもあるデートや仕事や教育が、おろそかになってしまう」と。
‥‥でも、本当にそうでしょうか!?


これを考えることは、とても重要な意味が隠されています。
どうして分身主義でなければ世界が平和にならないか、という答えにもなると思います。

そもそも、僕たちが大切にしようとしている現在の日々の生活とは、どんなものなんでしょうか?


最近の小学校の授業の話ですが、知らない大人に連れて行かれそうになった場合を想定して、暴れたり、大声を出させたりする訓練を大真面目でやっているところもあります。
学校の先生ばかりでなく、婦警さんが学校に出向いて実施させることもあるそうです。

子どもに、小型の警報機を携行させての登下校を義務付けている学校もあります。密かに子どもに催涙スプレーを持たされている親もいるかもしれません。

また、校内のどの場所にいても、生徒の危険を察知できるように、百ヵ所近くに監視カメラをつけた幼稚園もあり、多くの親が、お金さえあればその幼稚園に入れたいと考えているようです。

子どもの敵は、知らない大人ばかりではありません。
自分の親までも疑わなければならない時代です。

ある小学校では、親の虐待とはどういうもので、それによって子どもはどのような被害を被るかを、子どもたちにわかりやすく教え、自分がその被害者に該当する場合には、勇気を出して教師や身近な大人に相談できる環境を作ろうとしています。

子が親の行動を監視するという、変な社会になってきたのです。

教師はちょっとでも子どもに手をあげられない時代ですが、これからは親でさえも子どもに手をあげたら、子どもに訴えられる時代になりそうです。


先生も警察も親も、マスコミに煽られ膨れ上がった恐怖心に、感覚が麻痺してしまっているとしか思えません。
世間の人たちは、そんな大人たちから、そういう教育を受けた子どもが、将来どのような大人になるか考えたことがあるのでしょうか?

命は助かるかもしれませんが、人を疑い敵を作る、臆病で神経質な心を植え付けられてしまいそうです。

そういう子どもが、他人を大切にする人間に育つとはとても思えません。
恐怖心ばかり植え付けられた子どもは、大きくなって加害者の側に回る可能性も大きいと思います。

子どものことばかり言っているように思われるかもしれませんが、注目してほしいのは、むしろ大人の心です。
子どもたちの心を萎縮させてしまう、恐怖心や猜疑心でこわばった大人の心です。


ティク・ナット・ハンという愛すべき僕たちの分身さんは、ヴェトナム生まれの僧侶ですが、彼は『ビーイング・ピース』(1995年、壮神社)に、次のように書いていました。

ビーイングピース

「インドを訪れると、食べもののない子供たちが多くいます。非常に多くの子供たちが病気で、薬がありません。一人の女性が、二人、三人の子供に適当な食事を与えることができないのに、十人、十二人の子供を産みます。
『人生は苦しみである』ということが、仏教における第一の真理です。一人の子供を、この世に送ることは、大変な責任です」

この言葉をよく噛み締めてください。
十人、十二人の子供がいるわけではないですが、だからと言って僕たちは胸を張って、今のこの日常に子どもたちを送り出せますか!?

よく耳を済まして、障子の向こうの音を聞いてみてください。
はた織は、昔のようにリズミカルに「きー とんから きーとんから」と響いてきません。
たくさんの雑音で、大人も子どもも、社会の何もかも混乱の渦の中で喘いでいるかのような音が聞こえています。

遠い国からの情報は毎日のように入ってくるのに、僕たちはマンションの隣りの住人がどんな人で、何をしているのかさえ知りません。
きちんと戸締りしなければ心配で、ちょっと煙草を買いに出ることすらできません。

今の大人たちは思い出してください。
あるいは年寄りから聞かされていたはずです。
夜は戸締りなどしなくても、安心して眠れた時代があったことを。
隣近所の人たちや、川向こうに住む人たちまで知り合いだった時代があったことを。

もっともっと昔には、当たり前のように食糧の貸し借りをして助け合って生きていたことを。

もし、あなたが、「年がら年中、月や地球や太陽のことばかり考えていたら、大切な日々の生活の一つでもあるデートや仕事や教育が、おろそかになってしまうのではないでしょうか?」と心配するなら、あなたに質問させてください。

あなたは、本当に、大切にすべき日々の生活に囲まれていますか!?
あなたは、自分の周囲を、薄っぺらな作り事の楽しいもので取り囲み、現実から目をそらそうとしていませんか!?

