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先を見据えて周到に準備する生き方を修正する

『もう2020年なんだなあ…』

今さら何を言っているのか… と呆れて自分で自分にツッコミを入れてしまいますが、20世紀少年である私からすると、「何度も危機はあったけど、気がつけば随分長く生き抜いてきたなあ…」という感慨に襲われます。

当時は、21世紀なんて仰ぎ見るような遠い遠い先の世界に思えました。自分が2020年の世界で生きているというのはかなり不思議な感覚です。

将来への準備を意識して決断してきた

これまでの私は、常に10年くらい先の未来をイメージし、その時点で最善の自分を迎えるための準備をしながら過ごしてきました。準備するといっても、未来を完璧に見通せる訳はないので、本で他人の経験談や処世訓を読んだり、先人から話を聞いたりして、疑似体験を繰り返してイメージを膨らませるだけです。

小学生の頃は、中学生・高校生になった時にこうしたい、高校生の頃は大学生になったらこうしたい、20代の時には30代ではこうなりたい、30代の時には40代に、40代の時には50代に…とイメージして、目先の決断をするように意識してきました。

将来への周到な準備はしないと決めた

将来どうなっていたいか、をイメージする時、現状が上昇局面にあると感じられる時は、ポジティブでアグレッシブな計画が組めます。反対に下降局面にあると思う時は慎重でディフェンシブな計画になりがちでした。

人生後半戦では、情報には引き続き積極的にアンテナを張りつつも、周到な準備には拘らないようにしたいと思っています。考え方がそう変化したのには、幾つか理由があります。

未来予測は幻想

未来予測は所詮幻想です。未来予測のベースは、起こっている事象をどう解釈するか次第なので、正解はありません。なので、未来は現状を起点に想像されます。未来を想像する為の情報選択にも現状の価値観が大いに影響されてしまいます。

将来を悲観している人は、起こっている事象に対して悲観的に反応し、悲観的な未来予測を信じます。経験的に言えば、悲観的に物事を捉えておいた方が大怪我をする確率は下がるように思います。「人生を平凡でも安全かつ平穏に過ごしたい」と期待するのであれば、ネガティブな方に軸足の比重を大きくして、注意深い行動をとるのが賢明です。ただ、幻想の悲観的な未来が頭にこびりついて、現状を楽しめない生き方はどうにも不健全です。

事象分析や未来予測を一切放棄するつもりはないのですが、情報提供者によって一定のバイアスがかかっています。楽観的になり過ぎて節度を忘れたり、悲観的になり過ぎて心を病んだり、は避けたいものです。

「将来損したくないので今から備える」という態度はつまらない

周到に準備しておきたいという考え方は、「将来損したくないのであらかじめ備えておこう」という態度からきているように思うのです。

「損をしたくない」という欲求は根深いものがあり、振り払うのは相当難しいです。人々の不安を巧みに煽るのは管理する側の常套手段です。特定の事象を先行きへの悲観的な解釈と結びつけて提示してくる傾向にあります。『年金だけでは、老後は2000万円不足する』という情報は最たるものでしょう。私たちの脳には、将来のあらゆる不安が擦り込まれています。

加えて、将来を考えずに、目的や計画のない生き方をすることは批判の対象であり、そういう生き方をする人は「バカな人」というレッテルを貼られがちなので、普段から悲観的な未来を思い描きながら準備する生き方が主流になってしまうのでしょう。私の人生前半戦はまさにその典型です。

結局どうするの?

そこで、冒頭の『もう2020年なんだなあ…』です。ほんの数十年前までの常識だった「人生五十年」を超え、人生結構遠くまできました。もう欲望を先延ばしして安全運転一辺倒で大事に過ごす必要もないだろう、という気持ちが強くなっています。私は、人生後半戦では、決断の判断基準を「自分が損するか、得するか」よりも、「自分が愉しいか、愉しくないか」にシフトしたいと本気で考えています。周囲からは「バカな人」でOKなのです。

今の私は仕事を辞め、無職状態にありますので、悲観的な未来が結構頭を過ります。悲観=気分なので、悲惨な未来予想図は幾らでも、容赦なく襲いかかります。将来に備えて周到に準備する生き方を全否定はしませんが、その結果不自由な思いをし、心に負担がかかるのを避けたいということです。人生前半戦では功を奏した生き方を捨てるのは不安ですが、これも挑戦なのです。

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