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運で片付けることの是非

本日は、『運』の問題について、もう一度考察をしてみたいと思います。先日書いた記事から、少し別の角度から掘り下げる内容になります。

全てを運で片付けることについて

先日の記事でも書いた通り、「人の一生は運次第」と信じる気持ちが、年々強くなってきています。

認められない血の滲む努力も、
避けられない理不尽な仕打ちも、
思いも寄らなかった棚ぼた的成功も、
存在します。

私たちにできることは、引き寄せたい未来を手繰り寄せる為の努力と行動を愚直に繰り返すことだけです。叶えたい未来を確実に保証してくれるものはどこにもありません。

運次第だとはいうものの、死に物狂いの努力をしてようやく掴んだ栄光や成功を、他人から「運が良かったですね」で片付けられたら、少しは自分の精進の歴史も見てくれよ! と反発したい気持ちになるでしょう。

コツコツ積み上げたものを理不尽な理由で破壊された時に、他人から「運が悪かったですね」と軽く済まされたら、その無神経さに、やり切れない気持ちに襲われるかもしれません。

私は「全てが運」と達観できる程の境地には達していません。自分の望んだ理想的な結果を得た時、自分の努力が実ったと思いたい気持ちになります。逆に、自分の望まない不本意な結果が待っていた時には、才能不足や努力不足を棚に上げて、自分以外の要因、それこそ運のせいにしたい気持ちになります。

運で済ませていいんじゃないか

成功者・人格者・偉人と言われる人ほど、好い結果の理由は「運のお陰」、悪い結果の理由は「自分のせい」と考える、と言われます。

なぜなら、そういう人々にとって、本気で成し遂げたい未来を手にする為には、できる限りのありとあらゆる努力をすることは、当然の前提だからでしょう。悪い結果を招いた原因は自分の詰めの甘さにある、と自責思考で考える価値観が徹底されているからでしょう。

成功者には、世界のホームラン王、王貞治氏のことばだとされる

努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。

を信奉する人がいます。自分の現在を、運に恵まれた偶然の結果と思われることを嫌がる人は少なくありません。

他人にこのことばを薦める人もいますが、私は酷だと思います。「運」のせいにしないと心が完全に折れてしまうような不幸や不遇を背負う人だっています。理不尽な程の努力を積み重ねた人なのに、どうしても目標を叶えられなかったら、その現実を「努力不足」と切り捨てることなんてできない、と感じることは結構あります。

また、不本意な結末が、客観的に見れば「努力不足」「能力不足」「工夫不足」だったとしても、本人なりに懸命にやった結果なのであれば、運で片付けてもいいと思います。絶望して、そのまま落ち込んで沈み込んでしまうくらいなら、「運不足」で片付けて、明るく別の道へと再出発する方がよっぽど前向きな生き方です。

自分の運の使い方

私は、運は人生トータルでイーブンになるよう設計されている、という考えを割と真剣に信じています。その上で、勝利数を稼いで、勝率を上げるよりも、1つの勝ちを濃密にする方が人生は豊かになる、と思うようになりました。

私は大事なところでの大勝利を疎かにして、目先の小さな勝利に拘り過ぎてきたような気がします。積み重ねた小さな勝利の先に、大勝利が待っていないことがあるのです。運が平等に訪れるのだとすれば、小さく勝ち続けていると、順番的に大負けする確率が上がってしまう気がします。

自分が本気で欲していない場面では、無理をして勝たない方がいいのかもしれません。他人にあえて勝利を譲ることで運を温存した方が、本当に自分が欲している勝利が転がり込むかもしれません。戦略的に自分の勝ち運を使うのは高度な技ですが、意識を変えてみようと思っています。

ケース・バイ・ケースで考える

ビジネス書は他責思考を戒め、自責思考を推奨しますが、起こっている現象に対して、自力のせい(自責)にするか、運や環境のせい(他責)にするか、はケース・バイ・ケースで考えるべきものです。

本気を出しても叶わない夢はあります。それが自分が長年欲していたものだった場合は相当に厳しい現実になります。裏切られた気持ちにもなるでしょう。後悔の念だって浮かぶでしょう。深刻な精神状態の時ほど、ある程度悩んだ最後は「運がなかった」で吹っ切って、立ち直るのがいいと思います。

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