しっかり目を見開いてください。
携帯を片手にした恋人とのデートだって、そんなに充実していません。
仕事だって大半は上役の機嫌取りや成績のためです。
教育だって、世間体のためや競争に負けたくないためや将来の収入のために頑張ります。
今の僕たちには、大切にすべき日常なんかありません。

僕は、こんな日常にしがみついていたくありません!

もっと違う新しい日常を生きたいです!
人を信じ、敵を作らず、深い安心感に包まれた心で生きる、どっしりした日常です。優しい思いやりの気持ちで、鶴が自分を犠牲にしてみんなのためにはたを織るような日常です。

 * * * * * * * * * *



ところで、現代科学が、覗いてはいけなかった障子の向こう側(日々の生活)を覗いた時、それは今までの僕たちが知っていた日常とはまったく違った様相でした。

そこに姿を現したのは、自分の羽根を抜いて、はた織をしている心優しき鶴の姿ではなく、環境からの刺激を受けて脳が生み出す電気信号で動かされているだけの人類の姿でした。

世界平和は、その自分たちの真の姿を知ってしまった諦めから始まります。

まるで、自分の力でこの世に生まれてきて、自分の力で生きていると思い込んでいたかのように傲慢だった人類が、実は環境に動かされていただけだったと、まずはその無力さに気づく必要があります。

その無力さは人類を謙虚にしてくれて、この環境との一体感をもたらしてくれます。そして宇宙との一体感をもたらしてくれます。
その意識の変化が作り出す環境は、僕たちの行動を世界を平和にするように変化させてくれます。


お願いです。
自分の周りを取り囲んでいる、薄っぺらな作り事の楽しいものを、勇気を持って振り払って、美しい無力さを体験してください。


世界の平和と真の幸福のために‥‥🙏




◆◇◆編集後記

ティク・ナット・ハン分身さんは、仏教の僧として独身を貫いているので子どもがいませんが、彼は次のように言っています。

「世界は、子どもをもっと送り込んでよいほど、安全なところでなのでしょうか。もしあなたが世界に子供をもっと連れてきたいと思うなら、世界のために何かをしてください」


      *  *  *

養老孟司分身さんの『死の壁』には、戦争やテロが起きるのは一元論のせいだと書かれていました。

死の壁

「一元論に陥ったときに、人は絶対の真理があると思い込んでしまいます。絶対の真理を信じる人は絶対の正義を振りかざします。(中略)人間は、自分が絶対だと思っていても、それとは別の考え方もあるのだろう、というくらいの留保を持った方がいい。そうすれば、絶対の正義を振りかざしてぶつかるということもなくなるのではないか」


分身主義は、科学を通してこの自然界様にお伺いを立てるものです。科学以外を道具にすることは一切拒否します。そして、自然界様に教えていただいた扉を開くことで世界は平和になる、と考えます。

これはある意味一元論です。
僕はいろいろな人の意見を聞いてみて、やはり世界を平和にするには「個人主義的環境が分身主義的環境になるしかない」と考えています。

でも、それは「分身主義が多様性を認めていない」わけでは決してありません。
ここのところを勘違いされる方が多いのではないでしょうか?

