見出し画像

資本家と労働者の二刀流

本日は、PHP研究所発行の雑誌『歴史街道』2022年8月号に掲載されている伊藤賀一『これだけは知っておきたいマルクス』を読んで得た着想から広げてみようと思います。

『資本論』へのアプローチ

『資本論』は、カール・マルクス(Karl Marx 1818/5/5-1883/3/14)の主著です。1867年に第一巻が発行され、第二巻・第三巻は、1883年の彼の死後、遺稿を丹念に整理した盟友のフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820/11/28-1895/8/5)の編集によって出版されています。

『資本論』は、世界に影響を与えた重要な書である一方、超絶難解な書物としても知られており、原著を自力で読み解くことはとうの昔に諦めています。とはいえ、そのエッセンスは、知っておきたい、理解したい、という意欲は今も強く持っており、専門書ではない関連書籍や記事には数多く触れるようにしてきました。

マルクスが心血を注いだ資本主義の本質と問題についての考察は、非常に優れたものであり、現代でも色褪せない鋭い分析が加えられていると思っています。

資本主義の問題

資本主義の本質に対するマルクスの分析について、著者の伊藤氏が添えた解説をそのまま引用させていただきます。

資本主義の問題の一つが、『労働の疎外』です。

これは、労働者が喜びや生きがいを奪われ、労働が単なる生存の手段となってしまう状況のことで、①生産物からの疎外(自分の作り出した物を奪われてしまう)、②生産過程からの疎外(労働に生きがいを感じられない)、③類的疎外(共同性が実現できず生産活動が単なる生存手段になること)、④人間疎外(①②③の果てに労働者が資本家と対立)という四つからなります。
P121

もう一つは、資本家による労働者からの『搾取』という問題です。

彼は、たとえ労資が対等な立場で労働契約を結んだように見えても、生産手段を独占する資本家は、労働者に支払った賃金以上の労働を行わせ、余分に生まれた価値(剰余価値)を奪っているーと、形式的平等のみを重視する資本主義・自由主義の限界を指摘し、批判しました。
P121

資本家と労働者、どっちも楽じゃない

資本家と労働者という区分は、現在でも十分に通用する区分ではありますが、その関係性はマルクスが目撃してきた時代の様相とは違ってきていると考えるのが妥当でしょう。資本主義的価値観は、もはや人間社会を営む上でのOSとして埋め込まれています。私にも、労働者の地位に甘んじる限り、相対的に裕福になることは難しいので、資本家というポジションに移っていかないとしんどいまま人生が終わる、という感覚はあります。

何十年間も献身的に馬車馬のように働いても、資本家から働きが悪いと判断されれば、容赦なくお払い箱にされる、というのは、労働者的人生を選択する人が抑えておかねばならない現実だろうと思います。自分のパフォーマンスで生み出す剰余価値は、資本家に搾取され続けることを受け容れざるを得ないのです。

一方の資本家だって必ずしも楽ではありません。資本を投下して行う事業や投資で利益を上げ続けないといけない、というプレッシャーは相当なものがあります。それらは、運や時代の風にも左右されますし、使用人との関係に思い悩まない雇用主はいないだろうと思います。

どっちもやろう

私は願わくば、資本家と労働者、どちらの立場もやりたいと思っています。環境や時期によって、役割をチェンジしたり、並行して取り組んだり、フレキシブルに振る舞えるのが私の描く理想の人生です。どうせなら、資本家と労働者の二刀流でいきたいものです。

人生後半戦は、経済的には、一文無しになるような致命的な失敗さえしなければいいのではないか、と気楽に考えています。稼ぐことばかりに躍起になりたくないなあ……稼ぎを度外視して、好きなことをする時間的余裕がある生活がいいなあ……と思っています。

そのような発想を実践することで、失うものや犠牲にするものも少なくありませんが、工夫で被害を少なくし、周到な準備をしておけば、大抵の苦難は乗り切れると思っています。

資本家ならずっと資本家、労働者ならずっと労働者、という固定された生き方は面白くない気がしています。搾取されることを承知で、雇われ仕事をする経験も悪くはありません。人生無駄なし、です。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

サポートして頂けると大変励みになります。自分の綴る文章が少しでも読んでいただける方の日々の潤いになれば嬉しいです。