まず初めに、分身主義は、科学は自然界を解釈するための一つの方法論に過ぎない、とあらかじめ釘を刺しています。
しかも、主義などと言っていますが、実は現代科学が解明したものを整理したものに過ぎません。
科学は、生物の驚くほどの多様性を認めています。
素粒子の驚くほどの多様性を解明しています。

よく、「個人主義と自分勝手とは違う。本当の個人主義は、個人を尊重することである」ともっともらしく言われます。個人主義こそ、一人ひとりに敬意を払い、その多様性を尊重してくれているかのように聞こえます。

でも、個人主義が、個人を尊重しようと言う理由は、「自分を尊重してください」と言っていることと同じなんです。

本当に個人を尊重することは、分身主義にしかできません。

分身主義は、とかく一元論に陥ってしまいがちな人間が、むしろ一元論に陥らないために必要なものとも言えます。

分身主義は、世界中の人を一つにするなどと言いますが、それは色とりどりで大小さまざまの風船を、一つのところでしっかりと結び付けてくれているという意味です。

分身観2


一つのところでしっかりと結ばれている安心感があるからこそ、僕たちはいろいろな考え方ができるのではないでしょうか?

そして、分身主義が誰も批判しないのは、おわかりいただけていると思います。

なぜなら、ある人の主義主張は、みんなが作っているこの環境に浮かび上がらされているものだということを分身主義は知っているからです。つまりみんなで作っているのです。

もし、僕が、個人や特定の集団を批判してしまったとしたら、それは「分身主義」が個人や特定の集団を批判しているのではなく、僕がまだ個人主義的環境の中にいて、その環境から浮かび上がらされた言葉をそのまま口にさせられているからです。

もし僕たちの脳を取り巻く環境が、個人主義的な環境から分身主義的な環境に移行したなら、そこから口をついて出てくる言葉は、互いを誇り合う言葉や、助け合う言葉ばかりになるはずです。




NO.46 分身主義を理解した時‥‥ 2004.06.15

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【理解とは愛することです。分身主義を理解した時、あなたは、自分を愛するように他人を愛さずにはいられなくなります】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。


現代科学が解明したことを整理すると、いくつかの真実に行き当たります。
もちろんそれは科学における真実に過ぎませんが、その中の一つに次のようなものがあります。

「全ての物事には原因がある」

これは分身主義を支えている骨格でもあります。

東京大学教授の小柳義夫(おやなぎよしお)分身さんも、「全ての物事には原因があって結果があります。それを突きつめていくと“科学の法則”になります」とおっしゃっています。

分身主義を支えている骨格でもある「全ての物事には原因がある」は、本当にありとあらゆる物事のことを言っているんです。
あくび一つにしても、指の上げ下げ一つにしても、たった今、心(脳)に浮かび上がった想念一つにしてもです。
もちろん、昨日、あなたの好きな人が機嫌が悪かった原因も、一つでないにしても必ずあるということです。

これは、実証しながら進む科学がたどり着いた真実ですが、仏教でも同じようなことを言っています。

例えば因果経というお経には「過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
と説かれています。

因果、つまり原因(因)と結果(果)の関係を語らずには、仏教は語れないと言ってもいいほどです。


さて、前回ご紹介したティク・ナット・ハン分身さんは、ヴェトナム生まれの仏教の僧侶ですが、その著『ビーイング・ピース』の中で、次のようなことを書いていました。

「理解と愛は、別々のものではなく、一つのものです。
あなたの息子さんが、朝、目を覚まして、遅くなっていることに気がついたとしましょう。
妹を起こして、学校に行く前に朝御飯が食べられるようにしようとします。
ところが、妹は機嫌が悪く、「起こしてれて有難う」という代わりに、「うるさい、やめて」と言って、兄を蹴ります。
おそらく、彼は怒って、「親切に起こしてやったのに、なぜ蹴るのだ」と思うでしょう。
台所へ来て告げ口をするか、妹を蹴り返そうとするかもしれません。
しかし、その時、妹が夜中にひどく咳をしていたことを思い出し、彼女が病気らしいことに気づきます。
風邪をひいているに違いない、だから、わがままなのだろう。
彼はもう怒っていません。
その瞬間、目覚めた人が、彼の中にいます。
理解し、目覚めています。
理解する時、あなたは愛さざるを得ません。
怒ることができません。
(中略)
理解する時、愛します。
愛する時、自然に、あなたは、人々の苦しみをやわらげる行いをします」


僕は、この部分を「そうだ! その通りだ!」と感激しながら読み、自分の読書ノートに書き写しました。

ここには、分身主義が世界を平和にしてしまうトリックの種明かしがあります。

もう一度最初に戻ってみます。
分身主義の骨格となるものは、科学の導いた「全ての物事には原因がある」という真実でしたね。

例えば今、心(脳)に浮かび上がった想念、その想念を浮かび上がらせたものにも原因があるわけです。
では、その原因は何か、と考えていけば、それは脳を取り巻く環境によって浮かび上がらされたということです。

1、脳を取り巻く環境は、その人の脳に記憶を作り上げます。
2、脳を取り巻く環境には遺伝も含めます。


遺伝や記憶によって性格づけられているあなたの脳が、その時、ある原因(=刺激)に対して反応した状態が、今、あなたの脳に、ある想念が浮かんだ状態です。

そのようにして浮かんでくる想念に、発言やら行動やらを取らされているのが僕たちの姿です。

それがあなたの分身でもある、ブッシュ分身さんであり、フセイン分身さんであり、小泉分身さんであり、金分身さん‥‥たちの姿でもあるわけです。

つまり、彼らは、あなたと同様、彼らの脳を取り巻く環境に動かされ、発言させられていただけの存在なのです。
彼らを取り巻く環境の中には、もちろん僕もあなたも含まれています。
その意味からも、彼らは僕やあなたに言動を取らされていた、と言ってもいいのです。

人間にはその関係性が見えていないだけなのです。何故なら、人間の知覚は自分に被害や利益として経験されなければ、何もなかった(=ゼロ)と感じてしまう鈍感なものだからです。

これを理解するということは、先程のお兄ちゃんが妹さんのことを理解を通して愛に至ることと同じ過程が含まれています。


妹の風邪を理解するよりも、もっともっと深い根源的な「人類の無力」を理解したのが分身主義です。
(*この無力の意味は前回出てきました)
家族や民族や国や宗教などのあらゆるものの壁を越えた理解が、分身主義です。

分身主義は、たった一人だけの天才も、たった一人だけの落ちこぼれも、たった一人だけの英雄も、たった一人だけの犯罪者も作りません!

天才も落ちこぼれも英雄も犯罪者も、一人だけの力で作られるものではないことを知っているのが分身主義だからです。
天才も落ちこぼれも英雄も犯罪者も、それはこの宇宙に存在するありとあらゆるものの総力の結集で作られ、ありとあらゆるものの分身として、そこにいます。

一人ですべての環境に身を置くことはできません。
だから、英雄や天才は、みんなの代わりにその環境でやってくださっている誇るべき自分たちの分身さんだと、分身主義は考えます。
だから、嫉妬や羨望とは無縁の世界です。

また、誰かが悪いことをしたとしても、それもみんなの代わりにその環境で犯罪を犯してしまったので、その人一人を責めることはしません。
みんなで彼を救うために手を差し伸べます。
自分自身(自分の全身)が救われるために‥‥。
だから、分身主義は怒りや恨みとも無縁の世界です。

嫉妬や羨望や、怒りや恨みとも無縁の、根源的な部分の理解(これが前回書いた無力の理解です)の上に生まれた分身主義が、どうして世界を平和にするか、ということを「理解」していただけましたか?

理解とは愛することです!
‥‥とティク・ナット・ハン分身さんは言います。

分身主義を理解した時、あなたは、自分を愛するように他人を愛さずにはいられなくなります。


今日は、比較的短く収まりました。
どんなに言葉を費やしても理解できない人には理解できません。
理解する気がない人には理解できません。
だったら、負担にならないように、短めに何度も何度も同じことをわかりやすい言葉で繰り返しお伝えするのが一番良い方法です。

もしあなたが分身主義を理解してくださっているなら、そのような方法で実践してみてください。
その場合、分身主義という言葉をどこかに挿入させなければいけませんよ。

その意味は、『NO.42想念(心)の正体(4)』に次のように書いたように、それが僕たち人間の脳の特質だからです。

「名前を付けない限りは、いつまでたっても僕たちはそのモノを曖昧(あいまい)な形でしか理解することができません。もちろん、名前さえ付ければそれで理解したというものでもありませんが、それをしない限り、新しく出てきた概念を把握できないんです」

たとえ仏教の百の教えを仏教とは知らずに断片的に記憶していても、「仏教」という名前を記憶していなければ、それらがあなたの血となり肉となることは困難です。
百の教えをまとめる名前を知って、初めて人はその中で安心して生きて呼吸をすることができるようになるんです。
それが人間の脳の特質だからです。

そのために、「分身主義」という新しく出てきた概念の「名前」が、今は必要なんです。
世界を平和にするためには「分身主義」という名前に、今はこだわる必要があります。
現代を生きるあなたのためにも、あなたや僕やみんなの総力の結集で生まれた分身主義を広めましょう。

まずは、多くの人に「分身主義って何?」って思っていただきましょう。


そう、世界の平和と真の幸福のために‥‥ 🙏



◆◇◆編集後記

今日は、僕たちがまだお会いしたことのない、僕たちの分身さんお二人をご紹介しました。
小柳義夫分身さんと、ティク・ナット・ハン分身さんです。
お二方とも、誇るべきあなたの分身さんであることを忘れないでくださいね。

あなたは彼らの分身であると同時に、彼らはあなたの分身なんです。
あなたは部分であり全体なんです。
それが科学が導いてくれた分身主義です。

ティク・ナット・ハンさんの『ビーイング・ピース』には、目覚めた人という言葉が、何度も出てきます。
目覚めた人とは、理解と愛に満ちた人のことです。

分身主義にたどり着いた人は、目覚めた人です。
それはエライ人を意味しているわけではありません。
分身主義にたどり着いた人は、確かに悟りの境地に至っていますが、それは無力を悟ったのであって、自分の偉さを悟ったのではありません。

先日、NHKの『心の時代』を見ていたら、高史明(コ・サミョン)分身さんが、「人間は悟りの境地には至り得ないのではないか」とおっしゃっていました。(*高史明さんは、『NO.11 世界に一つだけの花』にも登場いただきました)

悟りの境地というものに至ったと思った瞬間、人は尊大になってしまい、また振り出しに戻ってしまうようなイメージが確かにあります。
でも、僕はその言葉を聞いた時、とっさに次のように思いました。

彼の言う「人間は悟りの境地には至り得ない」というのも一つの悟りではないだろうか? ‥‥と。
だから、その意味で、彼はそのように悟ってしまっているんです。

分身主義的に言えば、悟りの境地とは、「至る」ものではなく、「至らされる」ものです。

分身主義のたどり着いた場所は、決して悟りの境地に自ら至るような尊大な存在ではなく、至らされてしまう?悲しき存在なんです。
そう、無力感を伴って‥‥。

あなたが分身主義を知ったなら、あなたは目覚めた人です。分身主義的に言えば「科学的覚醒」を果たした人です。
それはあなたが無力感と絶望を味わい、そこから立ち上がろうとしていることを意味します。

尊大でも偉くもないことを自覚した人が、分身主義の言う「目覚めた人」です。「科学的覚醒」を果たした人です。
悟りの境地に「至らされてしまった」人です。

それは、もうそれ以上どこにも転落することのない場所です。
「悟りの境地=それ以上の振り出しには戻れない場所」である分身主義は、間違っても尊大にはなれず、その場所では自己の傲慢な心と葛藤する必要もないんです。

僕たち、悟りの境地に至らされた者たちは、むしろ悲しみを持って答えましょう。

「僕たちは、目覚めさせられた者です!」と。

地球上に、これ程の謙虚さを持って、この言葉を言える人たちはいません。
だからこそ、分身主義が世界を平和にするのです。




NO.47 謹啓、米大統領様 2004.06.29

≫≫ 今日の一言 ≪≪
【あなた様の環境で育った私が米大統領になっていて、私の環境で育ったあなた様が分身主義にたどり着いた私になっているのです】


宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
あなたの分身、徳永真亜基です。


今回は、自作の詩を一つご紹介させていただきます。

    『謹啓、米大統領様』

謹啓、米大統領様。
現在、あなた様は地球上で自他共に認める最高の権力とやらを勝ち得た方だと存じ上げます。
もし私が米大統領をやってくれと頼まれたら、何兆ドル積まれようと辞退申し上げますから、それをなさっていらっしゃるあなた様はきっと私とは全く違う環境で育ってこられたのですね。
まさに米大統領になるための環境で。
環境があなた様のお姿や性格や顔かたちを作られたように、環境があなた様の脳を作られ、その脳にあなた様の言動が取らされた結果として、米大統領としてここにおられるのですね。

米大統領として生きるしかない、今のあなた様の悲しみと苦しみと喜びをお察し致します。
私は、私として生きるしかない、悲しみと苦しみと喜びを生きておりますから。

ちなみに私は、個人主義的な社会が分身主義的社会に移行することを夢見ている者でございます。
分身主義とは例えばこのように考えるものです。

ご存知のように、私たちの体の細胞は、髪の毛でも皮膚でも心臓でも胃でも脳でも、どれも全く同じDNAを持っています。
一人の人間のDNAはどの細胞のものを取り出しても同じ情報が書き込まれているのですが、その置かれた環境によってその中の必要な情報だけが読み取られ、かたや髪の毛の細胞になり、かたや皮膚の細胞になり、かたや心臓の細胞になり、かたや胃の細胞になり、かたや脳の細胞になるわけです。
これを「分化」と言います。
皮膚の細胞を作っていたDNAも、置かれた環境さえ整えば、子どもを作る立派な生殖細胞になれます。

同じように、分身主義とは、私もあなた様も、土も花も月も地球も天体も、元々は同じ素粒子が、違う環境に「分化」することで違う発現をしているだけだと考えるものです。

科学的に言えば、この宇宙を構成している最小単位である素粒子がくっついて原子や分子となり、それが、その環境によって違う組み合わされ方をしてできたものが、かたや天体であり、かたや花であり、かたや人間の姿であるということです。

あなた様の環境で育った私が米大統領になっていて、私の環境で育ったあなた様が分身主義にたどり着いた私になっていて、犯罪者の環境で育った私やあなた様が犯罪者になっているのです。
ああ、そうでした。分身主義は 「遺伝」 も環境に含めるということも、言い忘れてはいけない大事なことでした。

さて、私とはまったく違う環境で育ってこられたあなた様ですから、その意味で分身主義にたどり着いた私と致しましては、自分の分身であるあなた様をとても誇りに思っております。
あなた様がこの世界をお照らしになる雄々しい太陽なら、私は地の中の可愛らしいモグラです。
(私は子どもの頃、地上に迷い出てしまったモグラを手のひらに抱きしめたことがありますが、本当におとなしくて可愛い動物です)

そんな私から、まだ分身主義にたどり着いかれていないあなた様に一つだけ質問させてください。
あなた様が米大統領になろうと意識した頃のことを思い出してください。
あなた様は、他の何ものにも影響されず、何らかの誘導を受けることもなく、まったくのあなた様の自発的な意志で、まったくのあなた様の独創で、まったくのあなた様の内発的な発案で、米大統領になろうとお考えになられたのですか?
あなた様が米大統領になることができたのは、純粋なあなた様だけのお力だと言えるものは、ほんの1パーセントでもありましたか?
あなた様は、バジュゴリ語を話したり、バジュゴリ語で何かを考えたりできますか?

あなた様は世界を平和にしようと尽力されていらっしゃいますよね。
あなた様こそ、常に全世界をリードされている、この地球上で最も視野の広い方ですから‥‥。
とても素晴らしいことだと存じます。

僭越ではございますが、そんなあなた様を見込んで、世界を平和にする一番の近道を提案させていただきたいと思います。
それは、あなた様が世界中の誰よりも率先して次のように宣言なさることです。

いまだかつて私は、他の何ものにもよらず自分の意志でもって、米大統領になろうとしたことはありません。私の意志は、私の脳を取り巻く環境に浮かび上がらせ・られているだけのものです。私の口から発せられるどんな言葉も、私のどんな行動もあなた方みなさんに作られています。私は今、あなた方に米大統領という生を生かされている喜びを感じます」 と宣言なさってください。
たった今のこの宣言も、自分の自発的な意志でも、独創でも、発案でもありませんが‥‥」 と付け加えることもお忘れなく。

その時、私たち人類に奇跡が起こります。人類はつながります。一つの源泉に収束します。
私たちはあなた様が私たちの分身であったことに気づき、世界中の人類があなた様を誇りに思います。

同時に、あなた様とはまったく違う環境で育ってきてこんな僭越なる提案をする私のことを‥‥ご自分の分身である私のことを‥‥、あなた様はとても誇りに思ってくださることでしょう。
あなた様と私はつながります。一つの源泉に収束します。
あなた様は、私として生きるしかない今の私の悲しみと苦しみと喜びを察してくださることでしょう。
あなた様が、米大統領として生きるしかない悲しみと苦しみと喜びを生きておられるのと同様に。

大人と子供が
子供と大人が
英雄と犯罪者が
犯罪者と英雄が
太陽とモグラが
モグラと太陽が
つながります。
一つであった自分の本当の姿を知ることになります。
互いにとても誇りに思い、慈しみの気持ちが湧いてくるでしょう。
自分の分身として。
この世界から嫉妬や羨望や怒りや恨みを消せるのは、科学が導いてくださった分身主義だけです。

今、世界に奇跡を起こせるのは、
米大統領様、
自他共に認める最高の権力とやらを勝ち得たあなた様です!
どうか、あなた様ができる、あなた様だからこそできる最高の贈り物を、人類にお与えください!
世界を早く平和へとお導きください!
そして、この宇宙のたくさんのあなた様の分身を信じて、ゆったりとその身を委ねて、防備を解いた心と体で、あなた様の本当の幸せを早く味わいください!

 謹白



(注:ここに書いた米大統領とは、特定の個人を差しているわけではありません)


えっ! こんなの詩ではない! ですって!?
こんなの手紙だ! ですって!?

いいえ、これでも詩のつもりなんです。😢
あなたが詩だと思うイメージのものと、手紙だと思うイメージのものと、僕が詩だと思って書いたこれを、重ね合わせてみてください。
そうすると、そこに詩的なものが生まれてくるはずです。

詩を作るものは言葉ですが、言葉とは元々イメージをつなげることです。
僕が「りんご食べたいね」と言うと、あなたはあなたのイメージの「りんご」とつなぎ合わせて、この言葉の意味を理解するわけです。

また、モノに名前(言葉)をつけるとは、そのモノと自分のとの関係を決めていく(つなげていく)こととも言えます。

そして、詩とは、違うイメージをつなぎ合わせることで生まれる美や意外性を共感し合う喜びです。

僕たちはつながっていることを確認し合い、共感し、生きる喜びを感じましょう。


そう、世界の平和と真の幸福のために‥‥ 🙏



◆◇◆編集後記

沖縄の産んだ偉大なる詩人、山之口獏(やまのぐち・ばく)さんの遺された原稿を整理していたところ、書き出しが何度も変わったり、題名も途中で変わったり、自分の名前まで入れて書き始めたが気に入らなくてやめてしまったりと、たった一つの詩を作るのに86枚も要していたということです。

もし獏さんが生きていらしたら、当時、パソコンがなかったことを悔しがることでしょう。
それ程、パソコンは詩を作るのに適したアイテムだと思います。
削ることも加えることも記憶させておくことも容易にできます。

僕はたぶん、この詩を原稿用紙で書いたとしたら89枚を要したと思います。(何故か、3枚見栄を張りました)
確かに、この下手くそな詩は、昨日今日できたものではなく、何週間も寝ても覚めても考え抜いて書いたものです。

でも、僕は詩とはこういうもの(⇩)だと思うのです。
「その人が30歳にして書いた詩は、本当は30年かかって書き上げたものだ」と‥‥。

30年生きたその人に、ある日パッと開いた睡蓮の花が詩なんだと。
その詩が生まれるためには、30年待つ必要があったのだと。

だから僕は、この詩を47年かけて書きました。



あとがき 2020.9.30

約5年間にわたり計106回発行したメールマガジン『世界を平和にする「自己愛的生活」』の中のNO.29~NO.47を『続・分身主義宣言!』と改題して、このnoteに書き移しました。

その書き出しがちょうど17年前の 2003.9.30 でした。


17年前の自分は、どうしたら世界を良くできるか、本当に寝ても覚めてもそのことばかり考えていました。読み返しても、その熱意が伝わってくるほどです。今もその熱意は少しも萎えていないと感じています。

ただ、その気持ちが強すぎて、表現がくどく長ったらしくなってしまっていたようです。

嬉しいことに、この年月の経過によって自分が書いたものを客観的に見る余裕ができたおかげで、今回はそれをかなり修正できました。
それによって、より伝わりやすくなっていることと思います。そうであることを心より願います。


僕は「どうしたら世界を良くできるか」を考え続け、そのためには世界が一つにならなければいけないと思い、自然界に忠実で最も謙虚なる学問である「科学」の必要性に気づきました。そこから科学が解明しているものを勉強し、やがて分身主義にたどり着きました。

もし、世界中の人の心の中から不公平感や不平等感がなくなり、そして他人に対する妬みや怒りや恨みやが消失し、みんなで助け合う気持ちで一杯になり、みんなが幸福に生き祝福の中で死んでいける世界になるなら、別に分身主義だろうが何だろうが構わないのです。

だけど、世界中の著名な学者の方たちや、有識者と言われるような方たちの話を伺っても、残念ながら、というか予想通りというか、分身主義を超えるものは一つも見つかりませんでした。(むしろ、僕が世間的には何の評価も受けていない無名な人間で、権威にも専門分野にもとらわれない自由な発想ができる環境にいるから良かったのかもしれません)

やはり、世界中の人が仲良く生きて、みんなの祝福の中で死んでいける社会は、どうしても個人主義を乗り越えた分身主義にしかできないのです!


最後に、もう一度、この『分身主義宣言!』シリーズのNO.1に書いた、自分への戒めの言葉を "初心忘れず" の意味で書いておこうと思います。

自然界という母の胸に抱かれているのを、心から実感することができたその時に、初めて僕たちは深い安心感に包まれ、真の幸福(共感)を感じ、世界を平和にするための初めの一歩を踏み出すことができます。
僕は、そのことをこのメルマガを通して実践し、証明してみたいと考えています。
焦らず、押し付けがましくせず、希望を捨てずに‥‥!


17年後の今も、この言葉をまったく同じ気持ちで発することができる自分であることを嬉しく思います。



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★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。